怒りに輝く琥珀色の瞳がとてつもなく怖くて、ジョミーは押さえつけられる肩の痛みを無視してリオから視線を外した。ベットに押さえ込まれた体勢を誰かに見られれば、限りなく誤解を招きそうだとは思ったが、今は別にそれでも構わない。逃げる隙が出来るからだ。行方を晦ましていたジョミーをハーレイから受け取ってから、リオはずっと無言なのだ。廊下を歩くときも、寝室へ入ってきた時も、そして今も。
ベットに座らされたジョミーが、水を飲みたいと立ち上がりかけた仕草を、リオはまたどこかへと行きたがっていると思ったのだろう。普段は決して見せぬ強引な仕草でジョミーの肩を押さえつけ、無言で睨みをきかせている。いつもはずっと柔らかな笑みを浮かべ、穏やかな思念で語るのがリオだから、そうなってしまうと誰より怖く感じるのだった。伏せていた視線をそっと上げ、ジョミーは頼りない声でリオを呼ぶ。
違う、ごめん、どこにも行かない、と。それだけの言葉を三度繰り返せば、リオの頭も冷静になって来たのだろう。肩を掴む手だけはそのままに、リオの全身から力が抜け落ちる。ずるりと力なく全身を預けられて、ジョミーはリオの背中をあやすように撫でた。いつもはジョミーがリオにしてもらう仕草だから、立場が逆になっていることに、状況をかえりみず、すこしだけ口元が甘く緩む。穏やかな気分で口を開いた。
「心配かけて悪かったよ、リオ。一人になりたかっただけなんだが、軽率だったと反省してる」
『ええ。今回は本当に反省して頂かなければ困ります、ソルジャー・シン。あなたは』
もっと周囲の心配を正確に把握するべきだ、という言葉は、形になりかけてほろりと崩れ、リオの中だけでなくなってしまう。それをジョミー求めるのは、負担にしかならないからだ。ジョミーはソルジャー・シンとして、これ以上なく船内のミュウの心の機微に敏感で、いつもいつも気を配っている。不安ではないか、怖がってはいないか。幸せであるかどうか。平和が保たれているかどうか。誰かが、悲しんでいないか。
いつも、いつも。ごく自然に、ソルジャー・シンは己にそれをかしているのだ。重荷を重荷だとも思わずに。おかげでリオたちは、時折申し訳なるくらい穏やかに、平定に保たれた空気の中で生活することが出来ているのだ。それを考えればリオやハーレイ、長老たちやシロエが受ける心痛など、どれほどささいなことか。ごめん、と告げるジョミーにゆるく首を振り、リオは体を持ち上げた。そしていいえ、と微笑む。
『けれど、もう今日は寝室で絶対安静にして頂きます。……あんなに力を使わないでください、と言ったのに』
昼間に起きた攻撃セクションの事故を思い出し、リオは頭の痛いため息をついた。攻撃セクションの所属者が、訓練中に力みすぎて事故を起こしてしまうのは、ままあることだ。気合が入るのは素晴らしいことであるし、頑張ろうと努力している中のことなのだかか、リオも長老たちも一々口うるさく言ったりはしない。ただ怪我人が出るようであれば、もうすこし冷静に、と水を差して気持ちを静めさせるだけのこと。
攻撃セクションの最高責任者である、シロエとて同じことだ。元々シロエは、あのセクションの中でもっとも事故を起こしている者でもある。表面的にはぷりぷり怒りながら、部下にあれこれと細かいアドバイスを偉そうに教えてやるのが常なのだが。今日に限ってシロエの怒りは、それこそ夜を裂く雷のように鋭く、深いものだった。そしてリオの憤りも大きいものだったのは、けれど事故が原因ではない。
事故による船への影響を最小限に留めようと、ジョミーが攻撃セクションを中心とした一帯を力の膜で包み込み、事態が集結するまで保護していたことが問題なのだ。普通ならジョミーも、そんなことはしなかっただろう。シャングリラの整備班はとても優秀だし、なにより現場に向かったのがシロエなのだ。どんなに遅くとも二時間以内には、船は通常通りの平和を取り戻していたというのに。わざわざ、守ったのだ。
その理由など、ひとつしか思い当たらない。呆れと冷たさがちょうど等分の視線をジョミーに向けて、リオはことさらゆっくりと、言い聞かせるような口調で問いかけた。
『そんなに、ブルーが、大切ですか?』
ジョミーは唇を開きかけ、空気を吸い込んで、けれど閉ざしてしまった。翠の瞳に傷ついた色がよぎるのは、全てのミュウに公平でなければならない、ソルジャー・シンとしての意識が己を責め立てたからだろう。泣くのをこらえるようにぐっと唇を噛み、それでもジョミーは思念ではなく、声で発する言葉としてごめん、と告げた。そんな言葉が聞きたかったわけではないのだが、リオは甘んじて謝罪を受け入れる。
言葉を発することなく、何度となく繰り返される謝罪に頷けば、ジョミーは目を伏せて口を開いた。
「もう、しない。今日は……色々、軽率すぎた。本当にごめん、リオ」
『同じことを、あとでシロエにも言ってあげてください。シロエこそ、本当に怒っていました』
「……シロエ、怒鳴るんだよ」
言外に怖いから嫌だ、と気が進まない様子のジョミーに、リオはにっこりと微笑みかけた。聞こえません、と告げられて、ジョミーは諦めてしぶしぶと頷く。その様子に満足して、リオはジョミーの為になにか飲み物を調達してこよう、とベットを立ち上がった。ベットがかすかに揺れ、きしむ音が一度だけ響く。眉を寄せて振り返ると、ジョミーはベットに仰向けに倒れこんだまま、ぴくりとも動こうとはしていなかった。
動けないのだろう。指先までも疲労の思念が包み込み、横顔はまどろみを強く求めて目が閉じられている。リオは飲み物の調達を断念して、ベットの横に運んでおいた椅子に腰かけた。気配は感じているだろうに、ジョミーは動かない。柔らかな思念が、語りかけてくる。
『ブルーは、ぼくの後を継いでくれる。そう約束してくれたよ、リオ。考えることや、迷いも、たくさんあるようだけど』
すぐ傍にいたのに心が分からなかった、と喉を震わせて笑うジョミーに、リオは思わず苦笑した。相変わらず、ジョミーは人の心を読むのが苦手なようだと思って。そして寄るソルジャーの手を無意識に弾いてしまうほど、ブルーの力は強いのだと思って。恐らくは、シャングリラ三人目の具現者にもなるのだろう。不安定だけど青白くて綺麗だったよ、とは修理の合間に呟いて笑った、シロエの言葉だった。
尋ねたいことなら、たくさんある。しかしリオはため息をついただけで、そのどれもを言葉に直したりはしなかった。その疑問は、時を重ねていけば答えが分かることだと思ったからだ。代わりに、気になっていたことを一つだけ思念に乗せる。もしかしたらすこし、嫉妬しているのかも知れなかった。
『一人になりたかった、と先程言われましたが。それなのに、ブルーと一緒だったのですね』
『ああ。話したいこともあったし……夜を待ちたくて、一人でいたかっただけだから。それは、別に、いいんだ』
僅かに微笑むジョミーを見つめるリオに、水が流れるようにイメージが送られてくる。どこまでも続くな草原。広がる空は茜で、雲までもが同じ色に染め上げられている。柔らかな草を風が揺らし、その音はどこか心を切なくさせた。誰もいない。なんの声もしない。虫さえ飛ばない、それでも穏やかな草原の中心に。たった一人、ジョミーが居た。緋色のマントを草と共に風に遊ばせ、翠の瞳に茜空を映している。
夕暮れ。薄い闇が包み込む。黄昏の時間。昼と夜の間。それは、太陽と月が出会うひととき。けれど世界は、夕暮れからいくらも先に進まない。薄い闇はぼんやりとしていて、夜へと繋がらない。ずっと、そうだった。ずっと、この世界の時間は進まないのだ。その心象世界を何度も見ていたからこそ、リオはそれを知っていたし、ジョミーも分かっている筈だった。草原は時間を拒否して、止まったまま。
その止まった時の寂しさに、孤独に、時折ジョミーは耐え切れなくなるのだという。そしてジョミーは、行方をくらますのだ。リオにも、フィシスにも、ハーレイにも、シロエにも、長老たちの誰にも告げず、誰にも気配をつかませずに。行き先を告げずに。ふらりと、船内のどこかへと隠れてしまう。一人きりが耐え切れなくなって。一人きりで居るのを、迎えに来てもらいたがって。誰かの存在を確かめたくて、居なくなる。
何度も繰り返されたことだった。何度リオはジョミーを探し、一人きりの存在に手を差し伸べたことだろう。数え切れなかった。数え上げたくは、なかった。言葉にならない苦痛に耐えるリオの中で、不意に風景が変化する。それは今までなかったことだった。けれどリオは薄々予想していたので、驚きはしなかった。ただざわりと、期待に揺れる心が抑えきれなかった。ゆっくり、ゆっくり、夕暮れが深まっていく。
茜空に向かって、なにかを求めるように両腕を上げていたジョミーの瞳が、揺れる。まばたきを何度かして、ジョミーはくるりと振り返った。なんら迷いの見えない、生き方を象徴しているような仕草だった。ふっと世界が暗くなる。夕焼けが終わり、空が漆黒へと塗り替えられていく。星々が瞬く闇の中、月が静かにその姿を現した。夜に差し込む銀の光が、ジョミーを優しく包み込む。そして、視線が向けられた先に。
ふわりと、空から舞い降りてきたかのように、降り立つ者があった。眠りから覚めたゆるやかさで、銀の髪が風に揺れる。視線に応えて向けられた視線は、鮮やかな赤。たった今消えた夕暮れを宿しているかのような、綺麗で鮮烈な赤だった。靴の先が草原を蹴る。限界まで伸ばされたジョミーの腕を引き寄せ、現れたブルーは孤高の王者をしっかりと抱きとめた。もう二度と離さない。そして、離れないというように。
そこで、送られた光景は消えてしまった。ふっと無意識につめていた息を吐き出し、脱力して椅子の背もたれに体を預けるリオに、いつのまにかベットの上で起き上がっていたジョミーが悪戯っぽい笑みを向ける。
「ぼくは、ずっと夜を待ってたんだ。……待って、待って、そしてブルーが来てくれた」
その喜びを表す言葉など、誰も持ちはしないのだ。心を表すために言葉は生まれたのに、それでも届かない深さがある。ましてミュウは、言葉での交流より心触れ合うほうがずっと多いから、多弁なジョミーにしてみても難しいらしい。苦笑しながらも瞳を輝かせるジョミーに、リオは思わず手を伸ばしていた。体を引き寄せて、頭を胸に押し付けるように抱きしめて。息苦しいほど、痛いほどに、ジョミーを抱く。
ジョミーはクスリと笑って、リオの背に腕を回した。一人きりのジョミーを探し出して手を差し伸べるのと同じく、抱擁など数え切れないほどに交わしてきたけれど。それでもやっと、リオは腕の中にある体に安堵する。やっと、やっと、ジョミーに手が届いた。そんな気がして。胸が震えるのは、感激のせいなのだろうか。涙が頬を伝って、リオはすこし恥ずかしく、ジョミーの頭に頬を埋めた。髪の感触が、くすぐったい。
くすくすと、思念が笑いに揺れる。どちらのものなのか分からなくなる深さで、笑いがひとつに入り混じった。
『ああ、ジョミー……よかった。本当に、ぼくも嬉しい。これであなたは、一人ではない』
一人きりの、長い長い夕暮れを越えて。ジョミーの世界に夜が訪れた。闇は優しくジョミーを包み、安らがせるだろう。そのことがなにより、リオには嬉しい。嬉しくて、嬉しくて、言葉にならない。馬鹿の一つ覚えのように、嬉しいと、それだけしか繰り返せない。もどかしくて悔しくて、暖かな感情で心が満ちていく。笑いで揺れる前髪に、くすぐったそうに肩をすくめて頭をふって。ジョミーはそっと、でも、と言った。
「リオ。ぼくは本当は、本当には自分が一人だと、思ったことはないよ。長く、長く、ひとりきりで寂しかったけれど」
手を伸ばせばリオが居た。呆れ顔のハーレイや、微笑を浮かべたフィシスが居た。最近は、騒がしく元気なシロエも居た。それぞれの想いを抱えながら、そっと見守ってくれていた長老たちがいた。なによりジョミーにも、そして『ソルジャー・シン』にも、仲間たちが居た。守るべき者、愛するべき者たちは、決してジョミーと同じ目線で、同じ地平を見つめてくれなかったし、見つめることが出来なかったのだけど。
それでもジョミーの周りには、誰かが居てくれたのだ。それぞれの努力を尽くして、それぞれの立場でしっかりと立って。全く別の方向を見つめながらでも、彼らは決してジョミーを一人にはしなかった。彼らとジョミーでは、負うべき責任が違う。背負う立場が違う。だからそもそも、同じ目線を求めることが間違いなのだ。同じでないからこそ、ミュウたちは考えることが出来る。疑問を持つのは、とても大切なことだ。
反発がまるでなく、一つに統一しきられた意見になど、意味はない。それは洗脳された意思であり、考えて導き出されたものではないからだ。ぶつかり合って、対立しあって、そして生まれた方向にこそ輝きと真実がある。その輝きを愛おしく抱きしめているような表情で、ジョミーはふわりと微笑んだ。
「孤独ではなかった。そう思うたび、リオたちが違うと思わせてくれた。嬉しかったよ……ありがとう」
『いいえ、ジョミー。あなたが私たちに注いでくださっている愛の深さに比べれば、感謝しなくてはいけないのは私たちです。けれど、あなたの心をすこし救う存在になれていたのなら、これ以上ない幸福を感じます……だから』
どうか、と。それ以上は言葉にならない。なにも願うことなどないからだった。それでいて、願いをたくせる全ての意思が、胸でぐるりと回っていたからだった。すこし目を伏せてジョミーを抱きしめていた腕を離し、リオは代わりに手を取った。常にある白い手袋は今はなく、ほっそりとした華奢な手がリオの目に映る。その甲に、唇を寄せて。重ねる忠誠の言葉の代わりに、リオはさあ、とジョミーの肩を軽く押した。
『そろそろお休みください。これ以上あなたを起こしていたら、私までキャプテンに叱られてしまいます』
「ハーレイは心配性なんだよ、リオ。ぼくなら大丈夫なのに、素直に聞いてくれたためしがない」
『それは、あなたが大丈夫だと言って、本当に大丈夫であったためしがないからですよ。ジョミー』
そうかなぁ、そんなことないのに、とぶつぶつ呟きながらも、ジョミーは素直にベットの中へもぐりこんでいく。肩まですっぽりとシーツにくるまって、ジョミーはすでに眠そうな目をリオに向け、とろけるような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、おやすみ、リオ。なにかあったら、すぐ起こして」
『はいはい。分かっておりますよ。おやすみなさい、ジョミー』
すっと身を屈めて額におやすみのキスをして、リオはジョミーの肩をぽんぽん、と叩いた。おやすみ前の、いつもの挨拶と仕草だった。それだけで幼子のように安堵しきった笑みを浮かべ、ジョミーはすぐに意識を落としてしまう。自覚していなかっただけで、意識の浮上が限界に達していたのだろう。すこし無理させてしまったかも知れない、と後悔しながらジョミーの髪を手で整えて、リオはベットに背を向けた。
起きないと分かっていてもなるべく足音を立てずに寝室から出て、扉を閉めた所でハーレイに報告をする。つらつらと雑談も交えながら廊下を歩き、リオは分かっていたことなのですけれど、と息を吐く。
『ねえ、キャプテン? これって嫉妬なんでしょうか、やっぱり』
『私に聞くな』
『だって、ねえ。もしかしたら、おやすみの挨拶の役目も交代かと思うと……切ないというか、悲しいというか』
突っ込みと拒絶をかねたハーレイの即答をまるで無視して、リオは物憂げに思念を送った。それでも受信を拒否せず、きちんと聞いてはくれるのがハーレイの良い所で、胃痛の原因である。それはないだろう、と言ってくれるのに僅かばかり気分を浮上させて、リオはゆるりと微笑んだ。
ブルーをソルジャー・シンの後継者として育成する、と発表されたのは、二人が出会って一週間後のことだった。成人検査の日からは、二十日が経っている。長くはないが、ミュウたちがブルーという存在を受け入れ、理解するのには十分な期間だ。長老たちの予想に反し、ミュウたちに大きな動揺はなかった。代わりに、納得が広がっただけだ。それでここ最近のブルーは、あんなに必死に頑張っていたのだ、と。
図書館で大量の本を借りては、睡眠時間を削ってでも目を通していた。時間があれば長老たちをはじめ、大人たちに質問に行ったり教えを来い、破竹の勢いで知識を吸収していく。そして知識が増えていくにつれ、サイオンの制御力も上がって行った。滾々とわき出る泉のように、力は上に伸びてゆく限度など知らぬようで。砂漠に落ちる水よりも早く、ブルーは様々なものを吸収しては力にして行く。
それはミュウたちに馴染み、己の力をきちんと扱えるようになろうとしていた今までの態度とは全く違うものだ。ブルーは高い目標に向かって手を伸ばし、全力で駆け抜けていく。その目標が『ソルジャーの後継者』であったと、それだけのことなのだ。良くいえばひたむきにひたすらに、悪くいえば余裕を失ってまで努力を続けようとするブルーの姿は、痛々しささえ感じさせるもので。発表から、三日経った朝だった。
読書のために睡眠時間を削り、日中は忙しく駆け回っているのだから、ブルーの体は疲労を溜め込んで回復することがない。うっすらと目の下にクマを作り、食堂にふらふらと現れたブルーに対して、いっそ素晴らしい勢いでシロエが切れたのだった。瞬く間に食堂の空をかけた黄金の閃光を綺麗に防いで、ブルーは眠たげな表情をいぶかしげなものにする。シロエ、なにを怒って、という言葉は途中で消えた。
発言の暇など与えず、シロエがブルーの体を担ぎ上げたからである。サイオンで浮遊する要領で持ち上げているから、シロエにもブルーにも、ほとんど負担がかからない。ぎょっとして暴れかけるブルーを、落とすよ、と一言脅して静かにさせ、シロエは一気に空間を飛んだ。転移した先は、ブルーが出てきたばかりの私室だった。朝の光で爽やかに明るいベットの上に投げ落とされ、ブルーは鋭くシロエを睨む。
視線をそよ風のように受け流し、シロエは尊大な態度で腕を組みながらブルーを見下ろしていた。しばし、二人の間で沈黙が流れ、膠着状態に陥る。手負いの獣と、獲物に狙いを定めた狩人の睨みあいだった。どちらともなくサイオンが爆発しかかるのを、止めたのは清らかを感じさせる思念である。シロエ、と呼びかけるリオの声に、青年は片眉だけを器用に吊り上げ、ブルーを睨みながら応える。
「捕獲したよ、リオ。今はブルーの部屋。次の指示は?」
相手に状況を分からせる意味も含めて言葉に出せば、リオはやれやれと苦笑したようだった。静かな音を立てて、部屋の扉が開く。あらかじめ扉の前で待機していたリオは、ベットの上で納得できない表情になっているブルーにやんわりと微笑みかけた。笑みをそのままに告げられたのは、表情に合っているとは言い難い言葉なのだが。まったく、と嘆かわしげに首を振って、リオはふうわりと思念を飛ばした。
『適度な休憩もソルジャーの役目である、ということを学んで頂きましょう。今のうちに。二の舞になる前に』
「ぼく、思うんですけれど。あなたって時々、普通に酷いですよね、リオ」
『シロエ。ブルーがソルジャー・ブルーとして呼ばれるようになった時、ドクターとハーレイの心痛が二倍になって共倒れされるのは困るでしょう? 私も、それは困るんです……ブルー。焦らないでください。ソルジャー候補として努力してくださるのであれば、休むのも大切です』
優しく言い聞かせてくるリオの思念とシロエの行動の意味をやっと結びつけ、ブルーは誰からか、強制的な休養の指示が出たことを悟った。その答えまで辿りつく時間の多さが、そのままブルーの疲労具合を示している。それはブルーも自覚できるところだった。それでも、上手く納得することができなくて。感情を制御できずに泣きそうな顔つきになったブルーを、シロエは冷たい目で睨みつけた。
「焦らないんじゃなかったっけ。それとも、あれ、ぼくの聞き間違いかな」
「シロエは……知らないからっ」
ジョミーに抱きしめられて、抱きしめて、触れ合ったあの一時に、ブルーは分かってしまったから。どれ程の深さで、そして強さで、ジョミーがブルーを求めていてくれたかを。気が遠くなるほどの長い時間を一人で、ジョミーはブルーという存在をひたすらに待ち望んでいてくれたのだ。知らなければ、焦りはしなかっただろう。天まで続く階段を一つ飛ばしで駆け上がるような、こんな無謀な真似など決してしなかった。
けれど、知ってしまったから。焦らずにはいられないのだ。一刻も早く同じ場所に立ちたいと望んでしまう。一分でも、一秒でも早く。その為に努力が必要なのだとしたら、ブルーはどんな苦難にでも耐えられるだろう。吐き捨てるように告げたブルーに、リオがたしなめの言葉を送るよりも早く。シロエの平手が、ブルーの頬を打った。決して傷つけようとしたわけではない、ごく弱い力だ。痛みも、ほとんど残らない。
だからこそ呆然とした視線を向けてくるブルーに、シロエは限界まで怒りを押さえつけた声で馬鹿、と言った。
「誰にもなにも言わないで、一人で全部抱え込んで。分からないからとか、知らないからとか、言うな」
『行動を納得してもらいたかったら、理由をきちんと話してください。受け入れる、受け入れないかはともかくとして、ちゃんと理由を教えてください。そんな努力もしないうちに、自分の好きなように行動できると思ったら大間違いです。あくまでそうしようとするのなら、こちらもこちらで、私たちの好きにさせて頂きます。……まったく』
ソルジャーと冠名を抱く者は皆そうなのか、と心底息を吐くリオに、シロエは非常に嫌そうな表情で頷いた。
「今やっと分かりましたよ、リオ。だからぼくは、ソルジャー・セキとか、ソルジャー・シロエとか、まあどっちでもいいんですけど呼び名なんて。……だから、ぼくはソルジャーになれなかったんだ」
『そうですね。シロエは、ジョミーになら比較的素直に甘えますものね。頼ってもいますし』
「自分ひとりでなにもかも背負おうとする間違えた責任感がないと無理なんですね、ソルジャー」
当のジョミーが聞いたらそんなことないっ、と叫びだしそうな内容だったが、ソルジャー・シンは深い眠りについている。すくなくとも明日までは目覚めない、というフィシスの見立てがあるので、二人は安心して愛情をこめつつ、ジョミーの悪口を並べられるのだった。なんとも言えない顔つきになって沈黙するブルーに、リオはにっこりと微笑みかける。そして言葉を選びながら、ことさらにゆっくりと意思を伝えた。
『責任感が強くなるのは良いことです。けれど、あなたは間違えてはならない。全責任を負うということと、一人で全て背負い込むのはまるで違います。ジョミーの場合、スタート地点がブルーとはあまりに違っていたので、仕方がないといえば仕方がないんですが……あなたまで、そうなる必要はどこにもないんです。ソルジャーを受け継ぐ決意をして、それに向かって努力するのなら、まず周囲を信頼してください』
「まあ、一人で根詰めて自滅するような努力の仕方はするなってこと」
見も蓋もないまとめをしたシロエに、リオからは物言いたげな視線が向けられるが、一応その通りではあるので上手く注意もできない。沈黙をすこし続けることで抗議に代え、リオは落ち込んだ様子のブルーに手を伸ばした。軽く頭を撫でて、まず眠りましょう、と笑う。
『起きたら、今後どうしていくかの話し合いを。長老方も、それぞれ時間の都合をつけてくださるそうですから』
思わずえ、と声をあげてリオを見るブルーに、シロエは『え』じゃないよ、と言って睨んだ。そんな当たり前のことで一々驚くな、と思念が伝わってくるが、ブルーにしてみればそう毎回睨まないで欲しいと思ってしまう。もれた思考を受け取ったのだろう。決まり悪そうな顔つきになって、シロエはぷいと視線を外してしまった。ブルーが疲れを自覚したように、シロエも苛立って仕方がないのを受け入れてはいるのだ。
リオだけが微笑ましく感じる沈黙が続き、シロエはやがて大きく息を吐き出した。
「……努力したいなら、ぼくたちだって協力しますよ、ってこと。いいから寝なよ。おやすみっ」
言い放って、シロエはブルーの返事を待たずに空間を転移していなくなってしまった。後を追おうにもリオが微笑んでいるので、ブルーはしぶしぶベットに横になる。その肩を軽く叩いて、リオは起きたら、と囁きを落とした。なにをするにも、とにかく眠れ、と言いたいのだろう。頷いて目を閉じてみたものの、意識が気配を気にして眠くなってくれない。目を開けてあの、と呟けば、リオは心得た表情で頷いた。
『では、私も行きます。目が覚めたら、思念で誰かを呼んでください。それでは、良い夢を』
シロエとは対照的にゆっくりと歩いて出て行ったリオを見送り、ブルーはため息をついてベットに横になった。すぐに眠くはならないが、そうすると確かに全身の疲労感が強くなり、頭がぼんやりとしてくる。根を詰めすぎている自覚はあったからこそ、うまく乗り切れない自分が嫌だった。早く、早く、と気ばかりが急いて、体が追いついてくれない。横になっても心がざわめいて、安らかな眠りには遠いようだった。
息をするのも苦しいほど、一人になってしまえば心が焦る。灼熱の熱さで、早く、と叫ぶ。それに突き動かされるように、ブルーはごめんなさい、と唇を動かした。声のない囁きが何度か繰り返され、やがて空気を揺らす。
「ごめんなさい、ソルジャー・シン。ぼくは、これ以上あなたを待たせたくない、のにっ」
感情が強すぎて、言葉さえマトモに発することが出来ない。ぐるぐると思いが渦を巻いて、激情がブルーの体を壊そうとする。手を伸ばしても、伸ばしても届かない焦りが、眠りを遠ざけて努力を強いた。そんな負荷のかかる努力をジョミーが望まないことも、ブルーは分かっていた。誰に言われないでも理解していた。だからこそやりたくない、普段のまま目指したいと思う気持ちと、焦る心がぶつかり合う。混乱する。
その時だった。叫びだす寸前まで追い詰められたブルーの前に、すっと赤い光が舞い降りる。空気に溶け込んでいたものが、不意に形を成してしまったかのように。それはごく自然で、そして唐突な変化だった。向こう側の見える半透明の思念体で姿を現したジョミーは、目をいっぱいに見開いて視線を向けてくるブルーを見て、すこし、息を吐き出した。そんなに驚かなくてもいいじゃないか、と言いたげな仕草だ。
しかし、どのミュウとて驚いたことだろう。ジョミーは深い眠りに入っていて、よっぽどのことがない限りは明日以降にしか目覚めない、という知らせが船中に流されているのだから。深い眠りは疲労や病気ではなく、ただ長く生きていることで起こる事象のひとつだと聞かされていても、ブルーには不安でたまらないのに。なにが起きたのかと不安になって、ブルーはジョミーの名を呼んだ。ジョミーは、くすっと笑う。
ジョミーにとっての『よっぽど』の事態、それはすなわち、ブルーが苦しんでしまうことで。そのことにブルーが気がついていないのが、微笑ましかったのだ。心を遮蔽して誰にもぼくが来たことばれないようにしてね、と静かに囁いて、ジョミーはすっと流れるような仕草でブルーの隣に寝転び、至近距離で目を合わせて笑う。
『一緒に寝よう?』
「ご……ご自分のお体に戻って寝てくださいっ。ジョミーっ」
『ブルーまで、リオとかハーレイとかシロエみたいなこと言わないでよ。大丈夫。ブルーが寝たらすぐ戻るから』
それはつまり、ブルーが眠らなければ、ジョミーはいつまでも添い寝体勢のままでいる、ということだ。体が深く眠って目覚めない状態で、思念体を作り出すということが、どれだけの負担になるか知らないわけでもあるまいに。小言の時間さえ惜しく、ブルーはぎゅっと目を閉じた。早く、早く眠らなくてはと、それまでとは全く違う焦りがブルーの心を支配する。しかし、種類が違えど焦りは焦りで。眠くなるわけもなく。
意識が、半泣きになってしまう。どうしよう、と途方にくれた思念にちいさく笑いを漏らして、ジョミーは腕を伸ばした。そしてブルーの体を深くまで抱きこんで、甘えるように頬をこすりつける。暖かな思念が空気を揺らした。
『ブルー。きみがそんなに、焦る必要はないんだよ。きみは、もうここに居る。だからぼくはもう、待ってないんだ。分かる? ぼくは、もう、きみを待ち焦がれることはない。きみが居るからだ。きみが居てくれる、それだけでぼくが、どれほど……幸せな感情の中で眠れているか』
「ジョミー……ソルジャー・シン。でも、ぼくは」
まだ『ソルジャー』に、あなたに遠く届かないのだと告げかけるブルーに、ジョミーは抱く腕に力をこめて言った。
『それにね、ブルー。あんまり早く成長しないでよ。成長していくのを見てる楽しみが、すくなくなる』
思わず絶句するブルーに、ジョミーはくすくすと笑った。
『ゆっくり、ぼくの元へおいで。それくらいの時間なら、ある筈だから……それに、もう三百年待ったんだから、これくらいなんともないよ。大体、待つ内容が違うしね。ブルー、ぼくはね、きみを待つ時間も楽しみたいんだ』
「楽しみ……?」
『うん。だってきみは、ここに居る。きみが来るのを待った三百年じゃないんだ。嬉しい……そう、ぼくは嬉しいんだよ、ブルー。きみがすこしずつぼくに近づいて来てくれること。一日ごと、きみの力が安定して強くなっていくこと。それを感じ取れること。その変化が、ぼくには嬉しい……だから、ねえ、焦らないで。ぼくは嬉しい』
きみがきみでいるだけで、こんなにも、と。強く抱きしめてくるジョミーの腕の中に納まりながら、ブルーはなんだか、抱きしめているような気がして苦笑する。腕を持ち上げてジョミーの背に回し、同じくらいの力で抱きしめ返せば、心がすぅと安らいだ。求めてくれたことが嬉しいのだろう。ジョミーはくすくすと笑って、ブルーの肩に頬を擦り寄らせてくる。やはりこれは、抱きしめているのかも知れない。ブルーも笑う。
『眠れそう?』
忍び込む声に素直に頷いて、ブルーは穏やかな気持ちで目を閉じる。こんなに優しい気持ちで眠れるのは、何日ぶりだろう、と思った。すぐに重たくなって、開けるのが困難になってしまったまぶたをどうにか持ち上げ、ブルーはジョミーに微笑みかけた。そしてありがとう、と囁けば、ジョミーの唇が額に落とされる。ぼくの台詞だよ、という思念を子守唄代わりに、ブルーの意識は柔らかな眠りへと誘われて行った。