寝不足も疲労も解消されたブルーの頬は、ほんのりと薔薇色に染まっていて見るからに血色が良い。早い所で手を打って本当によかったと思いながら、リオは音も立てずに椅子へとかけた。その正面では、フィシスが上機嫌な表情でブルーを『眺めて』おり、唇には花のような笑みが浮かんでいる。静かな空間に眠気を刺激されたようで、天体の間には時折、ブルーのささやかなあくびの音だけが響いていた。
「そ、れ、で、さ、あっ」
タンっ、と苛立ったウサギのように足先で床を叩き、その静けさにこそ耐えかねたようにシロエが声を荒げる。順々に、それこそ睨むように席に着いている三人に視線を送って、シロエは苛々と腰に手を当てながら身を乗り出した。
「今日は何人来るのっ? フィシスと、ブルーと、ぼくと、リオと。ジョミーは? ハーレイは? ドクターとかシドとか機関長とかっ。来るのっ? 来ないのっ? ハッキリして欲しいんだけど。僕が困るから」
人数が分らないと給仕の準備だってできないんだっ、と怒り心頭の叫びをあげて、シロエはタンっ、と足先で床を叩いた。その音に、夢と現の間でまどろんでいるブルーは、意識をぼんやりとさせながら聞いたことのない名前が混じった、とだけ思っていた。船に来て結構な時間が経過しているが、その間ブルーがしていたことと言えば、長と呼ばれる何人かと勉強の日々であって、交友関係の拡大ではない。
もうすこし色んな人と知り合いたい、と思いながら目をこすれば、もうすこしまどろんでおいでなさいな、とばかりにフィシスに頭を撫でられた。女性特有のしなやかで、ほっそりとした指先に優しく髪を撫でられて、ブルーの意識は夢へと傾いていく。寝る為に来たのではないのだけれど、と思っていても、成長期の体は常に疲労回復と成長の為に睡眠を求めていて、中々ブルーの思うとおりには動いてくれないのだ。
睨むシロエの視線に、殺気が混じり始めたのに気がついたのだろう。苦笑しながら顔を向けて、リオはそう言われましても、と勤めて穏やかに思念を響かせた。
『皆、お忙しい方ばかりですから。直前まで予定が分らない、としか……ああ、もちろんジョミーは来ませんが』
「分ってるよっ。言ってみただけだよっ。っていうかあの人の場合、分らないじゃないかっ」
きゃんきゃんと高く吠えて噛み付かんばかりの、子犬の威嚇に似た声だった。日頃のストレスを、これ幸いとばかりにぶちまけているだけなのだろう。怒りの幅は激しくとも、本気で深く切れられているわけではないので、リオも微笑んで受け流すだけである。まあもうすこしだけ待ちましょうね、と笑うリオに、シロエが遊び半分の八つ当たりをぶつけようと、大きく息を吸い込んだ瞬間の出来事だった。
まるでそれを見計らっていたかのように、シロエの頭にぽん、と音を立て、大きな手が置かれる。
「あんまり吠えるとホントに子犬みたいだぞ、シロエ。リオ、俺以外は欠席だとよ」
『そうですか。ありがとうございます、シド。シロエ、今日は五人です』
「分ったからとりあえず頭から手を離して下さいシド・ヨーハン。撫でないでくださ……シドっ」
ください、とシロエが最後まで言い終える前に、現れた青年はわざと頭に置いた手を動かし、柔らかな黒髪をぐしゃりと乱す。それに、短気な少年は耐え切れなかったのだろう。怒りの叫びをあげられるのに肩をすくめて椅子に座り、シドは笑顔でひらりと手を振った。
「俺とお前の仲だろう。撫でるくらいで一々騒ぐな、シロエ。あとお茶」
「アンタのだけ不味く入れてやるっ。飲んで悶え苦しめばかっ」
顔を真っ赤にして叫び、シロエはぱたぱたと走り去ってしまった。その頃、やっと眠気から冷めたブルーが心配そうな目を向けるも、シロエは振り返りもせずに天体の間を出て行ってしまう。追おうか悩むブルーに大丈夫だと首を振って、行き先は食堂だからと告げた後、リオはたしなめる目でシドを見た。
『……シド』
「長さまにばっか可愛がられて、俺には可愛がられないシロエが悪い」
呼びかけにこめられた、万の意味など先刻承知なのだろう。しれっとした態度で言い放たれるのに、リオはもう何度目かも分らない注意を向けた。その効果が、これまで全く現れていないことを知っていても、言わずにはいられなかった。
『シロエはジョミーにだって素直に甘えているわけではないですよ? 苛めないであげてください』
「可愛がってるんだ。俺にはシロエを可愛がる権利がある。俺も、長さまと一緒にシロエを助けに行ったんだ。で……ああ、これがブルーね。ずいぶんと眠そうだったが、起きてるか? シド・ヨーハンだ。よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
見知らぬ者に名を知られているのには慣れても、返事をするのには中々慣れそうにない。つっかえながら返事をかえしたブルーに、シドは案外柔らかな表情で笑いかけ、ひとつだけ頷いて口を閉ざす。たくさん話して疲れた、とでも言いそうな表情だった。寡黙ではないが、多弁でもないのだろう。仕事が忙しい人なのかも知れない、と思うブルーに、フィシスがにっこりと微笑みかけながら教えてくれた。
「シドはブリッジメンバーの一人で、偵察機などの、発着の責任者をしています。すこし前までは偵察部隊や救出部隊に居たのですよ。そして、シロエを救いに行った一人でもあります。ね、シド。ジョミーと一緒に行ったのですよね?」
「一緒に行ったのではなく、着いて来ちゃった、です。女神」
『あの時ほど、縛って置くんだった、とキャプテンが胃を痛めて叫んだことはありませんでしたよね』
しみじみと、ため息混じりに語られるシドとリオの言葉から、全体図は良く分らないものの、ブルーにも理解できなくはない会話だった。つまりシドは、今はブリッジで勤務しているが以前は救出部隊に所属しており、かつてシロエを救出する力となったのだろう。そしてその救出の時、あのミュウたちに愛された長さまがこっそり着いていくかなにかして、キャプテン・ハーレイを怒らせて疲労させた、ということらしい。
全て分らなくとも理解できる部分があれば、聞き手にしかなれなくても楽しくなれるものだ。そっと心を弾ませて会話に聞き入るブルーの耳に、かつ、と硬質な靴音が響く。恐らくは、わざと音を立てたのだろう。腰に片手を当てながら、もう片方の手でティーセット一式の乗ったカートをひっぱって。シロエは全く、と視線を向けてくる四人それぞれを睨み返し、口を開く。
「仲良く思い出話に花を咲かせるのが年寄りの特権なので、別にそれは邪魔しませんけど。誰かブルーに、今日の集まりの目的を説明してあげるとか、しました? してないでしょう。昔を懐かしむのはいいですけど、時と場所を選んでくださいよ」
「シロエ。早くお茶」
「人の話聞けよシド・ヨーハンっ」
今回ばかりは、シロエの怒りが正当なものであると、シド以外の誰もが認めずにはいられなかった。それなのにシドは、頷いてはいはい、と受け流すばかりでシロエの怒りを彼方へと投げ捨てている。お茶、ともう一度繰り返されて、シロエも怒りの持続を諦めたのだろう。なるべくシドを直視しないようにしながら机の上にティーセットを並べ、保温のための布がかかったポットを持ち上げて、そっと目を細める。
柔らかな、表情だった。優しい喜びが、見ているほうにまで伝わってくるような笑みだった。シロエってこんな表情もできるんだ、と怒り顔にばかり馴染みのあるブルーは感心してしまうのだが、それを怒ることもなく、シドがそうだろう、としみじみした思念波を送ってくる。
『シロエは、紅茶とか珈琲とか、飲み物淹れる時とか給仕してる時だけ、ああやって笑うんだよ』
『指摘したらいけませんよ。きっと、次からは恥ずかしがってやってくれなくなりますもの』
『それでも、その顔が見たい為にシドが給仕を頼んでるって知ったら、激怒するでしょうね……』
シド、フィシス、リオ、それぞれの思念波がやわらかにブルーの胸で弾ける。そのどれもが、素直ではないシロエを柔らかに可愛がっているものだったから、ブルーは思わず笑ってしまう。とたん、シロエのいぶかしげな視線が向けられて、ブルーはぴんと背筋を伸ばした。
「……なに、ブルー」
「なんでもないよ」
ところで、今日はどうして呼び集められたの、と笑顔で本物の疑問を口にすれば、真実に隠れてごまかしは見破られなかったらしい。フィシスとリオのカップに紅茶を注ぎ終わってからポットをいったん机において、シロエはその二つをそれぞれの前に差し出しつつ、思い切り眉を歪めて見せた。
「呆れた。本当に誰も、ブルーに言ってなかったんだ?」
「ううん。ええと、ジョミーに関して……話し合い? 会議? そういうのだって、言うのは」
でもよく分らなくて、と首を傾げるブルーに、シロエはなんだと目を瞬かせた。そして再びティーポットを手に取り、丁寧で綺麗な仕草で琥珀色の液体をカップへと注いでいく。芳醇な紅茶の香りが空気を染め上げ、場の雰囲気をすこしばかり和ませた。はい、と呟いてブルーにもカップを渡し、ミルクと砂糖の入れ物を押して進めながら、シロエはそれで全てで、あってるよ、と途切れていた言葉を繋げた。
「今日は簡単に言うと、『我らが困った長さまに対する定例会』だから。対策会議とか、被害報告の場でもいいけど」
「一月に一回、開催してる」
単なる独り言のようにして落とされたシドの呟きに、シロエはこくりと頷きをみせた。そして、まあ、そういうこと、と説明を終らせてしまい、残りの二杯を注ぎきってしまう。最後の一滴が落ちたカップをシドへと差し出して、シロエはブルーの隣に腰かけた。そして笑いをこらえているようにしまりのない表情で見てくるシドを、思い切り睨みつけて。シロエはなに、と棘でいっぱいの声を出した。
「顔が気持ち悪いですよ、シド。あと早く死んでください」
「断る。リオ、お茶も入ったし、定例会はじめようか」
『はいはい。二人とも、先に注意しておきますが、あまり過激なじゃれあいは慎んでくださいね』
ブルーが驚いているでしょう、と笑いながらリオが告げると、すぐに二種類の目が幼いソルジャー候補へと向けられる。片方は好奇心の。もう片方は、純粋に心配しての視線だった。その、後者。驚かせたことに対する心配というより、それによって悪感情をもたれはしなかったかと、言葉よリ語る瞳を向けてくるシロエに微笑みを返して、ブルーは大丈夫、と呟く。シロエの強張っていた力が、面白いくらいに抜けた。
ふぅん、とあまり面白くもなさそうなシドの呟きがひっそりと響く。シド、とたしなめるリオの思念波をやはり軽やかに無視して、シロエの天敵なのか素直になれない好意を向けられている相手なのか、いまいち誰にも判別できない男は、ごく素直な感想を関心しながら口にした。
「よかったな、シロエ。友達できて」
「だからどうしてあなたもジョミーもっ。ぼくに友達が居なかったみたいな言い方するんだっ」
いなかっただろうがよ、と半眼で呟きかけられたシドの言葉は、思念波や声になる前にリオに止められた。ごっ、とやけに痛そうな音が響き、ごく自然の流れとして沈黙が横たわる。怯えと驚愕が半々になった沈黙の中心で、リオはシドを殴った手を痛そうにひらつかせ、それでいて何事も行っていないような、普段通りの柔和な笑みを浮かべて口を開いた。
『失言王も黙ってくださいましたし、定例会を開始しましょう』
それは明らかに『黙らせた』の間違いなのだが、誰もリオに突っ込むものはいなかった。すこしばかり心配を瞳によぎらせてシドをにらみ、それからぷいっと視線を外してしまったシロエがため息をついて同意する。シロエも、別に暇な身の上ではないのだ。予定がぎっちり詰まっているわけではないが、やりたいことと、やらなければいけないことはたくさんある。じゃあ始めようか、とシロエは静かに口火を切った。
「ブルーが船に来てからというものの、ジョミーの落ち着きが普段の八割り増しくらいで無くなってるのは周知の事実だから、それはもう別に仕方がないことだと思うんだけど。それにつられて、攻撃セクションも、防御セクションも、どうも浮き足立ってる感じなんだよね。今の所、データに反映される分には変化ナシなんだけど。それでも、なんか、常にお祭りの前みたいなふわふわわくわくした感じで、落ち着きない」
数値に出てない以上、注意して引き締めるのにも限界があるし、と眉を寄せて悔しそうに呟くシロエに、リオがこくりと頷いた。そしてシロエの報告に対する対策を立てぬまま、とりあえず状況の把握だけを先にしてしまおうと、そう告げるかのように言葉を重ねる。
『私の所も、同じく。偵察、救出部隊、どちらもいまいち精度に欠けるというか。大きな失敗がない代わりに、パーフェクト、と笑えるような綺麗な成功がなくなっています。もちろん、これはタイミングの問題もありますから、原因をひとつに決め付けてしまうことほど怖いこともありませんが……浮き足立っている、のでしょうね。そうとしか上手く表現ができません。同じく、数値の上で目立った変化はありませんから』
「サーチ能力が下がってるのは問題だな」
シロエとリオとは違い、シドの声は端的に問題を浮き彫りにし、指摘していた。やっぱり、とでも言いたがるような空気に包まれる面々を見回し、ブルーはどことなく不安そうな顔つきで黙り込む。よく分らないものの、なんとなく、原因の一端を担ってしまっている気がしたからだ。それは否定できることではありませんが、と不安を読んだリオの、優しい否定が場に響く。
『最たる原因はジョミーですから、あなたがそこまで気にすることではありませんよ。もっとも、こればかりはジョミーが、というより『我らが最長老』が全部悪い、というものでもないのですが。土壌がどんな状態であれ、種がどう育つかは光や水も関係してきますし、最後に問題になるのは種自身がどうありたいか、どうあるか、ということですから。……いえ、植物の話をしているのではなく。例え話ですよ、ブルー』
途中で首を傾げてしまったブルーに対し、リオはくすくす笑いながら付け加えてくれた。それ以上の解説はしてくれない。自分で考えて答えを出せ、ということだろう。素直な頷きを場に落とし、ブルーは己の思考へと沈んでいく。それをなるべく邪魔しないような音量で、けれど意識の外には弾かれない絶妙な響きで、シロエがシドに問いかける。どうしてサーチ能力が下がっていると言いきれるのか、と。
シドは相手を馬鹿にしていると受け取られない、ギリギリの仕草でひょい、と肩をすくめて苦笑した。
「お前らの会話聞いてりゃ分るさ。攻撃、防御セクションと偵察、救出部隊に、異常とは言いきれない異常発生の兆しあり、で。データには反映されてない。ブリッジにも今の所、それという異変は起きてないしな。どこも似たようなもんだ。そうなればサーチ、つまり調査や検索の能力が鈍ってるとしか考えられないだろうが?」
「シド・ヨーハン。馬鹿と天才紙一重って言葉知ってますか? 知ってますよね? もちろんですよね? この天才の皮かぶって中身も天才の、天然馬鹿っ!」
だからどうしてそうなるって言うんですっ、と噛み付くシロエに、シドはあっさりとそうとしかならないだろうが、と言い返す。なんの感情にか、くらくらと眩暈がしてきたブルーの肩を軽く叩きながら、リオはしみじみとため息をついた。その向かいでフィシスが、ほんのすこし困ったような微笑を浮かべている。
「シドに悪気はないのですが……頭が良すぎて、自分でもどうしてそうなるのか理解する前に正解をはじき出すクセというか。計算問題を見た瞬間、方程式を当てはめずに答えまで辿りついてしまうというか……結果を見れば、確かに正しいのですけれど、それがシド以外の誰にも分らないんですわよね。ですが、シドがそう言うのであれば、それは、もう、そうなのでしょう。……サーチ能力とは、困ったことです」
常人より、階段にして一段浮いた世界に住んでいるのがフィシスという占い師の常である。この時も、場の空気を読んでいるのか読んでいないのか、非常に紙一重な穏やかさでため息をつき、首を傾げた。どうしましょうね、と暗に対策を求める仕草に、一気に脱力したシドとシロエが、ぴったりと重なった声で告げる。今はどうすることも出来ません、と。ただし、と清らかに響いたのは、シロエの高音だった。
「もうそろそろ、リオ曰く『土壌』の改善は見込めると思いますよ? いい加減、慣れて良い頃だから」
「まあ、そうだな。長さまはどれだけブルーのことが好きなんだよって、こっちが疲れてくる感じではなくなって来たしな。実際問題、その辺りはどう見てる? リオ。女神も」
『一般的に考えた場合であれば、落ち着きという単語を使用するには非常に抵抗があるというかまず無理なのですが。相対的に考えて良いのであれば……ベットに縛り付ける縄を常備しなければならない状況から、携帯が望ましい、くらいの変化はしていると思われます』
どちらにしろ、場合によっては縛り付ける状態に代わりはないのだが、改善されていると言えなくもないのだろう。頭を思い切り抱え込んだシロエが、うめき声に紛れさせて微妙、と呟いた。それこそ、場の者の総意だろう。たっぷり十秒間の沈黙が漂う。そして、マシュマロを指先で突いたような印象を振りまきながら、フィシスはほとんど音もなく、手を叩き合わせた。
「それでは。ジョミーの元気が出てきたようですので、おあいこさん、ということにしておくのは?」
「勝ち負け決めてるわけじゃないですからっ……っていうか、会話というか、結論の意味が分らないっ」
「女神、聞いてました? 話聞いておられました?」
ほとんど泣き叫びながら混乱するシロエと、さすがに問い詰めるシドに笑みを向けて、フィシスはもちろんです、と力強く頷いた。ジョミー同様、フィシスにも元気があるようで大変結構なことなのだが、この場合は悪い予感しかしないから性質が悪い。キャプテン、絶対忙しいという理由をつけて来たくなかっただけですよね、胃炎悪化させたくないから、とリオが達観しつつ天井を眺める中、フィシスは穏やかに言った。
「ジョミーが元気になって来たから、皆さんとても嬉しい、ということです」
それは。それだけは絶対に違う、と。未だ事態を完全に理解していないブルーでも、断言できる強さで思えた。思えたのだが、しかし言葉が喉の奥で引っかかってしまって声にならない。心は凍り付いてしまって、感情が言葉に変化していかない。他者に意思を伝える手段を二つも持っているというのに、そのどちらもが使い物にならなかった。完全停止状態に追い込まれて、ブルーは本能的な呼吸を繰り返す。
深い誰かのため息が、天体の間の空気を揺らした。
「完全に間違ってはいない、んだけど、さ」
間違ってないんだ、と反射的に思念で突っ込んだブルーにぎこちない頷きだけをみせて、シロエはだけど、とその単語を口の中で何度か転がし、意思に慣れさせながら言葉を紡いでいく。
「だけど。だけど、それは違うと思います。……あああもう、ねえ、シド。なんの話? なんの話だっけ? ぼくたちがしてたの、なんの話で、どんな結論を求めてたんでしたっけ? 欠片も思い出せないんで、よかったら教えてもらえます?」
「……長さまの元気が出てきたから、全体が浮き足立ってるっていうことじゃなかった、か?」
『違いますからね、シド。フィシスさまの結論と同じになってますよ。……ミュウ全体のサーチ能力に異変があることが確認されましたが、ジョミーの体調が回復傾向にあり、またブルーが居るのにも慣れてきたので、全体がまた落ち着きを取り戻すのにそう時間はかからないでしょう、ということです。全体の流れを、結論つきでまとめてしまうとね。つまり、いつものこと、ですよ。いつものこと。それ以上は考えない』
深く考えると幸せになれませんよ、と告げられる全く根拠のない言葉は、リオの思念に乗せられると説得力があるように聞こえるから不思議だ。ええと、つまり、今なにが、と混乱した思考を落ち着かせながら考えるブルーに、最長老の有能なる右腕はごく普段通りの、それでいて少しばかり疲れた微笑みを見せて言った。
『なにか質問は? ブルー』
「……ええと」
なにが分らないのか分りません、という基本的に大混乱している問いを口に乗せかけたブルーは、慌てて視線でくるりと円を描く。意味のない時間稼ぎをして呼吸を整え、心を落ち着かせ、言葉を取り出して来て。ブルーはリオをきちんと見つめながら、質問を響かせた。
「ずっと聞いていると、ジョミーの体調や気分が、ミュウ全体の調子に関わってくるように思えたのですが……そうなんですか?」
『ええ、関わってきますよ? 完全に連動しているわけではなくて、影響してしまうだけなのですが』
これはなにも難しいことではなく、簡単な理由なのですけれど、とリオはどこか誇りに満ちた表情で笑った。説明を妨げる様子もなく、フィシスは黙して眼前の光景を受け止めている。口元にうっすらと笑みが浮かんでいるのは、盲目の瞳に映らずとも、空気が場の様子を伝えてくれるからだろう。シドとシロエは顔を寄せ合い、それぞれ声をひそめて先ほどの結論について議論していたが、争いの気配はなかった。
優しい空気に包まれながら、ブルーの耳に言葉が染み込んでいく。
『好きな相手の機嫌がよければ、見ているこちらもなんとなく、嬉しい気持ちになるでしょう? 機嫌が悪ければ不安になったり、悲しい気持ちになったり、同じように苛々してしまうかも知れない。それと、同じことです。私たちは、いえ、これはもう、ミュウという種族は、と言ってしまっても良いのかもしれませんが。ジョミーが、好きなんです。我らが最長老。ミュウの始祖である方を、とてもとても大切に思っていて』
だからこそなのだ、とリオは言った。好きだからこそ、そして想いを思念として伝える術を持つミュウだからこそ、それは人よりも強く顕著に現れてしまうだけなのだと。不調が直接不調として伝わるのではない。喜びがそのまま、誰かの微笑みとして胸に灯るわけではないのだけれど。分るでしょう、と苦笑まじりに問いかけるリオに頷き、ブルーはそぅっと目を閉じた。そして船の隅々まで意識を飛ばす。
船は、暖かく守られていた。優しい祈りの思念で、抱きしめるように包まれていた。防御セクションが、恒常的に発している守りのバリアとは違う。誰かが無意識に、隠れたい逃れたい、と思っているからこそのヴェールとも違う。それは愛しい誰かをそっと抱き寄せ、抱きしめる気持ちに一番よく似ていた。愛している。ただその気持ちが、胸いっぱいに溢れて止まらなくなる。思っているのか、思われているのか。
そんな簡単なことすら分らなくなるほど、穏やかに。気持ちが混ざり合い、溶けて染み込んでいく。愛している。愛して、いる。すぅ、と。息を吸い込んで目を開いて、ブルーはリオに向かってもう一度頷いた。
「これでは、仕方ないですよね。これはもう、どう頑張っても多少は関わってしまう」
音楽のように優しさが奏でられ、幾重にも深まっていく、その幸福。至福、とはこのことだろう。自然に浮かぶ笑みをそのままに告げるブルーに、リオは仕方がないんですよね、と安らぎの表情で笑う。
『私たちは、本当に心から……心から、ジョミーを愛しているのです』
すこしばかり恥じらいを感じながらも、ハッキリとした口調で言いきるリオに、ブルーはかすかな胸の痛みを感じて沈黙する。しかしそれが、なぜか、ということをブルーが理解するより早く、シドの挑発に負けたシロエが雷撃と共に怒りの叫び声を上げたので。そのままブルーは、深い思考へもぐることがなかった。
あの場に呼ばれたのは、もしかして遠まわしにジョミーに釘を打つためではないか、とブルーが気がついたのは、もうあと数時間で朝になる頃だった。別に、徹夜して考えていたわけではない。眠る寸前に考えていた疑問が、ふと夢から覚めてしまった瞬間に答えを浮かび上がらせて来ただけだ。そしてその夢から覚めた時刻が、たまたま普段の起床時間よりずっと早かっただけのこと。深夜と早朝の、ちょうど間。
午前三時を、時計の針は指していた。眠ろうと思うのだが横になっても眠気は訪れず、仕方なくブルーはベットの飢えに体を起こし、分ってしまった事実に深くため息をつく。嫌だと思ったわけではない。呆れてしまっただけだ。ブルーはいったい、リオやシロエ、フィシスやシドにとって、どういう存在だと思われているのか。次期ソルジャー候補である前に、ジョミーに対する便利で最強の抑止力かなにかだろう。
即座にその結論にまで達し、ブルーはへなへなとベットに倒れこんでしまった。なんでそこまで効果があると、思われていると思ってしまっているのか。恥ずかしい以前の問題として、とてつもなく驕っている気がして、ブルーは自己嫌悪に苛まれる。己の存在を過小評価するつもりはないが、これは明らかに過大評価してしまっている気がして。しかし、己の心を傷つけることは、どんな時でも叶わない。
ダメだよ、と。笑いながらささやき、たしなめる声にも似た気配がブルーを包み込む。そんなことないよ、その通りだよ、ダメだよ、と。くすくすと笑いながら告げる気配に、ブルーは顔を真っ赤にして、ベットから顔をあげることが出来ない。無意識のソレだと、分っていたからだ。本人が意識していない部分で船を守っている力の一部が、ジョミーの心に反応して声を届けることがあると知ったのは、いつだっただろうか。
あの人はいったいどれだけぼくが好きなんだっ、と八つ当たりの怒りに似た感情でがばっと顔を上げ、ブルーは心を静めようと深く息をする。するとすぐに気配は消えうせ、辺りは元通り、静寂の漂う夜へと戻って行った。星の瞬くかすかな音さえ、耳を澄ませば聞こえてしまいそうな錯覚。なんの為にか幸福を覚えてかすかに笑い、ブルーは足音を立てないようにベットから降りると、人気のない廊下へと出て行く。
夜勤の者も居るし、ブリッジには灯りと人がなくなることがないので、そちらにいけば騒がしくもなるだろうが、ブルーが選んだのは展望室への道だった。夜も遅くまで夜景を眺める者が足を運ぶが、さすがに時間が時間で、道ゆく廊下には誰の姿もない。かすかな、かすかなブルーの足音だけが響いている。ゆっくり、ゆっくり歩いて、展望室へ続く最後の廊下を曲がった。夜の空気が、木漏れ日のように揺れる。
思わず、足が止まった。足音だけではなく、呼吸さえもひそめてしまう。それは、歌声だった。真昼の暖かな印象を、夜の静けさと暗がりの中に織り込ませ、調和させて、歌声が広がっていた。か細い響きだった。今にも消えて無くなってしまいそうだった。誰かに聞かせる為の歌ではなく、それでいて己の為に奏でているものでもなさそうだった。歌詞が聞き取れない。ブルーはそっと歩みを再開して、近づいていく。
見たかった星空が眼前に広がるも、意識は歌へと向いていた。満天の星よりきらめく歌声が、ブルーの意識を手招きする。展望室へ入って数歩歩き、ブルーはその場でくるりと反転した。展望室は、二階建ての構造になっている。一階と二階は吹き抜けで、入り口から中に入ってすぐ振り向くと、二階部分に設置されたバルコニーが見えるのだ。照明がしぼってある室内で、視界はあまり良くない。それでも。
赤いマントが揺れているのが、ハッキリと見て取れた。
「ジョミー……」
歌声より細い声は、ブルーの耳にさえ満足に届かないで消えてしまった。だから恐らく、呼びかけは届かなかったのだ。ブルーに背を向けたまま、ジョミーは星空を見上げて声を響かせている。聞こえなかった歌詞が、ようやく形になって耳に届いた。
空の果てを 目指していく
鳥の翼をかりて
雲の中を 泳いでいく
くじらの夢に眠りながら
遥か遠くの星に手を伸ばし
届かないと泣き叫んでも
落ちた涙は花を咲かせ
いつか世界を輝かせる
聞いたことのない歌詞であり、メロディーだった。優しい祈りの歌だろう。ブルーはジョミーに気がつかれないように足を踏み出し、二階へと続く階段に足をかけた。
大地におり 朽ち果てても
風の息吹にのせて
夢の中に 佇んでた
きみの胸へと帰るだろう
彼方此方を探し手を伸ばし
届かないと泣き叫んでも
響く言葉は光に消え
いつか世界を輝かせる
浮遊してもよかったのだが、一段ずつ登っていった方が、近づいていく実感が持てて嬉しかったのだ。一段あがるたび、歌声が近くなっていく。一段あがるたび、言葉が鮮明になっていく。一段、あがるたび。その存在を、ハッキリと感じることができる。今も、船を包む気配と同質の。暖かくて、愛おしくて、大切な。
青い宝石へ いつか帰ろう
たくさんの祈りがそこで
きみと ぼくを 待っている
カツン、と最後の一段を、わざと足音を立ててのぼる。歌が途切れ、赤いマントがひるがえった。驚きに見開かれた翠の瞳が、まっすぐにブルーを映し出す。ただ、ただ驚いているその様子に、ブルーは思わず笑ってしまった。では無視をしていたわけでもなく、本当にブルーの存在に気がついていなかったらしい。まったく、と柔らかく微笑んで、ブルーは口を開いた。
「こんばんは、ジョミー」
綺麗な歌ですね、と素直な感想を述べると、ジョミーの顔が真っ赤に染まる。その反応で、思念体ではなく実体だと確認して。ブルーは満天の星空に助けを求めるように、はじめて意識をジョミーから船の外へと移した。体調が回復傾向だと聞いていても、完全回復している、とは聞いていない。怒る方が良いのは明白なのだが、怒る気がしないから困ったものだ。正確に言うと、芽が出た傍から摘み取られていく。
怒ろう、と思う。その意思は生まれる。けれど生まれた瞬間、例えば悪戯を見つかってしまったように笑う翠の瞳だったり、夜にサラリと揺れている金の髪だったり、風をたっぷり抱いて舞うマントだったり。赤く染まった頬だったり、細くしなやかな腕だったりと、出会ってしまうと。もうそれだけで、気力が小さくなっていく。怒ることより、共に喜びを分かち合いたくなってくる。圧倒的な魅力が、そこには存在していた。
反則を絵に描いたような人だと思いながら、ブルーは怒ってませんよ、とまず断り、それからちいさく首を傾げて問いかけた。
「怒るとすれば、あなたがぼくに、ですけれど。勝手に歌を聴いてしまったこと、怒っていますか?」
「そ、それはないっ。恥ずかしかっただけで……あー、恥ずかしかった。ブルー、いつから聞いてたの?」
「すこし前から」
そう、と安心したような呟きを漂わせて、ジョミーはバルコニーの手すりに腰かける。今まで軽くもたれていた体重が一気にかかり、手すりがギシっと音を立てた。その音だけが、体重があるのだと教えてくれる全てのようで、床から浮き上がったジョミーの爪先はふわりと宙に浮いているように見える。マントが、風もないのに広がっているのも一因だろう。まるで浮かんでいるような軽やかな姿で、ジョミーは笑う。
現実味のない、先ほどの歌声のようにか細い微笑みだった。思わず言葉を無くしてしまうブルーを、手招くでもなく見つめてから、ジョミーはぼんやりと、視線を夜空へ投げ捨てた。その様子は、明らかに普段のものとは異なっていて。体調が悪いようにも見えないのだが、違和を感じさせる。なにかありましたか、とブルーが問いかけようとした瞬間だった。羽根が落ちるような動きで、ジョミーのまぶたが下りる。
「帰りたいな、と思うんだ」
眠る寸前の意味のない呟きのように、まるで唐突に落とされた言葉だった。独り言ではない。それでも、ブルーに返事を求めて告げられた言葉ではないのだった。聞き手としてだけあることを求められていると分っていても、ブルーはかたく閉じていた唇を開く。そうしなければジョミーは目の前に居るのに、どこかに消えていなくなってしまうような気がして。
「どこへ?」
「地球へ」
ものを知らぬ幼子に言い聞かせる、甘く優しい微笑みを交えた声で。ジョミーはすぐに答えて、それから目を開いた。視線は空へ向いたまま、ブルーの元へは降りてこない。ジョミーはじっと、星空の彼方を見つめている。視線の先に、求めるものが見えているように。泣き出してしまいたいような静けさの中で、ジョミーは夢を見ているように言葉を紡ぐ。地球に帰りたいな、と。かつて、そこに居たことがあるように。
ずっと、そこで暮らしていたことがあるように。分かちがたい親しさで。ため息に乗せて。何度も、何度も。
「……帰りたいな」
耐え切れなくて。走りより、ブルーはジョミーの手を強く握った。どこか鈍い動きでジョミーの視線がおり、ブルーの存在を確認する。ブルー、と問いかける響きの名にしっかりと頷き返して、ブルーはどうして、と問いかけた。
「どうして、そんなっ……一人で」
「……え」
「一人で、行くみたいな顔を、してるんですかっ……あなたはっ」
一人で。たった一人で。長い長い道を歩いて、家まで帰らなければならないような。切なさ。悲しさ。悔しさ。寂しさ。震えるほど一人の表情で、言葉を紡ぐジョミーが、どうしても許せなくて。ブルーは強く、痛みが走るほど強くジョミーの手を握った。
「帰りたいなら、帰りましょう。帰ればいい。それだけの話で、それだけの……どうして、あなたは。こんなにも皆を愛しているのに、どうして……愛しているだけ、あなたは愛されてる。だから一人で行くなんて、一人でしか帰れないなんて思わないでください。どんなにっ、どんな、どんなことがあっても、ぼくはあなたの傍にいるから。隣にいるから。手を繋いでいますから……だから、皆で帰りましょう。地球へ」
なぜ帰りたいのかなどという理由は、必要ではない。すくなくとも今は、そんなものいらないのだ。ただジョミーが帰りたい、と望んだ。それで。それだけで。ブルーはジョミーの願うまま、地球へ帰ろうとするだろう。途切れ途切れの混乱した言葉で、言葉にならない意思で伝えてくるブルーに、ジョミーは初めて普段通りの表情でうん、と頷き、それから花が咲き綻ぶように笑った。
「そうだよね。ありがと、ブルー。……なんでかな、すぐ忘れちゃうんだよね。一人じゃない、って」
それでよくリオを困らせるし、ハーレイの胃を痛めるし、シロエには怒られるし、シドからは拳が振って来るし、フィシスは悲しませるし、と。ブルーにもなじみ深いいくつかの名前を挙げて苦笑するジョミーは、反省はしているようだった。どうすれば忘れないのかなぁ、と眉を寄せる姿に、ブルーは大丈夫ですよ、と笑う。
「忘れたら、思い出してもらいますから。何度でも、思い出させますから。今のままで、いいですよ」
「……それってなんか、すごく、ボケの前兆みたいな気がして嫌なんだけど」
心底嫌がっているジョミーに、ブルーは肩を震わせて笑った。そんな心配の仕方ができるのであれば、今はとりあえず大丈夫だと思って。安心して見上げた星空は、彼方がうっすらと明るくなっているような気がした。じっと見つめれば、明るい部分が広がってきている気がしたので、夜明けが来るのかも知れない。あと数時間以内だろう。そうすれば今は二人きりの展望室にも、朝日を見に人がやってくる。
見つかったら夜に起きてたのバレちゃいますね、と前科持ちのブルーが困ったように呟くと、その隣で、さらに多くの前科持ちであるジョミーが冷や汗を流す。一秒と間をおかず、怒られるから逃げよう、と結論を出したブルーは、ジョミーの手を引いて浮かび上がりながら、そういえばと首を傾げた。
「歌っていたのは、なんの歌ですか?」
「ブルー、もう誰かを連れて飛べるようになったんだ……地球の、歌だよ。大地の歌」
頑張ってるね、愛しいコ、と思念でブルーに喜びを伝えながら、ジョミーはなんでもないことのように告げた。お願いだから唐突に褒めないで下さい、と思いながら、ブルーは思わず目を瞬かせる。そうですか、とすんなり納得することができなかった。ピンと来ないのである。それって、と口ごもるブルーに、ジョミーはごく穏やかに言った。
「ぼくの遺伝子が記憶していた、地球が歌った大地の歌。それを丹念に拾い上げて、言葉に直したらああなったんだ。かつて、ね。かつて、地球は歌っていたよ。地球の大地は、歌っていたよ、ブルー。だから今も、ぼくらは地球を目指すんだ。地球が待ってる。ぼくらは地球から生まれたいきもの。人も、ミュウも。地球の歌声を聞きながら、この世界に生まれてきたんだ。だから……聞こえるところまで、帰らなきゃ」
ああ、ほら、今も、と。か細くささやいて、ジョミーは目を伏せる。聞こえる。聞こえる。地球が奏でる歌。ガイア・シンフォニー。地球を遠く離れた者の所まで。呼び寄せるかのごとく、その歌は途切れない。