体重をかけずに腰かける、などという気遣いがいっさい見られない寄りかかりに、シドは一言重いと言った。しかし、シロエは重いでしょうよ、と反省もなく呟くだけで、シドの座る背もたれに腰かけるのをやめない。ブリッジ全体から注目を集めているものの、注意の声はどこからも飛ばなかった。忍び笑いだけが空気をさわりと揺らし、シドの神経を逆撫でていく。呼吸さえしにくい現状に、シドの眉が寄った。
背もたれに後ろから腰かけられているということは、つまりシドの肩に相手の体重が乗るということで。体に向かって直角に重みがかかる、という貴重な体験を受けながら、それでもシドは普段と変わらぬ速度でキーボードに指を走らせる。重くて多少呼吸がしにくく、かつ、暑いということを我慢してしまえば、作業に支障が出る状態ではないからだ。軽やかな音が、微妙な空間とかしたブリッジに響いていく。
シュン、と独特の扉がすべる音が響き、ブリッジの人数に一が足される。報告書を手にハーレイの元へ来たリオは、途中でシドとシロエの奇妙な攻防に気がついたのだろう。五秒ほど立ち止まって見つめた後、なにごともなかったような態度で足を進め、朝だというのにげっそりと疲れ果てた様子のハーレイに、気遣いの声をかける。
『キャプテン。お疲れのようでしたら、目を通した後で医務室に行かれることを提案します』
「それより先になにか一言ないのか。あの光景に対して」
暗に、仕事が終ったら休んでもいいですよ、と上司をこき使う発言を放ち、リオは書類を手渡した。代わりに向けられた問いに、リオはごく素直に首を傾げる。なにか、と言われても、という仕草だ。
『朝からじゃれあってて、シドもシロエも、可愛いったらありませんね。シロエはともかく、シドは通常通り仕事もこなしているようですし、今日は攻撃セクションの調子も良いようですから、大目に見てもいいのでは?』
「そうか、あれはじゃれてるのか……あと可愛いのか。そう、か」
ああうんまあもうそれでいい、と全力で事態把握を投げ捨てた発言を力なく響かせ、ハーレイは書類を読む作業に没頭する。その隙に、リオはハーレイの目の下にクマがなく、顔色や肌の調子から深刻な胃炎がないことを確認すると、身をひるがえしてブリッジを覗き込む。ハーレイが立つ場は一段高くなっていて、見晴らしや風通りもよく、そこに居ながら常にブリッジの全景が確認できるようになっているのだった。
不機嫌です、と顔に書いてあるシロエと目を合わせ、リオはにっこりと笑う。
『おはようございます、シロエ。それで、なに遊んでるんですか?』
「おはよう、リオ。別に遊んでませんよ。シドの仕事の邪魔してるだけで」
『そうですか』
邪魔できていないようですが、と。思っていても言わないのがリオの優しさである。たとえ退かせ、とシドに思念と視線で求められていても、にっこり笑って自分の仕事に戻る強さも持っている。時間がない今は関わり合いになりたくないので、適当に放置したとも言うのだが。ハーレイが書類に目を通し終えたのを確認して、リオはどうしますか、と決断を迫る声をかけた。ハーレイは数秒だけ悩んで、すぐ口を開く。
「調査部隊をアタラクシアへ。不穏な動きの原因を調べ上げ、可能ならば阻止。危険は冒さず、無理だと思ったらすぐに連絡することを義務付ける。精鋭を三名程度選んで、すぐ調査に向かわせろ。人選は任せる。……分かっているとは思うが、ソルジャーが一緒に行かないように細心の注意を払え。ぼくがちょっとやりすぎただのなんだの言い出しても無視しろ。暴れたら縛って転がしておけ。私が許可する」
『了解しました。その通りに』
縛って転がす許可を出すのもどうかと思うが、こればかりは無理に無理を重ねる性格のジョミーが悪いので仕方がない。それに、今回ばかりは連れて行ってしまうと、なにをするか分らないのだ。先のブルー救出のおり、ジョミーは追手をまく意味もこめてプレイランドを半壊したのだが、そのせいで人類側に危機感がつのり、ミュウに対する新兵器開発の恐れがある、と報告があったのだ。当然の反応である。
やられた分だけやりかえす、ということではないのだろうが、あれだけ壊せば怖くもなるだろう。ため息をついて思考を切り替え、リオはハーレイに対して一礼する。そのままブリッジを出て行って、さっそく調査部隊の選抜にかかろうとしたのだが。立ち去るリオの背に、胃の痛みを感じ始めたハーレイの声がかかる。出て行く前に、と。
「あれをどうにかして行け。頼むから」
『……了解しました。キャプテン』
嫌です、と言ったら胃炎で倒れられる危険性が高いため、リオは仕方なくそう言って『あれ』に視線を移した。軽やかな音を立てながらキーボードを叩くシドと、ぐいぐいと不機嫌そうに体重をかけ続けるシロエの無言の攻防はまだ続いていて、終る兆しが見えそうにもなかった。まったくもう、と誰に対するでもない呆れの言葉を胸の中で響かせて、リオは二人の下へと歩み寄っていく。
『シド?』
「なんで俺が先なんだ……なにか用事か、リオ」
疲れた風な返答の間にも、指の動きは止まらない。一定の感覚でカタカタと響いていく音に若干眠気を刺激されながら、リオは勤めて柔和な笑みを浮かべてみせた。
『決まっているでしょう、あなたが年長だからです。そんなことよりも、ほら、シロエが暇を持て余していますよ。そんなに仕事ばかりしていないで、構ってあげないと』
「……よしよし」
構う、すなわち撫でる、の方程式しか、シドの頭の中では成り立たないらしい。無表情にそう呟きながら頭を撫でられるのに、シロエの体がふるふると震える。ああ、切れる、とリオが一歩距離を取った矢先だった。ブリッジを黄金の雷が駆け抜け、シロエの髪が逆立つ。
「アンタなんかだいっきらいだーっ!」
「シロエ。所構わず雷を出すのは止めろと言っているだろう。データが消えたらどうするつもりだ」
一瞬の早業でデータを別媒体に保存したシドは、呆れ返りながらも冷静にそうたしなめる。ブリッジの面々がそう慌てていないのは、シロエの雷が正確にシドだけを狙って落ちたものと知っているからだ。ことシドに関して、シロエの命中精度が百から下に落ちたことはない。無駄にすごい集中力である。ああもう、と呆れで言葉も出ないリオは、シドを軽く睨みつける。その冷静さが逆撫でているのだというのに。
シドから落ち着かせるのを即座に諦めて、リオは今度はシロエに声をかけた。荒れ狂う怒りで、まさしく毛を逆撫でているシロエを刺激しないように、そっと、そぅっと思念を送る。
『シロエ? あなたはどうして、シドの仕事の邪魔をしようと思ったんですか?』
怒りにふるふる震えていた体が、ぴたりと制止する。まばたきを二回ほど行い、すっかり冷静さを取り戻したシロエの瞳が、不思議そうな表情でリオに向けられた。静電気を残す髪を手で撫で付けながら、シロエはゆっくりした口調でなんでって、と首を傾げる。
「起きたら、空が青かったから?」
つまり、特に理由などないと、そういうことだ。そうですか、と呟いたリオに素直な頷きをみせて、シロエはぴょんとシドの背もたれから飛び降りる。そしてリオの前まで走ってくると、上機嫌な笑みで飽きた、と言った。そうですか、以外にリオにどんな言葉が告げられただろうか。ともあれ、任務は完了した。ブリッジを出ようときびすを返すリオについて歩きながら、シロエは気まぐれな猫そのものの表情で言った。
「アタラクシアで問題起きたなら、ぼくが行って来ましょうか? ちゃんとジョミーは縛って行きますよ?」
『ダメ。どうせ行きか帰りに地球統合軍に寄って、キース・アニアンにちょっかい出してくるつもりでしょう』
どうしてバレてしまったんだろう、と純粋に不思議がりながらシロエの首が傾げられる。どうしてというか、シロエが船の外に出るたびの恒例行事なのだから、予想できない方がおかしいのだが。まあ、今は敵とはいえ、仲良くできれば和解の第一歩ですからね、というリオに、シロエは先ほどシドに向けていたような、完膚なきまでの不機嫌顔になった。
「別に、仲良くしてるとかじゃないです」
『はいはい。そうですか。そうですね。仲良しじゃないんですよね』
「なっ、仲良くしたいわけでも、別に、ないです」
もう一度、今度は笑いをこらえながらはいはい、と言って、リオは手を伸ばしてシロエの頭を撫でた。シドには雷を落とした行いを、リオには軽く眉を寄せるだけで避けもせずに受け入れて。シロエはもう一度、別に仲良くしたいわけじゃ、と言って唇を尖らせた。
「ただ、もしキースがぼくと仲良くしたいとか言うんでしたら、仲良くしてやらないこともないですけれど」
『そう。じゃあもし、シドがシロエと仲良くしたいな、と言ったら?』
「熱測ってドクター呼んで誰がなんと言おうとベットに縛り付けて寝かせますがなにか」
気持ち悪い、と全身で表現しているシロエに、リオは体を二つに曲げて肩をふるわせた。面白すぎる。シロエは有言実行の人だから、もし本当に言われたのなら、その通りのことをするのだろう。そして盛大に文句を言いながら看病して、変な病気になんかかからないでよね、と怒るのだろう。屈折した愛情を向ける歳の離れた兄と、どうしていいか分からないからとりあえず苛める初恋の人の違いにしか思えない。
『シロエ』
「なに」
笑わないでください良い気分しませんから、と嫌そうに言うのに、深呼吸をしながら頷いて。リオはにっこりと、感情を読ませない笑みを浮かべた。
『たまには、ちゃんとシドに『好き』って言ってあげるんですよ? あと、キースを苛めすぎないように』
下手に人類とミュウの間で大喧嘩されるとものすごく困りますから、と。過去何度かあった痴話喧嘩しか思えないとばっちりを思い出しながら言うと、シロエは今にも大輪の薔薇に落書きでも始めそうな珍妙な表情で数秒間沈黙し、それからきっぱりとした声でヤです、と告げた。どちらに対して『ヤ』なのかだけは言わずに。シロエはぷいとそっぽを向いて、後を追わせず、どこかへと転移してしまった。
砂糖を煮詰めて細く水に落としたような、甘い木漏れ日が草の上に落ちる。明るい日差しの昼下がり、ブルーはこどもたちと一緒に公園の芝生に寝転び、絵本を読んだり、読み聞かせたりしていた。最近は、休むのも遊ぶのも鍛錬のうち、と言われてしまい、三日間の訓練と二日間の休み、二日間の訓練と一日休みがセットで交互に行われることになっていた。今日は、三日の後の二連休である。
それを知っているこどもたちは、日光浴に現れたブルーを捕まえて遊びをせがんだのだった。こどもたちも、さすがにブルーが疲れているのは知っているので、体を使った遊びではなく、頭を使うしりとりや、こうした読書に落ち着いたのだが。なめらかな月光のような声が、最後の一節を読み上げる。悲しくもロマンティックな恋物語が幕を閉じたのだ。少女たちは一様にうっとりと目を細め、大人びた息をもらす。
少年たちも、普段なら入り込めぬ種の物語に、いつの間にか引き込まれていたのだろう。夢からたった今覚めた表情で目を瞬かせ、幸せになって欲しかったのに、と率直な意見を小声で交し合っている。物語の世界へと誘い、また、現実へと戻らせたブルーの声は、かすかな笑い声となってまどろみの空気を揺らした。
「さあ、お話はこれでおしまい。次はどうする? なにを読もうか」
冒険っ、と少年たちが声をそろえる。お姫さまのお話っ、と少女たちが歓声を上げた。困った微笑みで口を閉ざしてしまったブルーを見て、カリナがすっくと立ち上がり、読んで読んでとせがむ仲間たちを見下ろした。
「今日は、これでおしまいにしましょう? ブルーを休ませてあげなきゃ、ジョミーに怒られちゃうわ」
そんなことでジョミーが怒る筈もない、とカリナもこどもたちも知っているのだが、その言葉がもたらした効果は絶大だった。誰ともなしに、そういえばブルーは日光浴をしに来たはず、という声が出て、こどもたちはわらわらと何処かへと走っていく。そしてすぐに戻ってきて、ふわふわの枕と手触りの良いタオル地の敷布とかけ布を持って来てくれた。それも、人数分。見る間に、芝生の上に布が引かれていく。
全ての作業が完了するまで、十分もかからなかっただろう。お昼寝、お昼ね寝っ、とはしゃぐこどもたちを呆然と見ながら、ブルーはカリナにすごいね、と言った。本当ならありがとう、の方が適切だと分かっているのだが、この場にはすごい、の方が相応しいと思ったのだ。カリナは褒められて嬉しがる笑みを浮かべ、どうもありがとう、と可愛らしくお礼を言った。
「カリナはね」
透き通る青い海のような、清涼な声がブルーへ話しかける。目を向けると、カリナと同い年くらいの少年が立っていて、誇らしげにブルーを見上げていた。
「カリナは、こういうの上手なんだ。その時、一番そうすべきことに、皆の気持ちを持って行くのが」
「でも、ユウイが居なければ、皆も上手く動けないもの。ありがとう、ユウイ」
きゅっと手を握ってお礼を言われる少年、ユウイは、カリナに恥ずかしそうに微笑み返した。そんなことないよ、とやんわり否定しているが、見ていてもカリナの言う通りだとブルーは思う。まずカリナが言葉を発して、全員の意思をひとつの方向へと向かわせる。そして方向性を持った意思を先導して、役割を振って行くのがユウイの仕事だった。誰は枕、誰はシーツ、とごく自然に指示していたのがユウイだからだ。
また、こどもたちもそれをごく当然として、ユウイに信頼を向けているのだろう。やみくもに走り回るようなことはせず、自分ですこし考えて分らないようであればすぐにユウイに聞き、嬉しそうに指示を仰いでいた。またカリナも、ユウイになら任せられると思っているのだろう。特に口を出したりはせず、ブルーが動かないように傍にぴったりくっついて、にこにこと笑っていた。恐らく、普段は『ジョミー係』なのだろう。
目を離せば率先して飛び回りそうな長を抑えておくには、おしゃまで口の回る少女を一人傍に置いておくほうが、縄で縛って投げ捨てておくよりはずっと健全で手間がかからない。誰かが思いついてそうしたというより、先にカリナが気がついてそうするようになったのだろう。どうしようもない時は私とユウイが呼ばれて、それでジョミーの傍にいるのよ、と心の揺れを読んだカリナの発言に、やっぱり、と思いが浮かぶ。
うふふ、とナイショ話をしたがるような、カリナの笑いがこもって響く。
「あのね、ブルー。ブルーが来てから、私とユウイ、呼ばれてないのよ? どうしてか分かる?」
それはとても幸せな理由なのよ、とカリナは口に手をあててくすくすと笑った。考え込むブルーの傍では、こどもたちが次々と布団の中にもぐりこみ、眠る準備を始めていく。横に長々と引かれた布の、中心が三人分開いているのは、中にブルー、両脇にユウイとカリナが眠るからだろう。ジョミー脱走防止に、眠る位置関係まで計算されているに違いない。そんなことには気がつくのに、カリナの問いに答えられない。
どうして、と降参を告げながら問いかけると、カリナとユウイは顔を見合わせて笑った。
「きっとね。ジョミーが無茶したら怒られるだけじゃなくて、悲しいって思う人が居るって、やっと分かったんだと思うの。ブルーはジョミーが無茶したら、きっと心配するもの。心配されて、悲しまれることなんだって、やっと分かってくれたんだと思うの」
「ありがとう、ブルー」
ぼくたちの長さまに、分からせてくれてありがとう、と。言葉は二人分だけではなく、思念は幾重にも重なって響いた。こっそりと布団から顔を出していたこどもたちが、驚きに目を瞬かせるブルーを見てくすくすと笑う。さあ私たちも寝ましょう、とブルーに向かってちいさな手を差し出しながら、カリナは嬉しそうに告げた。
「私たちね、まだ小さくてたいした力になんて、なれないんだけど。でも、ジョミーの役に立ちたいの」
「ジョミーが一人で戦わなくてもいいように。ソルジャーになれるような、強い力までは望まないけど……全部守らなくて、いいように。ジョミーに守られるのは、すごく嬉しくて、暖かくて、気持ちいいことなんだけど。守られたくないわけじゃなくて、守らなくていい存在になりたい」
だからね、とカリナが繋いだ手とは、反対の手を握って。ユウイは決意をこめた声で続けた。
「待ってて、ブルー。ぼくたちも、すぐそこまで行くから」
「それまで、ジョミーをよろしくね。すぐ、一緒に『よろしく』って、できるようになるから」
でもその時まで、その日までは絶対にナイショね、と念を押してくるこどもたちに笑って、布団にもぐりこんで横になりながら、ブルーはどうして、と尋ねた。カリナとユーイと繋いだ手に、力がこめられる。二人が起きるまで逃亡防止の意味もこめた触れあいは、当分解かれることがなさそうだった。いくつもの思念波が、重なって答える。だって、だって、だってね、と。はじけるような笑い声をこだまさせながら。
『きっとジョミー、泣いちゃうもの!』
だからナイショ。それまでナイショ、と。笑いながら歌うように紡がれる言葉に、ブルーはくすくすと笑って目を閉じた。とろりと溶ける木漏れ日が、まぶたを柔らかく照らしている。そよ風が、草を揺らした。またたくまに、世界が遠くなっていく。素敵な夢が見られそうだと思いながら、ブルーは意識を手放した。
健やかな寝息を聞くだけで、どれ程幸せになれるのか。きっと、ブルーは知らないのだろうけれど。それでも、無意識に与えようとしてくれたのではないかと思ってしまうくらい、ジョミーはブルーに救われているのだ。ハーレイから逃げ回りながらの散歩の途中で、ふと立ち寄った公園の、なにが気になったわけではないのだけれど。呼ばれるように木陰にまで足を伸ばせば、眠る愛しいこどもたちの姿があった。
中心に、ブルー。両脇を、カリナとユウイ。その隣にも、隣にも、また隣にも、隣にも。ジョミーが可愛がり、ジョミーを愛するこどもたちの姿があって。誰も彼もが、眠っている間に害が及ぶことなどありえないのだと、そう無意識に信じきった表情でまぶたを閉じて、寝息を響かせていて。とろけるような光に包まれたその光景が、どれほど幸せを呼び込むものなのか。平和、そのものを感じさせるものなのかを。
その光景の中の、誰もが知らないのだろうけれど。ブルーの頭の上にしゃがみこむようにして、顔を覗き込みながら。ジョミーは呼吸するのもせいいっぱいの幸福で、胸を締め付けられていた。幸せかなあ、と。問いかけることさえ愚かに思える。こんなに、こんなに嬉しかったことは、もう思い返せないから、きっと無いのだ。梢が風に鳴る。小鳥たちがさえずっている。ここが空の上の船の中だと、感じさせない自然。
足の下の草は水を持っていて、湿り気のある土が手を汚す。窓が開かぬのにゆるりと吹く風は、空調と環境整備部の賜物だ。自然を作り上げるための不自然が、いくつも、いくつも備えられてはいるのだけれど。自然とか、人口とか、そんなものは、もう関係なくて。幸せで平和に、誰かが生きている。そのことがどんな苦労も消し去ってくれるほど、嬉しくて、嬉しくて。嬉しくて。言葉にならない。声が、出てこない。
しゃくりあげるように息をして、涙をこらえれば、ジョミーの顔にふわりと布がかけられる。手で目の部分だけ退かしてみれば、そこにはリオが立っていた。船の様子が見て回りたいが為にベットを抜け出したジョミーの額を、軽く小突くだけで怒りを終らせて。リオは長年付き合ってきたが故の手馴れた仕草で、ジョミーの前髪だけを慈しむように指で撫でた。ジョミーの耳にすっかり慣れてしまった、優しい声がささやく。
けれど。はじめは、なんと言われたのかも分からなかった。その言葉の意味が、分からなかった。その言葉が、己に対して向けられる意味が分からなかった。間違いじゃないのか、とさえ思った。それなのに、リオは。根気強く、優しく、柔らかく。普段通り、ジョミーを包み込んで癒してしまう暖かさと、広さで。ゆっくりと、言葉を繰り返す。そして何度目かの言葉からは、自然に、ジョミーの耳に染み込んできた。
『泣いて、いいですよ』
泣かないよ、と。かつて、誰かに告げた冷たい声がこだまする。それはジョミーの声だ。ジョミーの決意だ。ソルジャーとしてミュウたちの頂点に立ち、人間と戦い、話し合い、平和への道を探しながら、時にその両手を血に染めた。ソルジャーとしての声。ソルジャーとしての、決意として。いつか誰かに、そう告げた。相手はリオだったかも知れない。ハーレイだったかも知れない。己にだったのかも知れない。
今はいない誰かに、別れの言葉として送ったのかも知れない。ああ、けれど、それは、どうしてだったのだろう。思い出せなくて。思い出せなくて、苦しくて、ジョミーは嫌々と幼く首を左右に振った。そんなジョミーに仕方ないのだから、と言わんばかり、リオは笑う。もうずいぶんと昔のことですものね、とジョミーの頭を撫でながら。あなたが言ったのでしょう、と。
『泣かないよ、とあなたは言いました。それは私にだったかも知れないし、キャプテンにだったのかも知れない。あなたが、あなた自身に言い聞かせた言葉だったかも知れないし、今は亡き誰かに、ソルジャーとして立つ決意として送った言葉なのかも知れない。泣かないよ、とあなたが言いました。けれど、あなたが言ったのはそれだけではない。それだけでは、ないんです。……思い出せないのなら、思い出して』
教えるから、記憶の扉を開いて、と。笑ってリオは、ささやくように告げた。
『悲しみで泣くのではなくて。泣くのなら、嬉しいことがいい、と』
嬉しさで泣きたい、と誰かが言った。それは昔の自分だったのかも知れない。思い出せないけれど、胸の中には確信があって。思い出した、と唇が動いていた。思い出した、と誰かが呟いた。その声が己のものであると、分かるまですこし時間がかかったけれど。ジョミーは思い出した、と何度か呟いて、切なく息を吸い込んだ。
「そ、っかぁ。そんなこと言った日も、あったよねぇ……なんの日、だっけ。思い出せないや」
『さあ。どんな日だったでしょうね。私にも分かりません。でも、もう、いいじゃないですか』
「うん。そうだね。もういいや。でも、ああ……見せてあげたかったなぁ」
どれだけ、犠牲の数が増えてしまっただろうか。両手では到底数え切れなくて、数でも途中で分からなくなって。記憶の中だけでも、不安になるくらい。たくさんの、たくさんの、死んでしまった仲間たち。殺されてしまったこともあった。殺してしまったと、ミスを責めたこともあった。病気で亡くなることもあった。寿命が尽きてしまうこともあった。命はたくさん消えてしまった。守ろうとした手から、こぼれ落ちて。
何度、強く手を握り締めただろう。守れる数の少なさに、何度力不足を嘆いただろう。その気持ちは今も消えない。これからも、ずっと消えるものではない。それでも。だからこそ。いなくなってしまった者たち。理想をたくし、平和を夢見て眠って行った者たちに。今この時、この瞬間の平和を。この光景を、この喜びを。見せてあげたかった。分かち合いたかった。等しく苦労は報われたのだと、笑い合いたかった。
「ぼくらの、して来たことは、無駄じゃなかった。求めた平和が……今ここに、あるよ」
ハーレイ、とジョミーは呼びかけた。フィシス、エラ、ゼル、ヒルマン、ブラウ。長い時を最初から、あるいは限りなくその近くから、共に生きてきた長老たちの心を。呼び集めて、そっと、喜びで抱きしめた。
「ぼくの後継者が。ぼくの、ブルーが。教えて、くれたよ。シャングリラの中に、平和があると」
嬉しさがこぼれて、シャングリラ中へと広がっていく。さんざめく光の欠片は喜びを灯して、船を強固に包む守りとなった。全体の安堵感が、ぐんと増す。限りない安堵に包まれて、リオは息を吐きながらジョミーの頭を撫でた。声はかけない。言葉はいらない。傍にいるだけで、分かち合えるものがあるから。そっと微笑みを浮かべるリオの傍らで、しゃがみ込みながらブルーと、眠るこどもたちを見つめて。
ジョミーは頬に、涙を伝わせた。
「……どうしよう、リオ」
『はい?』
ひっく、ひっくとしゃくりあげて涙を流す。それはまるで、涙の流し方を知らない、幼子の泣き方だ。ぽんぽん、と頭を撫でてやりながらどうしました、と問いかけるリオに、ジョミーは本当に困りきった様子で言う。あのさ、と。
「ど、どうやって、泣き、止んだ、ら、いいのか、分からないんだ、けど……っ」
しゃくりあげて、途切れ途切れに。心底困って告げられた言葉に、リオは思わず笑い出してしまった。ぼく本当に困ってるのにーっ、ひどいリオーっ、と叫びが思念となって響くが、リオの笑いは止まらない。気が済んだら止まりますよ、とまるで対処になっていないことを告げて、リオはジョミーを思い切り抱きしめた。
目が覚めた瞬間、心臓が止まると思ったのは、その人との距離があまりに近かったせいだ。呼吸をすれば吐息が顔にかかるくらい近くに、ジョミーが目を閉じて横たわっていた。眠っているのだ、と気がついたのは数秒後だ。暴れ馬のように跳ねる鼓動をどうにか静めつつ、ブルーは音を立てないようにして体を起こす。カリナとユウイと繋いでいた筈の両手は、二人の寝相のせいで外れてしまっていた。
上半身だけを起こして、ブルーはまず周囲を見回した。眠るこどもたちと、ジョミー以外の人影はない。ジョミーの存在を除けば、ブルーが覚えている公園の光景と同じだった。違うのは、日がすこしかげっているくらいだろうか。影の長さから、そう長く寝ていたわけではないことを確かめて、ブルーは大きく伸びをした。もう一度寝るには、驚きすぎて頭がさえてしまっていた。眠気は、きっと戻ってこないだろう。
そして、戻ってこなければ良いとも思う。ドキドキ弾む心を抑えて、ブルーはそぅっと眠っていた場所に戻る。ただし、仰向けではなく、腹ばいに。ひじを突き、手の上に顎を乗せて、息をひそめて。強い視線で起きてしまわないように、あまり見過ぎないように、と己に言い聞かせながら。超至近距離で眠るジョミーの顔を、思うままに見つめる。ジョミーの頭は、ブルーが使っていた枕の半分に乗っていた。
無意識に半分コしたのか、ジョミーがずらして頭を乗せたのかは分からないが、これでよく眠っていられたものだ、とブルーは己に感心する。だってもし、この状態で眠ることになっていたのなら、夢になど旅立てはしないだろうから。気がついてよく見ると、ジョミーの体には薄い翠の布がかけられていた。自分でかぶったかけ方ではなかったので、もう一人居たことになる。その誰かを、ブルーはすぐに理解した。
リオだ。ハーレイならば、起こさなくても抱き上げて、ベットに移動させてしまっただろう。ジョミーの心を優先するのがリオの役目で、体を優先するのがハーレイの役目なのだから。どちらが良い、ということではない。どちらも存在して、それは初めて生きてくる。すぅ、と安らかな息を響かせて。ジョミーのまぶたが下りている。金のまつげがうっすらと影を落とし、翠の瞳が隠れてしまっていた。静寂が、胸に甘く痛い。
「あなたに」
意図せず、言葉がもれていくのは。その静寂に、耐え切れないものを感じたかも知れない。誰も起こさない音量で、ぽつり、ぽつりと。決して返事を望まぬ響きで、ブルーはジョミーに告げていく。
「あなたに、恋を、しています。ぼくは……あなたに、なにをしてあげられるだろう」
恋をして。叶うとも、叶わぬとも考えることはなく。ただ、ただひたすらに恋をして。望むことは相手の幸せ。その笑顔こそ、一番の喜び。その想いも、本当なのに。幸せにしたいと、願ってしまった。他の誰でもない、ブルー自身が、ジョミーのことを幸せにしたいと。幸せを与えたいと、思ってしまった。だから、苦しい。ジョミーになにをすれば幸せになってくれるのか、恐らくはその本人もよく分かっていないから。
幸せを、幸せだときちんと感じ取ってもらうこと。まずはそこから、始めなければいけないのだろう。そんな気がして、ブルーはジョミーに手を伸ばした。なぜ、手を伸ばしたのかは分からない。触れたかったのかも知れない。指先を、眠る頬に押し当てて。ブルーは思わず、全身を震えさせた。涙の跡があった。泣いたのだ、ジョミーは。どうして、と思う。心配で心が荒れそうになる。けれど、すぐにブルーは微笑んだ。
喜びの欠片が、まだすこしだけ残っていた。嬉しくて涙を流したのだと、すぐに読み取ることができて。なんて便利な体質になったのかと、苦笑まじりにブルーは思う。そうして読み取れることなど、感情がよっぽど強く焼きつく相手にしか出来ないと分かっていて。それでも、分かりたい相手などジョミーしかいなかったから。なにが嬉しかったのだろう、とブルーは考える。さすがに、そこまで答えは落ちていなかった。
もしも。喜びを与えたのがブルーなら、それはなんて嬉しいことだろう。呼吸さえ忘れてしまう幸福。そうだったらいい、と笑って、ブルーはジョミーの頬を撫でた。ざらり、と指先が乾いた涙の跡を辿る。それに、導かれるように。吸い寄せられるように、身を屈めて。ごく厳かに、ブルーはジョミーの頬に口付けた。両頬に、かすめさせ、触れ合わせるだけの口付けを何度も送って。幸福に眩暈を感じて。
そっと、唇を重ねた。
「……ブ、ルー?」
離れるより、早く。触れ合ったままで唇が動いて、名前が呼ばれた。ブルーは勢い良く体を起こして大きく息を吸い込み、ぼんやりと瞬きをするジョミーを見つめた。意識が急激に、引き締まっていく。体温が下がった感覚さえある。なにを。今。いま、なにを、したのだろう。
「ブルー……?」
呆然と。名を呼んで来る、目の前の美しい人を見つめる。その唇を。重ね合わせたぬくもりを。口付けを。キスを、した。ジョミーに。眠っていた恋しい人に。盗むように、キスをした。