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 8 ひとつの言葉

 蒼氷色の矢が、黒の中を駆けて行く。鋭く、研ぎ澄まされた光。しかしそれは、闇の中に漂う的を貫くより早く霧散してしまう。光の粒子が悲鳴をあげるように広がり、完全に消えてしまうまでを見守って、ブルーは疲労が濃い息を吐き出した。上手く行かない。弱音を吐きそうになる口を閉ざし、唇を噛み締めて、ブルーはまぶたを閉じた。目で受ける情報を遮断して、意識の集中を測ったのだ。
 そうして深く、深く意識の海へともぐっていく。呼吸を忘れるほど深く、意識を保つのさえ難しくなるほどに、深く。限界まで研ぎ澄ませた意識で、ブルーは辺りの闇を切りさくように腕を上げた。手のひらの上に一条の槍を浮かび上がらせ、彼方の的へと投擲する。この世のなにをも貫いてしまうような、強大な力だった。けれど矢は大きく進路を逸れてしまい、風圧で的を揺らすことすら叶わない。
 噛み締めた奥歯が、頭蓋に響くほど嫌な音を立てて軋む。手袋越しにも、爪が手のひらに食い込んで痛いほど握り締めれば、突如として周囲の闇が晴れた。
「終わり」
 慈悲もなにもない声が、訓練の終了を告げる。舌打ちさえする余裕もなく、ブルーはふわりと宙から床へと降り立った。靴先が床にこすれ、耳障りな音を立てる。柔らかに降り立つことさえ、出来なくなっているのだ。言葉もなく体を固くするブルーに、隣のコントロールルームから、訓練の全てを見守っていたシロエの視線が突き刺さる。壁越しに一方的な見つめ合いを行って、シロエは隣室へと続く扉を開けた。
 扉が開くちいさな音に、ブルーは怯えたように身を震わせた。けれど視線は一度も、シロエの方を向かない。無目的に落とされた視線は、己の影と白い床だけを見つめていた。カツカツ、とわざと音を立てながらシロエが近づいてくる。ブルーの視界の端で、シロエの靴がそろえられて止まった。そのまま沈黙が広がり、どちらも口を開こうとはしなかった。永遠のような静寂が過ぎて、シロエのため息が響き渡る。
「長老たちは、君の体調が悪いんじゃないか、って言ってるよ」
 ブルーはなにも答えない。頑なに視線を逸らしたままで、口を閉ざしている。それは、じっと嵐が過ぎ去るのを待っている小鳥のようだった。傷ついているようにも見えた。血が流れているようにも、見えた。その傷口を凝視するような容赦のなさで、シロエは言葉を続けていく。
「けど、そうじゃないよね。ドクターも否定していた。長老たちも言ってみただけで、本当はそんなことじゃないなんて、分かりきってる。理由を探そうとしてくれてるんだよ。優しい人たちだよね。ぼくはそんな甘やかしは馬鹿のすることだと思うから、絶対にしてやらないけど」
 今日も、訓練を休ませようとする長老たちの制止を振り切って、シロエはブルーの腕をつかみ、訓練室へと叩き込んだのだ。結果は惨敗で、ブルーの放つ力は的を貫く所か、結局ひとつとしてかすることさえなかった。そんな不調が、体調のせいであるわけがない。向ける視線を研ぎ澄ませて、シロエはブルーが隠そうとしているものを許さず、三日前、と言った。ブルーの肩は正直に、感電でもしたように震えた。
 視線は上がらない。悲鳴も、上がらない。反応は、ただそれだけだった。シロエとブルーの視線は、真正面から出会うことがない。三日前から、ずっとだった。三日前、ブルーの不調が始まってからずっと、ブルーはシロエと視線を合わせない。そうしてしまえば、終わりなのだとでも言うように。そして誰にも、ブルーの思念が読めなくなっていた。心が閉ざされたわけではない。強固な壁を、超えられないだけだ。
 それでも、分ることがある。
「三日前」
「シロエ」
 なにがあったの、と問うより先に、言葉をさえぎる呼びかけが響いた。ペールトーンのスカーレットの瞳が、シロエの視線を真正面から受け止める。こんなに薄い、ただ優しいだけの色だっただろうか、と思いながらも、シロエは言葉をさえぎられた失礼さに眉を寄せる。そしてなにより、三日ぶりに見たブルーの瞳の色が、記憶と一致しないことについて不機嫌になった。なんて弱い色だろう。抉り出してしまいたい。
 シロエが知っているブルーの色は、もっと鮮やかで、もっと綺麗で、もっと強い。こうと決めたら譲らないガンコな意思に満ちていて、それでいてしなやかに優しく輝いている。本当はぞっとするほど鮮烈な朝焼け、あるいは夕暮れの空の色なのに。宝石のような、色なのに。それとはかけ離れた淡い紅玉を、睨みつける。これは、なんだ。こんなものは知らない。こんなものは認めない。だからいっそ、無ければいい。
 許せなくて、だから許さなくて。止めて欲しいと求められていることなど理解していて、シロエは言葉で、ブルーに切りかかった。
「三日前。公園でなにがあったの?」
 悲鳴をかみ殺して息が飲まれる声を、シロエの耳は確かに聞き届けた。ブルーに驚きを与えたことに喜びを覚えるよりも、シロエは衝撃を受けられたことに苛立つ。なんだってそんなに驚くというのか。隠せていたと思われているのなら、それはシロエの能力に対する手酷い侮辱だった。三日前の昼過ぎ。ほんの一瞬の出来事だった。船中に慙愧(ざんき)の叫びが広がり、そして次の瞬間に閉ざされたのだ。
 一回のまばたきより、もっと短い間だけの叫びだから、それがブルーのものだと分った者さえ、ほとんど存在しないだろう。発生源が公園であることなど、分ったものは一握りだ。片手でも足りてしまう。ふざけるな、と苛立ちのままに言葉を叩きつけようとする意識を、深呼吸で穏やかにさせて。シロエはゆっくりと、言葉を紡いだ。
「言っとくけど、他の人たちはそこまで分ってないよ。何人かは気がついてるけど、あの叫びがあんまりだったからなにも言わないだけ。あれが原因で君が不調になってるって、分ってるけど、時間があれば調子が上向くだろうと思ってるだけ。甘いよね。ぼくは、そうは思わない。だから聞くよ? ブルー。三日前。君は、公園で、なにをしていたの?」
 ブルーはゆっくりと息を吸い、言葉を喉の奥に封じ込めて、ちいさくちいさく首を振った。言いたくない、との仕草だろう。思念でさえ伝えられない意思は、触れたら壊れる精緻な細工物のようだ。シロエは優しくしてやることを諦めて、優しげな笑みを貼り付けた。
「リオも気にしてたよ。ブルーが、お茶の時間にも顔を出さなくなったのですけれど、ってね」
「それは」
 言い訳の言葉が続く筈だったのだろうが、シロエは告げさせなかった。
「リオは、ジョミーに近いもんね」
 笑いながら。トン、と肩を押して崖の下に突き飛ばすような気安さで。全てを凍りつかせてみせたシロエに、ブルーは言葉もなかった。その反応を見ながら、シロエはやはり、と予想を確信の域にまで高めた。ブルーの表情がどうこう、ではない。ブルーがそういう顔つきになってしまっているのに、船全体を包み込んでいるジョミーの気配に、思ったような反応がない事がおかしいのだ。あくまで、無反応ではない。
 ええと、ええと、と困りながら柱の影からそぅっと顔を出して、ブルーに見つからないように、シロエに視線だけで止めてあげて、お願いだから止めてあげて、と頼み込んでくるような気配はしている。この過保護、と言ってジョミーの頭をぶん殴りたくなるのは、きっとシロエだけではない筈だ。はいはい良いコだから寝てましょうねー、と無理矢理ベットに押さえつけるリオの気配が揺れて、ジョミーも静かになる。
 リオには決して、本当の意味で逆らうまい、とシロエは決意を深くした。そして意識を目の前に戻して、不安げに視線を揺らすブルーに、さあなにがあったか話してしまえ、と言葉を告げかけたのだが。唇が動き、言葉が放たれるよりも早く。ブルーがぽつりと、問いかけて来た。
「シロエは、好きな人いる?」
「……あぁ?」
 思わず恫喝するような声が出てしまったのは、全くの無意識だったが誰もシロエを責めないだろう。それくらい、あまりに論点が違いすぎたのだから。なにそれ、と目を細めて睨みつけるシロエを、困った風に見返して。軽く首を傾げて、ブルーは打ち捨てられた愛玩動物のように、保護してあげなくては、と思わせる声で言った。
「……いる?」
 もしかしてこの問いに答えない限り、話が先に進まないのではないだろうか、と。天啓を受けてしまったかのように、シロエは唐突に悟った。そんな悟りなど、したくもなかったのだが。八つ当たりにブルーを睨みつけても、話は進まない。答えを求める視線だけが返って来て、シロエは思わず天井を仰いだ。言いたくない。嘘をついてしまおうかとも思うが、誤魔化されてくれる相手ではないと分っている。
 気恥ずかしさと葛藤を五分かかって封じ込めて、シロエは根気よく待っていたブルーに視線を戻した。
「分らない」
 告げたのは、掛け値なしの本音だった。だからこそ否定することはなく、ブルーは不思議そうに目を瞬かせる。どうして、とその瞳が語っていた。ブルー本来の輝きを、未だ取り戻さない瞳を仕方なさそうに見返しながら、シロエはそぅっと己の内側に向かって集中する。それを言葉に直して説明するのは、とても難しくて、考えなければ出来ないことだったからだ。すこしだけ沈黙して、シロエは分らないけど、と言う。
「でも、もしかしたら、『好き』って。そういう風に名前を付けなきゃいけないのかも知れない気持ちのことだったら、ぼくの中にある。それでいいんだったら、話してあげるけど、代わりになにがあったか言うんだよ?」
「……う、ん。分った」
 返事までにあと一秒でも多く時間がかかっていたら、シロエはブルーの頭を殴っていただろう。よく耐えたぼく、としみじみ己を偉く思うシロエに、ブルーのこそりとひそめられた声が問う。ハッキリと発音してしまうのは、悪いことであるような気がして。
「それは、どういう気持ち?」
「……たとえば」
 考えながら口を開いて。シロエの表情が、なんとも言えず嫌そうなものになる。恋を語るにはあまりに相応しくない表情だった。あれ、と戸惑うブルーの視線の先で、シロエは淡々と言葉を並べていく。
「見てるだけで、ぼんやり嬉しくなったりする。それなのに、こっちを向いてくれないことで勝手に苛立ったり……いやでも、ぼくが見てるのに気がつかないあっちが悪い気がするから、ぼく悪くないよね? それで。まあ、どうしていいか分からなくなったから、睨んでみたり蹴飛ばしてみたり邪魔してみたり嫌味言ってみたりすると、喧嘩になるのと頭撫でて宥められるのが半々くらいかな」
 気持ちの説明でない上に、行動と一連の流れがやけに具体的だった。指摘しようか、しまいか悩んでいるうちに、シロエの表情が変化する。ふんわり優しく微笑んで、シロエは言った。
「はじめは、なんでそんな気持ちになるのかも分からなくて。結構ずっと、分らないままで……でも、ある日、気がついて。気がついたっていうか、分っただけなんだけど。こう、なんでもない時に、ふっと目が合って」
 それだけだったんだけど、とシロエは笑う。
「それだけ、なのに。嬉しいとか、苛立つとか、恥ずかしいとか、それより先に……泣きたくなるくらい、『好き』だと思ったら……ああ、嫌だなぁ、やっぱり『好き』なのかな。あんまり認めたくないっていうか、ちょっともうその単語以外に説明できないだけなんだけどさ」
 それは、もうごく純粋にどこまでも『好き』だということなのでは、と言いかけて、ブルーは慌てて口をつぐんだ。なにも好きこのんでシロエを怒らせたいわけではない。うん、うん、と慌てた様子で頷くブルーをわずかばかり不審な目で見て、シロエはため息まじりに続ける。
「きっとその気持ちが、恋してる『好き』なんだと思うよ。……あああ認めちゃった」
 後半は、己に対して言ったのだろう。片手を額に押し当てて絶句する姿は、どうしても認めたくなかったかららしい。言葉の形を作らないうめきを上げて嫌がって、それからシロエはまあいいや、と全発言を投げ捨てる呟きを落として、顔をあげた。
「ぼくの話は、これでおしまい。さて、次は誰の番だか分ってるよね? 分らないなんて言わせないけど」
 白状しろ、と詰め寄るシロエに、ようやくブルーは覚悟を決めたようだった。すっと背筋を伸ばして息を吸い込むと、前置きもいっさいなく、事実だけを告げる。
「キスしちゃった」
「誰と」
「ジョミー」
 気を失いたい、とシロエは思った。思うだけでしないところが、シロエの律儀さで偉いところなのだが。深く息を吸い込んで、天井の染みを十まで数えて、深く息を吐き出して、目を閉じて羊を四十二匹まで数えながら、もう一度深呼吸して。シロエはようやく、告げるべき言葉を見つけ出した。
「それで」
 ん、とブルーの首が傾く。なにを求められているのか分らなかったようだ。あー、あー、あー、あー、と無意味に言葉を発して、シロエはそれで、となんとかもう一度呟き、言葉を繋げて問いにする。
「なんで調子が悪くなるの」
「……にっ」
「に?」
 あとちょっと、あとちょっとだからここで怒らない、とシロエは己に対し、必死に言い聞かせていた。ブルーはおろおろと視線をさ迷わせながら、今にもごめんなさい、と謝りだしそうな表情で告げる。
「逃げちゃった、から」
「誰が」
「ぼくが」
 なんで、とシロエは聞かなかった。その気力がなかったのも本当だが、シロエはとりあえず、もっとも手っ取り早い方法で感情を相手に伝えたのである。深く、深くため息をついて。シロエはとりあえず、ブルーの頭を叩き倒した。そこで逃げる意味が分らなかった。痛いよシロエ、と素直に叩かれた感想を口にするブルーを、いいから黙れとばかり睨みつけて。シロエは、ゆっくり言い聞かせる口調で問いかけた。
「ジョミーが嫌がったとか、抵抗されたとか、泣かせたとか、そういう反応自体がありえないと思うんだけど? 一体全体、どうして逃げたりしたのっていうか……なんでキスしたのかと、ジョミーの反応ってどういう風だったか、教えてくれる?」
「なんで、って……よく覚えてなくて。眠ってるのが嬉しくて、そうしたかったからだと、思う。反応は、すぐ逃げちゃったから、良く分からない、けど、でも」
 でも、と何度も呟いて、ブルーは頬をぱっと薔薇色に染めた。
「すごく、嬉しそうに笑って。それから、ブルーって、呼んでくれた」
「逃げる意味が分らない」
 今度こそきっぱりと告げた言葉に、ブルーはそうなんだけど、と一応自分でも認めたあと、しょんぼりと肩を落として呟いた。
「すごく、悪いことしちゃった気がして」
 その場にいられなかったのだ、と告げるブルーに、シロエはそれ以上かける言葉を持っていなかった。ただ落ち込んで欲しくはなかったので、手を伸ばして頭を撫でてやり、それから腕を取って軽くひっぱる。散歩しよう、と誘えば、ブルーは唐突な言葉の理由も聞かずにこくりと頷いた。気晴らしの必要を、ブルーも感じていたからかも知れない。



 だんだんとブルーの足取りが重たくなって行くのは、目的地が分ってしまったからだろう。嫌だと口に出されないのを良いことに、シロエは気がつかないふりをしてどんどん歩き続ける。公園へ続き扉の前に立つとやっと、ブルーは口を開きかけ、なにごとか告げようとしたのだが。それよりはやく扉を開け放ったシロエが、つかんでいた手首を体の前に引き、ブルーを放り投げるようにして公園へ入れてしまった。
 たたらを踏んで柔らかな草を靴の下に感じ、ブルーは理由の分らない恥ずかしさに襲われた。三日前、ジョミーにキスしてしまった時も、その草に触れていたからかもしれない。立ち尽くすブルーの前に立ち、扉を背に逃げられないようにして、シロエは呆れて顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「う、うん。たぶん……大丈夫」
 ぎこちなく頷いて顔を上げ、ブルーは重たいものでも背負っているかのように深呼吸をした。肩の力が、全く抜けていない。対照的にため息をつき、シロエはぽんと音を立ててブルーの頭に手を置いた。そして、ほら、と視線で方向を示しながら教えてやる。
「遊んできたら?」
 シロエの視線をゆっくり辿ると、その先にはこどもたちの姿があった。何名かは、すでにシロエとブルーに気がついていて、手や足を止めて視線を向けている。声をかけていいものか、悩んでいるのだろう。シロエはともかく、ブルーの不調はこの三日間で船中あます所なく伝わっていて、微妙な緊張感が漂っているのだから。遊んできなよ、と言葉尻をすこし変えて、シロエはブルーの背を軽く押しやった。
「別に、一緒になって走り回れとか、本読んでやれとか、そういうことは言わないけど」
 こどもって言うのは、と。シロエはすこし苦笑して、ブルーに言い聞かせた。
「こういう時、一番大事なことを教えてくれるもんだよ。ぼくらより、ずっと物事の本質が分るいきものだから」
 眉を寄せぎみになりながらも頷いて、ブルーはちいさく足を踏み出した。こどもたちに近づいていくことが、苦痛ではないのだが、それと同じくらいにひどく、ためらいを覚える。ぎこちなく、歩くことを忘れてしまった者のように歩んでくるブルーに、こどもたちは恐々と視線を向けていた。顔を見合わせ、自分たちの輪の中に入れていいものかを悩み始める。足を止めてしまったブルーに、すっくと立ち上がる者がいた。
 カリナとユウイだった。押し寄せるなにかに対抗するように、二人はしっかり手を繋ぎ合わせている。カリナは仲間たちに目を向けていて、ユウイはじっとブルーを見つめていた。やがて、ユウイがにっこりと笑う。それに気がついたカリナもブルーに目を向け、いつも通りに笑った。
「ブルー。こっちに来ればいいのに」
 そんな所でなにしてるの、とカリナがおかしそうに笑えば、こどもたちの間にあった緊張が溶け消えた。わっと歓声を上げて立ち上がったこどもたちは、我先に、とブルーの元へと走り寄ってくる。どうしたのっ、大丈夫っ、と口々にかけられる言葉の輪から、一歩はなれた所でシロエはそれを見ていた。関わらない、という態度を貫いているシロエに、気がついているのだろう。こどもたちも、あえてそちらを向かなかった。
 騒がしくも安心する空気に包まれて、ブルーはもう立っていることができなかった。力を失ってしゃがみこんでしまったブルーを、カリナの手が撫でて行く。ぎこちなさなど全くない、慣れた仕草だった。思わずほっと息を吐くと、その手がもうひとつ増える。視線を向けると、はにかんだ笑みを返すユウイがいて、ブルーも思わず表情を和ませた。こどもたちのリーダー。この二人に、助けられてばかりだ、とブルーは思う。
 どうしたの、と透き通ったユウイの声が耳に心地良い。
「なんでそんなに、落ち込んでるの? ブルー」
 カリナも、ユウイも、こどもたちも。三日前、一緒にお昼寝をしていた誰もが、ブルーがジョミーにしてしまったキスを知らない。こどもたちは健やかに深く眠っていたし、ブルーはすぐにその場を離れ、ジョミーも駆けつけてきたリオに連行されて、部屋に戻されてしまったからだ。ちょっとした、事故に似たなにかがあったことは知っていても、その詳細は誰も知らないのである。船に乗る多くの仲間が、そうであるように。
 ブルーは息を吸い込んで、吐き出し、それから震える唇を開いた。悪いことを、と悲しげな声がもれる。
「悪いことを、しちゃったんだ。すごく、悪いこと。許してくれるかも分らないくらい」
「誰に? ジョミーに?」
 まっすぐな問いに、ブルーは頷くだけで答えた。そっか、それでジョミーが連れてかれちゃったんだ、と納得の空気が広がっていく。ブルーが悪いことをしたのに、ジョミーが連れて行かれるのに納得するのは、ちょっとおかしいのだが。こどもたちは、誰もそれに気がつかない。そもそもこどもたちはブルー本人よりずっと、ジョミーがどれだけブルーを待っていて、そして大好きで仕方がないのかを知っているのである。
 それこそ船に連れてこられた赤ん坊の頃から、聞くのに飽きて、そして暗唱できるくらいに語られていたのだから。ブルーがジョミーに悪いことをしてしまったと言っても、それはきっと、ジョミーにしてみれば悪いと思うことではないのだ、と。そのことを、こどもたちは知っている。けれど、どう説明したらいいのかを知らないから、謝ればいいのに、とそれだけを言った。ジョミーは絶対、それで許すだろう。
 許す以前の問題として、許さなければいけないことがなかったとしても。ブルーが謝ってくるなら、謝りたい気持ちがあるのなら受け入れて、いいよ、分かった、と笑ってくれるのだ。ちょっとどうしようもないくらいブルーに甘いのが、こどもたちの知るジョミーなのだから。ソルジャー・シンとして考えるならまたすこし変わってくるが、ここの所大きな戦闘もないので、ジョミーはずっと『ジョミー』のままなのだ。
 だから、絶対、大丈夫。確信さえ持って告げるこどもたちに、ブルーは知らないからこそ首を振った。
「謝っても、許してくれないかも」
 それはもうジョミーじゃない、とこどもたちの心はひとつになった。見守っていたシロエが、思いっきり笑いにふき出す。手が汚れるのも構わず、ばしばし地面を叩いて笑い転げるのに、ブルーからはすこしだけ嫌な目が向けられた。シロエ、と棘のある声で呼びかけようとした矢先、なんだか微笑ましく呆れているような声が、こどもたちの中からあがる。
「じゃあ、いっぱい謝ればいいのよ。ごめんなさいだけでダメだったら、ごめんなさいを、いっぱい」
「悪いことしちゃったら、謝る時には心から言わなくちゃいけないんだ。心からごめんなさい、って。それで、ただ謝るだけじゃなくて、本当はなにが悪いのか、分ってなきゃいけないんだ。分らないままで、悪いことしちゃったからっていう気持ちだけで謝っても、許してくれないんだ」
「目を、ちゃんと見てね。相手に聞こえるように、大きい声で。早口じゃなくて、ゆっくりめがいいの。それで、謝る時は、甘えたらいけないの。謝ったから許してくれるよね、とか、思ったらいけないの。許して欲しいって、それだけで、謝らなきゃいけないの」
 大人が、こどもたちに教えたことを、一つずつ、一つずつ。自分がそうした時のことを思い出しながら、ブルーに教えていく。
「怖くても、勇気出してごめんなさいするんだよ。そしたらね、ジョミーはぎゅーって抱きしめてくれるよ。それで、怖いの我慢してよく謝れたねって褒めてくれるんだよ」
「だから、ブルー。大丈夫だよ。ジョミー、許してくれるよ」
「でもね、一番大事なことがあるの」
 それだけは絶対やったらいけないこと、と。カリナは、笑いながらブルーを見上げる。
「悪くないのに、許して欲しくて、ごめんなさいって言うのが一番いけないことよ」
「ジョミーは、それでもブルーが謝るなら許しちゃうんだろうけど。悪くないなら、謝らないで。ジョミーに謝らないで、ブルー。それは、ジョミーにとって酷いことだよ。ジョミーはそう思わなくても、ぼくらはそう思う。だから……考えて、ブルー。それは本当に悪いこと? それは、本当に謝らなきゃいけないことなの? もし間違えてるなら、謝ったブルーのこと、許さないから」
 ひたひたと、星のない夜に、足元に忍び寄ってくる水のように。薄ら寒い恐怖をブルーに与えて、静かにユウイは言い切った。ちょっとユウイ、とたしなめながらも、カリナはそれに反対しない。口にしないだけで、気持ちは同じなのだろう。戸惑うブルーに、笑いをおさめたシロエから声がかかる。
「まあ、謝るべき所をきっちりと押さえて謝って、その他の事では謝るなってこと。分った?」
 考えて、それから分った、と頷こうとしたブルーの仕草より先に、カリナとユウイが顔を見合わせた。
「でも、シロエはもうすこし、いろんな人にいろんなことを謝った方がいいと思うわ? ねえ、ユウイ」
「そうだよね、カリナ。シロエはもうすこし、謝った方がいい」
「君たちいつもぼくに対して一言多いんだよ」
 口元を引きつらせながら言うシロエに、二人は双子のような仕草でそんなことはない、と首を振った。先程とは逆に、ブルーが笑いにふき出した。そのまま、肩を震わせて笑い続けるのを睨んで、シロエはいいけどさ、と頬を膨らませる。
「笑う余裕が出てきたってことだし? ぼくは別に、全然、全く、これっぽっちも、気にならない、けど、ねっ」
「素直になればいいのに」
 くすくすと笑いながら言うカリナに手を伸ばして、シロエは少女をひょいと抱き上げてしまった。慌ててカリナを奪い返そうとするユウイもサイオンで浮かせて、シロエは至近距離で二人を睨みつける。悪いことしたらなんて言うんだっけ、と問いかけると、二人はにっこり笑って首を傾げた。しーらない、と嘘ぶかれるのに眉間のしわを深くして、シロエはユウイにでこピンでもしようと、手を伸ばしかけたのだが。
 その瞬間、大きく船が揺れ動いた。爆発音が幾重にも重なり、空気が重たく体を圧迫する。とっさに二人を抱きしめて安定させ、シロエは厳しい視線を彼方へと向ける。悲鳴さえ忘れたこどもたちは唖然と口を開くばかりで、なにが起きたか理解もできない。嫌な予感に全身を貫かれたブルーが、なにが、と呟きを発するのと同じくして、警報音が鳴る。そして異変を示すランプが、黄色に点灯してぐるぐると回った。
『敵襲っ!』
 ブリッジからの館内放送と、ハーレイの思念波が重なって船中へ響く。こどもたちの半分が悲鳴をあげてパニックになり、さらに半分はガタガタと震えて涙を流した。腕が広がる限り伸ばして、こどもたちを抱きしめて、ブルーは大丈夫だよ、と何度もささやく。なんの根拠もなくても、そう言ってあげなければいけない気がした。シロエは舌打ちして、カリナとユウイを降ろした。そして、二人の頭をぽんぽん、と撫でる。
「ユウイ、カリナ。ぼくは一緒にいられない。ブルーも行かなきゃならない。だから、頼めるね?」
「うん。避難所まで移動して、終るまで良い子にしてる」
 カリナの手をぎゅっと握って、シロエに頷いたのはユウイだった。安心したように微笑みかけて、シロエはユウイを軽く抱き寄せる。
「良い子だね。頑張れ。大丈夫。ユウイが頑張れるコだってこと、ぼくはちゃんと知ってるからね」
「わ、私だって、できるっ」
 恐怖にか、他の感情が高ぶっているのか。ひどく上ずった、普段では聞けないような歳相応の幼い声で、カリナが噛み付くようにシロエに言った。うんうん、と苦笑しながらシロエはカリナもそっと抱き寄せ、背中を撫でて囁きを落とす。
「そうだよね。カリナもできる。カリナ、強いもんね。大丈夫だ。ありがと、安心して行ける……さあ、ブルー」
 カリナとユウイの肩に手を置いて立ち上がりながら、シロエは強い視線をブルーへと向けた。ブルーもこどもたちから離れて立ち上がり、シロエを見てこくりと頷く。なにをすればいいのかは分らない。けれどソルジャー候補生として。しなければいけないことは、たくさんあるのだ。分らなければ、聞けば良い。どうすればいい、と問う声が揺れてなどいなかったことに満足そうに笑いながら、シロエはうん、と頷いた。
「ブルーは急いでブリッジへ向かって。ハーレイは絶対そこに居るし、シドも今日は勤務日だから仕事してる。ジョミーも状況を知る為に移動してるだろうから、リオも傍にいると思うよ。その誰かが、君がすべきことを教えてくれるはずだ。言うまでもないと思うけど、開口一番謝るとか、そんな時間が無駄なことはしないで。全部終ってから、ゆっくり考えてなすべきことと、今やるべきことを間違えちゃいけない」
「分った。ブリッジに行く……シロエは?」
 一緒じゃないの、と不安がるブルーの鼻をつまんでねじりながら、シロエは当たり前っ、と胸を張った。
「敵が来たなら攻撃しないでどうしろっていうのさ。ぼくが行くのは攻撃セクション。じゃ、ね。ジョミーによろしく」
 トンっと大地を蹴り上げて一瞬だけ浮遊し、シロエは姿をかき消してしまった。きっともう、攻撃セクションで部下を怒鳴りつけているのだろう。とにかく全部打ち落とすっ、と意気込む声が聞こえたような気がして、ブルーはすこし笑いながら公園の出口へ向かう。その背に、カリナの叫びが向けられた。
「ブルーっ」
 扉に手をそえた姿で振り返ったブルーに、カリナとユウイのひたむきな目が向けられていた。なに、と唇の動きだけで問うブルーに、二人はそれぞれ真剣な顔でお願いね、と言う。
「ジョミーを、今は、お願いねブルーっ」
 もちろんだよ、分ってる、と。そんな意味をこめた微笑みで頷いて、ブルーは振り返らずにブリッジへと走り出した。転移しようとも思ったのだが、意識がぶれてしまって集中できず、浮遊さえ行えない。戦闘の気配に乱されてしまっているのか、それともここの所の不調が尾を引いてしまっているのかは分らない。上手く行かないサイオン・コントロールに苛立ちながら、ブルーは息を弾ませてブリッジへと駆け込む。
 ブリッジ全体を見渡せる高台に立つ何人かのうち、真っ先に振り返る者があった。それはもう、どうしようもなく嬉しそうに。木漏れ日のような髪がゆれ、新緑の瞳が輝きを増す。
「ブルー!」
 来てくれたことではなく、会えたことでもなく。きっと、ただブルーがそこにいると、それだけで嬉しくてたまらないのだろう。嬉しい、嬉しい、とそれだけを伝えてくる満面の笑みに、ブルーは息を整えながら微笑み返した。その姿を見た瞬間にも、振り返ってくれた仕草にも、輝く髪や瞳にも。名を呼ぶ声や、嬉しさでどうしようもない気配を受けて、ブルーの心がひとつの言葉を囁いている。『好き』と、心が告げていた。
「ジョミー」
 だからもう言葉は、ほとんど無意識で。ブルーにはそう言おうとして告げた自覚など、まるでなかった。
「あなたが好きです」
「うん。ぼくも大好きだよ、ブルー。愛しいぼくの銀月」
「……いいですかソルジャー・シン。そしてソルジャー候補生、ブルー」
 だんっと両手で強く机を叩き、ハーレイはふるふると震えながら絶叫した。
「時と場所をわきまえなさいっ!」
 いいからこの場を乗り切ってからにしろっ、と敬語を諦めたハーレイの思念波が、緊迫したシャングリラの空気を、ごく普段通りに震わせて。忍び笑いを響かせるリオが、きょとんとしているジョミーの肩に額を押し付ける。高台の下では、シドがコントローラーに突っ伏して爆笑していた。それで、ようやく自分がなにを言ったのか自覚したブルーは、もう真っ赤になって硬直してしまったのだが。ジョミーが、柔らかく笑う。
「こっちおいでよ、ブルー。一緒に作戦会議、しよう?」
 ひらひらひら、と空を泳いでいく蝶のようにふられる手に導かれて、ブルーはおずおずと、作戦が立てられている真っ最中の机へと歩み寄っていく。やっと手の届く距離に来たブルーをぎゅぅっと抱きしめて、ジョミーは幸福でいっぱいのため息をついた。もちろん、もの言いたげなハーレイの視線は完全に無視だ。はいはい、対策立てましょうね、と慣れたリオの声が響く。そうだよ、とジョミーはブルーの耳元で笑った。
「大丈夫。ぼく、今ならどんなことでも出来る気がするから」
「……どんな無茶でもしちゃえそうな気がするから、の間違いでしょうがそれは」
 胃が痛い、と呟いて、ハーレイはキャプテンとしての表情を作り直した。そして、ブリッジからリアルタイムで送られてくる情報や、船内の被害状況、避難状況などを照らし合わせて、まずどんな衝撃が船を襲ったのかを割り出そうとする。けれど、情報が思うように集まらない。あまりに突然の攻撃で、情報収集を行う者たちの精神が混乱しており、送られてくるのはここが壊れた、あそこが壊れた、ということだけだ。
 被害状況を求めているのではない、とハーレイが怒鳴りつけようとしたのを察したのだろう。腕の中にブルーを閉じ込めたまま、ジョミーが静かに顔を上げ、キャプテンを制した。ぞく、とブルーの全身を悪寒に似たなにかが駆け抜ける。はっとして顔をあげれば、そこに居たのはジョミーではなかった。まるで別人のような、静かで、それでいて烈しい表情だった。見たことがなければ、呼ぶ名にさえ困ったことだろう。
 けれど、ブルーは知っていた。そしてブルーよりもっと、船の仲間たちはそれを知っているのだ。ざわめいていた空気が静まり、なにか神聖なものを見つめたような、崇拝の気持ちさえ入り混じった気配で、船が満ちていく。ソルジャー、と誰かが呼んだ。思念で、そして声で。ソルジャー、とジョミーは呼びかけられる。それに、研ぎ澄まされた刃のような横顔を見せて微笑んで、ソルジャー・シンは口を開く。
「大丈夫だ、仲間たち。安心して。ぼくが居る」
 落ち着いて、と告げる前に、船の全てが常の己を取り戻していた。ハーレイの前に出されてくる情報の量と質、速さが激変する。最初からそうしていてくださいよ、とげっそりした様子で目を向けてくるハーレイに、ソルジャー・シンはにこりと笑って。原因の特定を、と命令した。

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