全ての状況が把握できたのは、それから五分ほど経過してからだった。その五分は永遠のように長く、ブリッジの者たちの神経を振り減らせて行ったのだが。腕の中にブルーを抱くジョミーと、その様子を微笑ましくリオにだけは違ったらしい。にこにこと、二人ともいたく上機嫌な笑みを浮かべて、ほんわりと和んだ空気を漂わせている。ジョミーも、すっかり『ジョミー』に戻ってしまっていて、緊迫感がなかった。
サイオンが上手くコントロールできないことと、無理に使用すれば二人にバレてしまう為、ブルーは視線だけでハーレイに問いかける。二人に緊張感が見られないようなのですけれど、コレで良いのでしょうか、と。コレはいつものことなのしょうか、と訪ねなかっただけ、ブルーは二人の日常をしっかり見ていて、そして慣れていた。ハーレイは集まってくるデータに意識を向けつつも、達観した笑みを貼り付けて頷く。
良い悪いの問題ではなく、もうハーレイにはどうしようもないことが窺い知れたが、ブルーはあえてなにも告げずに頷いた。下手な慰めは逆効果であり、そっと気がつかなかったふりで放置するのが、この場合の優しさだ。一部だけ妙に和んでいるブリッジの空気が、不意に揺らめく。トン、と足音が響くのと同時に、空中から飛び降りてきたような姿で転移してきたシロエは、まず深々と息を吐き出した。
「まあ、毎度毎度のことだから、あの二人に緊張感がないのについては諦めてますけど……ブルー」
ぎろりと視線を向けられて、ブルーはジョミーの腕の中で一歩下がる。怒られる理由に、心当たりがなかったからだ。ぎゅぅ、とブルーを庇って腕の力を強めてくるジョミーを、シロエは忌々しそうに見つめて、もう一度息を吐く。甘やかさないっ、とぴしりと手で振り払うような思念が響き、それでも足りず、シロエは口を開いた。
「あのね、ブルー。告白は、時と場所を選べって誰かに教わらなかったの?」
「あのね、シロエ。それさっきハーレイが言ってた」
「同じことを繰り返して言い聞かせてはいけないという規則が存在していない以上、あなたは大人しく黙っていてくださいソルジャー・シン。ぼくは今ブルーに注意したのであって、あなたに文句言ったわけではないのだから。まあ、ぼくは誰かさんと違って状況をわきまえていますし、これ以上、この場で無駄口叩くつもりもありませんけどね? 本題に入ります」
船が一番初めに揺れてから、そこでちょうど五分だった。混乱していた時間があったにしても、あまりに遅いといえるだろう。五分。されど五分である。全くあなたたちと来たら、ぼくがいないとなにも出来ないっ、とぷりぷり怒りながらも嬉しそうなシロエは、ブリッジのシドに目配せして一枚のディスクを投げ渡す。モニターに出せ、ということだろう。二秒とかからずモニターが切り替わり、船の全体図が現れた。
破損など被害があった箇所は赤、システムに異常が発生している所は黄色、無事な区画は白で塗り分けられていて、見ただけで船がどうなっているかが分る。被害は船の後方に集中していた。上部の損害が特に激しく、下部に行くにつれ集束している。これを見て分るとおり、とシロエは声をはりあげているわけでもないのに、不思議に聞きやすい声で言った。
「攻撃は上空から行われたものと断定できる。成層圏からの精密射撃だよ。恐れ入ったね。まさか、そんな上空から狙ってくるとは思わなかった……けど、そんな攻撃力の高い武器が開発されてたなら、それなりの動きもあったはずだよね。それを掴めなかったのは調査部隊のミスで、この所のボケムードの弊害としか言いようがない。で、着弾の瞬間まで気がつかなかったのも、そうだよね」
平和ボケ甚だしい、と憤る声は、己にこそ向けられているようだった。皮膚を傷めるほど握り締められた手が、悔しさを物語っている。シロエ、と叱りつけるような響きで、シドの声が響く。今はそんなことしてる場合じゃないだろう、と厳しく突き放す声に、かえって元気をもらったように顔を上げ、シロエはぷっと幼い仕草で頬を膨らませた。分ってるよばかっ、と子犬の叫びがブリッジを揺らす。
タンタンっ、と靴の先で床を鳴らし、シロエは気を取り直した表情で深呼吸をした。
「ともかく。相手側の兵器があるのは成層圏、の、どこか。さすがに厚さ五十キロメートルのどの辺りに浮いてるのか、まではまだ特定できてない。防御セクションが、今めいっぱい警戒しつつ調査中。三十分以内には誤差ゼロで特定できると思うよ。……で、一番の問題。船がどうして発見されて、しかも着弾を許すまで位置が特定されちゃったか、なんだけど」
そこでいったん言葉を切って、シロエは目隠しをされた状態で、手のひらに足がわさわさ動くムカデを乗せられてしまったような顔つきになった。その表情があまりに嫌悪いっぱいで、誰もどういうことなのか、シロエに説明を求められない。気遣いの視線さえ向けられて、シロエは大きくため息をつき、頭をふった。
「ぼく、いつも思うんだけど」
人生が嫌になりました、と彼方を見つめながら言い出しそうな表情で、シロエはゆるりと微笑んだ。
「苦虫を実際に噛み潰した人って、目の前に居たら普通に引くよね」
「し、シロエ?」
「だって今そういう思念が聞こえたから。苦虫噛み潰したような顔しちゃってまあ、って」
だって虫だよ虫、口に入れてしかも噛むとかありえない、とひとしきり嫌がって、シロエはようやく本題に戻る気力を手にしたのだろう。隠し持っていたもう一枚のディスクを取り出すと、先程と同じようにシドに向かって投げつける。投げ渡す、というよりは、投げつける、と言うのが相応しい鋭い仕草だった。シドが難なく受け取った瞬間、シロエは悔しげに舌打ちをもらしたので正解なのだろう。当たれ、と呟きがもれる。
ディスクが機械に挿入され、スクリーンにデータが投影される短い間。シロエの挙動に、呆れを通り越して感心した様子のジョミーが、しみじみと口を開く。
「シロエって、本当に……いつでもシドに対して手を抜かないよね」
「お褒めの言葉をありがとうございます。ソルジャー・シン」
「うわーっ。シロエ、かっわいくなーいっ」
言葉とは裏腹に、思いっきり楽しんでいるとしか思えないジョミーの笑い声だった。シロエはさらになにか言いかけ、ため息をつきながら首を振って口をつぐむ。シドに対しての言動はともかく、相手がジョミーだと、もうどちらが年上なのか分らない。はいはい、じゃれない遊ばない、と笑み一色のリオの思念が穏やかに二人を注意していると、スクリーンにデータが映し出される。意味も分からず、誰もが息を飲んだ。
一枚目と同じく、主なのは船の全体図だった。大きく違うのは、船の周りをちいさな赤い光点が埋め尽くしている、という所だろうか。一見、無秩序に赤で塗りつぶしたようにしか思えないほど、隙間なく光点があった。シロエ、と上ずった声でハーレイが攻撃セクションの責任者を呼ぶ。これは、なんだ、と。シロエは、触れれば切れるような冷徹な横顔を晒しながら、ぼそっと呟いた。原因ですよ、と。
「この光点一つにつき、サイオン反応をサーチする機械一台分です。こんなに数があるのは、一台が持つサーチ範囲がごく狭いので数がないと船の全体像が掴めなかったから、と……どうも接触式の地雷になってるみたいで。全部破壊しない限り船が動かせませんが、一つ破壊するごとにすさまじい爆発が起こって、船に影響が及ぶ可能性があるのでうかつに手出しはできないし、連鎖爆発の可能性が高くて」
つまり、一つ破壊するごとにその周囲を完璧にサイオンで密閉しなければ、船が丸ごと吹き飛ぶ危険性があるということだ。船全体に満ちる意識が、ぐらりと眩暈を起こした。ミュウたちの戦意がくじかれたのみならず、なにも考えられなくなったのだろう。やられたよね、と掠れた声でシロエは言った。その顔色は、ひどく悪い。
「これ、一朝一夕で出来る準備じゃない。たぶん、ずっと用意してたに違いないんだ」
「シロエ」
ジョミーの、声は。シロエの弱音を怒るものではなく、果てなく優しいものだった。まるで状況にそぐわない声に、シロエはぴたりと口を閉ざしてジョミーを見る。ジョミーは視線に笑みを返して、それからすっと息を吸い込んだ。それだけで、ジョミーが身にまとう空気が入れ替わる。柔らかいものは変わらない。優しい空気に変化はない。張りつめただけの硬質さなど、どこにもなかった。けれど、安心できる。頼れる。
うすく微笑みを浮かべて、ジョミーから『ソルジャー』になる。いつか、ブルーもそうなるのだろうか。その変化ができるようになるのだろうか。あるいは、ずっとソルジャーとして生きていくことになるのだろうか。ジョミーのようなあり方は、今のブルーには遠すぎて。現実感がなく、憧れを抱くこともできなかった。ぼぅっとするブルーの頭を軽く撫でて体を離し、ジョミーはブリッジ全体に視線を走らせ、にっこりと笑った。
「一応、聞くけど。長距離転移出来る者が、それが出来ない者を抱えて、船を離れて安全な所に避難したとして。全員が船を離れるのに、どれくらい時間がかかる?」
「ソルジャーっ、なにをっ?」
「ぼくは別に、船を捨てて逃げろと言った訳ではないよキャプテン。それが実現可能だとすれば、時間がどれくらいかかるかって聞いただけ。リオ、シド。どっちでもいいや。今言ったコトをすぐに行うとして、作業完了までかかる時間はどれくらい?」
反論は聞くけど、答え以外は聞き入れないよ、とにっこり笑って。ジョミーはリオとシドに視線を向け、ちいさく首を傾げてみせた。ぼく、そういう計算問題がとにかく苦手なんだよねぇ、と息を吐くジョミーの隣で、ちょっとっ、とシロエが怒りの声をあげた。
「計算問題ならぼくに聞くべきでしょうっ?」
怒りのありかはそこなんだ、と誰もが思った。うん、じゃあシロエもお願い、とジョミーは苦笑しながら頼み込む。最初から素直にそういえばいいんですよ、と満足げに頷き、シロエは先に名前を出された二名より早く、大体ですけれど、と断りをいれた上で答えをはじき出した。
「そこまでの長距離転移が、繰り返し可能な者が極端に少ないので。休みを間に挟んで、相当無理させて、全行程完了まで十二時間四十分。途中、一度も問題が発生せず、誰も船から降りることに抵抗せず、その間は攻撃が停止していることが前提ですけれど」
「現実的な提案じゃない、ってことだね。不可能ではないけど、これはもう可能とも言えない」
それじゃあ仕方がない、とソルジャーは柔らかく、柔らかく微笑んで言い放った。
「どうにかしよう」
とてつもなくあやふやで、とてつもなく頼りない筈なのに。それでも、涙が出てしまうくらい安心できる言葉だと思えたのは、どうしてなのだろうか。微笑みながら身をひるがえして、ジョミーはブリッジが見渡せる位置から、リオを傍らに置く定位置へと戻った。そして呆れ顔のハーレイ、脱力気味のシロエ、微笑を浮かべるリオに視線をめぐらせ、最後にブルーを見て笑う。
「よく見ておいてね、ブルー。次からは、ブルーが指示とか指揮とか、するかも知れないんだから」
『え』
声をあげたのはブルー本人ではなく、ジョミーの右手の方向に立っていたリオだった。慌てた呟きに、ジョミーはきょと、と目を向ける。
「え。だってブルー、ぼくの後継者だから、その可能性もあるでしょう?」
『ああ、なんだ……そういう、意味ですか。よかった。それなら、いいんです』
中断させてしまってすみません、と控え目に笑むリオの表情をじっと見つめて、ジョミーはなにかを言おうと口を開きかけた。しかしソルジャーとして、今はその話題を出すべきではないと思ったのだろう。うん、と聞き分けよく頷いて視線を背から前へ戻すと、すこし口調を改めて問いかけていく。
「シロエ。サイオンサーチ機能つきの浮遊地雷のことだけど。一つを安全破壊するのに、かかる時間はどれくらい? 速さは求めなくて良い。求めるのは、安全性と確実性。船が攻撃を受けことを計算に入れないで、破壊だけを念頭において考えて」
安全に破壊、というのも言いえて妙だが、そう表現するしかなかったのだろう。茶化すことなく真剣な表情で黙り込み、シロエは完全に爆発の影響が及ばないようにシールドで覆いつくして、とぶつぶつ呟き始める。やがて、ぱちんとまばたきをして、視線をあげた。
「……一つにつき、三分。それ以上は短くならない。でも、それ以上はかからない」
「分った。では今すぐ、除去に向けて行動を開始するように。焦らないで。時間がかかっても、船に被害が出ないことが大切だ。ハーレイはシロエと連絡を取り合って、もし被害最小限で脱出できるようになったら、その瞬間に船を発進させること。でも、あくまで緊急脱出だと考えて。無理に出て行くことはない。防御セクションは優秀者揃いだから、上空からの一撃はともかく、地雷の爆発なら任せても大丈夫だ」
ね、と笑いながら首を傾げると、高揚した思念たちがいっせいに鬨の声をあげる。俺たち頑張りますソルジャーっ、と元気いっぱいの返事にジョミーは笑い、シロエは肩をすくめながら転移した。攻撃セクションへ戻り、命令を伝えて実行する為だろう。ブリッジに常駐する調査班の面々が、攻撃セクションのサポートをしようと動き始める。さわさわと心地よい緊張で揺れる空気に、ジョミーの笑みが深くなった。
「大丈夫だよ。危険なことなんて、これまで何度もあった……自信を持って。怖がらないで」
それは、夜に灯る導きの灯り。暗い道行きを、暖かく包み込んでくれる言葉。泣き出してしゃがみこんだら背を撫でて、顔をあげれば行くべき方向を指差してくれる。進んでいく勇気を、そっと手渡してくれる。ああ、この人の下で歩むというのは、なんという幸福なのだろう、とブルーは思わず微笑んだ。一緒に頑張って行ける、ということが実感できる喜び。見えるのは先を行く背でも、追いかけていくことができる。
ドンっ、とどこかで爆発音が響く。それはこもった音で鋭くは響かず、船を揺らす衝撃もない。一つ目、と安堵に緩みさえしない真剣な、シロエの思念波がひっそりと響く。強風が木の葉を舞い上げるような、一瞬の鮮烈な喜びが、船全体を包み込んだ。それに、ブルーはふと口元を笑みに緩ませたのだが。直後、強い恐怖を感じて上を向く。天井をつきぬけ、空へ。来る、と意識せずに言葉は口からもれていった。
オペレーターの、悲鳴のような報告が上がる。
「成層圏より高密度のエネルギー反応っ。着弾まで十秒切ってますっ」
「防御セクション、出力全開っ!」
即座に反応したハーレイが、落ち着きある声で命令を下す。ジョミーは平然と立っていて、軽く微笑みを浮かべてすらいた。リオも、かすかに祈るように目を伏せたものの、すぐに顔をあげる。そして不安げなブルーに、リオはクスリと笑って語りかけた。大丈夫ですよ、と。
『仲間の力を、信じなければ』
「うん。……一撃なら、耐えられる」
早口で、ごくちいさな声で付け加えられた予測を、聞き届けたのはブルーだけだっただろう。嫌な予感を覚えるのと同時に、到達したビームが船を揺らす。ガンっ、と思い切り上から踏みつけられているようで、圧迫感に息が苦しくなる。十秒が経過し、二十秒が経過した。船の大きな揺れは最初の一度だけで、その間はずっと、びりびりと細かい震えが衝撃が去らないことを伝えている。三十秒、四十秒が過ぎた。
不意に、船を襲っていた圧迫感が消え失せる。防いだ、と歓声が上がり、その余韻が消えるより早くに。オペレーターの悲鳴があがった。
「第二射、確認っ! 着弾まで十五秒っ」
「大丈夫」
予想していたのだろう。ジョミーの言葉と動きは、誰の悲鳴よりも早いものだった。軽く床を蹴って浮かび上がる姿が、残像を残して消え去る。気がついたリオが手を伸ばすより、ハーレイが思念を乱して妨害してしまうより、ブルーが駄目だと叫ぶより。ずっとずっと早く、ジョミーはシャングリラの上に立ち、上空に向かって両手を伸ばす。まっすぐに、まっすぐに。そしてジョミーは、場にそぐわない柔らかな笑みで。
『シャングリラの、全乗組員へ』
着弾まで残すところ二秒の、狭間に響いた声だった。
『愛しい仲間を守れることが、嬉しくて仕方ない。だから』
きっとジョミーは、怒らないで、と告げたのだろう。そして。それまでとは比べ物にならない衝撃が、船に走った。断続的に大きく揺れる船の、どこからも爆発音が聞こえないのは奇跡だった。全ての者が己の職務をしばし忘れ、衝撃が過ぎ去る四十秒を、ある者は泣きながら数えていく。十秒。回復したスクリーンが、船の外部を映し出す。片膝をつきながら、顔を苦しげに歪めて閃光を受け止めるジョミーが居た。
正気に返った防御セクションが船を覆う膜を回復させるも、ジョミーにかかる重圧にも、衝撃にも変化は現れない。二十秒。目を見開いて唇をかたく閉ざして、ジョミーはゆっくりと立ち上がろうとする。ぐら、と揺れる体に、見守っていた女性たちの悲鳴があがった。二十五秒。立ち上がったジョミーはすこし楽になったのか、汗を流しながらも微笑んで、モニター越しに船を振り返って大丈夫だよ、と唇の動きで告げる。
三十秒。ジョミーの生み出す光の膜が、成層圏からかけてきた刃を包み込むように大きく広がった。ふわりと体が浮き上がって、赤いマントが風に揺れる。爪先までぴんと伸びた姿は、いっそ神々しくそこに在った。三十二秒。攻撃してくる機械の位置が分らない以上、シロエたちの出番はない。だからこそ、船の周りでは再び除去作業が開始される。泣きそうな心を誰もが叱咤して。それが助けになると信じて。
三十五秒。変化は突然現れた。モニター越しのジョミーの表情が、かすかに驚いたそれになる。浮かび上がっていた右足が、台座を急に失ったかのごとくにがくりと折れた。柔らかに広がっていた光の膜も、どんどん精彩を欠いていく。ま、さ、か、と。ゆっくり、ぎこちなく、ジョミーの唇が動いた。嘘でしょう、とひたすらに祈り、願い、見守っていた盲目の占い師の声が、どんなものよりも鮮明に船中に響く。
『まさか……まさか、今、こんな時に?』
誰もが、その言葉の意味する所を知っていた。誰もが、それはいつか来てしまうのだと分っていた。他でもないミュウの女神、占い師たる女性が予言したことだったからだ。そして本人も、最近になって薄々とその兆候が出てきたと、苦笑していたからだ。長く。長く生きてきたミュウの最長老だからこそ、起こってしまう不条理。サイオン能力の消滅。その日、その時が、来てしまったのだ。今この瞬間に、ついに。
四十秒が終る。だんだんと消えていくサイオンで、それでも閃光を押し返して船を守って、ジョミーは荒い息を吐きながらくたりとしゃがみこんでしまう。血が滲むような呼吸音が、モニター越しに聞こえてきた。顔色を真っ青に変えたリオが、ジョミーに呼びかける。すぐ戻ってください、と。ジョミーはゆっくりと顔を上げ、それに、うん、と頷こうとしたのだろう。申し訳なさそうな表情は、確かに戻ると告げていたのに。
「じょ……上空に。高密度の、エネルギー反応っ」
『……うん。分った』
それなのに。絶望で泣き出しそうなオペレーターの報告に、ジョミーはふらつきながらゆっくりと立ち上がって空を見上げた。
とっさに、なにも考えずに飛び出そうとしたシロエの気配を感じたのだろう。ジョミーは厳しい顔つきになって、空を見たままばかっ、と言った。
『ばかシロエっ。今シロエが来たら、地雷の除去できなくなるじゃないかっ。一刻も早くシャングリラが脱出するために、そこを離れちゃいけないことくらい、分ってるだろっ』
『そんな正論なんか聞きたくありませんっ!』
泣き叫ぶ声だった。嫌だ、嫌だと絶叫しながら暴れているのだろう。何人かが必死に取り押さえているが、その者たちも悔しさに涙を流していた。ジョミーは空に向かって手をかざし、頼りにしてるよ、とシロエに笑う。
『シロエ。今船に居る者の中で、これは絶対シロエにしか出来ないんだ。成層圏までサイオンを飛ばして、シャングリラを狙ってる機械を壊して欲しい。攻撃は、ぼくが防ぐから。その間に、頼むよ。……シロエ、攻撃は得意でも、防御は下手だもんね。だから、役割分担』
『まだ位置が特定できてないっ。そんなこと、出来るわけがっ』
『うん。だから。リオ?』
着弾まで、残り二十秒。どんどん減っていく数字を睨みつけながら、リオは珍しく八つ当たりをしたい気分だった。なにを求められているかは、分る。痛いくらいに理解できる。けれど、時間があまりに少なく、距離が遠すぎた。ジョミー、と揺れる思念が向けられるのに、歌うような声が名を呼びかける。
『リオ。リオ、リオ、リオ、リオ、リオ。お願い、お願い、リオ。リオにしか頼めない。リオにしか出来ない。お願い、リオ。リオ、リオ、お願い。リオにしか言わない。リオだったら出来るから、リオにしか言えない。ねえ、リオ。誰だった? リオ、誰だった? 隠れたぼくを見つけてくれたのは、いつも、誰だった? どこに居ても迎えに来てくれたのは、誰だった? リオ、リオ。ねえ、リオ。リオにしか言わない。リオにしか』
『……あなたは、私にものを頼むのが上手すぎます』
まったく、もう、と苦笑して。リオは取り戻した微笑みを浮かべ、意識を深く深く、深すぎて戻れなくなる危険がある深ささえ通り越して、飛び越して、乗り越えて、置き去りにして、深く深く集中していく。研ぎ澄ませていく。望みはひとつだ。簡単すぎるくらいひとつだ。そこにリオの意思など関係ない。リオの望みなど、求められることに比べれば本当にささいなことなのだ。ジョミーが笑う。そして、名を呼んだ。
『リオ』
『はい、ジョミー。全てあなたの望む通りに』
『うん、ありがと』
そして、衝撃が来た。先の三発はお遊びで、これこそが本命だとでも笑うような、桁外れの衝撃だった。なんとか立ち上がったままの姿で防ぎながらも、ジョミーの表情に笑顔はない。苦しげで、そして受け止める膜は歪み、揺れ、だんだんと色と存在を失っていく。まばたきをした目からなにかがこぼれて、ブルーの頬を濡らした。泣いているのだと、ようやく気がつく。しゃくりあげれば、聞こえるわけもないだろうに。
苦笑したジョミーの思念波が、流れる。
『泣かないで』
繰り返し、送られる。その言葉は子守唄のように響いた。
『泣かないで、泣かないで。泣かないで、ブルー。泣かないで、泣かないで。ブルー、泣かないで』
そうだね、と苦しく、今にも消えそうなサイオンで船を守りながら、それでも救いを見出した声でジョミーは笑う。
『まだ十四歳だもんね。たったの十四、だものね、ブルーは。怖いよね。苦しいよね。ごめんね』
罪悪感で吐き出しそうになりながら、ブルーはゆっくり首を振った。謝られる意味が分らなかった。ブルーは今こんなにも、役に立っていないというのに。後継者として望まれ、そうなることを望みながらも、一時の感情の揺れの為にサイオンが安定せず、こんなにもなにも出来ないというのに。ぱた、と涙が流れる。その雫は床に落ちる前に、淡く青白い燐光に分解されて、空気へと揺れながら消えていく。
誰もそれに気がつかない。ブルーさえ、気がついていない。ぱたぱたと涙が流れ、そのたびにブルーの内側で、サイオンが安定していく。けれど。気がつかなければそれは、なんの役にも立たなくて。全てが終わりに定まってしまいそうになったその時。嘘つき、と泣き叫ぶ幼い声が、ブルーの心を正気へと戻した。
『嘘つきっ。ブルーのうそつきっ! ジョミーをお願いねって言ったのに、お願いされてくれてないじゃないっ!』
カリナの、声だった。
『今、なにも出来ないなら。なんの役にも立たないなら。ジョミーを助けられないならっ! この先一生、サイオンなんかいらないっ!』
ユウイの、声だった。
『ジョミーを助けてっ!』
力が足りないなら、全部全部あげるから。
『ブルーにしか出来ないのっ!』
よみがえる。出会ってから、これまでのこと。不思議なくらい、優しく愛おしんでくれたこと。聞くだけで嬉しくなってしまうくらい、優しい声で話しかけてくれたこと。息が止まると思うくらい、柔らかく名前を呼ばれたこと。抱きしめられたこと。恋を自覚したこと。盗むように、キスをしたこと。好きだと告げたこと。足元から、輝きが溢れていく。床に吸い込まれるように消えていった青白い光が、蛍のように立ち上る。
ブルーはゆっくり息を吸い込んで、吐き出して、なにも言わないハーレイを見た。ハーレイは頷きだけを返して、小声で囁く。
「ブルー。ソルジャー・シンを連れ戻してくれるか?」
「はい」
「なら、合図したら飛べ。私はここから動けない。リオも、シロエも、シドも、フィシスも。君だけが今、自由だ」
連れ戻してくれ、とハーレイは光の膜が消える寸前の、意識を失う寸前のジョミーを睨みつけて。強く握った手のひらから血を流しながら、言った。
「殴って怒って、ベットに縛って養生させるから」
生きて戻ることを前提とした話が、今は何より嬉しくて。泣き出しそうになりながら、はい、とブルーは頷いた。
ぐいと拳で涙をぬぐい、飛び出して生きたい衝動をねじ伏せてモニターを睨みながら、どんな合図にも即座に反応できるよう、集中を高めていく。しなければならないのは転移と、転移先での浮遊状態の安定した維持、そして同時進行で破壊兵器からの防御だ。出来るだろうか、とブルーは考える。
そしてなぜか、ブルーはゆるく微笑んだ。感情に撫でられたように、サイオンがブルーの周りで実体化していく。淡い、淡い、燐光の蛍。青白く、夜を照らし出す銀月の光に似た輝き。ぴんと張りつめた寒々しい冬の夜に、音もなく降り積もる新雪のような。大丈夫だ、とブルーは笑う。根拠などまるでなくても。タイミングを間違え、サイオン能力をきちんと制御できなければ、ジョミーと共倒れになることが分っていて。
分っていて。それでもブルーは穏やかな気持ちで、愛おしさに包まれながら時を待つ。だって、とブルーは肩を震わせて笑った。だってブルーが飛んでいくのは、ジョミーの傍なのだ。その隣にさえ行けば、もうなんだって出来る気がした。モニターに映るジョミーに、余力などもう残されていない。防御セクションの力も借りてやっと均衡を保っていた体が、糸を切られた操り人形のように、がくんと揺れた。
ジョミーの力が、完全に消滅する。悲鳴をあげて転移してしまおうとしたブルーの腕を、つかんで止めたのはリオだった。額に汗を浮かべ、顔色は血の気を失ってしまっている。リオはなにも言わずに、転移をやめたブルーの腕を離し、ほとんど倒れこむように床にしゃがみこんでしまった。そしてリオは、サイオンを使いすぎたが故の意識混濁に飲み込まれながらも、消えかけた思念波で一つの名を叫んだ。
『シロエっ! 見つけた壊せっ!』
『了解っ!』
どちらも、間に合わなければ己を殺しさえしそうな、壮絶な決意がこもった声だった。シロエの様子は分らなかったが、思念にいつもの元気が感じられない。ブリッジの空気まで、静電気が舞い始める。防御セクションが船ごと包んで守っていたジョミーの前で、ついに守りの膜が崩壊した。ブルーの靴がトン、と床を蹴り上げる。それはハーレイが息を吸い込む音と、同時に奏でられた。
『行けっ!』
シロエの絶叫とハーレイの命令が、重なり合って爆発音さえ消した。それからのことを、ブルーはよく覚えていない。無意識に体が動いていたのか、あまりに必死すぎて記憶する余裕さえ体が持たなかったのか。そのどちらであっても、結果がひとつだった。爆風と船や機械の破片から、ブルーは船の上でジョミーを抱きしめることで庇っていて。ジョミーは疲労で意識をぐらつかせながらも、ブルーに微笑みかけた。
「怪我してない? ブルー」
「……こっちの、台詞にしかならないと思います。ジョミー」
周囲はもうもうと立ち込める煙のせいで、息が苦しく、視界が確保できていない。空気だけは風の通り道を作って確保しながら、ブルーはくたりと力を失ったままのジョミーの体を、二度と離しはしないのだ、というように強く抱きしめた。ブルーよりは背も高くて大きい体をよじって笑い、ジョミーは痛いよ、と囁く。痛くしてるんだからそれは痛いでしょう、と必死に浮遊の安定を保ちながら、ブルーは問いかけた。
「一つだけお聞きしますけれど。死にたかったわけではないですよね?」
「そ、そんなこと考えても居なかったよっ? ど、どうしてなんでそんなこと聞くのっ?」
「いえ、あの状況で戻ってこないことがそうとしか思えなかったので。でも、まあ、そうでないとしたら」
おかえりなさい、とブルーは柔らかく微笑んで告げる。その言葉にジョミーは、本当に嬉しそうにうん、と頷きかけたのだが。柔らかな笑みを一点も崩さないままで、ブルーはでしたら、と言葉を続けた。
「手始めにキャプテン・ハーレイ。次にフィシス。その次に長老たち。リオさんとシロエは疲れきっているから後回しにできるとしても、カリナやユウイや、あなたはとりあえず船の中に居る仲間全員に怒られる覚悟を、今のうちにしておいてください」
「ま……守ったのに怒られるとか、理不尽だ」
「ジョミー。黙って?」
別にぼくは怒りませんけど、怒ってないわけではないんですから、と至近距離の輝く笑みに、ジョミーは首を引っ込めて体を震わせた。相当怖かったらしい。まったくもう、とジョミーの体をぎゅーっと抱きしめ、ブルーはため息と共に呟きを落とした。
「力を、失ったんですね」
「うん。だからブルーに離されたら、そのまま落ちちゃうね。……リオとの会話、ちゃんとできるかなぁ」
今のぼくって、ちょっと長寿な人間と変わらないはずだから、と思い悩むジョミーに、ブルーは三百年が『ちょっと』のジョミーの感覚に突っ込みたくなったのだが。心配するのはまずそこなんだなぁ、と感心しながら、でも、と言った。
「ジョミーとリオさんなら、目と目で会話できそうじゃないですか。筆談っていう手もあるし」
「あ。そっか。頭良いねぇ、ブルー」
筆談っていう手もあったのか、と頷くジョミーは、目と目で会話できることについては意見を述べなかった。別にそれくらいなら、今までも普通にできていたからだ。自分で言っておいて、ブルーはその反応にあまり面白くない。むーっとしながらジョミーの肩に顎を乗せると、細かい笑いに抱きしめた体が震える。視線をあげれば、至近距離でジョミーが笑っていた。
「リオに、嫉妬なんてしなくていいのに」
「……本当にサイオン能力失ったんですか?」
「ブルーのことなら、心読まなくても顔見れば分るよ」
仕方ないなぁ、とジョミーは笑って。それまでブルーに添えていただけの腕を伸ばして首にからめると、ごくゆっくりとした仕草で顔を近づけ、そのまま唇を重ねた。目を見開いて硬直するブルーから、すこしだけ唇を離して。ジョミーは、嫣然と笑う。
「馬鹿だなぁ、ブルー。逃げることなんてなかったのに。ぼくは嬉しかったし、それに、ブルーがぼくのことを好きだなんて、十四年前から知ってたよ? だからキスされた時は、ああ成長したなーブルー可愛いな嬉しいなー、と思うだけで、他にはなにもなかった。……言ったよね。ぼくは、ブルーを待ってたんだよ。ゆっくり育って、ぼくのところに来てくれるのを待ってたんだ」
それは、ありとあらゆる意味を持って。ジョミーはブルーを、待っていたのだ。『同じところ』に来てくれるまで。言葉を上手く紡げずに、真っ赤になった顔を持て余しながら、ブルーはジョミーを優しく抱きしめなおして。ごめんなさい、と言った。なにが、と笑うジョミーに、ブルーははこどもたちから受けたアドバイスをしっかりと思い出しながら、目をきちんと合わせて。ハッキリとした声で、ゆっくりと、心から言葉を告げた。
「あなたがどれだけぼくを好きでいてくれたのか、全然分ってないで」
「そんなの」
本当に、本当に嬉しそうに、ジョミーは笑った。
「全然気にしてない!」
『……まあ仲良きことは美しきこと、と申しますけれど。そこのソルジャーとソルジャー候補』
とっとと船に戻って来い、叱るから、と。ひきつった笑顔で、船の外部に機械で声を放出しながら告げたハーレイに、ジョミーとブルーは顔を見合わせて。ひとしきり笑って。それから、ブルーはジョミーをしっかりと抱きしめ、ブリッジへと転移した。