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 番外編 1 天と地に消えた

 遠く、遠く、言葉が弾けた。閃光のように強く、一瞬でそれは消えてしまった。天と地の間で。そのどちらにも辿りつけずに。暗い、暗い夜のような闇の中に。消えてしまった。消えて、しまった。



 暗闇の中でぼんやりと目を開き、シロエはしばらく現在位置について考え込んだ。汗にバサついて不快な髪が、枕と頭の間でかすかに揺れる。そしてシロエは、ああそうか、とようやく納得した呟きを発し、手探りでベットサイドの灯りをつけた。ふわっと光が室内に広がり、傍にあった闇が遠ざかる。妙な夢を見た、とシロエは思った。それは長く、とても現実感のある夢で、目覚めてもどちらが現実か分からない。
 今が、見ていた夢の続きであるような気持ちさえ覚えて、シロエはベットから起き上がる。淡い青のタオル地スリッパに足を通して扉へと歩きながら、そんなまさかね、と呟いた。シロエ以外は誰もいない部屋の中で、その声はやけに空虚に響く。普段は気にもならない夜の静寂にぞっと心を震わせて、シロエは無意識に小走りになりながら廊下に飛び出した。その腕を、扉の前に居た誰かがつかむ。
「シロエ」
 問いかけの形すら取らない呼びかけは、しかし聞きなれた声によって放たれたもので。アンタなんでこんな時間にこんな所にいて、しかもぼくが急に出てきたのに驚いてすらいないんだ、と。普段なら口に出していたことを心の中だけで唱え、シロエはぎこちなく視線をあげた。
「シド・ヨーハン。どうしたんです」
「こっちの台詞だ。そんな格好でどこへいくつもりなんだ、お前は。すこし前に倒れたんだから、夜くらいゆっくり休もうとか考えないのか。……お腹がすいたならなにかもらってきてやる。気分が悪いならドクターを呼びつけろ」
 ともかく部屋にいろ、と続けそうなシドに、シロエはきょと、と瞬きをしたあとに微笑した。
「分かった。あなた、ぼくのことが心配になって様子見に来たんでしょう」
「それのなにが悪い。お前を迎えに行ったのは俺と、ついでにジョミーだ。心配する権利なら有り余るほどある」
 実の所、シドが育英都市に潜入して連れてきたミュウは、シロエだけではないのだが。シドは、シロエばかりを気に構うのである。あなたもその台詞あきないよね、と苦笑しながら呟いて、シロエはふと『それ』に気がついた。ベットに戻る気配を見せないシロエに、シドはすこしばかり苛立った気配で手を伸ばし、肩を押して部屋の中に入れてしまおうとしたのだが。肩に触れるより早く、シドの手をシロエが掴んだ。
「シド」
 すこし、緊張している声だった。心は閉ざされていないのだが、強い感情に満ちていてシドには読み取れない。なんだ、と心配する気持ちを隠そうともせずに問いかければ、シロエはぷっと笑いに吹きだした。そして、確認しますけれど、と首を傾げる。
「ぼくが十になってすこしした頃。あなたとジョミーが、ぼくを迎えに来たんですよね? エネルゲイアに。ぼくはその日のこと、よく覚えていないけど。……確か、ですよね? シド。あなたとジョミーがぼくを迎えに来て、ママからぼくを託された。そう、ですよね?」
 たどたどしい言葉に、シドはしばらく答えなかった。はじめはまっすぐシドを見据えていた瞳も、やがて気まずげにうろつき始め、最後には床に落とされて動かなくなってしまう。シロエらしかぬ弱い態度に、シドはため息をついて腕を伸ばした。そしてシロエの体を腕の中に閉じ込めて、とっさに抵抗するのを叱り付けるように聞け、と言う。
「ざっと百年くらい前からだ。育てているこどもがミュウ因子を持つと分かった時点で、両親に通達が下され、三日間の猶予が与えられる。最後の三日間だ。その期間で両親は、それまで育てていたこどもを政府に引き渡して処分させるか、それとも生き延びさせるかを、決める」
 それはジョミーが政府に働きかけ、内部に協力者を作って必死に認めさせたことだった。百年前から、ミュウ因子があると分かったこどもたちは、即座に処分されることがなくなった。その三日間の両親の決断によっては、ミュウたちの手に引き渡されるからだ。後味悪くないしお金の節約になるし人件費減らせるよ、と。ジョミーは非常に現実的な人間たちの利点を重ねあげて、それをなんとか認めさせたのだった。
 けれど認めたのは人間だけで。人間を管理する機械が、それを認めているかは別問題なのだ。しかもそれは、口約束や暗黙の了解にしか似た効力しかなく、法案化されておらず、破っても罰則が科せられるわけでもない。けれど、それでも。半分の確立で人はそれを守ろうとし、そのさらに半分の確立で、こどもたちは無事に仲間と合流することが出来るようになった。共存には遥かに遠いにしても、第一歩だ。
 処分を決定する親はたくさんいる。その場合、ミュウたちも力ずくで仲間を奪ってくるしかなく、未だ人類との間に争いは絶えない。シロエは、確立四分の一の稀なケースだった。
「俺たちが迎えに行った時、お前は眠っていた。三時のおやつの飲み物に、お前の母親が睡眠薬を混ぜたからだ。お前は両親が大好きで、離れることを嫌がっていた。両親もお前のことが本当に大切で、だから生きて欲しいと願っていた。お前の母親は、はじめて近くに見るミュウに怯えながらも俺たちを奥の部屋に通して、眠るお前を抱き上げて俺に手渡した。それでお前の母親は、俺にお願いします、と言った」
 霞がかった記憶は、それでもシロエがぼんやりと意識をまどろませていたからなのだろう。見知らぬ腕に抱き上げられて、ひどく不安だったことを覚えている。うん、と頷くシロエの頭を撫でてやりながら、シドは言う。
「俺は頷いて、一応外を警戒してたジョミーと合流してシャングリラへ帰ろうとした。そうしたらお前の母親は急に、待って、と言って。俺を呼び止めたんだ」
 はじめて聞く展開だった。え、と驚いて顔をあげたシロエに、シドは今まで教えたことが無かったからな、と悪びれもせずに淡々と言う。



 振り向いて。そんなことを思っている場合ではないのに、シドは綺麗な母親だな、と思った。この時代、両親とこどもの間に血縁関係はない。それでも、この母親だからこんなに小奇麗なこどもなのだろうか、と思いながら、シドは横抱きにしている少年を見下ろした。まだ顔立ちから幼さの抜け切れていない、ほんのちいさなこどもだった。眠っている為に瞳は見えないが、きっと綺麗に澄んだ目の持ち主だろう。
「……なにか」
 やっぱり連れて行かないで、と別れを惜しんで泣き叫ぶ親も、稀にいる。しかもそれは殆どの場合が母親で、父親が肩を抱いてやっと興奮が収まるのに。父親は仕事に出ているらしく、傍にはいなかった。抵抗されたら不味いな、と思ってジョミーに思念で軽く助けを求めていると、やっと言葉を選び終えた母親が、意を決して口を開く。
「そのコを……シロエを、幸せにしてくださいますか?」
 花嫁をさらっていく、新郎に対する言葉のようだった。思わず眉を寄せるシドに、聞いていたらしいジョミーが外で大爆笑する気配が伝わってくる。幸い、シロエの母親にはジョミーの声が聞こえなかったようだ。真剣な、怖い顔つきをして、必死にシドを見つめてくる。
「この世界は……社会は、ミュウにとってあまりに生きにくい場所です。恐れられ、迫害されて、恐怖で心をすり減らしながら逃げるような生活を、シロエにさせたくなどなかった。いっそ一思いに殺してやる方がこのコの為なのかと、この三日間で何度も考えたりしました。けれど、できませんでした。このコを愛しているからです。どんな場所でも、どんなことがあっても、生きていれば……生きていれば、きっと」
「……できる限りのことをしよう」
 必ず、とシドは言えなかった。しかし母親には、シドの答えで十分のようだった。涙の滲んだ顔で頷くと、一歩近寄って眠るシロエの顔を覗き込み、その頬に最後のキスを送る。
「愛しているわ、シロエ」
 そして、続けられた言葉を。一言も忘れずに、シドは今でも覚えている。



 聞いているうちに泣き出してしまったシロエを、腕の中に優しく閉じ込めて。背を撫で、頭を撫でてやりながら、シドは『いつか』告げて欲しいと願われた伝言を、おごそかな気持ちで言葉にした。
『どんな時でも、どんな日でも。あなたがなにをしていても、私がなにをしていても。この先、あなたがどんな風に育っても。いつか昔のことを、よく思い出せなくなってしまったとしても。シロエ、どうかこれだけは忘れないで。私も、パパも、あなたのことを愛してた、って。……愛しているわ、セキ・レイ・シロエ。怖い夢を見て起きてしまった夜は、どうかそのことを思い出して。いつでも、あなたのことを愛してるわ』
「もっと……早く、ぼくに教えるべきじゃ、なかったんですか。それ」
 泣き顔だけは見せたくないと、シロエの顔はシドの胸に押し付けられている。しゃくりあげらながら告げられた言葉に、シドは可愛くない、と苦笑しながらシロエの頭をよしよし、と撫でた。
「泣くと思って、言えなかったんだ。そろそろ大丈夫かと思ったんだが……嫌な夢でも見たのか?」
 心の遮蔽が緩んだのだろう。微妙な顔つきになって問いかけてくるシドに、シロエはこくりと頷いた。言葉に出すのも気持ち悪かった夢の内容が、今なら素直に口に出来る気がして。夢を見たんです、とシロエは言った。
「長い夢。短くて長い、一生分のぼくの夢を。……もう、ぼんやりとしか思い出せないけど、今のぼくの持ってる記憶をなぞったんじゃなくて。途中からすれ違ってきて、最後がものすごく、違って」
「夢は、起きた傍から忘れてくものだからな」
「……きっと、あなたが迎えに来なかったからいけないんだ」
 むぅっとむくれながらのシロエの声に、シドが軽く目を見開いた。なんだ俺居なかったのか、と不思議そうに尋ねてくるシドに、シロエは微塵の容赦もなくこれっぽっちも、と言い放つ。なんだか微妙にショックで凍るシドを見ながら、シロエは多少機嫌が良くなったのだろう。にこにこと素直な笑みを浮かべながら、でもジョミーは来たよ、と告げる。シドの状態が、凍りつきから落ち込みへと変化した。
 分かりやすいなぁ、と思いながらシロエは笑う。
「でもぼくはその手を取らなかった。なにを言われてるのか、よく分からなくて。……きっと、今みたいな制度、というか。口約束でも、出来てなかったんじゃないかな。大体、ジョミーがソルジャーじゃなかったし。なんかね、シド。ソルジャー・ブルーがソルジャー・ブルーで、ジョミーはソルジャー・シンじゃなくてなりたてソルジャーでしたよ。今と立場逆だったんじゃないかな、あれ」
「……そうすると、相当今と色々違うだろ」
 想像しながら言うシドは、しかしいまいちピンと来ないようだった。詳しく説明できたら良いのだが、夢の記憶はすでにシロエの中から薄れている。しかもミュウたちのことは分からないので、説明の仕様が無い。しかたなく素直に頷いて、言葉をにごす。
「ええ、そうみたいでした。もっとも、ぼくはそのままシャングリラに行かないで、成人検査を通過してステーションに行ったのでこちらの事情はよく分かりませんが。で、まあ、それで。ステーションで、キース・アニアンに会って……このあたりは今と変わらないかも。嫌味言ったり嫌味言ったり嫌味言ったり嫌味言ったり秘密探ったり嫌味言ったりハッキングしたり嫌味言ったり、授業受けたり嫌味言ったりしてたから」
「お前ステーションになにしに行ったんだ」
「キース・アニアンに嫌味言いに?」
 一応疑問符こそ付いているが、納得していないというわけではなさそうだった。それは目的を間違えている、と思いつつ突っ込みはせず、シドはシロエが話し終えるまで聞いてやることにした。シロエはうん、と納得してしまいながら、それで、と若干顔色を悪くしながら告げる。
「色々やりすぎて……もう一度成人検査を受けるハメになって。たぶん、その時に、ミュウとして完全に覚醒して」
「やり方がエグいな」
「ええ。……それで、もう、正気じゃなかったのかな。ぼくは。小型艇を奪って、ステーションから逃げたんですけれど。ステーションのマザーの命令を受けたキースが追ってきて。それで、ぼくを」
 撃った。それは言葉に出なかったが、シドに直接伝わった。その瞬間、シドはシロエが夢に見た光景を押し付けられた気持ちで、軽く眩暈を起こす。閃光。爆発は一瞬で、船が宇宙の藻屑へと変えさせられた。シロエはぼんやりと視線をさ迷わせ、それから淡く笑う。
「『ぼく』は一瞬で消えて、きっと終わったのなんて分からなかった。だから、苦しくは無かったけど……シド、『ぼく』は、地球に行こうとしてた。それがどこにあるのかも分からないまま、でも、確かにそっちにあると思って行こうとしてたのに……終って、しまって」
「シロエ」
「『ぼく』は、どこに行ったのかな」
 もういい、と止めるシドに首を振って、シロエは泣き出しそうな表情で呟いた。宇宙は暗くて方角なんて分からなくて、向かおうとしていた地球は位置さえ知らなくて、シャングリラの存在は感じられなくて。あの『シロエ』は、どこへ消えてしまったのだろうか。夢の中で己の消滅を体感してしまったシロエは、言い知れない不安と恐怖、吐き気に襲われてシドにしがみついた。怖くて。怖くて怖くて、仕方がなかった。
 指先から、ざらりと砂に変わって。風に吹き飛ばされて消えてしまうような感覚が、残っていて。かすかに震えながら言葉の出ないシロエに、シドは勤めて静かな声で言った。そっちに、ちゃんとジョミーは居たんだろう、と。質問の意図が分からず、それでもうん、と頷くシロエに、シドはなら大丈夫だ、と笑った。
「それなら最後にきっと、お前は地球の歌声を聞いて、そこまでたどり着くことが出来たさ。だから、安心してそこで待ってろ。そのうちジョミーが地球まで行って、お前のことを迎えに行くから……それまで一人で寂しいかも知れないが、キース・アニアンでも呪って待ってろ」
 でも忘れるなよ、と言って。シドはシロエを強く抱きしめ、しっかりとした口調で言った。
「お前はここに居る。シロエ。今、ちゃんとここに居るからな……俺が、幸せにしてやるから」
 だからもう泣くな、と告げられて、シロエは涙をひっこめて笑う。プロポーズみたい、と肩を震わせるシロエの額を小突いて、シドはもう大丈夫か、と目を覗き込んで。かつてそうだと思ったとおりに、綺麗に澄んだ瞳が見返してくるのに笑って、おやすみ、と言った。もう一人で眠れる年だろう、とからかえばシロエはトマトのように顔を真っ赤にして怒り、アンタなんかだいっきらいだーっ、と叫んで部屋にかけ戻った。
 バンっと大きな音を立てて扉が閉まり、シドはくつくつと肩を揺らして笑いながらブリッジへ戻ろうとする。その足が止まったのは、意地っ張りで可愛いこどもが、ありがとう、と思念を飛ばしてきたからだった。早く寝ろよ、とだけ返して、シドはブリッジへと足を向けた。



 帰って来たシドに、リオはやけに長い休み時間でしたね、と嫌味の一つでも飛ばそうと思ったのだが。振り返ってシドの目を見て、思わず息を飲んでしまった。めったにないことだが、シドの目が怒りに染まっていたからだ。なにかあったんですか、と控え目に問うてくるリオに頷き、ブリッジの定位置にある椅子に乱暴に腰かけながら、シドは外出してくる、と言った。遠回しに許可を求める言葉に、リオは首を傾げる。
『まあ、良いですけれど……どこになにをしに?』
 今別に外出しなければいけない用事や仕事はなかった筈ですよね、と不思議がるリオに、重大任務をうけおった顔で静かに頷いて。シドは肩をぐるぐると回してほぐしながら笑った。
「ちょっと人類統合軍本部まで。キース・アニアン殴ってくる」
『あなたどこのシロエですかっ! ちょ、ちょっとっ。休み時間になにしてたんですっ』
「シロエを泣かせた相手は許さんっ!」
 会話が全く噛み合っていない。夜勤で人もまばらなブリッジだったから良いものの、真昼だったら大混乱を呼び込んでいる所だ。深呼吸をして気持ちを落ち着かせながら、リオはシドが勝手に飛んで出て行かないよう睨みつけつつ、ダメです、と言った。
『なんですかその、結婚前の愛娘を泣かせた彼氏の家に乗り込んで一発ぶん殴ってやる的理論は。あなたいつからシロエの父親になったんです。ダメですからね。絶対にダメですからね。大体、人類統合軍本部に一人で乗り込んで、無傷で出てこられる……のは、シロエとジョミーくらいのものですよっ』
 出てこられる者がいるから、話がややこしくなるのである。しかもシロエもジョミーもなにをしに行っているのかと思えば、そのキース・アニアンとお茶を飲みに、なのだから頭が痛い。ジョミー曰く、お茶のみ友達だから、で。シロエ曰く、お茶は出されたから飲むんであって嫌味言ったり隙あれば蹴ったりしてみたりしてるだけですから、らしい。とにかく絶対ダメです、というリオに、シドは不服がありありと分かる顔で。
 じゃあ、と妥協案を提示した。
「サイオン・キャノン百発で」
『ダ・メ』
 びしりと言い聞かせたリオに、シドは目の前に居るのは言語が通じない不思議生物なのだろうか、という顔つきで黙り込んだ。それはこっちの気持ちですよ、と思いながら、リオはしばらくシドから目が離せなさそうだと思い、深々とため息をついた。

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