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 番外編 2 名前さえ知らない

 キース・アニアンの名を叫びながら元気いっぱいに放った飛び蹴りは、かつてない程綺麗に成功した。足が刃なら、頚動脈を寸断して首を落とし、キースの命は奪われていただろう。足だった為に、死ぬほど痛そうな音を立てて奇妙な方向に曲がり、椅子から転げ落ちたくらいですんだのだが。脳震盪を起こしたのか、それとも痛みで動けないだけなのか。倒れたキースは、ぴくりとも動かなかった。
 つい先程までキースが座っていた椅子の上に、シロエは足を肩幅で開いて腰に手を当て、偉そうにふんぞり返りながら着地した。こどもっぽい態度だということは自分でも分かっていたが、ふつふつと湧き上がってくる喜びが、シロエにそうせざるを得なくさせていた。よしっ、と完璧な襲撃に満足げな頷きをしたシロエは、部屋の隅で書類を床にぶちまけて、あっけに取られた表情のマツカを見つける。
 そういえば、マツカに会うのもずいぶんと久しぶりだった。ねえねえ元気、と思念を弾ませながらぴょん、と椅子から床に飛び降りようとしたところで。シロエの足首が、がしりとばかりに掴まれる。ひっ、と思わず悲鳴をあげたのも無理はないだろう。なんとか床から起き上がったばかりのキースが、額に青筋を立てながらシロエのことを睨みつけていた。うわ生きてたっ、と反省の色などまるでない、シロエの声が響く。
「どうしてっ? あんなに綺麗に入ったのにっ。首だって変な方向に曲がったと思ったのにっ」
「す、すみません……とっさに、ぼく、キースを防御してたかも」
 そこで謝るのは人道上どうかとも思うのだが、シロエは一切気にしなかった。マツカひどいっ、と恐怖で浮かんだ涙目で睨みつけると、掴まれた方の足をぶんぶん振り回して抗議する。サイオンを使ってわずかに浮いているので、いくら暴れても床に転がり落ちる心配だけはしなくてよかった。
「離してくださいキースっ。人の足首掴むだなんて、どういう教育受けて育ったんですかっ?」
 挨拶代わりに首を狙って飛び蹴りを放ったシロエだけは、どんなことがあっても人の教育を非難してはいけない気がするのは気のせいなのだろうか、とマツカは思った。思ったがしかし、極めていつものことであるので。ため息をついて落としてしまった書類を拾い集め、机の上でトントン、と音を立てながらそろえてクリップで一まとめにする。急ぎの書類が一枚も混じっていないことは、この場合幸福なことだった。
 たとえ最重要の書類であろうと、超緊急の赤文字スタンプがでかでかと押された書類であろうと。シロエが来ている間、キースの仕事がはかどった試しがないからである。ならば最初から緊急を要するものがなければ、秘書役のマツカとしてはいくぶんか気が楽なのだった。シロエが好きそうなお菓子はどこの棚にしまってあったかな、と二人の方向を見ないようにして考えるマツカは、できるなら耳も塞ぎたかった。
 関わり合いになりたくない、というより、巻き込まれたくないからである。下手に室内から出ようとすると、扉が開く音で気がつかれるので部屋の隅まで移動して、マツカはそぅっと二人の様子を伺った。ちょうど、痛みから完全に脱したキースが首筋に片手を当て、もう方脳の手でシロエの右足首をしっかりと握り締めて、立ち上がった所だった。シロエは怖い怖いと騒ぎながら、足を振って逃げようとしている。
 あと三秒だろう。衝撃の瞬間を予測して息を吸い込んだマツカは、目をぎゅっと閉じ、さらに耳を両手で塞いだ。視覚と聴覚が閉ざされた闇の中で、皮膚感覚が、キースが大きく息を吸い込んだことを教えてくれる。そして。
「シロエーっ!」
「怒ったーっ! キースが怒ったーっ!」
 それはもう普通、誰でも怒るだろう。涙声でぎゃんぎゃん騒ぐシロエは頭がすこぶる良い筈なのに、そんなことだけ分からないから不思議だった。怒声が去ったのを確認して、マツカはそっと手を外し、目を開いてほっと息を吐く。外れたのか外してもらったのか、足首の自由を取り戻したシロエは宙に浮かんで胸を張り、エッヘン、とばかりにキースを見下ろしていた。
「まあいいや。久しぶりですね、キース。元気そうでなによりです早く死ねばいいのに!」
「お前それは挨拶としてどうなんだ……まあいい、ちょっと来い」
 怒らないから、と野良猫を手懐ける慎重さでシロエを手招いて、キースは歳に合った落ち着きのある苦笑を見せた。そろそろ三十も後半に差し掛かろうという男なのだが、重ねた歳がそれだけ魅力になっている稀有な外見をしていた。老いが見えない訳ではない。けれど、それはまだ『老い』と言ってしまうにはあまりにかすかで若々しく、落ち着きのある美丈夫、といった外見にかげりを差すものではなかった。
 対してここ数十年、まったく外見の加算が見られないシロエは、そんなキースを睨みつけながらそろそろと高度を下げていく。身長差の為に視線が水平になっても靴先が床をこすらないことが殊更悔しいらしく、シロエはなに、と言ってぷっと頬を膨らませた。そういう仕草をするから、さらに幼く見えるというのに。指摘したら絶対怒り出すので心の中だけで思念波にも乗せずに留め、マツカは二人を見守った。
 キースはなにも言わずにじっとシロエを見つめた後、ほっとため息をついて、その体を床に引きずり落とすように抱きしめた。がくんといきなり落ちた高度に、シロエは驚きの声をあげて本能的に硬直する。腕の中で凍ってしまった小さい体を、ぽん、と宥めるように撫でて。キースは珍しく穏やかな声で、無事でよかった、と告げた。
「アタラクシア空軍が、対ミュウ大規模戦闘を行ったと報告があった。大敗したとは聞いているが、ミュウ側の被害も甚大だと聞いて。マツカが飛び出していくのを止めるのに、骨が折れた」
 ぼくはあなたが私情でアタラクシア空軍への予算を全額カットするのを止めるのにも、関わった軍人を全員罷免させようとするのを止めるにも骨が折れたのですが、と。思ってもマツカは口に出さなかった。ただ、代わりに大きなため息がつかれたのを耳にとめて、シロエの眉が芸術的につりあがる。ちょっと、と剣呑な声がキースへ向けられた。
「人類統合軍のメンバーズ・エリートがそういうこと言います? 大体、あなた表向きは反ミュウ派で通ってるんですからね? そこの所忘れて、なにかやらかしたんじゃないといいけど……ねえマツカ。この人、大丈夫だった? 空軍の予算全カットとか、関わった軍人全罷免とか、やろうとしなかった?」
 さすがシロエは、キースの行動パターンを把握しているだけあって、質問もピンポイントで的確だった。同じくマツカも把握できているからこそ、止められたのだが。大きく息を吐いて頭を振り、マツカは弱々しい笑みを浮かべながら顔をあげる。
「ええ。今の所は、なにも問題ありません。……今の所は」
「どういう意味だ、マツカ」
「胸に手をあてて聞いてみてください。答えはきっとそこにあります」
 そこで素直に胸に手をあてるのが、キースの可愛い所だ、とマツカは思った。考え込むキースをシロエは冷たい目でながめやり、腕の中からするりと抜け出すと、マツカの元へとやってくる。たたっと小走りに駆け寄られて、思わずマツカは満面の笑みを浮かべた。
「こんにちは、シロエ。本当に無事でよかった。皆も、元気ですか?」
「うん。ぼくとリオがちょっと昏睡したけど今は元気。あとジョミーもこの間の一件で力を失ったけど、今はわりと元気だよ。ブルーだけ、ちょっと疲れ気味かな……でもまあ、新しいソルジャーだから仕方ない。あんまり無理しないようには言い聞かせてるから、安心していいよ」
 皆元気、と報告してくれるシロエに微笑んで、マツカはありがとうございます、と言った。そして頭をゆっくりと撫でてやると、シロエは陽だまりで寝転ぶ猫のような顔つきで笑った。そのままにこにこと数秒間微笑みあい、マツカはああそうだ、と手を打ち合わせた。
「美味しいお菓子を頂いていたんです。今持って来ますね。シロエ、コーヒーと紅茶のどちらにしますか?」
「コーヒー。マツカの淹れてくれるコーヒー、美味しいから大好き」
「嬉しいことを。ありがとう、シロエ」
 そしてまたにこにこと笑いあう二人に、キースから声がかかる。
「マツカ」
「はい、なんでしょう。キース」
 シロエが好きなのはこれだった筈、と。戸棚にずらりと並んだコーヒー豆の袋から一つを取り出し、聞き返すマツカに、キースは大真面目な声で言った。
「答えが見つからないんだが」
「あるから探してくださいね」
 軽くふりかえってにっこりと笑い、マツカはコーヒーを淹れる準備に没頭し始めた。一つの作業をとにかく集中してこなすマツカだから、こうなってしまうとエマージェンシー・コールくらいしか意識を外に戻せない。ため息をついて椅子に座るキースに、シロエの冷たい視線が突き刺さった。なんだ、と目を向けるキースに、シロエはしみじみと頷きながら言う。
「いくら出世のスピード早める為だからと言って、あなたが反ミュウ派で騙される周りって面白いなぁ、と改めて思って。メンバーズ・エリートの知り合いってキースくらいしかいませんけど、それでもあなたほど親ミュウ派の人みたことない」
「外弁慶なんですよ、キースは」
 はいどうぞ、とマツカは白いコーヒーカップをシロエの前に置いた。そしてふわふわな卵色の生地と、真っ白な生クリームが目にも楽しいロールケーキを二切れ皿に移し、同じくシロエの前に置く。そしてシロエとキースの真向かいに椅子を持ってきて腰を降ろし、さっそくケーキを一口食べるシロエを、嬉しそうに見つめた。
「どうですか? 口に合います?」
「うん。美味しい。ありがと、マツカ。……ソトベンケイってなに? 聞いたこと無い」
「正しくは内弁慶、ですからね。外では意気地がないのに、家の中だと威張り散らす人のこと、です。その、逆」
 なんとなく分かったような気持ちになって頷くシロエの隣で、キースはマツカを睨みつけた。マツカはすこしだけ怯えた様子で肩をすくめ、しかしにこりと微笑んで自分用のコーヒーマグに口をつける。出来栄えに吐息を吐く様子は、どう考えても怯えているようには見えなかった。
「……俺が外弁慶なら、マツカこそ内弁慶だな。二重人格ミュウ」
「褒めて下さってありがとうございます、キース」
 嬉しいです、とはにかむように微笑んで、マツカはマグを机に置いた。でもそれは二重人格の方に失礼ですからやめてくださいね、とやんわり注意されて、キースは思わず首を傾げた。どうしてキースが悪いようになっているのか、いまいち理解できない。諦めなよ、とコーヒーに角砂糖を三個入れてかき混ぜながらシロエが言った。
「何回も言ってますけど。マツカは、長老たちとジョミーが選びに選び抜いた、キースの傍に置いても絶対にバレない確信があるミュウの中のミュウなんですよ? ねー、マツカ」
「ねー、シロエ」
 戯れに『ねー』と返してくれたのが嬉しかったのだろう。照れた笑みを浮かべるシロエに腕を伸ばして、マツカはよしよし、と頭を撫でてやった。ほんわりと暖かい空気が流れる。耐え切れなくなって深い息を吐き出し、キースは理不尽だ、と言う。
「ミュウの神経が細いと言い出した馬鹿は誰なんだ……。本当に神経細かったら『敵の最新情報を知る為には潜入しなくっちゃダメだよね分からないよねっ』とか言ってステーションに潜入して生徒とかしないだろう。しかも長が。その上、将来有望そうな人間とお近づきになって正体をバラしたあげく、『これからもよろしくね。一緒に地球を目指して頑張って行こう』とか言わないだろう。しかも長が。よりによって長が」
「それがジョミーのすごい所で良い所だよ。こう、予測不可能な辺りが。あともう長じゃない」
 ぼくも初めて聞いた時は耳を疑ったというか、相手の脳の存在を疑ったけどさ、とため息をつくシロエに、まったく同感だとマツカが頷いている。現在進行形で潜入任務中のマツカは、それに同意してはいけないと思うのはキースだけなのだろうか。心底疲れながら、キースはふとあることに気が付いて眉を寄せた。先程、マツカとの会話でも引っかかるものがあったのだが、今ので違和感が決定的になる。
「ジョミーが、長じゃない? どういうことだ。力を失ったと言ったな」
「代替わりしたから。今の長はソルジャー・ブルーだよ。……マツカ、話してないの?」
「……言っておいた気が、するのですが。どうせまた、ちゃんと聞いていてくれなかったのでは?」
 基本的に人の意見を聞き入れない人ですから、と告げるマツカに、シロエはそうだったと深く頷いた。そのやりとりは原則、本人の居ないところでやるものではないのだろうか、とキースは考えた。そして意見を聞き入れない、と人の話を聞かない、の間には結構深い溝が横たわっている筈なのだが。マツカにとっては一緒らしい。困りますよねぇ、とのんびり息を吐いてロールケーキを食べ、コーヒーを飲んでいる。
 おいしいね、と笑いあうシロエとマツカは、外見だけはどこまでも人畜無害だった。皿の上の二切れを綺麗に食べきって、シロエは手を合わせてごちそうさまでしたとぺこりと頭を下げ、それからキースに向き直る。
「別に、寿命が来たとかそういうことではないらしいんだけど」
 それがジョミーの『力を失った』に対する説明であると、キースが理解したのは二秒後だった。前置きをつけろ、と額に手を押し当てながら告げるキースに、口ばかりのごめんねを笑顔で付け加え、シロエはコーヒーにミルクを大量に入れてかきまぜながら言った。
「前からそういうことがあるよって、決まってたみたいなんですよね。その日を終わりにして、サイオン能力が消えちゃうのは。その理由とか、原因とかは分からないんですけど。あの人、変な所で妙に思い切り良いから。なっちゃうものはなっちゃうんだから、まあ仕方がないよね、的に。よくないからもっと考えてくださいって言っても、苦笑してごめんね、だし。それ答えになってませんからって突っ込むのもあきました」
 一息に告げて、シロエはコーヒーを一口飲んだ。キースにはどう考えても甘すぎる液体に、シロエは上機嫌で美味しい、と頷く。それはよかった、と笑うマツカに説明を求めても、ぼくにもそれくらいしか説明してくれないんです、と言われてしまってはどうしようもない。そうか、と頷くとそうなんですよ、とシロエは呟き、でも、と笑って首を傾げた。
「消える、とは言ってましたし、聞いてましたけど。消えっぱなし、とは誰も言ってないし、聞いていないので」
「……どういうことだ?」
 まさか、と口ごもるキースになぜか疲れた笑みを見せ、シロエは視線を天井へと向けた。
「雑草抜くと見た感じ綺麗になりますが、根が残ってるとまた生えてくるじゃないですか」
 彼方から、旧とはいえ長を雑草扱いしたっ、とジョミーの叫びが聞こえたような気がしたが、シロエはあえてそれを幻聴として無視した。だからですね、と視線を戻してキースにすえ、シロエはにこりと笑う。
「出てた分が消えただけじゃないかな、と。あの人三百年も生きてますし、一回枯れてもおかしくは無い」
「ミュウのサイオンは、そういうものなの、か?」
「さあ。ジョミー以外に三百年生きてるミュウがいないので、その辺りはどうとも言えませんけれど」
 でもそんな予感がするので、きっとそうなんです、と笑いながら告げて。シロエはごちそうさま、と席を立ち上がった。そして簡単に衣服の乱れを直すと、うーんと伸びをして息を吐く。
「ぼくもう行くね。キースも蹴ったし、お茶も頂いたから。マツカ、ありがとう。美味しかった」
「いえいえ。また顔を出してくださいね、シロエ」
「シロエ。本当にお前、毎回なにしに来るんだ」
 ねーねーキース、このコ力強くて可愛いんだよっ、とジョミーがシロエを自慢しに連れて来て以来、時々ふらりと姿を現してお茶を飲んでいく。まさしく野良猫のようなシロエが、キースにはいつも不思議でならない。だからこそ尋ねたのだが、マツカからは生ぬるい微笑が向けられ、シロエにはなぜか真っ赤になって睨まれた。
「べ、別にっ。たまにあなたのこと思い出すから、生きてるか見に来るだけですからっ」
「そうか」
「だからちゃんと、ぼくが来る時には生きてないと承知しませんからねっ」
 ふんっと胸を張って言い放ち、シロエはふわりと浮かび上がった。そのまま消えてしまいそうになるのを、キースは手を伸ばして捕まえる。驚いた目を向けてくるシロエにすこし笑って、キースは伝えろ、と言った。
「ジョミーに。もし力が戻ったら遊びに来い、と」
「……反ミュウ派の仮面がバレないようにしてくださいね、キース。伝えておきますけど」
 マツカ、頼むね、と言い残して、シロエは空気に溶けるように姿を消してしまった。後にはシロエ独特のちいさな雷光が残り、それもすぐに消えてなくなってしまう。居なくなった辺りの空間をしばらくじっと見つめて、キースは蹴られた首に手を置いて呟いた。
「相変わらず、なに考えてるか分からないヤツだ」
「どうしてあれで分からないのかな、と。ぼくはずーっとそう思っていますけど」
 もうすこし素直になれば、と思うけど、それでもこの人相手だと無理かな、とぶつぶつ呟きながら、マツカは手早く机の上を片付けていく。キースに飲み物やケーキを出さなかったのは、万一誰かが入ってきた場合にシロエが消えていれば誤魔化せるからだ。もっとも、シロエもマツカもキースも、話ながら常に気を張っているので、誰かが部屋に近づけば、その時点で分かるのだが。念には念を、である。
シロエの使った食器を洗って拭いて戸棚に戻してから、マツカはキースのコーヒーをいれ、ケーキを取り分けて机に運んだ。そして飲み物だけは付き合いながら、考え込むキースに微笑みかけた。

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