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 4 君が呼ぶなら

 平和とは良いことだねハーレイ、とご機嫌な笑顔で告げられたキャプテンは、それになんと答えたものかを考えて天井を仰いだ。そうですね、と同意するのが最良で本音ではあるのだが、さりとて場に相応しい言葉ではないと知っていたからである。結局なにも言わずに大きなため息で空気を震わせ、ハーレイは執務机の上に視線を戻し、大量の書類に手を伸ばして一枚を引き寄せた。そして黙々と読み始める。
 無視とはひどいじゃないか、とむっとした声が足元から響くも、ハーレイは意識して視線を下げない。書類の上で左から右へ動かし、次の行、次の行へと移っていく。決して机の下、足元になど視線はむけない。ろくなことにならないからだ。過去の経験から嫌というほどそれを知っていたハーレイは、だからズボンをくいくいひっぱられても、太ももを人差し指で突っつかれても、足を軽く蹴られても黙っていたのだが。
「仕方がないな」
 そう、拗ねきったこどもの声で告げられた言葉に、反射的に視線を下に向けていた。
「ジョミーに、ハーレイと浮気をすることにしたよ、と思念で報告してみよう」
「あなたは私に死ねと仰るのか!」
「ああ、やっとこっちを向いたねハーレイ」
 良いコだ、とにこにこ笑うブルーに、ハーレイは椅子の背に上半身を投げ出して脱力する。なんだその、あからさまなこども扱いは。確かにハーレイはブルーより年下で、これから何年経過しようとも変わらない事実ではあるのだが、百年も二百年も生きた身だ。正直、ものすごく違和感があってむずがゆいので、止めて欲しい。ぐったりと背もたれに体重を預けながら、ハーレイはではあなたは悪いコですね、と呟く。
「どうして昔からそうやって、私の机の下に隠れてるんですか。仕事の邪魔なので出て行ってください」
「隠れてなどいない。そういえばしばらくハーレイに構ってやっていないことを思い出したから、遊びに来てあげているだけだ。分かったら、ぼくのことは気にせず仕事を進めなさい、キャプテン・ハーレイ。ソルジャーを退いたぼくと違って、きみは忙しい身なのだからね」
 よしよし頑張りなさい、とハーレイの膝の上に片手をおいて伸び上がったブルーは、もう片方の手でその頭を撫でてやった。やわやわと髪にだけ指が触れ、そしてなんの前触れもなく離れていく。ふわりと香った金木犀の花の匂いは、もうずいぶんと前から、ブルーが好んで身につけている玉が放ったものだろう。香り玉は、固形の香水のようなものだ。ちいさな袋に入れて服に忍ばせ、動くたびに香らせる。
 古風で雅で密やかな香りのおしゃれは、いかにもブルーが好きそうなことだった。ソルジャーとして冷徹な面も持っていたブルーが、意外に少女趣味で可愛いものや綺麗なものが大好きで、甘いものをこよなく愛していて、そしてとてつもなくロマンチックだという事実を知っているのはきっとハーレイとジョミーくらいのものだ。リオはもしかしたら知っているのかも知れないが、笑顔の奥に真実を隠して悟らせない。
 陽だまりで眠る猫のような仕草で、ブルーはハーレイの膝に体の上半分を乗せ、腕を枕にして横に顔を伏せていた。ハーレイは片手で書類を持って視線を文章に固定しながらも、もう片方の手を伸ばしてブルーに触れる。そしてそっと頭を撫でてやれば、ブルーは飼い猫の可愛らしさでくすくすと笑い、ハーレイの指をきゅっと握り締めた。手のひらの大きさも、指の太さも、あまりに違う。大人と、少年の違いだった。
 その身の成長を十四で止めたまま、今も時を流す気配のない佳人は、ものいいたげなハーレイの気配にそっと口を開く。流れ出したのは清涼な水のような声だが、歌を歌えば全力で逃げ出したくなるほど音感がない事実を、ハーレイだけが知っていた。ハーレイ、とその名に相応しく青を連想させる声がキャプテンの名を呼ぶ。それは空の青で、海の青で、晴れ渡った宇宙の青だった。絶対的な、静寂の青だ。
 かつて凛と命令を響かせた声を独り占めして聞きながら、ハーレイは視線を下げずにはい、と言う。その無関心が示す絶対の信頼こそを喜ぶようにブルーは静かに微笑んで、なにがあったわけではないのだよ、と告げた。
「ただ……そういえば、ぼくは今幸せなのだということを、今日の朝目覚めて深く感じただけ、で」
 皐月の空を吹き抜けていく、爽やかな風のように。ごく自然に心が解放されて、ハーレイにそのことを告げてくる。目が覚めた時も、こうして膝の上でのんびりとする時も。意識の片隅に、昔のように凍て付いた緊張感は無かった。それは長い永い時間をかけて凍ってしまった氷で、ブルーもハーレイも、溶けることなどないと思っていたのだけれど。解放されたブルーの心は穏やかで温かく、眠りを誘う静けさだ。
 ハーレイはブルーを撫でながら、いいのですよ、と告げてやる。そう誰かに言われたくて、ブルーがハーレイを頼ったのだと分かったからだ。ゼルやヒルマン、エラやブラウではなく。リオでもなく、ジョミーでもなくて。長年の右腕を、ブルーは頼ったのだ。そこに在るのは愛や恋ではなく、それよりずっと穏やかな、揺るぎの無い絶対の信頼感情で。ことん、と頭を膝に預けるブルーに、ハーレイは慎重に言い聞かせた。
「いいのですよ、それで。あなたが幸せであることは……我らミュウの、永の願いのひとつでした。失われた者も、眠る者も、皆等しく喜ぶでしょう。もちろん、今この時に生ある者も。だからどうか罪悪など……感じないで下さい。幸せを、あなたはやっと本当に、本当の意味で心から『幸せ』だと感じて、認識することができたのだから」
「ハーレイ」
 無防備な声だった。ミュウとして覚醒してから一度も、ハーレイが耳にしたことのないような、なんの用意もしないで発された声だった。はい、と息を潜めて答えるハーレイに、ブルーはため息をつき、それから笑う。
「ぼくはずるいな、ハーレイ。きみならそう言うだろうと思って、ここに来たのだから……うっかりジョミーに知られたら、それだけで怒られそうな気がして。今は怒っているというか、焦っているというか泣きそうのようだが」
 いったいどうしたというのだろうね、と胸に手をあてながら首を傾げる旧ソルジャーに、ハーレイは冷たい視線を投げつけた。どうしたのだろう、というか、それはもう百パーセントがブルーのせいだと思うのだが。美麗な佳人は気がつかないらしい。急に心配になって来たよ、と物憂げなため息までつかれるのだから手の施しようが無い。教えるしかないか、とハーレイが諦めと義務感に駆られて口を開きかけた瞬間。
 殴り飛ばしたような音を立てて、ハーレイの執務室の扉が開くというか床に倒れ、肩で息をしたジョミーが怒りに眉を吊り上げながら現れた。思わず立ち上がったハーレイの足元で、ぼたりと妙な落下音が響く。恐くて視線は向けられない。なにか、以前にもこういうことがあったような、と。記憶を掘り起こしながら硬直するハーレイに、ジョミーは扉から机の短い距離を疾走して距離をつめ、音高く手をついて叫んだ。
「ハーレイ! ブルーのこと見なかったっ!」
 問いかけではなく詰問口調なのは、ジョミーが机の下に隠れた気配に気がついているわけではないと思いたい、とハーレイは口元を引きつらせる。ジョミーの視線は鋭いままで、ハーレイを思いっきり睨みつけていた。これで、気がついていない訳が無い。それなのに知ってるよね、ではなく見なかった、という言葉なのは理由がある。ジョミーが怒っているからである。それもとてつもなく。かつてない勢いで。
 それでも、それまで気配だけは抑えていたのだろう。ちりちりと肌を焼く怒りはハーレイにだけ感じ取れるもので、船に伝染するものではない。ソルジャー・シンが慈しみで包み込んでいるシャングリラは今日も平和で、穏やかな空気を漂わせていた。それなのにハーレイの目の前だけが、灼熱のように鋭い。無言でブルーを庇ってやるハーレイに、ついにジョミーは己の気配を解き放つ。爆風のような怒りだった。
 思わずよろけて椅子の背を手で掴むハーレイに、ジョミーは書類がのっている執務机に片足を乗せて顔を寄せた。ばさばさと音を立て、処理済と未処理の書類が床に落ちていく。区別するだけでも一作業だろうが、そんな心配をしている場合ではない。暗がりに呼び出され、不良に恫喝されている中間管理職よろしく胸倉を掴まれねじりあげられて、ハーレイは呼吸が出来ずに意識がすこし遠くなる。
「ハーレイ」
 間近に迫った翡翠玉の瞳は、恐ろしいほど美しかった。
「ブルー、知らない」
 分かってんだよ出せコラ、とその表情が告げていた。ぱっと掴んでいた手を離されて、ハーレイは喉の圧迫から解放されて咳き込む。その呼吸を正常なものにもどす本能的な作業すら、ジョミーには気にくわないらしかった。苛々と目を細め、はやく、と命令する。かつてこれほど、ジョミーが命令をためらわなかったことがあるだろうか、とハーレイは思う。そしてまた、絶対に逆らわず従わなければと思わされたことも。
 仕方なくハーレイは、どうぞと言って机の下を指差した。ごく優雅な動きで頷いたジョミーは、机越しで見えないブルーにきらめかしい笑みを向けると、ブルー、と愛しい相手の名前を呼ぶ。
「すぐ出て来い」
 甘さの欠片もない絶対命令だった。ひきつった表情になりながら出てきたブルーの腕を掴んで立ち上がらせ、ジョミーは怒りに満ち満ちた目でブルーを睨みつける。その頃になってやっと、異変に気がついた者たちがハーレイの部屋までかけてきた。まず姿をみせたのはリオで、扉からひょいと中を覗き込むなりハーレイに向かって微笑みかける。そして追いついたシロエの肩に手を置き、リオは笑顔で言った。
『大丈夫のようです、シロエ。だから部屋に入ったらいけませんよ。それよりもトォニィたちを落ち着かせなければ。今ここに乱入されたら上手く会話もできないでしょうし、問題がこじれてしまいます』
「いいんですかっ? キャプテン・ハーレイ救出しなくていいんですかっ?」
 リオとハーレイの顔をせわしなく見つめるシロエは、しかしジョミーの怒りにあてられて顔色は良くないようだった。混乱もしてしまっているのか、珍しく涙ぐんでいる。本音をいえばハーレイは助けて欲しかったのだが、そんな状態のシロエに無理を強いるわけにもいかない。力なく頷いたのを見て、リオが深く頷き返した。
『いいんです。キャプテンはあれで船内の誰より慣れてらっしゃいますから、耐性があります。それにね、シロエ、今シロエが行っても、ナスカのこどもたちが踏み込んでも』
 そう言いながら、転移してきたトォニィがグランパっ、と叫びながら大慌てで室内にかけていこうとするのを、服を掴んで止めて。リオは暴れられるのをものともせず、しみじみと言った。
『二次災害が起こって、被害が拡大するだけなんですよ』
「……リオって、本当にジョミーの右腕ですよね。対処に慣れてて的確だ」
『ありがとう。でもあなたはジョミーの『左腕』なのだから、羨ましがることも、悔しがることもないのですよ。そもそも役目が違うんですから』
 だから止めてくださいね、と実は文章が繋がっていないことを告げながら、リオは隙を見て室内に飛び込んでいこうとするナスカのこどもを、また一人捕まえた。コブはリオに掴まれた服をひっぱりながら、離して離してと暴れている。その横を走りぬけようとしたのは、アルテラだった。慌てず騒がず今度はシロエがアルテラを止め、そして死角から走っていこうとしたツェーレンも止めた。二人の両手が完全に塞がる。
 その瞬間を待っていたのが、タキオンとタージオンだった。二人の手が空いていても絶対に届かない距離を開けて走ってきたのを見て、シロエは甘く見られたものだ、と苦笑する。そして一瞬で、強固なサイオン・シールドを部屋の前に展開させた。がんっ、と硬い壁を思い切り蹴りつけたような音を立て、二人の歩みが止まる。シロエは息を飲んだ二人の体をサイオンで包み込み、ふわりと宙に浮かせてしまった。
 唯一ゆっくりと歩いてきたペスタチオは、なにもかも予想していたのだろう。室内のジョミーを気にしながらも、二人の門番に向かって私何もしないわ、と笑顔を向けてみせた。少女にきみ偉い、と頷きながら、シロエはじたばた暴れる他の六人に向かって、冷静に告げる。
「はい。残念でした。良いコだからここで終るまで待ってなさい」
「ひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどい! グランパーっ!」
「離して嫌よ触らないで触らないでよ私に触っていいのはトォニィとジョミーだけなんだから! ジョミーっ!」
 リオの腕の中でトォニィが、シロエの傍ではアルテラが。それぞれ猛抗議の声をあげるが、二人はそれを綺麗に無視して見せた。冷静にかかってこられたら一対一でもかなわないのがナスカのコたちの恐さだが、こんなに混乱してしまっていては大人に勝てるわけもないのである。感情が波立った状態でのサイオン・コントロールは、攻撃力を増幅させる反面、こうした拘束を解いてしまう精密さには欠けるのだ。
 それでもなおも逃れようと、じたばた暴れるのこどもたちを黙らせたのは、その原因でもあるジョミー本人だった。それまで無言でブルーを見つめていたジョミーが、叫ばれてやっと存在に気がついたかのような唐突さで振り返る。そしてぱっと顔を明るくするナスカのこどもたちに向かって、ジョミーは優しくにっこりと微笑んで。
「静かに、していなさい」
 良いコにできるよね、と重ねて告げられて、静かにできなければジョミーを愛するこどもたちではないだろう。呼吸さえ止めてしまいそうな勢いで凍りついた子らを笑顔で眺めて、ジョミーはブルーに視線を戻す。
「あなたがなにを感じるもあなたの自由で、誰に相談するのもあなたの自由で、ぼくから逃げるのもあなたの自由ですから。そこまでは、まあ、我慢しましょう。さて、ブルー? ぼくが怒ってる理由は分かりますか」
「……おはようのキスをしないで、ぼくがハーレイのところに行ってしまったから、かな」
 恐ろしいことに、ブルーは本気らしかった。そしてその言葉を向けられたジョミーも、ごく真剣な表情でそれもあります、と肯定してみせた。なんとなく、シロエはジョミーの偉大さに感心した。絶対に真似したくない偉大さだが。ジョミーは、それ以外の理由もあると気がついたブルーに、これみよがしにため息をつく。そしてジョミーは、ほとほと呆れた声で問いかけた。
「あなたが幸せで、なにが悪いって言うんです?」
 知っていたのか、とブルーは言わない。知られたことに気がついたから、まだ眠るジョミーを残し、ブルーはハーレイのところに来たのだ。それが朝早くのことで、今は昼過ぎである。ジョミーは、よく我慢しただろう。ブルーがハーレイに気持ちを打ち明け、楽になるのを待っていたのだとしても、それでもジョミーはよく我慢した。その忍耐を今も、言葉を返せずうなだれるブルーに対して見せながら、ジョミーは。
 力いっぱいブルーを抱きしめて、泣き出しそうな声で言う。
「あなた、ぼくのことみくびるのもいい加減にしろよ……ほんっとにっ! 言っとくけどねブルーっ! あなたが幸せを感じてくれなかったら、ぼくはぼくをソルジャー失格だと決め付けますっ!」
「ジョミー、それは」
「うるさい黙れ最後まで聞けよっ! ぼくは……ぼくはね、ブルー。幸せにしたいのは、あなただけじゃないんだ。ぼくは仲間たちを幸せにしたい。リオやシロエ、ハーレイやブラウやゼルや、ヒルマンやエラのことも。トォニィもアルテラも、ツェーレンもコブも、ペスタチオも、タキオンも、タージオンも。みんな、幸せにしたくてしょうがないんだ。……それはぼくの、ソルジャーとしての役目だとも、思っています。だけど」
 だけどね、と。怒りの気配を解いて消して、ジョミーはブルーの頬を両手で包み込んだ。
「あなたが幸せでないなら、ぼくは不幸です」
「ジョミー」
「不幸なものが、誰もを幸せに出来るわけがない。だからってあなたに、むりに幸せを感じてもらいたいわけでもなくて、ぼくは」
 ぼくは、と。迷うように何度も言葉を捜して口を開き、閉ざしながら、ジョミーはゆっくりと言う。
「ぼくは、あなたの幸せになりたい」
 他の人はみんなみんな、幸せにしたくて、あなたのこともそうしたいんだけど。でも本当は同じくらいに。無意識に流れ込ませた思念で語りながら、ジョミーは泣き出す寸前の目でブルーを見つめた。
「あなたの、幸せになりたい。あなたがそれを悪いことだと思わないように、思えないように、思うことがないくらいにずっと、ずっと幸せで満たしてあげたい。幸せをあげた……っん、ちょ、ちょっとブルーっ!」
 人が真剣に話してるって言うのにっ、と怒りに眉を吊り上げていきなりキスしてきたブルーを怒るジョミーに、三百年の長きをソルジャーとして過ごしてきた男は、やけに威圧感ある笑顔でにっこりと笑った。それにジョミーが一瞬ひるんだのを見逃さず、ブルーは己の顔を押しのけた指に唇を押しあてた。指の先をぺろりと舐めて、震えた手を捕らえて己の背の後ろまで思いっきり引っ張る。そして唇を、重ねた。
 抗議する動きもなにもかも跳ね除けて支配して、ブルーはジョミーとのキスを味わう。やがてゆっくりと離して、ブルーはくたっと力が抜けてしまったジョミーを、本当に幸せそうな表情で抱きしめた。そしてごめん、と囁いて。
「愛してる」
「ちょ……そんなで、ごまかされ、ませ」
「愛してるよ。ずっと気がつかないでごめん。きみはぼくの幸せだった。そう思っていたのは本当なのに、ずっとずっと『本当』には、気がつけないでいてごめんね。恐がってしまって、ごめん。……愛してるよ。愛してるよ、ジョミー。きみがぼくの幸せだった。今、それに気がつけた」
 ちゅっと軽い音を立てて、何度もキスをして。ブルーは涙ぐむジョミーに、嬉しく告げた。
「幸せ」
「……ん」
「幸せだよ、ジョミー」
 ぼくはいますごく幸せ、と。抱きしめてキスをして、優しさを胸いっぱいに受け入れて。
「ありがとう」
「……二度と」
 もう二度と幸せじゃないあなたなんて許さないから、と涙目で睨んだジョミーにもう一度キスをして。ブルーはくすくす笑いながら、うん、と頷いた。



 手は、二本しかないわけで。リオのものと合わせても絶対的に目を隠す数が足りないのだが。状況を忘れていちゃつく新旧ソルジャーは、シロエのこともリオのことも、ナスカのこどもたちのことも一時的に忘れてしまっているらしい。軽い触れあい程度のキスが何度か続き、後は額や頬をぺたりとくっつけ、くすくすと楽しげに笑ってはまたキスをしている。こどもたちの教育に、悪いことこの上なかった。今更なのだが。
 ジョミーに言われてからずっと静かだったこともあり、シロエはアルテラとツェーレンを捕まえていた手を離してやった。そして、タキオンとタージオンを捕らえていたサイオンも消し去り、ため息をついて扉の前にしゃがみこむ。すっかりショックを受けて黙り込んでしまったトォニィを、リオが撫でて慰めていた。コブは、唯一冷静だったペスタチオが預かっていて、はい見ない見ない、と言い聞かせられている。
「……やっぱり、グランパは」
 思い切りため息をついたシロエの耳に、涙声でぐずっているトォニィの呟きが触れた。ふと顔をあげると、トォニィはぼろぼろと涙を流しながらしゃくりあげていて、リオが困りきった表情で話を聞いてやっている。うん、うん、なに、と優しく言葉を促してくれるリオは、どれだけ時間がかかっても、トォニィが言いたいこと全てを告げさせるつもりなのだろう。ゆっくりね、と言われるのに、トォニィはこくこくと頷いていた。
「ぐ、グランパ、はっ……ぼくたち、より、ブルーのが好きなんだ」
『ジョミーはトォニィたちのことを、本当に、本当に愛していますよ。そんなことを言わないで、トォニィ』
「だって! だってだってだってだってだってっ!」
 ばたばたと手を振り回して主張するトォニィを宥めるのは、シロエには出来そうもなかった。リオに任せることにして視線をめぐらせると、言葉と涙こそないものの、ナスカのこどもたちは皆一様にトォニィの主張に同意している表情で暗くうつむき、沈黙している。好きの種類が違うのだ、と。愛の形が違うのだ、と。いくら告げたとしても、今のこどもたちには納得できないに違いない。それでも、と言うに違いないのだ。
 仕方なくシロエは、最終手段を使うことにした。なにせシロエは暗い空気が好きではないし、彼なりにナスカのこどもたちを愛してもいたので、集団で落ち込まれていると居たたまれなくて仕方がない。ため息をついて、シロエはとりあえず目が合ったアルテラを手招いた。おいでおいで、と口にも出して手をひらつかせると、アルテラは気落ちした表情でシロエに近寄り、なに、と言う。シロエは、にっこりと笑った。
 外見だけは、今日も極上に可愛らしい天使の笑みだった。
「確かにね。きみたちの思ってる通り、ジョミーはブルーのが好きかも知れない。けど、それでも君たちをちゃんと優先させることだってあるのを知ってるよね? それでも悲しくて悔しいと、思う?」
「思う……ブルーのこと、好きじゃなければよかったっ」
 好きじゃなかったら嫌いになれたのにっ、とひどく矛盾した、それでいて正しい叫びをあげるアルテラに、シロエは優しく頷いた。そして、じゃあ、と口を開く。
「どんな時でも、なにをしてても。ジョミーがきみたちを優先して飛んでくる魔法の呪文を教えてあげるよ、って言ったらきみたち泣き止む?」
「……いまでも?」
 ちらり、と向けられた視線の先では、頬をくっつけたソルジャーたちがくすくすと幸せの笑いをもらしている。ジョミーは、本当はこれほど周囲に気が付かない性格をしているわけでもないので、これはもうブルーが気がつかせていないだけなのだろう。だったらぼくは悪くない、と思いながらアルテラの問いに頷いて、シロエは声をちいさくした。
「あのね、アルテラ。これはずーっと長いこと、ぼくだけが使えた呪文で、本当は他の誰にも教えちゃいけないんだ。でも、アルテラには教えてあげる。条件は、他の人に教えないこと。守れる?」
「トォニィには言っていいでしょ? あと、他の子たちにも」
「うん、まあ。それくらいなら良いよ。でも、他にはもう絶対ダメ」
 だってこれ最強のジョミー召還呪文だから、と真剣に言うシロエに、アルテラはなんだか嫌な顔をした。内心を正しく読み解き、ブルーのことじゃないよ、と安心させてやってから、シロエはアルテラに勝気な笑みを見せる。そしてぼくの心を読んで、一緒に叫ぶんだよ、と言う。アルテラは同じく真剣な表情をして頷き、その時を待った。会話を聞いていたトォニィが、不安と緊張の入り混じった顔つきで二人を見つめる。
 リオは、なんだか遠い目をしていた。ジョミーはまだ気がつかない。そしてシロエは、ブルーに気がつかれてしまう前に。心に言葉を思い浮かべて、そしてアルテラと共に思いっきり叫んだ。
「たすけてピーターパンっ!」
「うわあああっ!」
「あ。ホント、だ」
 叫びが終るより早く、真っ赤な顔で走ってきたジョミーがアルテラをシロエを抱きしめる。ジョミーの腕の中で、アルテラは思いもしなかった劇的な効果に、呆然としながら呟いた。シロエはやっぱりねー、と面白がる笑みで大慌てのジョミーの頭を撫で、久々に呼ばれた感想はどうです、と聞いている。ジョミーは恥ずかしさで言葉が出なくなってしまったらしく、ただひたすら二人を抱きしめながら、うー、と言っていた。
 ひどい。シロエひどい、教えるなんて、と思念波がぐるぐるしているのをうっとおしそうに振り払い、シロエはけろりとした表情で告げる。
「だってこれ言えば、あなたどこに居ても走ってきて、居たたまれなくて恥ずかしくてぼくのこと抱きしめるから。ナスカのコたちには、ぴったりだと思って」
「なにが……なにがぴったりなんだよ、ばかシロエっ」
「バカって言わないで下さいよ、ピーターパン。ちょうどいいでしょう?」
 なにがっ、と恥ずかしくて仕方ない様子で叫ぶジョミーに、シロエはにっこりと笑った。
「そうでもしないと、あなたはブルーを忘れないんだから。たまにはブルー以外でも心の中をいっぱいにして、ぼくとかアルテラとか、トォニィたちの独占欲も満足させてくれなきゃ。あなたはぼくらの幸せをも願う、ソルジャーなのだから」
『私は呼びませんよ、ジョミー』
 にこっと笑ってフォローを忘れないリオは、すがりつくような感謝の視線を向けられて嬉しそうだった。それが気にくわなかったのか、見ていたトォニィがぼそりと呟く。
「グランパ……ピーターパン」
「やめなさいトォニィ。ほんとに、ほんとーにっ、それやめなさい」
 ほらぎゅってしてあげるからっ、と力強く抱きしめてくるジョミーに、トォニィは目をぱちぱちと瞬かせて。多少不満げな視線を送ってくるブルーに、にこりと笑いかけ、嫌、とだけ言い返した。

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