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 ひなどり

 さわさわ、と空気が揺れるのは、心無い噂話によってだ。ジョミーが船に来て一月とすこし。長老たちの一部、特にハーレイはジョミーを認め、ジョミーもハーレイを信頼するようになってきてから、少年に向けられる悪意はぐっと減ってきた。それはなにも、この船のキャプテンが異邦人を認めたから、ではなく。ジョミーがすこしづつ学び、ミュウに向けていた偏見の刃をやわらかいものにしてきているからだろう。
 教育とは、その人となりを作るのに最も簡単な道具だ。育っていく過程で植え付けられた知識は、本人の資質を問わず、常識と言う名の偏見を脳に蓄えこむ。ジョミーは今必死でその常識を疑い、考え、己の答えを一つ一つ積み上げている最中なのだった。本当に頑張っている、とリオは思う。未だ解けぬ緊張と、消えない悪意に、眠れぬ夜も多いだろうに。ちいさなあくびが、ジョミーの睡眠不足を証明していた。
 心配そうなリオの視線に気がついて、ジョミーはぱっと顔を赤くした。そして視線をさ迷わせながら、もごもごとごめん、と呟いて俯いてしまう。お見舞いに来ているのに、無作法だと思ったらしい。いいですよ、とジョミーに微笑みかけてやりながら、リオはまぶしいものを見つめる気持ちで背筋を伸ばした。さわさわ、と空気は揺れる。リオとジョミーが微笑みあう室内でも、扉を挟んだ廊下でも。さわさわ、さわ、と。
 それなのにジョミーは、それに気がついていない訳でもあるまいに、睡眠不足を感じる以外はまるで平気な顔をして椅子に座っているのだ。悪意に慣れたわけではないだろう。気にしていないわけでもないだろう。けれど他愛もない噂話を受け入れ、受け流し、背を伸ばしていられるくらいには、ジョミーは強くなったのだ。理解して、きているから。そしてなにより、生来の大胆不敵さと、落ち着きを取り戻したから。
 物思いにふけりかけるリオに、ジョミーはねえ、と呼びかけた。
「……痛い?」
 そっと、痛みを与えないように触れるだけの指先が、ギブスをはめられたリオの腕に触れていた。その仕草、その表情から、リオはまだジョミーが己の怪我を気に病んでいるのだと思い知る。いいえ、と首を横に振っても、ジョミーは嬉しそうな顔つきになるでもなく、静かにそう、と呟いて手を引いてしまうだけだった。ぎゅ、っとジョミーの手が握り締められるのを見て、リオはすこし目を閉じ、テレパシーを送る。
 最近ようやく、気をつければリオでもジョミーが受け取れるような、柔らかな思念波を出せることに気がついていたから。それこそ痛みや不快感を与えないように慎重に、真綿で包むような気持ちで、そっとそっと言葉を送る。
『私の怪我を、気に病む必要などありませんよ、ジョミー』
「で、も」
 歯切れ悪く、視線を向けることもせず、ジョミーは自責の念を強く感じさせる呟きを落とした。ミュウには体の欠損を持つものが多く、総じて虚弱体質の傾向にあると、ジョミーが知ったのはつい最近のことだ。それに伴って回復力が低く、免疫力も強いものではないのだと。それを知らなかったことは、悪いことではない。けれど知ってしまえば、過去の行いは罪悪感として、ジョミーの心に降り積もっていくのだ。
「もっと、上手に庇えて、たら……あの時、に」
 アタラクシアから脱出し、船に収容される一瞬に。加えられた攻撃から、もっと上手くリオを庇うことができていたのなら。今こうしてベットの上で横になっていることもなかっただろう、と言うジョミーに、リオはどう言えば伝わるだろう、と考えた。この、優しすぎる少年に。ミュウとして育ち始めたひなどりのような存在に。どうすれば言葉は、伝わっていくのだろう、と。思いながらリオは、ゆっくり首を振った。
『あなたは、私に怒ってもいいくらいです。庇ってやったのに、怪我をして、と』
「そんなことっ」
 がんっ、と激しい音を立てて、蹴飛ばされるように転がった椅子が床に倒れる。にわかに悲鳴を上げて騒ぐ医療室の者たちに目もくれず、ジョミーは怒りにキラキラと輝く新緑の瞳で、リオを強く睨みつけた。
「そんなこと、絶対に思わないっ。ふざけるなよっ……」
『いえ。一応、本気なのですが』
「なお悪いよっ。リオの、ばかっ。すごくばかっ」
 あのねぇっ、と怒りを瞳に宿したままで腕を組み、ジョミーは苦笑するリオを見下ろした。
「た……助けてくれた相手を、助けられる時に庇ったって、それだけのことだろ? だから」
 二度とそんなこと言うな、と苦しそうに言ってくるジョミーに、自由に動かせるほうの腕を伸ばして。リオはにっこりと笑いながら、ぽんぽん、とジョミーの頭を撫でた。そしてええ、と笑う。きょとん、と目を瞬かせるジョミーに、リオはにこにこ笑いながら言葉を送った。
『それだけのこと、ですから。ジョミーが気に病むことはありません』
「……ねえ、リオ。もしかして、騙した?」
『いいえ。まさか、そんなこと。それに、あえて言うなら騙した、ではなく、図った、です』
 ふふ、と楽しそうに肩を揺らすリオに、ジョミーはがっくりと脱力して椅子を立ち上がらせ、そこに腰を下ろした。そして上半身をベットに投げ出してくるので、リオはサラリと揺れるジョミーの髪を指ですいてやる。くすぐったそうに目を細めながら、ジョミーは図られた、とつまらなさそうに言った。
「ブルーに言いつけてやる」
『止めてください』
「じゃ、ハーレイにする」
 間髪いれず言い直したジョミーに、リオはそっちも止めてください、と言ったのだが。やっとテレパシーの受信が出来るようになったジョミーが気がついていないだけで、ブルーもハーレイも、船内のミュウたちも、とっくに二人の会話や考えなどは把握していた。こどもっぽい言い合いが、ツボにはまったのだろう。船橋でハーレイが笑いを堪えているのに、冷たい視線が投げかけられる映像を、リオは受け取っていた。
 ブルーがどんな反応をしたかだけは、よく、分からないのだけれど。指通りの良い髪をもてあそびながら、リオはやめてくださいね、と子守唄の続きを告げるように囁いた。それにジョミーは不満そうな顔つきをしながらも頷き、体を起こす。時計に視線を走らせるのは、このあと、長老たちの授業の予定があるからだ。遅れて怒られては敵わない、と時間の余裕を持って、ジョミーは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、リオ。また、来るから」
 さわ、と空気が動く。さわさわ、さわ、と。消えぬ悪意に、たったそれだけの言葉でも、空気がちいさな針を孕み、揺れ動く。ジョミーはそれに気がついていないわけではないだろうに、痛みを覚えぬわけではないだろうに、微笑んでリオを見ていた。じゃあ、と言い残して去っていこうとするその姿が、不意にリオはたまらなくなって。気がつけば手を引いて呼び止めていたことを、リオは振り返った視線で気がついた。
「……リオ?」
 なにか、とリオの体調に対する不安にだろう。揺れる声と瞳に、リオはなぜ呼び止めたのか、その理由を見つけ出した気がした。コツコツと、殻を突き始めたひなどりのミュウ。強い力を秘めた少年。ジョミーは、こんなにも優しくて、こんなにも強い。けれど、誰かを案じるあまり、すぐに心を乱す弱さも持っていて。問いかけに答えず、無言でリオはジョミーの手を引いた。そして右手の甲に、そぅっと口付ける。
 一瞬の空白があった。ばっと手を取り返したジョミーは、真っ赤な顔で口を動かし、な、え、と言葉にならない声を発していた。見守っていた船内の者たちも、一様に凍り付いてしまって奇妙な静寂が降りている。オロオロと視線をさ迷わせるジョミーに、にっこりと笑って。リオは挨拶ですよ、と囁いた。
『敬意と親愛を誓う、ほんの挨拶です』
「み……ミュウって、ミュウってっ」
『ジョミー?』
 なんの感情にか目に涙をため、ジョミーは小刻みにからだを震わせながら、真っ赤な顔を虚空に向けた。
「なんでこんなんばっかなんだよーっ」
 そのまま病室の扉を荒々しく開け、ジョミーは振り返らずに走り去ってしまった。道を見て走っている様子ではなかったので、またどこかで迷うことだろう。誰かが迎えに行ってくれればいいのだけれど、と過保護な心配をしながら首をかしげて、リオはふと浮かんだ疑問に眉を寄せた。こんなんばっか、とは、なんだろう。ん、としばらく考えて、リオは呆れの視線を宙へと向けた。考えるまでもないことに、気がついて。
「ソルジャー・ブルー」
 あなたですね、と断定系の問いかけに、答える声が響くことはなく。ただジョミーが走り去っていったことで立った風の中に、薄く、薄く。ふうわりと、金木犀の花の香が紛れ込んでいた。

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