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 灼熱の花が咲く

 地図を頭に叩き込むまで、わきめを振らずに走ったりするのは止めなさい、とハーレイに言い聞かされたのは二日前のことだ。その理由は、まだテレパシーを上手く受け止められないジョミーだから、迷った場合に誰も助けられない可能性がある為である。ジョミーに対して好意的な者が増えてきたとはいえ、ミュウたちはまだ圧倒的にその存在を受け入れてないのである。多少の嫌がらせなら、ためらわず行う。
 それはミュウが特別意地悪だから、というわけではない。人間たちも同じだろう。気に入らない者をつまはじきにする時、嬉々として手を組んで行動する者はどの世界でも、どの人種でもたくさんいるのだ。存在を包み込んで、感知できないようにされてしまうんですよ、とハーレイは言った。そうされてしまった場合、よほど集中しても見つけ出すのには時間がかかるのだ、と。長々と言い聞かされたばかり、なのだが。
 ジョミーは見覚えのない景色を瞳に映し、がくりと肩を落とした。忠告を忘れてしまったことに情けなさを感じると同時に、完全に位置が把握できない現状に不安にもなる。ジョミーが今いるのは、船内にある自然公園の一つだった。こどもたちが遊びまわるスペースとして、また大人たちの憩いの場として、船内には植物をふんだんに使用した公園や広間がたくさんあり、ありすぎてそのどれと分からないのである。
 せめて特徴的なものはないかと目を凝らせば、その公園がこどもたちの遊び場ではないことがすぐに知れた。走り回る平地がほとんどなく、足元にある道は細い。花壇には可憐な花が咲き乱れ、背の高い植物や木が多い。見通しの良い、植物園的な役割を持つ場のようだった。こういう場所もあったんだ、とジョミーは感心したが、そのことからも明白なように、見覚えもなければ記憶にも引っかからない場所だ。
 とすると選択肢は二つ。助けを待つか、自力で約束の時間までにハーレイに指定された教室までたどり着き、授業を受けるか、なのだが。無言で腕時計に目を落とすと、約束の時間までは残り十分だった。無理だ、と即座に諦めて、ジョミーは深呼吸をひとつ行う。そして、すこしだけ服が汚れてしまうことを気にしながらも、柔らかな草の上に腰を下ろした。船内であるのに吹き抜ける風が、とても気持ち良い。
 目線を低くして改めて見回すと、人が居ないのが不思議なくらい綺麗な空間だった。ちょうど見ごろの花たちは競うように咲いていて、目にも楽しいし、なにより心地よい香りがする。それでもその香りは、ジョミーが知る金木犀のそれよりは心弾ませるものではなかったし、落ち着きを与えてくれるものでもなかったのだが。何気なく右手の甲を見つめ、ジョミーは再び顔を真っ赤にして、膝に額を押し付けてしまった。
「……なにあれ恥ずかしい」
 かすかに、唇が触れただけ。それだけなのに、思わず逃げ出してしまいたくなるくらいの恥ずかしさが全身を駆け巡った。なにかを叫んだような気もするが、上手く思い出せない。うぅ、とちいさくうめいて、ジョミーは無意識に手を頬に押し当てた。そして、ぎゅぅっと目を閉じる。
『ジョミー』
 それは、一体どんなタイミングなのだろうか。まさしく思い描いていた者の声に、ジョミーは慌ててまぶたを押し上げた。するとそこには、どことなく不機嫌そうなブルーが、青白い燐光をまといながら立っていて。その光でブルーが思念体だということを確認し、ジョミーはつと視線をそらしてしまった。するとブルーは秀麗な眉をすぅと寄せ、指先でトン、とジョミーの肩を押す。強い力ではなかった。けれど、弱くもない。
 なんの用意もしていなかったジョミーの体は、加えられた衝撃にとても素直に従い、草の上に仰向けになってしまった。不思議に思い、起き上がろうとするジョミーの動きを封じるように、ブルーの手が顔の両側に落とされた。腕によって視界がぐっと狭くなり、ジョミーは見える世界はブルーの紅玉の瞳と不機嫌そうな表情のみになる。思わず魅入られ、瞳をじぃと見つめてくるジョミーに、ブルーはすこし微笑んだ。
 それはやわらかで暖かな、いつもの微笑みだ。それでいてうっとりと甘い、蜜のようなものも含まれている。え、と呟いて頬を赤く染めるジョミーを見下ろし、ブルーは穏やかな口調で声を響かせた。
『……あまり、心を乱れさせないでくれ。どうしていいか、分からなくなる』
 なにが、と。ジョミーは問う時間は、与えられなかった。目を閉じたブルーは動かないジョミーに向かって身を屈め、いつものように頬へ口付けを送る。慣れてしまった、けれどたまらなく恥ずかしい感触に、ジョミーは思わずブルーの肩を手で押していた。けれど、わずかも動くことがない。驚きに目を瞬かせるジョミーと視線を合わせて、ブルーは肩に触れたままのジョミーの手を、宝物を扱うかのようにとった。
 そして、ひどくゆっくりとした動きで、唇を落として。触れ合わせたままで目を覗き込み、あまやかに微笑みかけてくる。右手の甲にも、左手の甲にも口付けられて、ジョミーはもう動くことが出来ない。くたりと体から力を抜いて横たわり、目をそらすことも出来ずに、ただブルーの与える甘くて切ない刺激に耐えるだけだ。それは、痛くもなんともないのだけれど。唇を硬く閉ざさなければ、なにか叫んでしまいそうで。
 最後に。もう一度頬に唇を落として体を起こしたブルーは、ジョミーを優しく見下ろして微笑んだ。
『リオは、敬意と親愛を口付けに乗せたようだけれど』
 伸ばした指先で、愛しむようにジョミーの額や頬を撫でて。ブルーはすこし、ため息をついた。
『それでも、ジョミーがあんな反応をするから』
「だ……って、ぼくは」
『うん?』
 途切れてしまった言葉の先を、ブルーはあくまで優しく促した。その視線も、表情も、声も、どこまでも本当に優しくて。だからこそ直視できなくて、ジョミーはうろうろと視線をさ迷わせながら、ぼそりと言った。
「あなたを、思い出したから……っ」
 むせ返るほど、強く香るのは金木犀の香りだろうか。停止しかかった頭でそれだけを考えて、ジョミーは大きく息を吐き出した。不意に強く、強く抱きしめてきたブルーの腕の中で。熱を秘めた心を自覚して、ああ、と一人ごちる。胸の中に、灼熱の花が咲こうとしている。その花の名前を、ジョミーは未だよく分からないのだけれど。抱きしめてくれる腕と全身を包み込む香りは、幼い頃から慣れ親しんだものだったから。
 嬉しくて、安心して。ジョミーはブルーの肩に頬を摺り寄せて、そっと目を閉じた。

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