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 ストレリチア

 清涼な歌声が、そぅっと流れて消えていく。言葉が空気を揺らさないのは、思念波によって紡がれるものだからだ。響かずこもる、やさしい子守唄だった。どこか不慣れさを感じるのは、歌を紡ぐリオ自身に、それを聞いた記憶が無いからだろう。それでも歌うことが出来るのは、ジョミーの中の記憶があまりに鮮明だからだ。そよぐ風にわずかに髪を乱されながら、ジョミーは安らいだ表情をして眠り込んでいる。
 リオはそんなジョミーを背中側から軽く抱きしめるようにして、胸を枕にさせながら寝かしつけているのだった。歌を送られる側が眠り込んでしまっているのだから、本当ならもう子守唄の必要はないのかも知れないが、それでもリオがたどたどしくも優しく歌っているのは、それを覚えてしまう為だった。いくらミュウがテレパシーによって記憶を共有できるからと言っても、繰り返す経験に勝るものではないのである。
 そっと、そっと紡がれていく、ジョミーが望んだ子守唄。記憶に残るやわらかな愛の記憶を、なにより象徴するもの。養父母に育てられたとはいえ、それでもジョミーは心から愛されていたのだった。万華鏡のように移り変わっていく断片的な記憶たちは、そのどれもが愛おしさにキラキラと輝いていてまばゆいばかりで、リオにはすこし眩しいくらいだ。揺れる記憶の中で、一時も途切れず子守唄は響いている。
 母親の、声だろう。現実ではリオが紡ぐ歌を、眠るジョミーの心は育ててくれた母の記憶と結びつけ、再生しているらしかった。ほんのすこし悔しい気持ちを持ちながらも、リオはその思念を丹念に拾い上げ、取り込む子守唄を確かなものにしていく。そうすればいつか、眠るジョミーが聴く歌は、リオの声へすり替わるだろう。すぅ、と安らいだ寝息を響かせ、ジョミーがほんのすこし身動きをした。けれど、目は覚めない。
 それは紛れもない、信頼の証だった。意識がない状態でこれほど体を預けているのに、目を覚まさないということは、リオは完全にジョミーに頼られ、信じられているということだ。よしよし、と先日やっと完治した腕を動かしてジョミーの頭を撫でてやりながら、リオはその顔をじっくりと眺める。数日前までクッキリとあった目の下のクマは、ずいぶん薄くなっていた。肌荒れもない。顔色も健常者のそれになっている。
 つまりジョミーは普段でも眠れているし、食事状態も満ち足りている、ということだろう。すこしくたびれてきたジョミーの服だけが、衣類に関してはまだ不自由している事実をリオに教えてくれたのだが。ここ何日かで、船内のジョミーに対する意識はぐんと良くなってきた。船長であるハーレイがジョミーを認めて、可愛がり始めたことが大きいだろう、とリオは踏んでいる。ジョミーも、それを受け入れているようだ。
 傍から見ると父と子のようにも見えるふれあいを思い出し、リオは思わず微笑んだ。あの様子なら、放っておいてもハーレイもジョミーの服に関して早晩気がつきそうだ、と思って。待ってやるつもりはないので、もうすこししたらハーレイあてにテレパシーを送るつもりなのだが。肩の力を抜いた息を吐き出して、気がつくか気がつかないか、ということは時に本当に重要なのだ、とジョミーを見てリオはしみじみ思い知る。
 それは知るか知らないか、とも言い換えることが出来るだろう。理解するか理解しないか、とも言えるかも知れない。また、見えるか見えないか、でもあるのだろう。ジョミーの心やそれを取りまくものはミュウには複雑で分かりにくくて、テレパシーなどでは到底掴みきれるものではないのだ。だからその目で見て、心そのものではなく本人に触れて、話をして知って行くこと。それが本当に繋がる唯一の道なのだと。
 はやく他のミュウたちにも知ってほしい、とリオは思う。その為には大変な苦労が必要だろうし、知っていく過程で双方が傷つけあうことも多いだろうけれど。そんなささいな傷などは全部、リオが防いで守って見せるから、どうか。分かって欲しい、と思いながらジョミーの寝顔を見つけるリオの耳に、草を踏み分けて来る足音が届いた。二人の安らぐ部屋はすこし変わっていて、広大な草原が作り上げられている。
 上を見上げれば天井ではなく、硝子張りの窓になっていて、そこからは遥かに広がる青空が眺められた。そのあまりの開放感が掴まりどころのない不安を呼ぶのか、ミュウたちの、特に大人には不評で、滅多に訪れる者などないというのに。かすかにため息をついたリオは、ジョミーを守るように体に腕をまわして抱き寄せ、それから足音の響いてくる方に視線を向けたのだが。その警戒は、全く無意味だった。
 草を踏む白いブーツに、特徴的な藤色のマントが風に揺れる。手袋とチュニックは、ブーツと同じ白。その他は体にぴったりと合う黒い生地の、特徴的な服をまとった、銀糸に紅玉を宿す美しき指導者。ソルジャー・ブルー。その人だった。しかも驚くべきことに、思念体ではなく生身だ。最近は船の中でさえ、滅多に出歩くことのない筈のブルーである。それがなぜ今生身で、とリオは思わず眉を寄せてしまった。
 長く続かせていた子守唄を、そこでやっといったん途切れさせ、リオは静かな思念波でブルーに語りかける。なにかありましたか、と。しかしブルーは答えずに首を横に振るだけで、ただじっとリオと、その胸に抱きしめられて眠るジョミーを見つめていた。つられて、リオも腕の中に視線を落とす。ブルーが来たことにも気がつかないで眠るジョミーは、夢の中でまどろんでいるようで、一向に目覚める気配がなかった。
 ソルジャー、と困惑気味な思念で呼びかけてくるリオに、ブルーはかすかに苦笑したようだった。そうと確信できないのは、表情を見る前にブルーが草の上に座り込んでしまった為だ。ふわりと風を抱く動きは優美で、リオはすこし感心した気持ちで動作を眺める。久しぶりに出歩いて、疲れたのだろうか。ブルーは大きく息を吐き出すと目を閉じ、やがて落ち着いた空気をまとってまぶたを押し上げる。
「いつも、そうして?」
 唐突な質問がさす事柄を、リオは数秒間理解できなかった。しかしブルーの視線が向く方を見るうちに、なんだかおかしくなってクスリと笑う。二人分の視線に見つめられても、ジョミーは安らいだ寝顔をさらしていた。しかし、わずかに居心地が悪くなったのだろう。ほんのすこし眉を寄せ、視線から逃れるようにリオの胸に頬をこすりつけてくる。ぽんぽん、と優しく頭を撫でながら、リオはそうですね、と言葉を返した。
『時々、でしょうか。お見舞いに来ると、三回に一度くらいは眠ってしまうことがあります。外でこうするのは、はじめてなのですが。夜に、やっと眠れるようになったとはいえ、疲れているのでしょう』
「すこし、無防備すぎる」
 気配が増えても目覚めないとは、と言うブルーに、リオは微笑を浮かべて思念を飛ばしかけ、しかしなにも言わずに止めてしまう。それは来たのがあなただからですよ、という言葉は、どうしても送れなかった。なんとなく、しゃくだったからである。それに、信頼されているのはあなただけではないのだ、と余計なことまで告げてしまいそうで、怖かったからだ。気持ちを宥めるように、リオはジョミーの髪を撫でる。
『守りがいがある、とは。思えませんか』
「リオは、ジョミーを大切に思っているのだね……良いことだ。ジョミーにとっても」
 心和らぐ相手が傍にいる、と囁いて。ブルーは穏やかな表情でジョミーを見つめた。その視線の邪魔をしないよう手を退けたリオに、ブルーはすこしだけ目を細めて。ゆっくり立ち上がりながら上体を傾け、ブルーはジョミーの頬に口付けを落とす。耳元に囁いた言葉は、安らかな眠りを祈るものだろう。ふわっと立ち上る金木犀の香りに、ジョミーのまぶたがかすかに動く。ブルーの指が、まぶたの上を撫でた。
 まだもうすこし眠っていなさい、ということだろう。ゆるやかな覚醒に向かっていたジョミーの意識が、それだけでことりと夢に落ちたのを感じ取り、リオは思わず苦笑する。結局ジョミーは、ブルーの言葉に導かれるのだと。夜の眠りにも疲れを残してしまうくらい、必死に勉強しているのはブルーの為だ。この船のどこかにいる『ソルジャー・ブルー』の元へ、たどり着く為に、ジョミーはミュウたちを理解しようとしている。
 眠りから覚めようとしたのは、追い求めるブルーの香りが夢の中まで届いた為。けれど再び夢に包まれたのは、そのブルーが眠りを望んだ為だ。敵わない、と笑って、リオは背を向けて去っていくブルーを見送る。
『はやく、出会えるといいですね』
「焦りはしないさ」
 静かな幸福に満ちた声で、ブルーは立ち止まって呟く。その瞬間不意に、流れ込んできた意思により、リオはブルーの気遣いを知った。現れてからずっと、ブルーはテレパシーではなく肉声で言葉を紡いでいた。それは、未だ能力が不安定なジョミーの体を気遣ってのことだ。普通のミュウよりずっと過敏に、ジョミーはテレパシーを受信してしまう。それは本人にもコントロールがきかず、過剰な意思は体を痛める。
 ブルーの思念波は、どんな時にでも、誰にであっても優しい。特にジョミーには、本当にやわらかに向けられる。だからこそブルーの思念波で、ジョミーが痛みを覚えることなど、ありはしないのだろうけれど。万一、可能性のひとかけらを憂慮して、ブルーは言葉を使っているのだった。それが出来ない己に歯がゆさを感じるリオに、ブルーは申し訳なさそうな表情になる。傷つけたいわけではないのだ。
 それがリオであっても、ジョミーであっても。心痛ませたいわけでは、ないのだ。ふぅ、と息を吐き出して、ブルーは目を伏せた。しかし不用意な謝罪を向けることはせず、焦りはしない、と再び言葉を繰り返す。
「本当は、ずっと出会っていたのだから。ただもう一度、本当に出会うことを、いまさら焦りはしないさ」
 生まれた瞬間からずっと見守っていたブルーだからこそ、告げられる言葉だった。どれ程喜びを感じていたかを知るリオは、苦笑を浮かべて頷いてやる。それに微笑を返して、ブルーはゆっくりとした足取りで部屋を出て行った。その背を扉が閉まるまで見送って、リオはけれど、と一人言葉を思い浮かべる。
『それでもジョミーにとっては、きっと』
 なにより尊い出会いなのだろう、と。リオは眠るジョミーの髪を撫でて、慈しむように目を細めた。

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