甘い、蜜の香りがした。それはジョミーに寄せられる金木犀の香りに良く似た、けれどかすかに違う、と違和を感じるもので。思わず本から顔をあげ、目を瞬かせるジョミーにハーレイが眉を寄せる。その表情が、集中しないのを怒っているわけではないと、気がついたのはいつのことだっただろうか。なにかあったのか、と心配してくれている表情なのだ、と正確に読み取って、ジョミーはまっすぐにハーレイを見返した。
けれど、上手く説明の言葉が出てこない。いつもソルジャー・ブルーがまとって現れる花の匂いと良く似た、けれど違う花の香りがした、などと、口にするだけでもなんとなく恥ずかしくて。ええと、と言って口ごもるジョミーに、ハーレイはすこしばかりため息をついた。
「ジョミー。なにかあるなら言いなさい、と教えてあるだろう」
「は……な、の」
花の、香りが、と。言葉に詰まりながら視線をさ迷わせ、なんとか不審がられない程度の言葉を紡ぎだしたジョミーに、ハーレイはああ、と言って目を和ませた。そしてそのまま視線を動かし、室内のある一点でぴたりと静止させる。素直に視線を追ったジョミーが見たのは、花瓶に生けられた木の花だった。可愛らしいちいさな花が、薄紫に色づいて上品に置かれている。香りは、そこから漂っているようだった。
多くの少年がそうであるように、ジョミーもまた花の種類や名前などについて、さして詳しいわけではない。その花にも見覚えがなかったのだが、それでもほんのわずか、ジョミーは眉を寄せた。見覚えはない。しかし、似ていると思ったからだ。金木犀に、よく似た花だった。ちいさな花の色を薄紫ではなく、明るい黄に染め替えればそのものだと見間違えることだろう。それでも、香りで違うとは分かっただろうが。
そこでふと、ジョミーはブルーと金木犀の香りの関連性について、なにも知らないことに気がついた。以前リオに尋ねた時は、香水ではない、ということしか教えてくれなかったのだが。今冷静になって考え直してみると、リオはなにかを含んだ微笑を浮かべていた。当たらずとも遠からずだったのではないだろうか。んー、と考え込むジョミーの目の前でひらひらと手を振り、ハーレイは大きく息を吐く。
「質問は、口に出して。思考を読んでもいいが、プライバシーもあるだろう。授業に関わりないものでも構わない」
「……ソルジャー・ブルーは」
ほとんど無意識に、そう呟いたのだろう。ぱっと反射的に口をつぐんで、ジョミーは深く息を吐き出した。そして違う、と己の内側に対する否定に、首を横に振った。その内心を、ハーレイは読まずとも分かった気がして視線を外す。本当は、聞いてしまいたいのだろう。『ソルジャー・ブルーがこの船のどこにいるか』ということを。もしジョミーに居場所を聞かれれば教えてもいい、とハーレイはブルーに言われていた。
ただ、聞きはしないだろうけれど、とジョミーを可愛らしく思っている微笑みつきだったのだが。それは、ジョミーが一途だからだ。まっすぐで、ひたむきな性格だからだ。人に聞く、という行為によって見つけ出し、辿りついても嬉しくないと、それ所か後ろめたさを感じてしまう心根の持ち主だからこそ。絶対にジョミーは、ブルーの居場所だけは聞きはしないのだ。その他のどんなささいなことを、口にのせようとも。
己に対して悔しがる息をひとつ、吐き出して。ジョミーはぱっと顔を上げ、ハーレイに向かって再度口を開いた。
「ミュウたちは、でも構いませんが。花が好きなんですか?」
「全体的な好みとして、嫌いではないと思うが。私個人の好みであれば好きで、ソルジャーもお好きだろう」
そう聞きたかったのだろう、と笑うハーレイに、ジョミーは苛められたような顔つきになってしまった。すこし拗ねた様子で睨んでくるのに笑って、ハーレイはぽん、とジョミーの頭を撫でてやる。すこしクセのある、しかしサラリと指を抜けていく髪は花が愛する木漏れ日の金だ。育てたりもするんですか、と拗ねた口調のままで問いを重ねるジョミーから手を話して、ハーレイは静かに微笑む。
「ああ。ソルジャーは、あれで意外と植物を育てるのがお好きだから」
「だっ、誰もブルーがそうなのかなんて聞いてないっ」
きゃんきゃんと甲高く吠え立てる子犬のように叫ぶジョミーに、ハーレイはわざとらしく片眉を吊り上げて見せた。でも、聞きたいのだろう、とことさらゆっくりと言ってやれば、ジョミーの顔はみるみるうちに赤くなっていく。立ち上がりかけた椅子に座りなおす音が、やけに大きく響き渡った。半開きの本に顔をうずめて、ジョミーは意地悪だ、と脱力した声で呟く。そして恨めしげな視線が、ハーレイを睨みあげた。
「……ブルーが好きな花ってなんですか」
それでも聞いてくるから、至極可愛らしい。思わず笑いに吹きだしかけたハーレイは、ジョミーの冷たい視線を受けて咳をすることで誤魔化すと、いくつかある筈だが、と記憶を呼び起こす。本人に直接テレパシーで問いかければ確実なのだが、こんな時に限って最長老は完璧に意識を遮断する、深い眠りに入ってしまっているのである。呼びかけても起きないだろうし、しばらくは寝ぼけて使いものにもならないのだ。
同時に、頼りになるリオも眠ってしまっている。こちらは呼びかければ起きるだろうが、後が怖いので緊急時以外、なるべくやりたくないのだった。結局己の記憶にのみ頼って、ハーレイはそうだな、と呟きながら先程の花瓶を目で指した。薄紫の可憐な花は、応えるようにふわりと香る。その香りを胸いっぱい吸い込みながら、ジョミーはハーレイの言葉を待った。胸にある予感に、落ち着かない気分になりながら。
ハーレイの、船橋で命令を下す静かな、張りのある声が告げていく。
「ライラック。あれもお好きだ。白や紫のヒヤシンスと、あとは……ああ、金木犀」
本を持つ指先が震えるのを、ジョミーはハッキリと自覚した。やはり、という想いと、なぜ、という疑問が入り混じって思考が定まらない。わずかばかり息をつめて緊張するジョミーに、ハーレイは淡々と告げていく。
「甘い香りの立つ花がお好きだと記憶している。一番お好きなのは、やはり金木犀だろうが」
まったく仕方のないお方だ、と微笑ましさをにじませながら言うハーレイは、その理由を知っているのだろう。どことなく横顔がげっそりしているのを不思議に思いつつも、ジョミーはハーレイに目を向けた。そして勤めて静かな口調を作りながら、なぜですか、と問いかけた。ハーレイはなぜか不思議そうに目を見開いたあと、納得したように頷く。覚えていないのか、とかすかな呟きは、ジョミーには聞こえなかった。
そうだな、と言葉を捜してハーレイの目が宙をさ迷う。
「たとえば、ジョミー。君がソルジャーから、なにか贈り物をされたとしよう。想像したまえ」
その贈り物が、もし、と。重大な秘密をそっと打ち明ける表情で、ハーレイは笑った。
「興味を持たないものであっても、ソルジャーからの贈り物、というだけですこし好きになれないかな?」
「好きに、なれると思いますけれど」
それとこれと、なんの関係が、と首を傾げるジョミーに、ハーレイはそういうことだよ、と言葉を結んでしまう。もう教える気がない、ということだ。後は自分で考えなさい、と教師役らしい台詞で一連の質問をしめくくったハーレイに、ジョミーはずるい、と言いたげな視線を送って。そして後でゆっくり考えよう、と意識を目の前の勉強へと切り替えた。そして多少てこずりながらも、与えられた本を読む作業に戻っていく。
今日中に読むだけは終らせてしまいたい、と意気込む本の残りページは三十枚ほどだろう。集中してしまえば、すぐにではないが時間を考えれば終る程度だ。勉強の時間は四時まで。二時をすこし回ったばかりの時計を視界に納め、ジョミーはよし、と気を取り直したのだが。その矢先、ハーレイがやけに面白そうな声で一つ教えてあげよう、と言葉を落としてくる。
「ライラック。白や、紫のヒヤシンス。そして、金木犀。それらには、共通するものがある」
「え?」
「考えたまえ。分かれば、きっと」
ソルジャーはお喜びになる、と。なぜか笑いを堪えて告げるハーレイに、むっとした顔を見せて。ジョミーはそれなら早く調べてしまおうと、本棚から花に関する本を数冊抜き出して、目を通し始めたのだが。それは大きな間違いだったと、ジョミーは約一時間後に知ることになる。恥ずかしくて、心が乱れて、とてもではないが読書に戻る気分になれないのだ。ハーレイが告げた花の共通点。それは、花言葉だ。
ライラックも。白や紫のヒヤシンス、金木犀も。ソルジャーが愛する花には、どれもみな、甘やかな言葉がつけられていて。『幸せ』や、なにより『初恋』を意味するものばかりだった。すっかり赤くなってしまった顔でハーレイを恥ずかしまぎれに睨みあげながら、ジョミーはこれで喜ぶってどういうことですか、と消えそうな声で問いかけたのだが。ミュウたちの船のキャプテンは笑うだけで、とうとう答えてくれなかった。