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 夢の通い路

 夜の帳は世界だけではなく、まぶたにも下りてくるものなのだろうか。昼間もずっと横になっているというのに、夜になればそれでも眠くなる体に呆れつつ、ブルーはやけにすっきりとした思考で目を覚ました。深夜のこと、である。身の内の感覚も、体を起こして見た時計も、時間がまったくの深夜であることを示している。なにか起きたのだろうか。かすかに眉を寄せて、ブルーは静かに船内の様子を探った。
 船全体に張り巡らされ、包み込む思念を悪戯に刺激してしまわないよう、そっと。撫でるように柔らかく探って、ブルーはそこになんの異常もないことを確かめた。急病人が出たわけでも、船の動力がおかしくなったわけでもない。いつも通りの、静かな夜だった。そうすると、と無意識の笑みを浮かべて、ブルーは目を閉じてジョミーの様子を探る。仲間たちに異変がないのなら、ブルーが目覚める理由など一つだ。
 また眠れていないのだろうか、という心配はすぐに霧散する。昼間、リオから預かったナキネズミを胸に抱き寄せて、ジョミーは安らかな表情で眠り込んでいた。その頬に触れたい衝動を笑みで散らしながら、ブルーは首を傾げた。ジョミーにも異常がないとすると、目覚めた理由がまったく分からない。思考に沈みかけるブルーの意識を、琴糸を弾くような、かすかな衝撃が通り抜ける。ああ、とブルーは微笑んだ。
 やはり、ジョミーだった、と。顔をあげて視線を向けた先、誰もない部屋の空気が、金色の鈍い光に揺れている。それはまるで、雪や花が降るように頼りなく、どこか遠慮がちに。くすくすと笑って、ブルーはやんわりと笑いながら寝台を立ち上がった。そして光を抱きしめるように腕を回してジョミー、と囁く。
「大丈夫だ。ジョミー」
 さあおいで、と。招く言葉に、光がざわりと音を立てて揺れる。潮騒を思わせる残響を耳に残し、光がゆっくりと人の、ジョミーの形を取った。嬉しく微笑みかけるブルーに、無意識に思念体を飛ばしたジョミーはぱちぱちと目を瞬かせ、やけに幼い仕草で首を傾げる。目の焦点がぼんやりとさ迷っているのを見るだけに、体が眠るのにあわせて寝ぼけてしまっているらしい。感覚としては、夢を見ているのに近いだろう。
 夢を見て。その中でも、ブルーを求める気持ちが、無意識にジョミーの思念体をブルーの元へと導いたのだ。それは胸に抱いて眠る、ナキネズミのおかげなのだろう。ジョミーの能力を安定させる手助けをするナキネズミの存在が、思念体を作り出す手助けをしたのだ。これならば、本当に会いに来る日も近いだろう、と。ブルーは寝ぼけて不安そうな顔つきになるジョミーをそっと抱き寄せ、大丈夫、と繰り返した。
「これは……夢だよ、ジョミー。夢。ただの夢だ。だから、なにも不安に思うことはない」
「……ゆめ」
 たどたどしく繰り返すジョミーに、ブルーはそうだ、と穏やかな表情で頷いた。本当のことを教えてやりたいとも思うのだが、体より先に心がブルーの元へ辿り着いたと知ったら、しかもそれが無意識の産物だとしたら、ジョミーはひどく傷つくだろうから。ジョミーがブルーに会いに行こうと、必死に努力しているのをブルーは知っている。だからこそ、これは夢でいいのだと。夢にしてしまえと、ブルーは囁いた。
 幸い、ジョミーは寝ぼけているせいで思考がハッキリしないらしい。ぼんやりした表情でゆっくり目を瞬かせ、夢、とブルーの言葉を繰り返しては首を傾げたりしている。違和感があって、すぐには言葉を受け入れられないらしい。しかしブルーが繰り返し言い聞かせれば、やがてジョミーは素直に受け入れ、夢だということを納得した。元々ジョミーは、ブルーの言うことを本当に素直に聞き入れるのである。
 いいコだね、と頭を撫でてやれば、ジョミーは昼間の勝気な様子が嘘のように、ブルーの手に擦り寄ってきた。そして腕を伸ばしてぎゅっと、ブルーには息苦しいほどの力で抱きついてくる。ブルー、ブルー、と繰り返し呼ばれる声は、甘えと信頼に満ちていて。ブルーは目を閉じて幸福を噛み締め、よしよし、とジョミーの背を撫でてやった。大丈夫、いなくならない、ちゃんとここに居る、と。分かるまで教え込む為に。
 やがて、気の済むまで抱きしめて落ち着いたのだろう。息を吐いて肩に額を乗せてくるジョミーに、ブルーは甘く微笑んだ。そしてぽん、と背中を軽く叩くことで顔をあげさせ、額同士をくっつけて目を覗き込む。至近距離で見るジョミーの瞳は、ブルーの記憶にあるものと同じ、まばゆいくらいに美しい翠だった。普段、思念体で見ているのとは違う感動が、じわりと湧き上がってくる。相手が、今は思念体であっても。
 ジョミー、と愛しさにあふれた声がひっそりと空気を揺らす。至上の幸福を称えた翠の瞳が、笑みを灯してふるりと揺れた。ブルー、ブルー、と甘えた声で何度も呼んで、ジョミーはブルーの胸に頬をこすりつける。そして眠るように目を閉じて、ジョミーは暖かい、と笑った。
「会いたかった、ずっと。夢でもいい。夢の中でも会いに行きたいと思ってた」
 夢だから、と。それが免罪符のように呟いて、ジョミーはじゃれつく猫のように、思うままブルーに甘える。そこに、昼間に見える恥ずかしさは感じ取れない。本当に夢だと思っているから、相手に伝わらないことだと思っているから、ジョミーは恥ずかしがらずに嬉しがることが出来るのだろう。髪を手で梳いてやりながら、ブルーは透明な笑みを浮かべる。夢で見たいと願う、望みが甘えることだというのであれば。
 陽だまりの中で眠る猫が、うっとりと眠るように。甘やかして、甘やかして、愛してやることこそ、ブルーの望みだ。傍に居たい、ずっと居たい、離れたくない、と流れ込んでくるジョミーの思考を受け止め、ブルーは悟られない程度苦笑した。ジョミーはブルーを求めてくれている。それが真実で、嘘偽りのない感情なのだろう。けれど。足りない、と思ってしまうことは、浅ましいのだろうか。それでは、足りないのだ。
 今のジョミーがブルーに持つ感情は、柔らかな憧れ。それは幼い頃より見守ってきた者に向けるに相応しい、無垢の信頼と思慕から来る感情なのだろう。生まれ育った地から引き剥がされて、その不安や恐怖をブルーへの憧れに変えて。会いたいと、願い続けて。単純にそれだけではないにしろ、中核を担う感情は親に向けるような思慕なのだ。悪いことではない。それも、ブルーが望んだことではあるのだから。
 足りないのだ、けれど。うつらうつらと意識をまどろませ始めたジョミーの頬に唇を寄せて、ブルーはいつもの口付けをした。自然に向けられてくる視線に笑い返して、目尻にも口付けを送る。ジョミーは幸福そうに微笑んで、ブルー、と呟いた。その声を聞いて、ブルーはああ、と微笑む。だからまだ、会えないのだ、と。焦がれるほど、胸が潰れるほど恋しく求めてくれなくては、会いたくない気持ちこそワガママだ。
 ジョミーの気持ちがブルーのそれと、同じくらい強い『恋』でなければ会えないのだと、それを知ったらどう思われるのだろう。泣くか、怒るか、いずれにしても呆れられるに違いない。恋をされていなければ愛せないほど、心が狭いわけではないのだが。三百年間の長い時を経て、やっと見つけ出した太陽なのだ。できれば同じ気持ちで居て欲しいと思うのは、仕方がないのではないだろうか、と一人ごちて。
 でも可哀想だからそんなこと言ってないでいい加減会ってあげて下さい、と口を揃えて苦言を呈してきたリオとハーレイのことを思い出し、ブルーは拗ねた息を吐き出した。不思議そうに見上げてくるジョミーの額に、またひとつ、口付けを落として。ブルーはもうすこしだけ、と心の中だけで囁いた。もうすこしだけ、この馬鹿げた賭けを続けさせて欲しい、と。ミュウたちを知り、理解して欲しい気持ちも本当だから。
 もうすこし、もうすこし。あとほんのすこしだけ。会わない日を重ねさせてくれ、と。罪悪感を願いで塗りつぶして囁いて、ブルーはまぶたの重いジョミーに微笑み、おやすみ、と囁いた。おやすみ、おやすみ、愛しい太陽。そして、明日こそ。囁くブルーにぎゅぅっと抱きついて、ジョミーの思念体が霧散する。その名残を、全身で受け止めて。ブルーはもう一度、おやすみ、と囁きで空気を揺らした。

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