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 月は巡る

 絶対にジョミーを誘拐したりして連れてきません、と。出掛けに右にハーレイ、左にリオ、正面に残りの長老たちに取り囲まれ、十枚も念書を書かさされたことをすでに頭の片隅に放り投げ、ブルーはとろけそうな笑みでジョミーを見つめていた。最近五歳の誕生日を迎えたばかりのジョミーは、そのことが嬉しくてたまらないのだろう。行く先々で五歳になった、と道行く人に教えては、ご満悦の笑顔を浮かべている。
 可愛いなぁ、連れて帰りたいなぁ、とにこにこ笑いながらそれを眺めているブルーは、変質者以外の何者でもないのだが、通報されないのは誰の目にもその姿が映っていないからだ。淡く、淡く青白い光をまとって。人の目からその姿を消すブルーは、ジョミーのすこし上空に体を浮かせて移動しながら幼子を眺めているのだった。そんな技が、誰でも使えるわけがない。ソルジャーとされるブルーだから可能なのだ。
 力の無駄使いですよね、とはため息をつきながら嘆いたリオの言葉だ。大多数のミュウや長老がそれに同意したのだが、ブルーに反省の色はなく、また改善の兆しも見えない。ブルーとしては誰になんと言われようと、己にとっての太陽、ジョミーを愛しく見つめ続けることが大切なのだから。姿を消す、というのは千の糸を一本により合わせ続けるような、すさまじい集中力と、その持続が求められる技だ。
 それでも、表面だけは満面の笑みでまったく涼しげに取り澄まして。ブルーは母に手を引かれて公園に遊びに行くジョミーを、目を細めて見つめていた。てくてく、と大人の歩幅にあわせ、必死に歩いている姿がなんとも愛らしい。不安そうに繋いでいるちいさな手も、それでいて期待に輝く新緑の瞳も、猫の毛のように柔らかそうな黄金色の髪も。なにもかも、全てがブルーを魅了するには十分な可愛らしさだった。
 マム、ねえマム、と舌ったらずな甘い声で母親を呼ぶのを耳にして、ブルーはこの世の幸福を一心に抱きしめた気持ちになった。この胸に湧き上がってくる愛おしさと、切ないまでの可愛らしさを、どう表現すればいいのかも分からない。ただ微笑みを浮かべるだけが唯一で、それでいて精一杯の感情表現であることが、悔しかった。迫害と実験にさらされた遠い日々は、多彩な感情表現を忘れさせてしまったのだ。
 悲しく思ったことはない。けれど絶え間なく、くるくると表情や顔色を入れ替えるジョミーを見ていると、悔しさと理由のつかめない申し訳なさが胸を刺すのだった。ブルーの、ちいさな太陽。やがてミュウたちの希望となるであろう存在の多彩さが、眩しくて。とても綺麗なものに、思えて。己と比べるとほんのすこし、手を伸ばして触れることをためらうような、気持ちを。なんというのだろう。なんと、呼ぶのだろう。
 ブルーに、それは分からなかった。暗く沈みかけた気分を、それでも明るく笑うジョミーを見ることで浮上させて、ブルーはふわりと草原に降り立った。姿なき者が舞い降りたことを、風によって倒される若草だけが知らしめる。地平線まで見通せそうな広大な公園の中で、ブルーの姿を捉える者は誰も居ない。公園には、多くの親子の姿があった。こどもたちはじゃれあって笑いあいながら、草原を走り回っている。
 その中に、ジョミーも居た。太陽を反射してなお強く輝く髪が、その存在を浮かび上がらせるように際立たせている。今日は一日、ここで遊ぶ予定なのだろう。母親はすこし離れた所でシートを広げ、昼食の入ったバスケットを置いた隣に腰掛けている。あまり遠くまで行かないようにね、と優しい声がジョミーに向けられた。その声の響きだけで、ジョミーがどれ程母親に愛されているかを、ブルーは知る。嬉しかった。
 己の愛する存在を、誰かが心から大切にしてくれている、という実感。それはなによりの宝物のようで、くだらない嫉妬より先に胸が熱くなる。もしかしたらすこし、泣きたいのかも知れなかった。その理由はやはり、掴めなどしないのだけれど。やんわり笑むブルーの視線の先で、ジョミーが笑いながら駆け回っている。その体を今すぐ抱きしめたい衝動にかられながら、ブルーはゆっくり街路樹の下へ歩んで行った。
 そして腰掛けるのにちょうど良い木陰を見つくろうと、舞い降りた時同様に優美な仕草で腰を下ろす。ふわり、と風が立った。同時に甘い香りが鼻先をかすめて、ブルーはふと視線を上に持ち上げる。すると、すぐに黄色い小花と目が合った。ずいぶん華奢な街路樹だと思いきや、常緑樹ではなく、金木犀の若木であったらしい。時折落ちてくる花を髪と服に浴びながら、ブルーは気持ちよく息を吸い込んだ。
 船の中では、絶対に味わえない開放感が心地よく全身を包み込む。視線の先には、愛しいこどもが笑っていた。こんな休日は悪くない、と微笑んで、ブルーはうっとりとジョミーを見つめる。ちいさな太陽は元気いっぱい走り回り、そして転んだところだった。



 気がつけば、夕暮れを過ぎて夜が近づいていた。いつの間に眠っていたのだろう、とぼんやりと思考を働かせて、ブルーは視線をさ迷わせる。公園にはもはや人影はほとんどなく、ジョミーの姿も、その母親の姿も見つけられなかった。残念に思いながら、それでも胸が幸せで満ちるのはジョミーがあまりに幸福そうだったからだ。ああ、本当に良い日だったと思って、ブルーは仲間の待つ船に帰ろうとしたのだが。
 立ち上がろうとしてはじめて、膝の上が妙に重たいことに気がついた。不思議に思って視線を下げて、ブルーは思わず思考を停止させる。すぅ、と安らかな寝息が響くたび、金色の髪がさらりと揺れた。まぶたの裏に瞳は隠されてしまっているけれど、それでもブルーはその色を思い浮かべることが出来る。新緑の、生命力に満ち溢れた美しい翠。ジョミーだった。ブルーのちいさな太陽が、膝を枕に眠り込んでいた。
 立ち上がりかけたことで、寝心地が悪くなったのだろう。とたんに眠るジョミーが泣きそうな顔つきになったので、ブルーは慌てて座りなおしたのだが。幼子の覚醒は、早かった。ぱっちりと目を開けるとその瞳にブルーの姿を映し出し、それから満面の笑みを浮かべる。ジョミーは、ブルーを見ていた。眠っていて集中が途切れ、姿が露見してしまったのかとも思うが、それは己の内側で動く力が違うと告げている。
 見えて、いるのだ。ハッキリとその姿を、瞳に捉えているのだ。ジョミー、と恐る恐るブルーが呼びかけると、幼子は不思議そうに目を瞬かせた後で頷き、嬉しげに笑う。その体を衝動のままに抱きしめて、ブルーは大きく息を吐いた。なんという幸福だろう。なんという、安らぎだろう。ブルーのちいさな太陽。やっと見つけ出した希望の光は、ブルーの力に惑わされることなく見つけ出してくれたのだ。
 それが幼子だけが持つ、けがれない純粋な心によるものであっても。成長の過程で失われてしまうものであっても。今この時、ジョミーはブルーを見てくれている。それが、たまらなく嬉しかった。ぎゅっと抱きしめてくるブルーに、息苦しさを感じたのだろう。ジョミーはばたばたと手足を動かして抵抗し、ブルーに向かって怒ったような目を向けた。そしてお兄ちゃんでしょ、となにもかも分かっている声で、問いかける。
「ねえ。ぼくのこと、ずっと見てたの。お兄ちゃんでしょ?」
「ああ。そうだよ、ジョミー」
「迎えに来てくれたの?」
 息が、止まるかと思った。ハッとして目を覗き込んだブルーに、ジョミーは無垢な表情で笑いかけてくる。恐らく、意味など分かっていないのだ。一時的な迎えで、夜は家に帰れるものだと思い込んでいるのだろう。だからこそブルーは微笑み、ジョミーの頭を撫でる。連れて行きたい気持ちはあった。けれど能力にも目覚めておらず、愛を与えられて育ち始めたばかりのこの命を、連れて行くわけには行かなかった。
 迫害されて行き着く先。人間に対する憎悪が渦巻く時の止まったミュウたちの船へ。連れて行くにはジョミーは、まだあまりに柔らかすぎる。きっと、心などすぐに壊れてしまうだろう。それでは、いけないのだ。やがてミュウたちを導く強い閃光に、なるためには。太陽となるまでは、まだ愛される時間が必要だった。連れて行かない、と頭を撫でながら穏やかに告げるブルーに、ジョミーは泣き出しそうな顔になる。
「うそだよ……連れてって」
「ダメだ」
「連れてってっ」
 かんしゃくを起こして叫ぶジョミーを、ブルーはそっと抱きしめる。胸にすがり付いてくる姿に、息苦しいほどの愛しさを感じた。けれど、彼方から。ジョミーを心配して呼ぶ母親の声が響いた瞬間、幼子の体が震えたからこそ。その体を、離して。ブルーは涙の伝う頬に唇を押し当てて、良いコだね、と囁いて笑う。
「さあ、戻るんだ……ここで見たことも、話したことも、感じたことも。その全てを忘れて」
「やっ……いや、いやっ」
「おやすみ、ぼくのちいさな太陽。さあ目を閉じて。開いたら君は、全てを忘れている……良いコだ、ジョミー」
 ミュウの力になんの耐性も持たない幼子一人を、眠らせるのは本当に簡単なことだった。急激に力を失って倒れ掛かる体を抱きとめ、そっと木に背を預けて座らせて。最後にもう一度、頬に口付けを送って、ブルーは大地から舞い上がった。金木犀の花が、風にさわりと揺れ動く。そしてはらはらと散っていく花びらが、涙のように。愛しい存在に降り注ぐのを見つめて、ブルーは空を目指した。

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