その日は、朝から空気が違っているような気がした。すぅっと浮上してくる意識を心地よく体になじませて、ジョミーは大きく伸びながら体を起こす。そしてまだすこし目覚めきらない頭をふって、なにか大切なことがあったんだけど、と眉を寄せた。今のジョミーにとって大切なことなど、ブルー関連のものしか見当たらないこともあって、その答えはすぐに知れた。昨夜。意識が落ちる寸前に、確かにブルーは言ったのだ。
会いにおいで、と。それは恐らく、はじめてジョミーが駆けられた許可の言葉だ。思わず寝台から飛び降りて、ジョミーは小走りに扉に向かう。そうしながら意識を船全体に拡散していくと、ブルーのものだと思われる気配の名残がたくさん見つかった。一つではないことに首を傾げながら、まあいいや、とジョミーが焦る気持ちで扉を開け、廊下に飛び出そうとした瞬間。その前に立っていた人物が、がしりと肩を掴む。
思わずあれ、と呟いたジョミーに、予想通りの展開を喜ぶ笑みを向けて。リオはおはようございます、と告げた。
『焦る気持ちは分かりますけれど、ジョミー。そんな格好で船内をうろつかないでくださいね』
はい、まずは着替えですよ、と。笑いながら言ったリオは、きょとんとするジョミーの体を綺麗に半回転させて室内に押し戻し、流れるような仕草で扉に鍵をかけてしまった。錠前の落ちる独特の音を耳にしてはじめて、ジョミーは現実を理解した表情であーっ、と叫ぶ。閉めたっ、鍵閉めたっ、と監禁されたかのように大騒ぎするジョミーを微笑ましく眺めて、リオは着替えたら出してあげますからね、と囁きかける。
その言葉の効果は、絶大だった。混乱のあまり、自分で鍵を開けて出て行く、という選択肢が思い浮かばないせいもあるのだろう。急に意気込んだ表情になったジョミーは、部屋に備え付けてあるクローゼットまで全力で走りより、瞬く間にパジャマを脱ぎ、真新しい服に袖を通し始める。そして二分も経たないうちにリオの前まで戻ってくると、着替えたっ、と開錠を急かした。全く気持ちが落ち着かないらしい。
ため息をついて、リオは掛け違えたボタンを直してやり、歪んだ襟を整えてやり、寝癖のついた髪を手で簡単に梳いてやると、焦りのあまり半泣きになっているジョミーの目を覗き込み、額同士を触れ合わせた。
『朝食を食べる気持ちの余裕もないようですので、手短に言いますよ? ソルジャーのご意向とキャプテンのご意思により、ジョミー、あなたは今日一日をかけてテストを受けてもらいます』
「て……テスト?」
みるみるうちに怯えたような顔つきになるジョミーは、よほどテストと名の付くものに良い思い出がないらしい。え、なんで、どうして、と半泣きから本泣きに移りそうになるのを頭を撫でることで止めて、リオは大丈夫ですよ、と微笑んだ。そして持って来たスタンプ帳と船内地図をジョミーに渡し、迷ったら私かキャプテンか私か私を思念波ですぐ呼び出してくださいね、と前置きをする。
『船の中に複数、ソルジャーの気配があります。それは感じ取れていますか?』
「うん。えっと、もしかして、わざと?」
『その通りです。さて、ジョミー。その気配の一つ一つを、正確に捉えてください。全部で十ヵ所ありますが、回る順番は不問とします。行く先々にスタンプ持った方がいらっしゃいますので、誰が持っているのかを思念波で読み取って、このスタンプ帳に押してもらってください。全部回り終わってはじめて、ソルジャーの居場所が分かる仕組みになっています。ジョミー、ここまででなにか質問はありますか?』
特にないようでしたらスタンプラリーの開始になりますが、と笑顔で告げてくるリオに、ジョミーは恐る恐る手を上げた。笑顔で頷かれるのを了解の印と受け取って、ジョミーはあのさ、と呆れ果てた声を響かせる。
「なんで、全部終らないとブルーに会えないんだよ」
質問を聞いて、思わず笑いに吹き出したリオに罪はないだろう。なぜならそれは、ブルーが予告していたことでもあったからだ。きっとジョミーは、スタンプラリーを開催する意味や理由よりも、そっちの方を聞いてくると思うよ、と。見ている方が耐え切れなくなる程の甘い声と笑みで言ったブルーを思い出し、リオはすこしだけため息をついた。そして、むっとした顔で答えを待つジョミーに、宥めるような笑みを向ける。
『いえ。あなたは本当に、ソルジャーに好かれているのだと思って』
それだけです、と質問には答えず締めたリオの眼前で現れた、ジョミーの反応は予想外のものだった。リオとしてはてっきり、なんだよそれっ、と叫ばれると思ったのだが。数秒間の沈黙を挟んだのち、ジョミーはぼっと音が聞こえるような勢いで赤面し、視線を足元の当たりに落として黙り込んでしまったのだ。言葉が出なくなるほど恥ずかしがっていることを、リオは流れ込んでくるジョミーの心から、直接知る。
反応を見誤るようでは私もまだまだですね、と内心でため息をつくリオに、ジョミーはさらに予想外の呟きを発してみせた。思わず聞き返してしまったリオに、ジョミーはどこか拗ねた口調で、だから、と告げる。
「でも、きっとぼくが好きなだけで。ブルーは、ぼくがそう感じてるほどには、ぼくのことを好きじゃない」
『……ソルジャーが、ジョミーに、そう言ったのですか?』
どこをどう勘違いすればそういった認識になるのですか、と問いかけなかった己を、リオは褒めてやりたい気分だった。いったい、どこをどう見ていればそう思い込んでしまうのだろうか。中々部屋から出ないジョミーを心配して、こっそり様子を伺っていたブルーが頭を抱える気配を、リオはハッキリと感じ取った。その傍らで、お茶でも飲んでいたのだろう。思い切り咳き込んでいるハーレイが、目に涙を浮かべていた。
聞けっ、早急にそこをもっと詳しく聞けっ、と二人がかりで強い思念波を送られて、リオは頭痛にも似たものを感じて顔を歪める。幸い、その表情はジョミーには見られていなかったのだが。ジョミーはリオの言葉に悲しげに眉を寄せ、やや迷いながらぽつり、ぽつりと言葉を落としていく。
「違う。ぼくが、ブルーを好きすぎるだけなんだと、思う。……だから、本当はそんな風に感じるのも間違ってるんだって、分かってる、けど。ブルーに、もっと好かれたいから……ぼくは、言う通りにするけど。そういう心もどうせ読まれてるんだろうから、好かれる筈ないと思って」
はははよしハーレイ、ちょっとサイオンの訓練しようか、と八つ当たりでやけに爽やかに笑うブルーと、ご乱心なさらないでくださいっ、と絶叫する不幸なキャプテンの姿が、リオにはまざまざと見えてしまった。二人がじゃれあっているのは、恐らくブルーの広すぎる寝室なのだろう。壊れなければいいが、と混乱まぎれに思ったリオは、嫌われるわけがないでしょう、とジョミーの頭を撫でてやった。爆発音も無視して。
『では、一つ、賭けを』
「賭け?」
『ええ。もしもあなたが好きな程に、ソルジャーがあなたを好きではないとしたら』
これが怒られる筈もないでしょうから、と微笑んで。リオは先ほど整えてやった襟をすこし乱して、あらわになった白い首筋を指でなぞる。そして、その意図に気がついたブルーが制止するよりも、ジョミーが身をよじって逃れるよりもずっと早く。そこに唇を押し当てたリオは、真っ赤になって硬直するジョミーの頬を撫でて笑った。
『さ、ジョミー。行ってらっしゃい。……もしソルジャーが無理強いするようでしたら、止めに行きますから』
「む、無理じ、い? って、なに、が?」
『ああ。分からないのなら、いいです』
そういえばアタラクシアは、こどもにそういう教育しませんものね、と言ってリオは面白そうに微笑んだ。そして混乱と恥ずかしさのあまり言葉が上手く出ないジョミーの肩を押し、さあさあ、と廊下へと出してしまう。
『ソルジャー・ブルーがお待ちですよ、ジョミー。大丈夫、きっと上手く行きますからね』
さりげなく乱した襟を直し、全体的に服装の乱れがないことを確認して、リオは行ってらっしゃい、と手を振った。ジョミーは首を傾げながらもちいさく手を振り替えして、やっと思い出したかのように、大慌てで廊下を走っていく。その背を、ナキネズミが追って行った。ジョミーは、恐らくわきめも振らずに全力で走っているだろうから、ナキネズミがその肩に登れるのはどこかの部屋で立ち止まったときだけだろう。
ああ、可哀想なことをしてしまったかな、と思ってリオは眠たげにあくびをした。なにせ、昨夜はほとんど寝ていないのだ。ソルジャー・ブルーは夜中にいきなり、リオやハーレイを呼び出し、明日会うことにしたから協力してくれるな、と告げたのである。各所への連絡や協力の呼びかけは、それから早朝にかけてで行われた。それが終ってすぐ、リオはパジャマで出歩きかねないジョミーの元に出向いたのである。
昨夜は床につくのが遅かったので、ほとんど徹夜状態といっても過言ではなかった。ああ眠い、とふらりと体をよろつかせ、リオはすこしだけ考えた。これから、今日一日のリオの役目は、基本的にはあと一つだ。それまではまだ時間がたっぷりとあるし、地図も渡してあるのでそう困ることはないだろう。それにリオは、本当にジョミーが困って呼んだなら、たとえ熟睡していてもすぐ駆けつける自信があった。
よし寝よう、と結論を出したリオは、そのままジョミーが使っていたベットへ、ほとんど倒れこむように横になる。それから、意識を覚醒させておけたのは、ほんの十秒に満たなかった。猛抗議の声をあげるブルーと、必死に宥めながらも困惑の意思を送ってくるハーレイの思念波を綺麗に遮断して。リオはジョミーの道行きを心配しながら、しばしの休息へ入った。