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 綺麗な感情

 踏み込んではいけない場所だった、と。理解した瞬間にはもう遅く、体は一歩を踏み出していた。トン、とほんのかすか、靴が床に落とされる音が響く。けれど静まり返った室内には、それだけで十分な騒音で。ゆっくりと振り返るなり苦笑したブラウに、ジョミーはちいさくなりながらごめんなさい、と呟いた。できることなら走り去ってしまいたいが、そんな無礼が許される場所ではないことを、静かな空気から知る。
 静謐な印象の部屋だった。静かで穏やかで、空気は冷たく冷えているのにどこか暖かい。奥行きのある部屋なのに、取り付けられている窓は一つだけ。そして、出入り口となる扉も一つだけ。部屋は床も壁も全てが白で出来ていて、所々に精緻な銀で文様が施されている。その中で立つ褐色の貴婦人、ブラウ航海長はやけに浮き出て見えた。神聖な空気の中、ブラウは背を伸ばして立っている。
 まるで、そうしなければ無礼だとでも言うように。がらんとした印象の部屋の中、あるのは祭壇と十字架だけだ。おびただしい数の十字架が山をなし、祭壇の周囲をぐるりと取り囲んでいる。祈りの小山。願いの形。心を思念として放つミュウたちの十字架は、一瞬の感情を繋ぎとめるためのものなのだろうか。ジョミーにはよく分からない。けれどなぜか眩暈がして、直視することが出来なかった。
 それなのに視線は、吐き気がするほど数がある十字架に引き寄せられてしまって、己の意思ではそらすことが出来ない。呼吸さえおぼつかなくなってしまうジョミーの視界を、そっとブラウの手が覆う。言葉はない。ただ気遣うでもなく、叱咤するでもない思念がジョミーに向けられていた。もう一度、たどたどしい口調でごめんなさい、と呟き、ジョミーはブラウの手を目の上から外した。そして室内を、ゆっくり見回す。
「墓、だよ」
 ここは、と問う前に言葉は振ってきた。思わず視線を向けたジョミーに、ブラウはなにか大切なものを抱きしめているかのように微笑み、祭壇へ向き直る。ジョミーの目を覆うために歩み寄った距離をまた開いて、ブラウはじっと祭壇を見つめていた。ジョミーは扉から一歩入った位置で、動けないで居る。ブラウの後を追えばいいのか、それとも静かに出て行けばいいのか、そんな簡単な判断さえ出来なかった。
 困りきった気配に、気がついたのだろう。肩越しに苦笑を向けて、ブラウはちょいちょい、と手を振ってジョミーを呼んだ。小走りに寄って行ったジョミーの額を、走るんじゃないよ、と軽く小突いて、ブラウはまた祭壇に目を戻してしまう。つられて、ジョミーも目を向けた。綺麗な祭壇だった。土台が白で、装飾が銀。それ以外はなんの飾りもない。ちいさなブーケが横倒しに置かれているが、それ以外は全て十字架だ。
 ここはね、とブラウは唐突に呟いた。じっと祭壇を見つめたまま、ジョミーには目もくれずに。
「死んでいったミュウたちの、墓だ。地上には作れないし、作りたくないから、墓は船の中に作ったんだ。灰は風と、宇宙に流して。一部だけ保管して。いつか地球へ還そうと。ここは、それまでの一時的な墓だよ。十字架は、誰かがいつの間にか持ち込んで置いて、それがいつの間にか、どんどん増えてこんな風になったんだ。優しい祈りだ。感傷なんかじゃないさ。……しょうがないコだね、泣くんじゃないよ」
 まったくもう、と息を吐いて、ブラウは相変わらずジョミーの方を向きもしないままで手を伸ばしてきた。けれど正確にジョミーの頭の上に手を置いて、口調とは裏腹な優しい仕草で招きよせる。己の脇腹辺りに頭を押し付けるようにさせて、ブラウは声もなく涙を流すジョミーの頭を、ぽんぽんと撫でた。
「泣くんじゃないよ。坊やの知り合いなんか誰も居やしないんだ。坊やの親しい相手だって、元気なのばっかりじゃないか。殺しても簡単には死にそうにないんだから、だから……泣くんじゃないよ。慰めるのは苦手なんだ」
「……ごめんなさい」
 ぎゅう、と服がつかまれて。謝罪のわりには泣き止む様子を見せないジョミーに、ブラウは心底困り果てた表情になってしまった。こんな時、リオやハーレイならもっと上手に、ブルーなら魔法のようにジョミーの涙を止めてしまうのだろう。それをブラウは分かっていたのだが、その誰もを呼ぶ気になれずに苦笑する。ではなぜ、ジョミーをここに導いてしまったのか、と。もっと他の場所で待っていても、よかったのに。
 ブラウはブルーに頼まれて、ジョミーのスタンプラリーに協力している。だからブルーの思念の一部を持っているし、スタンプも懐に入れてある。長老たちに協力を求める際、ブルーはそれぞれがどこで待機しているかという支持は出さなかった。基本的にどこに居てもいいが、なるべくなら一人で居て欲しいと、そう控え目に頼んできたくらいだ。だからブラウが、墓地代わりの部屋にいたのは己の意思だった。
 ミュウたちがほとんど近寄らない、普段は存在さえ忘れ去ってしまっている部屋の中で、ひとり。ジョミーを待っていたのは、どうしてなのだろうか。ぼんやりと今更ながら考えながら、ブラウは泣き止む様子を見せないジョミーを、しばらくは好き勝手にさせておくことにした。自己申告した通り、ブラウは誰かを慰めるということがとても苦手だと自覚していたし、今のジョミーに手出しをすればさらに泣かれるだけだろう。
 泣かせたとバレた時のソルジャー・ブルーの反応だけが怖いのだが。物言いたげな目で見てくるであろうハーレイも、笑顔で威圧してくるであろうリオも、ブラウは別にどうでもいい。受け流せる相手だからだ。しかしブルーだけは、どうしても無視できそうにない。あれだけ可愛がって、あれだけ甘やかしている相手がジョミーなのだ。泣かせてしまったと知れれば、反応など考えるだけで眩暈がしてくる。
 もっとも船内でのできごとだから、隠し通せるものではないし、すでに知られている可能性のほうがずっと多いのだが。それでも飛んでこられないので、ブラウは信頼されているらしい。すこしばかりの喜びに笑みを浮かべて、ブラウはジョミーの頭をそっと撫でた。そして自身に抱いていた疑問が、リボンが解けるように消えていくのを感じて。ああそうか、とため息が漏れた。
「アタシ以外に、坊やにこんなトコ見せようとするのは居ないだろうからねぇ」
 要するにブラウは、辛い役目を押し付けられた、ということなのだ。確かにブラウ以外には出来そうにもない役目だが、そんな重荷は嬉しくもなんともなかった。ただブラウにすがりついて、一言の声ももらさずになくジョミーの姿を、痛々しく思うだけだった。同時にひどく冷静に、不思議に思う。なぜジョミーは泣いているのか。親しい相手が眠っているわけでもない祭壇と、おびただしい十字架に。なにを泣くのか、と。
 もしかして、単に怖がっているのだろうか。まさか、と思いながら目を向けるブラウに、ちょうど顔をあげたジョミーが視線を合わせてくる。目尻が赤く腫れてしまっている中で、輝きを失わない翠の瞳が爽やかだ。野原を吹き抜けていく、清涼な風のように。さっと室内の空気が変わったのを感じて、ブラウは無意識にすこし、微笑んだ。坊や、と呼びかけてやると、ジョミーは目をごしごしこすってから口を開く。
「親しい相手がいなくても。こんなに、想いがあつまるほど、誰かが死んでしまったのが悲しいです」
 それが先ほどの、慰めになりきれなかった慰めへの答えだと、ブラウはすぐに気がついた。そうかい、と呟いたブラウにすこしだけ頷き、ジョミーは祭壇ではなく、十字架をじっと見つめる。数え切れない十字架。おびただしいほどの数は、神聖さよりもどこかおぞましさを感じてしまうのだけれど。怖いと思ってしまうのは、いつか、その中に己の手向ける十字架も加えられてしまうかも知れないと、思ったからだ。
 命は、いつか終る。それだけが命を持つ者たちの、逃れられない共通の義務だ。終わりは、必ずやってくる。残される者が悲鳴をあげても。去り行くものがすがり付いても。そして十字架が増えていく。祭壇に捧げる祈りが、重ねられる。確かに今、祭壇に祭られる者の中には、ジョミーが親しんだ相手はいやしないのだけれど。それでも、ジョミーが知らぬ誰かが居なくなった時、誰かが悲しく思ったのだろう。
 その、手の届かないどうしようもないことが、ジョミーには悲しい。誰も死ななければいいのに、と思う。誰も悲しまなければいいのに、と思う。どうしようもないことで、傲慢なことなのかも知れないけれど。それでもジョミーは、誰かがいなくなってしまったことと、誰かが悲しんでしまったことが、どうしようもなく悲しい。
「アンタは……坊や、アンタは、馬鹿なコだねぇ」
 言葉にならない思考を読んだのだろう。柔らかく苦笑して、ブラウはジョミーの頭を撫でた。そんなことは、悲しむもんじゃないんだよ、と。アンタが悲しむことじゃないんだよ、といい聞かされて、ジョミーは涙を堪えて頷いた。分かっている。そんなことは、分かっているのだ。けれどおびただしい数の十字架が、ミュウたちの降り積もった慟哭の深さを伝えてきて、中々涙がなくなってくれなかった。
 背を押して部屋の外へと導き、ブラウは放心状態のジョミーをしばらく無言で見つめた。考え込んで、気持ちを整理して、ブラウはジョミーからスタンプ帳を奪い取り、スタンプを押して名前を書き込む。そして勢いよくジョミーの胸にスタンプ帳を押し付けて返し、ブラウは笑って行っておいで、と告げた。
「仲間の為に、泣いてくれてありがとう。だから、もう行きなさい。仲間を待たせるもんじゃないよ」
 グッドラック、幼いミュウの坊や、と囁いて、ブラウは走り出したジョミーの背を眺めていた。その姿が角を曲がって見えなくなっても、耳で辿れる気配が感じ取れなくなってしまっても。ブラウはしばらくジョミーの去って行った方向を見つめて、それから息を吐き出した。

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