耳を澄ませば聞こえてくる静かな呼吸と、胸が上下する動き。閉ざされたまぶたの下に瞳は隠されてしまっていて見えないから、それだけが生きていることを確認する全てのようで。時々、ハーレイは不安になる。一枚の書類に目を通し終わるたび、視線が下を向いて手が止まってしまうのだから、仕事が進むわけもなく。起きては、いたのだろう。やがてクスリと笑む気配が満ち、まぶたがゆっくりと持ち上がった。
「集中できないのか? ハーレイ」
「誰のせいだとお思いで」
からかうように告げられた言葉は、まっすぐにハーレイの目を見ながら紡がれたものだった。ジョミーがやれば、その瞳に宿る意志の強さにぶしつけさを感じさせただろうが、紅玉の瞳の主はただ優しくて、だからこその戸惑いと苦味を感じさせる。銀色の髪をまどろむ微笑みに揺らして、ブルーはさあ、と分かっていてとぼけた答えを漂わせた。そして寝心地の良い場所を探そうと、ハーレイの膝の上で身じろぐ。
椅子に座っているハーレイの膝の上に、ブルーは胸と頭を横向きに乗せてまどろんでいるのだった。背中が痛くなるし姿勢も悪いし、きちんとは休めないだろうから止めてベットに行って下さい、と言い聞かせても、ブルーが望んで取らされている体勢だ。三百年の間で、時折あったことだから、ハーレイも慣れているといえばいるのだが。生暖かい膝のぬくもりと重みには、どうしても慣れすぎることはなくて。
あなたのせいでしょうが、と眉を寄せながらも手を伸ばし、そっと髪の毛を梳いてやれば、ブルーはまたぱたりとまぶたを閉ざし、心地よい吐息を深々ともらす。
「ぼくのことは気にしなくて良い。だから用事を済ませてしまえ、ハーレイ」
今日中に終らなくなるのは嫌だろう、と優しく言い聞かせる言葉に、ハーレイは今度こそぎゅっと眉を寄せた。再び、誰のせいだと言葉が漏れかけるが、告げた所で効果はないだろう。さらりと指の間を抜けていく銀の髪を飽きることなく撫でながら、ハーレイはまったく、と天井を睨みながら告げた。
「眠いならベットへ行きなさい。悪い夢を見たり、体が痛くなってしまうでしょうが」
「うん。眠くない。だから、大丈夫だ」
ところでハーレイの膝はしっかりしていて硬いのに寝心地がいいから不思議だな、ともぞもぞ動きながら告げるミュウたちの最長老に、ベットに戻る意思などありはしないのだった。ああもう本当にこの人は、と怒りと呆れと愛しさが判別不可能なまでに混ざった息を吐き出し、ハーレイは机の上にうず高く詰まれた書類を一枚、手に取った。本当なら、昨夜から朝方にかけて目を通してしまおうと思っていたものだ。
しかし夜中に呼び出され、朝から昼までサイオンの訓練に付き合わされてしまったので、進み具合はすこぶる良くないのだった。それなのに、やる気が出ないとは別次元の問題で、仕事に集中できそうではないのだから困ったものだ。明日以降、ハーレイの予定は余裕のないものになっていくだろう。大変だな、とあくまでからかうように思念波を送られて、ハーレイは膝の上で揺れる銀髪に視線を落とした。
「分かっているのなら、ご自分の部屋にお戻りください。ここへは、ジョミーだって来るのです」
「大丈夫だ。まだジョミーは来ない。ぼくには分かるから、まだ大丈夫だ。……まったく、ハーレイはそんなにぼくが嫌いなのか?」
「なんですかその結論」
だってそうだろう、と不満げに唇を尖らせて、美貌の主がハーレイを見上げる。
「なんだって、そう、ぼくを追い出そうとするんだ」
「……ベットより寝心地が悪いでしょうから」
はたはた、とまばたきが繰り返される。そして紅玉の瞳に暖かな笑みが灯されるのを、ハーレイは問う前から知っていたような気がした。だめだ勝てない、と視線を外さぬまま気持ちだけで天井を仰げば、ブルーはそれもそうだが、とハーレイの膝にそっと頬を寄せる。
「落ち着くんだ」
弾む声で嬉しそうに囁かれてしまえば、それ以上抵抗できるミュウなど存在するものではない。すっかり諦めてはいはい、と投げやりに返事をし、ハーレイはブルーの頭を軽く撫でた。ぽんぽん、と触れてからしっとりと髪を梳く動きは、もう慣れたもので。ブルーはくすくすと笑いながら頭と一緒に膝の上においていた腕を動かし、ハーレイの腰に巻きつけた。ぎゅっと抱きつくと、いよいよ呆れた息がもれる。
「なにをそんなに甘えてらっしゃるんですか、ソルジャー。私はジョミーじゃありませんよ」
「ああ、それはいいな。今度、ジョミーにも膝枕してもらおう。柔らかくて気持ちよさそうだ。楽しみだな」
顔を真っ赤にしてなにそれっ、と涙目で恥ずかしがるジョミーを思い浮かべて、ハーレイは複雑な気持ちになった。被害拡大に同情してやればいいのか、甘える相手が増えたと喜んでやればいいのか、よく分からなかったのである。ただ、ゆるりとした安堵は感じてもいたので、ハーレイは嬉しく微笑した。ソルジャー・ブルーが他者に甘えを見せるのは良くない。けれど個人になら、許されていいのではないか。
ブルーが指導者として、ソルジャーとして長となった瞬間から、ハーレイだけがその気持ちを持ち続けていた。決して言葉にしたことはなかったが、ミュウは本来心で語り合う生き物だから、ブルーには分かったのだろう。時折、気まぐれに訪れて去っていく高貴な猫のように、ふらりとやってきては甘えて、そして帰っていく。他の長老たちも知る、公然の秘密だった。さすがに、一般のミュウたちまでは知らないが。
リオも、知っているかどうか。柔和な微笑みを絶やさぬ青年を思い浮かべて、ハーレイは今度こそ同情の表情を浮かべた。最近、特にジョミーに対して献身的なリオだったから、これ幸いとばかりにブルーの手のひらの上で転がされ、今日の準備に走らされたことを知っていたからだ。かわいそうに、まだ寝ています、とリオの居所を探って報告したハーレイに、ブルーは闇に灯る明かりのように、ほんのりと微笑んだ。
「リオは、本当にジョミーが好きなようだから。見ていて嬉しくなってくる」
こうなると、本当にリオを迎えに行ってよかった、と遠い過去の記憶をたぐりながら言うブルーに、ハーレイは苦笑しながら頷いた。声を紡げぬミュウとして出迎えられたリオは、はじめはあまり歓迎されていなかった。救いに行ったブルーが軽い負傷をして戻ってきた為である。しかし、柔和な笑みと優しい性格に。そしてしなやかで強い能力に、次第にリオの敵はいなくなり、受け入れられて今現在に至るのだが。
楚々と吹くそよ風のような呟きに、ハーレイは背筋が冷たくなる感覚を覚えて沈黙する。なにを言うというのだろう。どんな感情を秘めての、言葉なのだろう。密着しているにも関わらず、ブルーの心はかたく閉ざされていて、感情を声の響き以外では伝えて来なかった。なにを考えているんです、と問う声は予想以上に掠れてしまっていた。なんて声を出してる、と軽く笑いながら、ブルーは目を閉じたままだ。
「ジョミーの周りには、どんなものがあるだろうか、と。ぼくが全てを奪った、ぼくの太陽の周りには」
「……やめてください。ソルジャー・ブルー」
遺言のようだから、と。言葉にしなくとも伝わってしまう思念を、今ほど厭ったこともなかっただろうと、ハーレイは思った。そして膝の上でくすくすと、いかにも楽しげに笑い続ける最長老を睨みつける。
「あの子には、あなたが居ればいいんです。あなただけが居れば、ジョミーはそれで満たされる」
「そうか」
「ええ。そして今は未だ、あなたが居なければ崩れてしまう」
分かっておいでの筈だ、と厳しく告げるハーレイに、じっと視線が向けられる。そしてブルーが、なにごとかを告げようとした瞬間だった。異常事態を察知して飛び起きたリオの叫びが、鋭くキャプテンの名を叫ぶ。それに驚いたハーレイが反射的に椅子から立ち上がるのと、走りこんできた者が勢いよく扉を開けるのがほぼ同時で。ぼた、と奇妙な音を立てて床に落ちた人物がどうなっているかにまで、気が回らない。
視線を向けることもできない。ただ扉からハーレイの立ち居地は、大きな机を間に挟んでいたから、見えていないことを祈るばかりだ。突然立ち上がられてぎょっとした目を向けてくるジョミーに、なんでもないと誤魔化しながら、ハーレイは下を向くことも出来ずなにが分かるんですかっ、と内心で絶叫した。ジョミーは不思議そうに首をかしげ、赤くはれぼったくなってしまった目をこすりながら、てくてくと近寄ってくる。
そして机の前に立ってスタンプ帳を取り出し、ハーレイに向かってずいと差し出した。
「ハーレイ先生。スタンプ押して」
「あ、ああ。それは構わないが……どうした」
「ぼくにしてみれば、ハーレイ先生こそどうしたの、だよ」
いきなり立ち上がられてびっくりした、と笑うジョミーの表情は普段通りのこどものものだ。だからこそ、赤く腫れた目が痛々しい。どうしたんだ、とスタンプを押し、名を書き込みながら怒ったように問うハーレイに、ジョミーはすこしばかり困ったように視線をさ迷わせて。やがて俯き、ちいさくうん、と呟いてから口を開いた。
「死んで欲しくないな、って。思ったんです、ハーレイ先生……誰にも、死んで欲しくないって」
足元の気配がびくりと震えたのを、ハーレイは感じ取った。しかしその気配は、ブルーがあらかじめ部屋に残しておいた残り香と交じり合い、まだ目覚めたばかりのジョミーには判別できない。それを幸いとしてすこし気持ちを落ち着かせながら、ハーレイはそうか、とだけ呟いた。ジョミーはこくんと頷いてスタンプ帳を受け取り、足元に駆け寄ってきたナキネズミを抱き上げる。そしてぺこ、と頭を下げた。
「じゃあ、行ってきます。ハーレイ先生、またね」
「ああ。頑張りなさい」
うん、と元気よく頷いて笑って、ジョミーは部屋を駆け出して行った。扉を閉める瞬間振り返って、すこしだけ首を傾げたそぶりを見るだけに、なにか違和感を覚えてはいるらしい。けれどぱたん、と扉は閉まり、足音は遠ざかっていった。次の目的地へ向かったのを確認してから、ハーレイはひょい、と机の下を覗き込んで。そこで、どうにも居心地悪く視線をさ迷わせていた最長老を見つけると、喉を震わせて笑った。
「聞こえましたか、ソルジャー。死んで欲しくないそうですよ、あなたの愛しい太陽は」
「……そんなことは、知っていたさ」
言われるまでもない、と返される言葉は、それでもどこか裏返っていて。表情は拗ねたこどものようなものだったので、ハーレイは思わず肩を震わせて笑った。