てくてく歩きながらスタンプ帳を取り出して、ジョミーは思わず口元をほころばせた。押されたスタンプの数は、今のところ六個で、もう半分以上が埋まっていることになる。嬉しいなぁ、と気持ちを弾ませれば、それだけで肩の力が抜けていく気がした。喜びは心を解きほぐし、頑なだった意思を導いていく。力の入れすぎで上手く行かなかったコントロールや、無意識にしていた抑制がちょうど良く機能しはじめる。
その歩みに合わせてゆっくりと、ジョミーの内側から力が解き放たれていく。大きな、ジョミーにさえ抱えきれない程の力は、けれど優しく身の内にあった。教えられていた知識が、一つずつ現実になって染み込んでいく。方法は文字式ではなく、経験として重ねられていく。浮遊の仕方。転移の仕方。心の遮蔽はまだ難しいけれど、飛び交う思念波に耳を傷めてしまうことはなくなった。調節が出来る。
船内にちらばったブルーの気配を辿っていくたび、ジョミーの中には黄金の砂が降り積もっていった。それはほんのすこしずつジョミーの感覚を導いて、ごく自然に力を扱えるようにしてくれている。一つ、二つ、三つスタンプを集めていくたび、ブルーの残した思念が掴みやすくなって行った。四つ、五つ、六つ重ねるたび、不安定だった浮遊が自由に行えるようになり、転移のコツがなんとなくつかめるようだった。
立ち止まって首を傾げ、ジョミーは果たして、これがブルーの贈り物なのかどうかを考えてみた。内側に意識を集中して探っても、ブルーの力など感じられない。そもそも相手はミュウたちの長として君臨するくらいなのだから、隠そうと思えばいくらでも隠せるのだろうし、そう思われているのなら目覚め始めたジョミーが頑張ったところで意味などないのだけれど。たぶん、とジョミーは呟いた。違うだろう、と思って。
そこまで甘やかしてくれるひとではないからだ。そうしようと思ったのなら、ブルーはいつだってジョミーの力のコントロールに手を貸していただろうし、第一にこんなにも出会えない意味が分からない。だからこれは、ジョミーの力だ。受け入れて、受け入れられて、そのことに心が弾んで。力が抜けて自然に、己を受け入れなおしたからこその変化。足取りさえ、弾み始める。嬉しく、そして誇らしかったからだ。
昨日よりずっと、それこそ見違えるほど成長しているジョミーを見て、ブルーはどんなことを思ってくれるだろうか。嬉しく感じてくれるだろうか。誇らしく、思ってくれるだろうか。すこしの不安は、好きな相手だからこそ生まれるもの。揺れる心さえ楽しく、ジョミーはくすくすと肩を揺らして。そしてまた一つ、ブルーの残した気配のありかをその手に掴んだ。ヒルマン教授の気配に隠れるようにして、薄く青い輝きがある。
長老たち、全制覇だ。これはブルーの目論見なんだろうなぁ、とジョミーは思った。カリナから始まったのはただの偶然だが、それにしてもジョミーの部屋から公園は近かった。もっとも難易度の低いところから、くじけないように始められるように、との優しさだろうか。
「あのひと、僕に優しすぎるよ……甘やかし過ぎないように気をつけながら、甘やかしてるんだから」
それを無駄な努力と呼ぶのである。絶対あのひと、仕方がない長さまだよね、と半眼になって呟きながら、ジョミーは靴先で軽く廊下を蹴った。何度か床を確かめるようにそうしてから、深呼吸を一つ。頭の中で目的地の地図を描き出し、とにかくそれを鮮明に、綿密なものにしていく。本当は部屋の中を詳細に思い浮かべたり、その人物のことを考えるのが一番なのだけれど、今のジョミーにはすこし難しい。
なにを考えてもブルーが思い浮かんでしまうので、地図通りに飛ぶのが一番なのだった。転移する。それは、ぼやけた線で描かれた地図に、ピントを合わせる作業だ。呼吸を整えて、意識をとにかく集中させて。弓矢である一点を射抜くように、正確に、慎重に。すぅ、と息を吸い込んだ瞬間、ジョミーは強く床を蹴った。助走してハードルを飛び越える気持ちで、体全体を浮かび上がらせる。そして。風に、髪が揺れた。
ぱちんと目を開くと、ジョミーが立っていたのはなにもない空中だった。自覚したとたんにバランスを崩し、ジョミーは大慌てで二十センチ程の見えない段差を飛び降りる。靴底は無事に、白い床と感動の再会を果たした。ああよかった、と胸を撫で下ろして、ジョミーはこらえきれない笑いが響く方へ視線を向けた。床から天井まで伸びた、大きな硝子の展望台の前。しつらえたテーブルは、本が置かれていた。
一つしかない椅子に姿勢良くこしかけて、ヒルマンはいかにも楽しそうに笑っていた。からかうのではなく、純粋に喜んで。それがあまりにも、生徒の成長を喜ぶ教師そのものだったので、ジョミーは笑わないで下さい、と抗議することができない。代わりにすこしだけ眉を寄せ、小走りに駆け寄っていくと、ヒルマンは歳の近い孫を招くような仕草で手を泳がせた。
「やあ、ジョミー。上手な転移だったね。いつ、できるように?」
「……ええと、ついさっき、です」
空中で転びそうになったのを見ているだろうに、上手というのは明らかな欲目である。複雑なものを感じながらも突っ込まず、かすかに間を空けて答えるジョミーに、ヒルマンはほぅ、と感心したような呟きをもらす。それはそれは、よかったね、と頭を撫でられて、ジョミーは思わず脱力してしまった。
「こ、こども扱いしないでったらっ。いつも言ってるじゃないですかっ」
「十四歳など、まだまだこどもだろうに。私たちにしてみれば、君などこんなものだ」
そう言いながらヒルマンが示した『こんなもの』は、小指の爪よりちいさな距離だった。ブルーが最年長で、大体三百歳だというから、いくらなんでもそこまでちいさい筈はないのだが。このひと、言っても聞いてくれないんだよなぁ、とジョミーは諦めの気持ちでスタンプ帳を差し出した。
「はい、ヒルマン先生。スタンプとサインください」
「まあ、そう急ぐものではないよ。今日は素晴らしく良い天気だ。空を眺めて行きなさい」
スタンプ帳を受け取ったものの、ヒルマンはそれを机においてしまった。手をゆったりと組んで微笑む姿からは、ジョミーの望む行動に移るとは考えられない。仕方なしに硝子窓の方に目を向ければ、なるほど、確かに見事な青空だった。展望室は、その壁の半分が空に面している。透明な硝子をはめこんでいるからの開放感は、この部屋以外では感じられないものだ。手の届きそうな近くを、雲が流れていく。
それをぼんやりと眺めて、ジョミーは血の気が引いていく思いでヒルマンを振り返った。ヒルマンはゆったりと微笑むばかりでスタンプ帳を見てもいなかったが、それに抗議することさえ考え付かない。ヒルマンせんせいっ、と引きつった声がひとけの薄い展望室に響いた。
「くもっ、雲のっ……雲の中から外に出ちゃってません!? こ、これじゃ見つかっちゃうんじゃっ」
「ジョミー。長い人生には日光浴の楽しみが必要だと思わないかね」
「意味分からないこと言ってないでーっ!?」
混乱のあまり半分裏返った声で叫ぶジョミーに、ヒルマンはやれやれ、と苦笑した。そして真剣な表情でジョミーを見つめて、ヒルマンはゆっくりと、教師の口調で言い聞かせる。
「古来、神話や物語において、人々は雲の向こう側に伝説を求めた。大きな雲の向こう側には城があり、あるいは浮遊大陸があった。別世界へ通じる扉であったこともある。それは人々が空想に描いた夢なのか、それとも本当にあったものなのか。それは誰にも分からない。けれど雲の向こう側の、『地上ではない場所に作られた、もう一つの都市』の存在は、求め続けられる神秘であり、捕らえられぬものなのだ」
なぜだか分かるかね、とヒルマンは問いかけた。手を組み、微笑んで口を閉ざして椅子に座って、ジョミーの言葉を求めている。なぜだろう、とジョミーは眉を寄せた。ヒントはたくさん貰った気がするのだが、具体的にどれがヒントなのだか、よく分からない。首を傾げながら空を睨んで、ジョミーはぽつりと呟いた。
「伝説、だから? 伝説は証明された時点で、神秘の空想から現実のものへと変化してしまうから、伝説にしておきたかったのかも? ……よく分かりません」
「答えはいくつもあるだろう。それが君の答えならば、私は否定できる理由を持たない。だが、あえて私の答えを告げるなら、それは『雲の向こう側にあったから』だ。この船の名、シャングリラの意味を知っているかね?」
「理想郷、ですよね?」
話題が、ころころ転がって行っている。ジョミーにはそうとしか感じられないのだが、さりとて軌道修正する力の持ち合わせもないので、とりあえず答えていくしかない。幸いすぐに分かることだったので思い出す手間もなく答えれば、ヒルマンは鷹揚に頷いて笑った。
「そう、伝説の辿り付けぬ場所。理想的な、想像上の場所とされている所だ。さて、ジョミー」
そろそろ私の言いたいことが分からないかね、と微笑まれても、ジョミーの頭の中はすっかり絡まってしまってよく分からない。結ばれた糸を解こうと苦戦していると、ヒルマンはうっとりと目を細めて窓の外を眺め、口を開く。
「雲は常に動き続け、変化し続ける。その大きさも、形も、位置も。しかしシャングリラは、常に雲に沈んで姿を隠している。それは、どうして可能なことだと思うかね? 雲の中も、捉え方によっては、また『雲の向こう側』と捉えられないこともない。内側に船という区切りを抱いている以上、シャングリラがあるのは、常に『雲の向こう側』なのだ。人間の目から逃れるのに、まさしく、これ以上理想的なものはない」
「常に……今も?」
「そう。今も。今もシャングリラは、人間の目から見れば『雲の向こう側』にあるだろう」
目をぱちぱちと瞬かせて、ジョミーはもう一度窓から空を眺めた。どこまでも広がる青空がある。手を伸ばせば届く位置に、ぷかりとちいさな雲が浮かんでいた。それが、今現在の空模様だ。真っ白な雲の中ではない。まさか、とジョミーは息を吸い込んだ。
「幻覚? 雲の幻覚を発生させて、船を包んでるってことですか?」
「そう。攻撃セクションと、防御セクションの訓練もかねて、だ。こうして幻覚で包むこともあれば、思念で雲を吸い寄せることもある。また、発生させることもある。大きな雲を探し出してきて、そこまで移動することもある。毎日同じ方法では、なにかあった時に困ってしまうからね」
それにしても育ったことだ、と。ヒルマンはいつのまにか署名まで完了したスタンプ帳をジョミーに差し出しながら、嬉しく微笑んだ。人間には雲が見えるはずの今現在、ジョミーにはきちんと青空が見えている。それはつまり、ジョミー自身も己のことをミュウとして認識し、周囲にそう思われている証明に他ならない。これが昨日であれば、ジョミーの目には雲に包まれた景色が見えていたことだろう。
「さあ、行きなさい。君の成長を、心から嬉しく思うよ、ジョミー」
「ありがと、ヒルマン先生。先生は、もうすこし日光浴?」
ぼくも今度来ようかな、と目を細めて笑うジョミーに、ヒルマンはああ良いとも、と頷いた。