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 黎明を超えて

 ジョミーはすっかり困ってしまった。それというのも、こちらへ、と優しく呼びかける声に応えて転移したとたん、見知らぬ美少女に抱きつかれたからだ。それが助けを求めてのものなら、ジョミーも少年らしい精神を発揮して守ってやらなければ、と思っただろう。しかし美少女はあろうことか、まあ可愛らしいっ、と目を閉じたまま満面の笑みをふりまいて、ジョミーを愛玩するようにきゅぅ、と抱きしめているのである。
 困る以外に、ジョミーになにが出来ただろうか。やや頬を赤らめて沈黙してしまったジョミーに、美少女はふうわりと微笑みかけた。嬉しさが隠し切れない表情だった。思わず見惚れるジョミーに、美少女は囁くように告げる。
「ようこそ、ジョミー。天体の間へ。私はフィシス、と申します。……まあ、まあなんて可愛い」
 感極まったようにきゅっと腕に力をこめられて、ジョミーはますます困ってしまった。どうにか逃れようとするのだが、フィシスの力は柔らかいが強く、振りほどいてしまうにはためらいがある。結果的に無抵抗で抱きしめられるジョミーに、まるで針のような視線が向けられた。あわててそちらの方を向くと、ジョミーを気に食わない表情で見ている青年の姿がある。思わず首を傾げるジョミーに、フィシスが正体を告げた。
「アルフレート。可愛いジョミーをそんな目で見てはいけません。彼は私たちの仲間。大切な仲間なのです」
「……いえ、それは私も認めております、フィシスさま。ですが、なにゆえ、そのように抱きつく必要が」
「ソルジャー・ブルーが、私に可愛いジョミーを紹介してくれなかったからです。長老たちも、長老たちです。自分たちばかり可愛いジョミーを預けられて。私とて、ずっとブルーの可愛いジョミーにお会いしたかったと言うのに」
 軽く眉を寄せながら言い放つフィシスの中では、すでに『可愛いジョミー』が一単語になっているらしい。拗ねた口調で言葉を並べ、抱きついたまま離れようとしないフィシスは、どうやら密かにソルジャー・ブルーに怒っているらしかった。接触しているからこそ伝わる心の揺れに、ジョミーは目を瞬かせてしまう。紹介しなかった、と気になる箇所を無意識に繰り返したジョミーに、フィシスはこくりと頷いた。
「会わせてください、と。もしくは会いに行きますわ、と何度も告げたのに。ぼくに会いに来てもらうのが先だろう、とそればかり。その上、今回のスタンプラリーに参加もさせてくれないのですから……ドクターと図書館長が、ご好意でスタンプを預けてくださらなかったら、お会いするのがどれほど先になっていたか」
「フィシスさま。あれはご好意で預けて下さったのではなく、脅は……いえ、話し合いで、奪い取っ……その、渡して頂いた、の間違いではないでしょうか。それに、ソルジャー・ブルーは、直にジョミーを紹介しようとお考えだっただけで、決してないがしろにしていたわけでは」
「お会いできて嬉しいですわ、可愛いジョミー。私たち、仲良くしましょうね」
 アルフレートの苦言を綺麗に無視して、フィシスはジョミーの両手を取るとにっこりと微笑んだ。色々気になることはあったものの、ジョミーはこくりと頷いてフィシスに笑いかける。
「ぼくも、お会いできて嬉しいです。フィシスさま」
「フィシス、とお呼びくださいね。……アルフレート」
 静かな呼びかけに、アルフレートはすっと背筋を伸ばして応えた。なにかあるのならすぐに対応できるように、だ。しかしアルフレートの気合とは裏腹に、フィシスはにっこりと微笑んで手を横に振る。また用事があれば呼ぶので下がりなさいな、ということだ。思念波でも同じ言葉を告げられ、アルフレートは複雑なものを感じながら天体の間を出て行く。二人きりになった空間で、フィシスはジョミーに顔を向けた。
 盲いた瞳を、開けないことがもどかしかった。けれど思念で捕らえることのできる感覚や映像が、ジョミーの存在をなにより正確に伝えてくれるので、そう苦にはならない。すっかり困惑してしまっているジョミーに、フィシスは肩を震わせて笑いながら口を開いた。
「これからソルジャーにお会いするのでしょう? ジョミー。そうしたら、ぜひ伝えて欲しいことがありますの。頼めますかしら」
「え、あ、はいっ。ぼくでよければ」
「では『私、怒っておりますの』と」
 慌てた表情から一転、ジョミーあっけに取られた顔つきになってしまう。予想外だったからだ。ぽかん、と口を開けるジョミーの唇にそぅっと指先を触れさせて、フィシスはにこにこと笑っている。
「『しばらくは顔をお見せにならないでください。あなたのフィシスは、あなたにお会いしたくありません。もちろん、地球も見せて差し上げませんのでそのおつもりでお願いしますわ。可愛いジョミーは私と仲良くしてくださるそうです。二人でお茶会など開く予定ですので、思念で盗み聞きなどなさらないでくださいね。あなたの愛しい者たちが仲良くするのですから、喜ばしいことです』と、そう、お願いします」
「し……思念波で伝えるの、は、出来ないんです、か?」
 なんだか、とても伝えてはいけない気がしたジョミーは、冷や汗をかきながらそう尋ねたのだが。フィシスはゆっくりと微笑んで、出来ますけれど、と告げた。
「可愛いジョミーが言ってくださった方が、良い薬になると思います」
「か、可愛いって、そんな……あの、あんまり言わないでください、フィシス」
「それにしても、可愛いジョミー。大きくなりましたわね。お会いできて、本当に、本当に嬉しい」
 あなたがまだこれくらいの時から、ずっとこうしてお会いしたかったのです、とフィシスが手で示した背丈は、少女の膝の高さよりもずっと下だった。生まれたばかりの赤ん坊と、ちょうど同じくらいの大きさだろう。あなたも、と口ごもるジョミーに、フィシスはゆっくりと頷いた。
「母のように。姉のように……あなたと、まるで血の繋がった者であるような気持ちでおりました。あなたが初めて寝返りを打った日のことも、立った日のことも、走った日のことも、言葉を話した日のことも、その喜びも、ほんのすこし前のような気持ちで覚えています。不思議。いつの間に……こうして、お会いできるだけの年月が巡ったのでしょう。私の、可愛いジョミー。そう呼ぶことを、許してくれますか?」
 母のような優しさで、姉のような親しさで。限りなく愛しい気持ちがこもった囁きに、ジョミーはごく自然に頷いていた。そう呼ばれることに恥ずかしさや抵抗感がないといえば嘘になるが、それよりも強く、じわりと熱を持った喜びが心に広がっていく。育ててくれたパパにも、マムにも、もう会うことはできないけれど。代わりになど決してならないし、しようとも思わないけれど。それでもこの船に、同じ愛しさがあった。
 フィシス、とジョミーは先程よりもずっと自然に、その名を口にした。考えるより早く、言葉は零れ落ちて行く。深い感謝の気持ちだけが、その囁きを作らせた。僕を、とジョミーは微笑む。
「待っていてくれて、ありがとう。会いに来るのが遅くなって、ごめんなさい」
 そして。初めてジョミーは、心から。
「ここに来てよかった。……努力して、よかった」
 誰かが待っていてくれたこと。そのことが、こんなにも嬉しい。深い気持ちを微笑みに変えて告げるジョミーに、フィシスはそっと微笑んで頬に手を触れさせた。ジョミーは目を閉じて、その手の感触と体温に心を委ねる。今でも、ジョミーは考える。もしあの時、ブルーがジョミーの成人検査を妨害しなかったら。シャングリラに来なかったら。大人になっていたら。どうなっていたのかと。どうして、いたのだろうかと。
 自分自身がどうなっていたのかを、考える。そして、ジョミーが居ないシャングリラのことも、考える。人間として大人になったジョミーの傍には、ブルーが居ない。シャングリラで出会った優しい人たちも、存在しない。船に来て初めて感じた悪意や、戸惑いや悔しさを感じない代わりに、それを乗り越えた喜びも、嬉しさも、暖かさもなにも感じない。己を成長させてくれた悲しさも、悔しさも、そこにはなに一つない。
 もしジョミーがシャングリラに来なければ、白い船はなにも変化しなかっただろう。穏やかで平穏で、けれど、それだけだっただろう。ジョミーがシャングリラに嵐を持ち込み、また、嵐そのものとなって荒れたがゆえに、この船は多くを学び、多くを失い、多くを得たのだ。ジョミーと同じように平等に、それは成された。誰もがなにかを失った。そして同時に、誰もが得たのだ。新しいものを、手のひらの中にひとつだけ。
 目を開いて笑うジョミーから、フィシスはそっと手を離した。そしてスタンプ帳を受け取って、ぽん、ぽん、と軽やかな音を二回立てる。名前も二回書き込んで、フィシスはジョミーにそれを差し出した。
「行ってらっしゃい。可愛いジョミー」
「はい、フィシス。行ってきます」
 笑って、ごく自然に挨拶を交わして。ジョミーは天体の間から、廊下へと出た。胸いっぱいに空気を吸い込んで、吐き出して、顔をあげて。そしてジョミーは、恐らく出てくるのを待っていたのであろうリオの姿を見つけて、心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。

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