リオ、と。無垢な声の響きで呼びかけながら、ジョミーは軽やかな足取りで駆け寄ってくる。その姿をうっとりと眺めて、リオは心地よいため息をもらした。安堵より、感嘆より、心地よさが胸に広がっていく。不安だった。会いたかった。触れたかった。響く想いは、リオとジョミー、どちらのものだったのか。ごく自然に差し伸べた手をきゅっとつかまれて、リオは幸福に光り輝く笑みでもって、ジョミーを出迎える。
『おかえりなさい、ジョミー。成果はどうでしたか、と聞くまでも無いですね』
心が弾む。嬉しさに踊りだす。それは短期間でジョミーがこれほどまでに成長したからではなく、成長したことによって、リオがずっと待ち望んでいた姿になってくれたからだ。部屋から見送った姿は、まだ右も左も分らない、生まれたての幼子であったのに。リオと手を繋ぎ、微笑みながら首を傾げている姿は、羽化しかけている蝶を見ているようだった。青空へ駆け出していく寸前の、恐れ多いほど美しい姿。
この姿を最初に見るのだと、リオは決めていた。ずっとずっと、その導きだけはリオがするのだと、決めていた。リオがミュウとして覚醒して船に来て、ブルーに憧れ、けれどその右腕にはなれないのだと悟った日から。愛し子の存在をブルーに語られ、いつの日かこの船に迎え入れるのだと熱を持って囁かれた日から。迎えに行ってほしいと告げられ、ジョミーを目にしたその日から、その瞬間から。ずっと、ずっと。
片腕になりたいと、思った。思っていた。友であり、支えるものであり、守るものであり、語るものになりたいと思った。たった一人でよかったのだ。たった一人、己の全てを捧げても後悔しない相手の傍にいたいと、ずっと思っていて。ブルーに取ってのそういう存在にはなれないと分かった日から、誰か、と星に託す願いのように遥かに、そっと、祈っていたのだ。出会いたかった。ああ、とリオは吐息に乗せて微笑む。
『あなたに、会いたかった。あなたに……今、この瞬間の、ジョミー。あなたに、私は、ずっと』
お会いしたかった、と囁いて。リオは繋いだ手をそのままに、ゆっくりと片膝をついた。跪いて、見上げて視線を合わせて。リオは戸惑いに揺れる翠の瞳に、暖かく穏やかに笑いかける。
『私は、この時、この瞬間から、これから先、永遠に変わることの無い親愛と忠誠を、あなたに捧げます』
ミュウとして生まれた体は、弱くて、与えられた時間だけが長くて。青空だけが見える船の窓から、見上げる世界はとても広くて。大人たちが囁く言葉から、感じられたのは悲しみばかりで。出会えるとは、本当には、思っていなかった。だからこそ、こんなにも穏やかに嬉しい。
『悲しいことがあったら、話してください。私も話します。苦しいことがあったら、頼ってください。私も頼ります。楽しいことがあったら、教えてください。私も笑います。たくさん考えて、悩んで、分かち合って。なにかあったら必ず相談できる相手に、なりたいんです。一番最初の相手じゃなくても、話しに来てくれればそれでいい。ジョミー』
強い戸惑いに揺れる瞳は、訳が分らなくてなんだか泣きそうになっていたけれど、突然の宣誓の理由を、リオは説明してやる気になれない。それでもジョミーは、リオを受け入れようとしてくれているからだ。分らなくても、混乱していても、ジョミーはリオの成す全てをいっさい拒否せず、心に迎え入れてくれている。固く引き絞られていた唇がほころんで、リオ、と弱く震えながら名を呼んだ。はい、とリオは答える。
それ以外の言葉など、思いつかなかった。
「リオ……リオ、リオ」
心地よく、響く。耳に溶け込むように紡がれる名に、リオはただはい、と答え続けた。呼びかけに意味などなく、思考をまとめる為に呟かれているだけだと、繋いだ手から流れる気持ちから知っていても。その声に応えないことなど、できはしないのだと。義務ではなく喜びで、思わず返事してしまうのだと。くすくす、笑いながら。はい、と何度目かの返事をしたリオの手が、きゅぅ、と握られる。見上げれば、翠の瞳。
よく晴れた五月の、新緑のように輝いている。あのね、と笑みに崩れた声が響いた。
「リオと別れたあと、カリナに会ったよ。カリナだけじゃなくて、こどもたち。仲間だ、って言ってくれた。はじめて受け入れてもらえた……嬉しかった。嬉し、かった。次に会いに行ったのはエラ長老さまで……今まで、ずいぶん、僕は甘えてばかりだったんだって、そう思った」
嬉しいこと。反省したこと。楽しかったこと。苦しかったこと。
「機関室に行ったら、すこし年上の男のミュウに話しかけてもらえたんだ。機械のこと、教えてもらう約束した。ゼル機関長にも、遊びにおいでって。ブルーがあんまりご飯食べたがらないって、食堂のマムには教えてもらったよ。……仕方のないひと。こどもみたい」
受け入れてもらう嬉しさ。受け入れていなかった苦しみ。心弾んだこと。心沈んだこと。
「ブラウ航海長は、優しかった。仲間の。たくさんの仲間の……死んでしまった、そのことを、忘れないひとだと思った。ハーレイ先生はいつも通りだったよ。なんかちょっと慌ててたけど、まあ、ハーレイ先生だから」
考えたこと。考えていなかったこと。考えることができたこと。たくさんのこと。
「ヒルマン先生は日光浴中でね。窓から空が見えるから焦っちゃったんだけど、教えてもらって安心した。船がどうやって隠れてるのか。面白いなって、思ったよ。あと、フィシスは……フィシスはね、僕を待っててくれたんだって。そのことが、本当に嬉しかった」
なにから話したらいいのか分からないから、順番に。伝えようとするジョミーに、リオはゆるりと微笑んだ。
『良い、経験ができましたね』
「うんっ。はやくリオに話したかったんだ。……ねえ。たくさん話そう、リオ。これまでのこと、これからのこと。考えてる、たくさんのこと。今すぐじゃなくて、ブルーに会いに行くのが終ったら、だけど」
『ええ、ジョミー。分っていますよ』
さあ最後の一つを、と笑いながら立ち上がったリオに、スタンプ帳を素直に渡して。ジョミーはくすぐったいような、困ってしまったような、嬉しくてどんな表情をすれば分らないような表情で、それにしても、と言った。
「リオも、だったんだ?」
『はい? なにがでしょう』
押して名前も書きましたよ、とスタンプ帳をジョミーに持たせてやりながら、リオはちいさく首を傾げる。誰かと同じにされていることは分かっても、なにと同じにされているかが分らない。静かに答えを待つリオに、ジョミーは待っててくれたひと、と言った。
「僕、どれだけの人を、どれくらい待たせちゃったのかなぁ……待たせたかったわけじゃないんだけど」
待ち合わせに遅れるのとか嫌いだし、とぶつぶつ呟くジョミーの唇は、その不満を表すように軽く尖らされていて。幼い仕草に思わず肩を震わせながら、リオは十分だ、と満ち足りる。そう思ってくれたこと、そう呟いてくれたことだけで。待ち望んだ時間は、全て報われる。そっとジョミーの背を押して、リオは行ってらっしゃい、と囁いた。
『もう、分るでしょう? ソルジャーがお待ちです……賭けの結果を教えてくださいね。伝言も忘れずに』
フィシスさまはお怒りになると怖いですからね、と朗らかに告げられて、ジョミーはこくりと頷いた。そして初めて思い出して服の上から首筋に手を当て、赤く染まった顔でリオを睨みつける。なんてことしてくれたんだ、そういえば、とものすごく今更な怒りまじりの恥じらいに、リオはくすくすと肩を震わせて笑う。
『あなたが思うより、ずっと、ずっと』
それは、本当は誰もがなのだけれど。そこは伏せて、リオはジョミーの頭を撫でた。
『ソルジャーはあなたを好きですよ、ジョミー』
「……うん。そうじゃないかな、とは、思った」
船を巡る前とは違う評価を口にして、ジョミーはふぅと息を吐く。そして甘く緩んだ笑顔で、そっと、宝物のように口にする。なんて、と。それは、砂糖菓子のような繊細さで。なんて、仕方のないひと、と。甘やかに囁かれる言葉こそ、ジョミーの真意なのだろう。なにもかもを受け入れ、なにもかもを捧げてしまった相手に対して、それでもジョミーはやんわり包み込むような穏やかさをみせる。ふ、とジョミーは息を吐いた。
「行ってきます、リオ」
「行ってらっしゃい、ジョミー」
それでは、また、と。軽く頭を下げて見送ってくれるリオの姿を背に、ジョミーは迷わず一歩を踏み出した。もう、すぐそこ。ほんの近くに。ブルーがいることは、分っていた。
一番はじめに告げるべき言葉を、ブルーは本当は何度も考えて、決めていたのだけれど。扉の外に愛しい子の気配を感じてしまったら、そんなものは全てどうでもよくなって、消え去ってしまった。ほんの僅か、入室をためらう様子が可愛らしくて、切ない。ベットからゆっくり体を起こして、立ち上がって、ブルーはなにものにも例えられない柔らかなまなざしを扉の向こうへと送って。すぅ、と息を吸い込んだ。
「おいで、ジョミー」
さあ、と声を付け加える必要は無かった。ゆっくり、ゆっくり扉が開いていく。そしておずおずと姿をみせたジョミーに、ブルーは殆ど無意識に転移して、目の前に現れて。その体を、腕の中に抱きしめていた。