意識が、歓喜で眩暈を起こす。呼吸をするたびに指先が甘くしびれて、全身にざわりと波が走り、現実感がひどく希薄だ。夢なのか幻なのか、現実なのかよく分らない。望んでいたことだけが、確かだった。いきなり抱きしめられて、戸惑いに浮いていた腕がゆっくりと持ち上げられる。そっと背中に添えられた体温に、心臓が跳ね上がるのを感じた。かみさま、と心が無意識の祈りを叫ぶ。愛しい。愛しい。恋しい。
ぎゅぅ、と力いっぱい、それでいて痛みを与えないように抱きしめれば、背に回された手のひらがぱたぱたと動く。そのままぽん、ぽん、と宥めるように叩かれて、ブルーは目を閉じたまま、息を吸い込んだ。落ち着くなんて無理だよ、とすこしばかり拗ねた声を送り込めば、ジョミーは案外落ち着いた声でそうでしょうね、と返してきた。思わず首を傾げれば、ジョミーは首を撫でる髪にくすぐったそうに肩をすくめる。
「だって、あなたは泣いてるから……泣いてる相手に、落ち着けっていうのは、なぐさめじゃないし。あなたが泣くって、たぶんよっぽどのことだから、泣いてていいですよ。どうせ僕、今日はあなたに会う以外の予定なんてないんだから。ずっと傍にいますから。だから、へいき」
「泣いて、る?」
泣いている。涙を流す。そんな反応をするのは、ジョミーの方ではないのだろうか。不安に駆られて目を開き、手のひらでジョミーの頬を包んで見下ろせば、新緑の瞳は笑みに崩れるばかりで涙の気配など漂わせてはいなかった。ぱた、と雫が落ちる音がする。頬を包む手のひらが、生ぬるく濡れた。ほら、あなただ、と笑う声がブルーを包み、翠の瞳がやんわりと揺れる。よしよし、とジョミーはブルーの頭を撫でた。
優しい仕草だった。なんだか立場が逆転してしまったような気がして、ブルーはジョミーの肩に額を押し付け、心からのため息をつく。そんなつもりでは、なかったというのに。ああもう、どうして、とむくれるブルーの姿に、ジョミーは軽やかな笑い声を響かせた。耳赤い、と呟かれて、ブルーは記憶を失いたくなった。こんなつもりじゃなかったのに、とやや脱力してジョミーに体重を預ければ、愛しげに抱く力が強まる。
包み込まれる。体も、鼓動も、体温も。魂も。存在、なにもかも全てが。そっと、包み込まれる。ブルーの体に回される腕や、向き合う体の大きさでは、物理的にそうすることは不可能なのだけれど。抱かれる。なにかがほろほろと、砂を崩すように解けていく。うっすらと恐怖すら感じる限りない安堵に、ブルーはふと息を吐き出してジョミーの肩を押し、体を離した。ジョミーは反射的に笑みを浮かべ、首を傾げている。
「ブルー?」
もういいんですか、大丈夫なんですか、と無邪気に問いかけてくる唇をやんわりと指で押し、ブルーはそれ以上の言葉を封じ込めてしまった。たったそれだけの接触でも、音が出かねないほどに顔を赤くするジョミーが、なにより愛おしく思える。求めるだけの幼子が、与えることを知る存在へと育とうとしている。その変化が、ブルーには胸を乱すくらい嬉しい。大丈夫だよ、とブルーは歌声のように空気を揺らした。
大丈夫、大丈夫。繰り返される言葉は呪文のようで、ブルーの心をも穏やかなものにして行く。ほぅっと肩の力を抜いて息を吐くジョミーに、ブルーは改めて手を伸ばした。頬に手を滑らせて撫でれば、ジョミーは頭をこすり付けてくる子猫のようにうっとりと笑う。ブルー、と声もなく名が呟かれた唇を指先でなぞって、ブルーは深く息を吐き出した。感動と、喜びと、愛おしさが混ざり合った吐息だった。
「……あなたが、想ってるより」
その吐息に誘われたように、ジョミーはぽつりと言葉を落とした。うん、と問いかけの形に柔らかく目を細めたブルーに、ジョミーは意を決したように息を吸い込み、言葉を繋げる。
「ずっと、ぼくは、あなたに会いたくて。会いたく、て……会いたくて」
かすかに震える手が、ためらうようにブルーへと動く。肩にそぅっと触れた指先を、上から押さえつけるようにして手のひらを重ねれば、びくんと怯えるように大きく跳ねた。会いたくて、とかすれる声が幾度となく囁きを落とす。切ない呼吸音が静寂の場に響いて、ジョミーの表情がゆがんでいく。唇を噛み締めて、大きな目を涙の幕でおおって。けれど雫を頬に伝わせるのを嫌がって、ジョミーはゆっくり首を振った。
どうして、と途切れながら紡がれた言葉が、かなしくブルーの耳を打つ。
「今まで、会ってくれなかったんですか……? 泣くほど、ぼくを求めていてくれたのに。どうして」
「……ぼくはね」
はぁ、と己に対してふがいなく思う種類のため息を吐き出して、ブルーはジョミーの頭を両手でかかえ、胸へと押し付ける形で抱きしめた。よしよし、と宥めるように髪をゆっくり梳きながら、ブルーは白亜の船の天井を、睨みつけながら口を開く。
「君が好きで。君が愛おしくて。君が大切で。君が大好きで。君が……感じ取っているより、考えているより、教わっているより、想像しているよりずっと、君を強い気持ちで想っていて、君を可愛がりたくて甘やかしたくて、大切にしたくて大好きで、好きで好きで仕方がないんだ」
可愛い。ジョミー、ホント可愛い、と。呟きながらぎゅぅっと頭を抱きかかえられて、ジョミーは息が止まるほど恥ずかしい思いを味わった。なんだそれ、と叫びたい気分だ。しかもそれ理由になってないっ、と胸の中で響いた気持ちを読み取ったのだろう。ブルーは焦らず、どこかのんびりとした口調で、うん、だからね、と説明していく。その間ジョミーを抱く腕の力は緩まず、髪を撫でる手は止まることがなかった。
「きみは十四歳の人間のこどもだった。そして、生まれたばかりのミュウだった。成人検査を受ける年齢とはいえ、十四歳なんてまだまだ幼いこどもだ。そして生まれたての存在なんて、幼いというよりまっさらで、どうにでもなるだろう? 愛情を注ぐのはね、大切なことだ。優しくするのも、可愛がるのも、とてもとても大切で必要なことだけど……ぼくは君が可愛くて、やっと会えて嬉しくて、それしか出来ないと思って」
大切だから、愛おしいから、優しくしたくて。けれど、それしか与えたくないわけでもなかったから。なんと説明すればいいのか、と迷って言葉を選びながら、ブルーはジョミーへの想いを持て余しつつ、語っていく。
「遠ざけたわけじゃない。成長して欲しかった。ありとあらゆる意味で、育って欲しかったんだ。……正直に言おうか? 君に、ぼくを、求めて欲しかった。この船に来るまで、ぼくは君のどんな存在だった? もう一人の親のように、ではダメなんだ。安心や嬉しさを覚える相手では、足りないんだ。渇望して欲しかった。足りない欠片を埋めるように。片割れと出会うように。ソルジャー・ブルーとして、必要なことだった」
「ソルジャー・ブルーとして? ……ミュウの、長として?」
「そう。君という存在を見出してから、愛しさを感じながら、ぼくはずっと考えていたよ。君に、なにを残そうと」
やんわり微笑んだ気配を感じて、ジョミーは顔をあげてブルーの顔を見ようとした。しかし胸に抱き寄せる腕の力は、柔らかでいても案外強く、ジョミーの顔はすこしも上を向くことが出来ない。もぞりと、居心地が悪い程度に見動くジョミーに笑みを落として、ブルーはすこし目を閉じた。
「体に欠けた所のない、力の強い理想的なミュウである君を見つけて、後継者にしようと思ったんだ。ソルジャー・ブルーの後継者。その地位を引き継ぎ、ミュウたちの新しい指導者として、君に育って欲しかった。なにを残していくのが良いだろうと考えながら、君の成長を、ずっと見守っていたよ。……けれど、そんなこと、船に連れてこられていきなり言われても困るだけだろうから。待って、いたんだ」
ぼくの、と。その言葉がどれほどの破壊力を持っているか知っているからこそ、わずかにためらって。ブルーはせめてジョミーの頭をさらに強く抱きしめ、逃さないようにとしながら告げた。
「ぼくの命はもう長くない。だから、その短い間で君がぼくを、後継者として相応しいくらいに求め、受け入れ、継いでくれるようにと。ぼくを求めて、求めて、仕方がなくなるくらいに……待っていたんだ。そして、後継者として正しく成長してくれるようにと」
「……待って」
血の気を失ったジョミーの手が、ブルーの腰辺りの服をつかむ。腕を、上に持ち上げる力を失ってしまったのだろう。全身も脱力してしまっていて、体重のほとんどがブルーへ向けられていた。ブルーは苦痛に耐えて息を吸い込み、語ることは終わったと告げるようにジョミーの頭を解放した。勢い良くではなく、ゆっくりジョミーは顔をあげる。思わず、ブルーは体を強張らせた。予想したどの表情とも違っていたからだ。
力強く輝く翠の瞳が、ブルーの意識を貫いていた。
「ジョミー……?」
「あなたは、一度も嘘をつかなかったから……ぼくはそれが、すごく嬉しい。けど。けど、違う」
誤魔化せると思ったら大間違いだ、とジョミーはブルーを睨みつけながら言う。
「今更、ぼくを傷つけたくないと思うんだったら、全部話して」
その言葉に。かすかに、息を飲んだことがブルーの一番の失敗だった。ほらね、と嬉しく笑ったジョミーは、にこにこと普段通りの表情でブルーの目を覗き込む。
「ソルジャー・ブルーの後継者として。ぼくを待っていた。ぼくを求めてくれた。ぼくに求めさせたかった。ぼくに成長して欲しかった。本当のことだよね。実際、そうだった。それをちゃんと、教えてくれてすごく嬉しい。後継者として見出されたことも、選ばれたことも。すごく、嬉しい。あなたの後を継げるのは、ぼくだけなんでしょう? だから……だからね、ブルー。その時間の為に会ってくれなかったなら、それでもいい」
けど、とジョミーは首を傾げた。純粋に不思議がる仕草だった。
「そうじゃないでしょ? それだけじゃない、でしょ? ぼくは……あなたが望んだ程かどうかは自信がないけど、成長できてると思う。あなたの後継者になれというなら、それに相応しいように努力しようと思う。けど……あなたは、それだけじゃ説明つかないくらい、ぼくのこと甘やかしてるんだけど。自覚、ある? ぼくも、それがちゃんと分って来たのってついさっきなんだけど。あなたはそれ、ちゃんと分ってる?」
「……えっと」
「ぼくはあなたが好きです」
目を見てきっぱりと、ジョミーは言い放った。思わず動きを止めるブルーに、恥ずかしそうにジョミーは笑う。
「あなたに会って、やっと分った。あなたが好きです。これまで会ったことのある、誰より。これから先で会う、どんな人より。ぼく自身よりも。あなたが好きで。あなたが、好きで……好き、なんです」
不確定な未来さえ断言してしまう強さで。好きだと告げるジョミーに、ブルーは額に手を押し当てた。きちんと締め出していた筈なのに、どうしてか覗き見していたフィシスとリオからの抗議が、うるさいを通り越して痛く感じてきたからだ。分った、分ったから、と再び二種の猛抗議を締め出して、ブルーはジョミーの頭を撫でる。どんな言葉より、表情よりも、ジョミーの言葉を封じ込めてしまう愛しい仕草だった。
「ごめんね」
可愛い、可愛い、と頭を撫でて。ブルーはうっとりと、愛しさに微笑んだ。
「ごめんね、ジョミー。君に恋してる」
「ブルー」
「君を、愛してる」
ソルジャー・ブルーが、ではなくて。
「個人的に、君に恋をして君を愛してる。だから君が、ぼくと同じように恋をしてくれるまで会いたくなかった」
「……あ、なた、は」
恥ずかしさか、怒りにか。恐らくは両方の感情で真っ赤になって、体を震わせて。涙のにじむ目でブルーを睨みつけて、ジョミーは嬉しそうに笑う美貌の青年を怒鳴りつけた。
「しょうがないひとっ」
「うん。そうだね。ごめ」
「そんなことしなくたって、僕は必ずあなたに恋くらいしてみせたのにっ」
最後まで言わせず、どうしてそんな簡単なことが分ってくれないんですか、と叫ぶジョミーを、ブルーはあっけに取られながら見つめていた。ジョミーは己に対する憤りと、ブルーに対する恥ずかしさと怒りで爆発しそうになりながらも、必死に息を整えて告げる。
「後継者と恋人育てるの一緒にしないでくださいっ。恋人にするのにも、ぼくはこどもだったのかも知れないけど、そんなくっだらない理由で会わなかったとかひどすぎるっ。ぼくは、あなたに恋さえしてなかったけど、それでもずっと恋してたんですから」
「ジョミー?」
「同じくらい、求められなかったからって、恋じゃないとか決め付けないで……っ」
おままごとのような想いだったのかも知れない。錯覚のようなものだったのかも知れないけれど。それでも。
「あなたに会って、会えて、ずっと恋してたってはじめて分ったんだからっ。いつからとか、そんなこと関係なくて、あなたの香りが好きだった。なにより失いたくなかったし、離れたくないと思った。それは……恋でしょう?」
「ジョミー」
「船に連れてきた瞬間、会ってよかったのに。どうせあなた、ぼくを甘やかすんだから」
あなたの努力はほぼ全て無駄でした、と宣言されるのに等しい。なんとなく言葉を失ってしまったブルーに、ジョミーはくすくすと笑いながら、でもまあ、と囁く。
「許してあげる。それでも、ずっと会えなかったから、こんなにも会えて嬉しいし、好きになれたから」
「……ありがとう」
「ソルジャー・ブルー」
すこし改まった響きで名を呼んでくるジョミーに、ブルーは満面の笑みで首を傾げた。すくなくとも、どんな場面でもジョミーがブルーのその表情に弱いと知っていての、ささやかな意趣返しだ。
「なんだい?」
もくろみ通り頬を赤らめてかすかに言葉に詰まり、ジョミーはえと、と視線をさ迷わせながら口を開く。
「ぼくは、あなたが残ってなければ、なにもいりません、から」
それは、先ほどブルーが告げた『後継者になにを残そうか』という言葉への返答だ。
「あなたが残って、ブルー。命がないなら、ぼくのを半分あげるから」
あら、じゃあ私のもどうぞ、と笑顔でフィシスが割り込んでくる。私のも差し上げますよ、と笑うリオは、どうやら天体の間にいるらしかった。二人で仲良く協力して、ブルーの盗聴に勤しんでいるらしい。真剣に悩んで考えていたことが、だんだん馬鹿らしくなってきて、ブルーはすこし肩を震わせて笑った。そして、うん、と呟いてジョミーを抱きしめる。ずっと求め続けた存在は、すっぽりと腕の中に納まった。
「じゃあ、長生きしようかな」
難しい、ことも。悲しいことも、苦しいことも。なにもかもが、もう大丈夫なような気がしてしまう。ジョミーが居てくれるからだ。大切な後継者。求め続けた強い存在。そして、愛しいひと。くすくす笑い出したブルーの背に腕を回して、ジョミーは優しく、深く息を吐く。そしてブルーの胸に染み込むような声で、そぅっと、しかたのないひと、と呟いた。