柔らかな枯れ葉色の布地に線がひかれ、鋏(はさみ) が入れられていく。独特の音を立てて布が切られていくその様を、ラグリアは実に興味深そうに見ていた。さすがに上手いですね、との感嘆の声に、シンディアは鋏から目を離さないまま、穏やかに笑って受け入れた。慣れていますから、と返される控え目な声に、ラグリアは微笑む。それでも、主君の正装を縫う教育官は、シンディアくらいのものだと思って。
ラグリアも、男にしてはかなり裁縫が上手いので、必要があればセルカの衣装の一着程度は作れるのだ。それでも、わざわざ作ろうとはどうしても思わない。理由の一つとして、作られた本人が非常に嫌がることが目に見えており、衣装が陽の目にあたる機会が無い、というのもあるのだが。それ以上に大きい理由は、専用の仕立て屋がいるからだった。彼らに頼むほうが、ずっと確実で迅速なのである。
教育官というのは、主君を溺愛しているだけの職業だと思われがちだが、その実かなり忙しいのだ。たとえば、主君を守る護衛官たちの、一月の勤務体制を考えているのはその教育官である。一日に三回の交代で夜勤と早朝勤務、日勤があり、大体入れ替わりで十五人前後が護衛につく。一番勤務時間が長いのが日勤の十四時間で、一番短いのが早朝勤務の八時間。中間で、夜勤の十時間となっている。
その予定管理は教育官に一任されており、十五人分の希望を聞いたり、それによって調整を入れたりするのは、毎月のことながらかなり頭を悩まされる作業であるのだった。もちろん、仕事はそれだけに終わらない。護衛官関連のものだけに絞って数え上げてみても、片手の数では足りない程あるのだ。毎日行われる報告会議や、検討会もそれには含まれている。教育官は、国王と軍師に次ぐ多忙職なのだ。
自由な時間などほとんど無いのである。主君一色の毎日は教育官によって天国のような環境であるのだが、それだけに、主君に直接関わらないことでやりたいことを優先させる時間が、ほぼ消えるのだった。主君に関わる問題とはいえ、衣装を一着仕上げる時間など、どこにもない筈なのだが。呆れと感嘆交じりのラグリアの視線に、シンディアはだって、とわずかに寂しげに微笑みを浮かべる。
「ラグリアと違って、今の私にはたっぷり時間があるの。お仕事も、半分くらいしかしていないし、サフェリ様がお迎えに来てくださるのは、まだ先のことなんですもの。お洋服の一着や二着、余裕で出来る暇があるの」
「でもあなたは、普通に仕事をしてた時だって、サフェリ様の衣装は八割程度縫ってたじゃないですか」
「違うわ、ラグリア。九割よ」
その一割が何着分かに相当するのか定かではないが、告げるシンディアの表情は嬉しそうなものだったので、作業は苦ではなかったのだろう。どこからそれだけの時間を持って来たんですか、と不思議そうな呟きに、シンディアは僅かに考え込み、あっさりと告げる。
「こうした、お部屋の中での護衛の時で主君が、たとえば読書なんかなさってて、教育官の仕事もなくてってこと、時々あるでしょう? 今のラグリアみたいに、雑談なんかで時間をつぶすような。そういう時に進めていたの。後は、睡眠時間を削ってみたりとか」
「寝なきゃダメでしょう。だからすぐに貧血起こすんですよ? 分かってます?」
「もう、ラグリアったら。サフェリ様と同じことを言うのね。心配性なんだから」
くすくすと春風のように笑いながら言うシンディアは、全く分かっていないようだった。本当に色々苦労してそうですよね、とサフェリに思いをはせながら、ラグリアは部屋の片隅にいる主君に、ちらりと伺いの視線を向ける。セルカは勉強に飽きてきたのか、はたまた体調が悪いのか判別のしにくい表情と顔色で、ぐてっと机に突っ伏していた。もう嫌だー、とうめき声が聞こえてくるので、恐らくは前者なのだろうが。
声をかけようかとも思うが、ヒューリィが傍にいるので大丈夫だろう。そう結論付け、ラグリアは再びシンディアへと視線を戻す。布を切り終わったシンディアは、スカートの裾につけるレースはどれにしようか、ということで頭を悩ませていた。膝の上に、それだけで一財産になりそうな量のレースが、所狭しと乗っている。しばらく考えたあげく、シンディアは結局、図案を引いて糸から編むことにしたらしい。
紙にさらさらと書き込んで行くのを眺め、ラグリアは頭の痛い思いで問いかける。気が遠くなりそうだった。
「それって、どれくらい時間のかかるものなんですか……?」
「うーん。全部終わって一着完成するのに、三ヶ月ちょっと、かしら。普段は二週間くらいで終わらせるけれど、今回はじっくり作ろうと思って。七日大祭の式典用のものを、作ってるのよ。……どうかしたの? ラグリア。なんだか頭がとっても痛そうよ。横になったら?」
「大丈夫ですから、お気になさらず。愛の成せる技だなぁ、と心底思っただけです」
ため息交じりの言葉にも、シンディアは無言で微笑んで見せた。淡い、木漏れ日のような微笑。シンディアの本来持つ、ゆるやかで穏やかで優しく、全てを包み込むような慈愛の表情だった。完全復活を告げたシンディアに、あと足りないものがあるとすればサフェリだけだろう。それはたった一つの欠片で、もっとも大きな中枢だった。さっさとあちらも立ち直って欲しいものだ、とラグリアは思った。
真珠のような光沢を放つ、眩暈がするほど細いレース糸を手にしながら、シンディアはまだ机に突っ伏したままのセルカを見て首をかしげ、そして全く他人事の距離感で、不思議そうに呟く。
「セリィアイス様は、どうなさったの? なんだか、つむじから魂が抜け出しそうなご様子よ?」
「ああ、言いえて妙ですね。つむじから魂が抜け出す。そこはかとない間抜けさ加減が、実に我が主君らしい」
ぽん、と手を打って頷くラグリアに、話題にされたセルカは生気のない視線を向ける。
「心配されてる気がしないのは俺だけか? ヒューリィ、どう思う?」
「そのまま、心配していないんだと思います。それより、いい加減復活してください。まだ終わってないでしょう?」
トン、と指先で閉じられた教材の表紙を叩くヒューリィに、セルカはもうやりたくない、という目を向けた。しかし有能なる護衛官は笑顔で要求を一蹴し、わざとらしいため息をつきながら、セルカの元気のない原因でもあることを口にする。
「困りましたね。終わらないのであれば、いつまで経っても外出許可は出せそうにありません」
「酷すぎる……なー、ちょっとだけでいいから城から出してくれよー。フィラが待ってるんだってばー」
「終われば行っていいと言ってるじゃないですか。呻く元気があるなら、文字を読んでください。それと、ここ最近のことで分かってらっしゃると思いますが、脱走しても無駄ですよ? 城の敷地内から出る前に、私たちが必ず捕獲しますから、そのおつもりで」
にっこり、酷く満足げにヒューリィは笑う。一月程前から実行している、『脱走したセルカをいかにして短時間で捕らえるか計画』が、素晴らしい効き目を発揮しているので嬉しいらしい。セルカの逃亡経路の割り出しと分析に、占い師リアスの力は酷く役立つものだったのである。脱走を、追いかけ続けて約十数年。やっと主君の脱走を、城から出す前に止められるようになった護衛官たちは、感無量であるのだった。
フィラに会いに行きたいのに、と再び机に突っ伏して、セルカはぐちぐちと不機嫌な言葉をもらしていく。
「ずーっとサボってた俺も悪いんだけどさー、それは認めるんだけどさー、最近の量、いったい何事だよ。尋常じゃないっつの。一日集中しても、終わるのは夜になるような多さじゃんかー。いつまで経っても終わらないしー、頑張って終わらせれば疲れてもう動きたくないしー」
「運動不足になりそうですよね、確かに。では、ラグリアに言って戦闘訓練も予定に入れてもらいましょう」
「死ぬー。死ぬー。真面目に死ぬー」
ついにしくしく泣き出したセルカを、ヒューリィはわずかに困った風に見つめた。確かに、最近のセルカに課せられている勉強の量は尋常ではなく多い。本人の言う通り、一日集中しても終わるのは夜に差し掛かる頃であると思われるし、確かに疲れて町に出かける気力もなくなるだろう。かわいそうに思うが、しかしヒューリィは一護衛官なのである。量を減らしてやることは、出来る立場ではなかった。
あまりにフィラに会いたいとばかりセルカが言うので、ヒューリィとしてはちょっとしたいじわるで運動を、と言ったつもりなのだが、しゃれにすらならなかったようである。あうあうとアシカのような泣き声をもらしながら机に突っ伏すセルカをどうしようも出来ず、ヒューリィは視線でラグリアに助けを求める。苦笑して肩を竦めながらも教育官はすぐにやってきて、泣き伏すセルカの頭に、手をぽんとばかりに置いた。
「これくらいでなんですか。ロイセイル様はもっと多いんですよ?」
「げろー。俺、第一王子じゃなくて真剣によかったと思った。うげー。うげげー」
「品の無い呟きをもらさないでください」
慰めの為に置かれていた手が、握りこぶしを作って振り下ろされた。殴られた衝撃と、額を机にぶつけた痛みが二重となって、セルカはもはや声も出ない様子で倒れている。しかし、気にはなったのだろう。のそのそと頭を持ち上げ、ラグリアを見上げて口を開く。
「ロイルは、なんで多いんだよ。っつか、俺より多いってどんな量? ロイル生きてる? 嫌がらせかなんか?」
「詳しい事情は知りませんよ。知ってのとおり、貴方がたの勉強予定を組んでらっしゃるのは国王陛下とトリアーセ様、ニムロ様にクリティカ様の四人ですから、お考えあっての事でしょう。一応、理由の推測なら出来てますが、間違っていても良いのであればお教えしますが?」
「俺を騙そうとしてなければ、お前の推測は間違ったこと無いじゃん。教えて」
素直な笑みで向けられる言葉に、ラグリアは若干なにかを含んだ笑みになったが、あえてなにも言わずに、つまりですね、と主君に求められるまま、言葉を響かせる。
「ロイセイル様の、即位の前準備ではないかと思われます」
室内の空気は、一瞬時を見失ったようだった。緊張に張り詰めるでもなく、それでいて柔らかな側面は失った、どこか不可思議な沈黙が漂う。やがてセルカは、感動した表情で目を潤ませ、心からの言葉を告げる。
「すげー嬉しい……ロイル、ついに王様になるんだなっ。あー、じゃあ俺、頑張って勉強する。すんごい真面目に勉強する。ロイルの足ひっぱらないようにしなきゃな。って、じゃあ、最近のアイルの音楽授業みっちりの理由は? あれも、ロイルの即位対策?」
「いえ、あれはどちらかと言うと、老師フェリエルトのささやかな親心でしょう」
説明してあげますけど、怒りませんか、とのラグリアの言葉に、セルカは不思議そうにしつつ、とりあえず頷いた。そんな反応に微妙な顔つきになりながら、つまりね、とラグリアは言う。
「彼はシンフェニティーの出身です。加えて宮中で育ちましたから、恐らくは今のセルキスト国内に滞在する人間でもっとも、その内情に詳しいとも言えるでしょう。その上での、まあおせっかいと言うか、親心なんじゃないかな、と思っていますけれど、分かりました?」
「……嫌な予感がしてきた」
なんとなく、話の先が読めたのだろう。顔を引きつらせるセルカに、ラグリアはためらいながらも続けた。
「つまり、来年アリスレシェクト様が正式に求婚されるのをご存知だと、いう事で……つまり」
「シンフェニティーの王妃になる為の、花嫁修業ですね」
「っぎゃー! ちょっと待ってちょっと待って! 俺はそんなん許しませんよっ!」
言いにくそうに口ごもるラグリアの後を、シンディアが笑顔で引き継いでしまった。そのとたん、セルカは椅子を蹴り倒して立ち上がり、走って部屋から出て行こうとする。一瞬の早業で進路方向に足を出し、主君を転ばせてとめて、ヒューリィは嘆かわしい、と呟いた。
「初恋で両想いのお二人を引き裂かれるんですか? まあ、なんてかわいそうな」
「ヒューリィがそれを俺に言うな! 俺の初恋の相手はまぎれもなくヒューリィで、しかも最近振ったくせにっ!」
「細かいことは早く忘れたほうがいいですよ。それが良い男の条件というものです」
すさまじい勢いで立ち上がり、涙目で叫ぶセルカに、ヒューリィは全く動じない微笑みで言ってのけた。場にがっくりと崩れ落ちながら、全然細かくない、と言うセルカの声。とりあえず出て行くのは諦めながら、セルカは苦笑して見ていたラグリアに尋ねる。
「アイルは、それ、知ってんの?」
「知らないでしょうね。嫌がって逃げ回ってるくらいですから。知ってたら、もう、それは真剣に授業受けるでしょう。どんなに過酷でも、リンスティー王子の為なら……あれ、そうなると、老師が言ってないのは、多分複雑だからなんでしょうね。愛弟子がお嫁に出るわけですから」
「知らないでいい……だからずっと逃げてていいからな、アイル」
今この場にいない妹に対し、セルカはしかし真剣に語りかけた。目は、本気である。くすくすと一人笑いながら、シンディアが小さく首をかしげながら言った。
「男の嫉妬はみにくいですよ、セリィアイス様?」
「女ならいいの? っつかサフェリならいいのかよ」
剣呑なものを秘めた問いに、シンディアはやや俯き、恥じらいに頬を赤く染めながら口を開く。
「サフェリさま、ですから」
「教育官に聞いた俺が馬鹿でした……あー、でもさー、シンディア?」
立ち上がり、服の汚れを手で払い落としながら、セルカは真面目な顔をして言う。
「二度と同じ事件、起こすなよな。そんなことになったら、俺は本気で怒るからな」
「絶対に、大丈夫です」
レース編みの手を止めないまま、シンディアは柔らかに微笑み、しかし断固とした口調で言い放つ。
「私の、サフェリさまですから」
「むしろ不安になってきた……ある日突然、かけおちとかしそう」
「そんな……」
セルカの言葉に、シンディアは赤く頬を染めて恥じらい。肯定も否定も、しなかった。
人気のない部屋というものは、ただそれだけで寂しいものではあるのだが。賑やかな友人たちが帰った後なので、エルドはいっそう、がらんとした空気を身近に感じていた。一人で居るということに関してならば、エルドは国中の誰より慣れている自信があった。あまり自慢もできない慣れではあるのだが、幽閉されていた身の上なのだから仕方がないだろう。ため息は、どこまでも響いていくような錯覚を残す。
そんなエルドにまったく仕方がないとばかりの表情で、紅茶を淹れなおしてきたリシュタスが、茶器を机に置く音が響いた。いつの間にか増えていた人の気配に、エルドは顔を上げてわずかに微笑む。カップに紅茶を注いで主君の前に置き、リシュタスはそんなエルドの頬を暖かな両手で包み込んで、視線を正面から合わせさせた。一人にして悪かった、と高めの男性の声に、エルドは少女の表情で笑う。
「あの二人は元気だから、いなくなるといつもより寂しいけれど。それは、リシュタスのせいじゃない。紅茶を淹れてくれて、どうもありがとう。リシュタスのお茶は、美味しいから好きだな」
「私が上手いんじゃなくて、あなたが淹れるの、ド下手なだけだ」
「そうかな。リシュタスが淹れてくれるようになるまでは、これでも自分でやっていたのだけれど」
ちゃんと飲める味ではあったと思うんだけどな、と笑顔で語られる内容に、『エルドの淹れた紅茶の味』を思い出し、リシュタスはその女性的な顔立ちを台無しなまでに歪めてみせた。リシュタスが口にしたことがあるその液体は、確かに飲み込めなくはないが、吐き出す限度の一歩手前の不味さだったのだ。確かに飲み込めなくはないのだが、飲める味であるとも思えない。沈黙をはさんで、リシュタスは言う。
「二度とやらなくていい。淹れる人間もいることだし、火傷の心配もしなくてすむから」
「リシュタスは、どうも私を不器用に仕立て上げたいようだね? 酷くないかい? それは、確かにリシュタスと比べれば、私はほんのちょっと手先がその、器用ではないかも知れないけれど」
「あなたの不器用さ加減は、セルキストのアイル王女といい勝負だ」
頭が痛そうに呟かれ、エルドはたいそう不満そうに唇を尖らせたが、それはアイルに失礼なのではないだろうか、と言っておいて思うリシュタスだった。だが撤回する気にはならない。エルドの不器用さと来たら、それは目を覆う程の惨状なのだから。アイルと違う点があるとすれば、それはやって出来ない訳ではない、ということくらいだが、結果が芳しくないので臣下としてはやらないでいて欲しいのだった。
火を使えば二回に一回以上は火傷を作るし、針を持てば必ず指に刺して怪我を作るのだ。心配もするし、止めるのが普通なのだが、エルドとしては不満らしい。わずかにむくれるのに、いいから飲めと紅茶のカップを突き出して、リシュタスはグレンシアが座っていた椅子に腰かける。汚れでも見つけたように、表面を軽く手で払ってから。仕草を見て、エルドがわずかに苦笑した。
「リシュタスは、どうしてそんなにグレンシアが嫌いなのかな」
「嫌いじゃないですよ? 気に食わないだけで」
「それを普通は、嫌いと言うのだと思うけれど。私の友人なのだから、できれば好きになって欲しいな。それは、そんなに難しいことかい? 私が望んでも、できないことだったりするかな」
まるで邪気のない、青い花びらの声での要求に、リシュタスは天井を仰いでため息をついた。そして非常に嫌そうな声で、出来なくは無いですけれど、とだけ言って、あとはしっかりと口を閉ざしてしまう。芳しくない反応に、エルドはくすくすと微笑ましく笑って首を傾げる。なんとなく、リシュタスがグレンシアを嫌う理由が、分かったような気がして。馬鹿だなぁ、とのんびり響く、支配者の呟き。
「グレンシアの女性の好みを知らないの? 気が強くて対等に付き合えて、王と同じ目線で物事を見ることが出来て、なにより、あらゆることで戦いを知る女性、だよ。私は、何にも該当しない。彼が私を羨望の目で見るのは、望む王位を手にしているからであって、他にはなんの意味もないよ。分かっているだろうに」
「……もしも、ということがあるじゃないですか」
図星をつかれて、拗ねたように響くリシュタスの声。エルドは笑い声を途切れさせぬままで紅茶を飲み、わずかにむせ返りながらも笑顔を崩さない。上機嫌で仕方ないエルドは馬鹿だなぁ、と慈しみ溢れる声で囁いた。
「そんなの、リシュタスが守ってくれればすむことだろう? なにも、問題、ない」
ね、とばかりにエルドは小さく首をかしげて見せた。リシュタスは苦笑いをしてその場は同意し、自らも暖かな紅茶を飲み、気分を落ち着かせる。薫り高い液体は、ほっと気持ちを和ませてくれた。穏やかな雰囲気になった所で、エルドがそう言えば、と世間話をするような気軽さで問いかける。
「各国の、消された王子と王女のことなのだけどね? リシュタスはどう思う?」
どうとは、と。有能なる臣下が問い返すことはなかった。しかしその分の沈黙をたっぷりと間に挟み、思案しながらゆっくりと、リシュタスは口を開く。
「色彩に関して。私は、ただの偶然だと思いたいんです」
「思いたい。それは、また、なぜ?」
青い花びらの声はきらびやかに、恋人へと疑問を投げかける。強調したいことがあると、言葉を短く切って発音するのは、エルドの癖だった。分かっているからこそ誤魔化すことは許されないと、リシュタスは物憂げに息を吐き出す。そして橙から朱色の中間、夕焼けの移り変わる空の不思議な色彩をそのまま宿したかのごとく、美しい瞳をまっすぐに見つめて。息を、吸い込む。視線は、そらされなかった。
「今のあなたが背負うには、荷が重過ぎる問題だから。だから私は意図的なものではなく、偶然だと思いたい」
王は沈黙をもって答えとした。しかし笑顔の苦さが増えたので、相手の言葉の正当性はきちんと理解しているらしい。言葉を返さないのは、説得力を上乗せすることができないと分かっているからであろう。沈黙は金、雄弁は銀、ということわざを体現するエルドに、リシュタスは多少困ったような顔つきになりながら、続けていく。
「過去を憂いてどうなりますか? 真実を見つけてなにになりますか? それで国は救われたりしないし、人が食べ物に困らなくなるわけでもない。貧困にあえぐあまりに子を殺す親が思いとどまることも、家族を飢えさせない為、自ら買われていく少女の決意が揺らぐこともないんです。それで財政が豊かになりますか? それで、王国の復興が進みますか? 違うでしょう。なにも、ならないでしょう?」
容赦のない言葉たちは、エルドを想うからこその糾弾だった。今、復興を続ける王国の、重なる問題だけでもエルドには重過ぎる荷物だというのに。それ以上を背負おうとすることを、許すわけにはいかなかった。背負うだけの力、抱えるだけの腕は、もう限界に達していて、わずかでも増やすわけにはいかないのである。痛みを与えると分かっていて、リシュタスは苦渋の思いでひきしぼった矢を、放つ。
「ただあなたの罪悪感が、わずかばかり薄れるだけじゃないですか」
「リシュタス、もういい」
「今あなたがやるべきことを……満足に終わらせてから、やるものです。過去や真実の究明など」
もういいっ、と。花弁を散らすかのごとくに叫ぶ、青い花びらの声。しかしそれは、己を傷つけられた痛みにではなく、リシュタスの苦渋を感じ取っての叫びだった。それ以上の言葉を封じさせて、エルドは悲しそうに微笑む。それでも王は、春の花のように微笑を忘れず、浮かべて。優しい声を、響かせる。
「リシュタスはいつも正しいね。……疲れはしない?」
反論の声が上がるより早く、エルドはふわりと微笑んで、分かっているよ、と言った。それはまるで風に散らす歌声のように雅やかな声で。王は分かっているよ、と繰り返し、繰り返し、そして笑う。
「どうにかしなければいけないのは、今、だね。見ていなければいけないのは、未来、だね。分かっているよ。フェアリールはやっと、ようやっと上向き始めたばかりで、まだまだ立ち止まる余裕などないこと。私は誰より、分かっているよ。統治者だもの。国王、だもの。リシュタスよりずっと、ずっと、分かっているよ」
でもね、と。いたずらを告白するこどものように、エルドは目を細める。
「私は、過去を振り返ってはいけない時なんて、無いと思っている。過去があるからこそ今があり、過去があるからこそ未来がある。ね、リシュタス、そうだろう? 過去のない今はありえないんだ。そう、だろう?」
ねえ、と笑う。それは春の花。それは青い花。それは、あたかも青い薔薇。不可能の象徴のような印象を振りまいて、しかしエルドは色鮮やかに微笑んで、在る。桜色の髪を、綺麗に編んで。夕日が写る空色の瞳を、うっとりと細めて。どこにも、なににも、青の色彩を持たないまま。それでも王は、咲きほころぶ青薔薇のように。
「ねえ、リシュタス? もう少しだけでいいから、私のワガママを聞き入れる悪い臣下として付き合ってくれないかな。そうしたら私は、気が済むから、ちゃんと未来を見つめる良い王様になるよ」
「ばか」
どうしようもない、と言わんばかり呆れた表情で、リシュタスは立ち上がった。そして机を回り込んでエルドの正面に立つと、王のたおやかな左の手を取り、己の頬に当てて笑う。
「俺は一応止めるし、苦言も呈するけどな。お前がホントに望むのなら、どこまででもついてくよ」
「ありがとう、リシュタス」
演技するのをやめ、素の言葉で告げてくるリシュタスに、エルドは僅かに恥らいながら微笑を返す。そんなエルドにくすくすと笑い、リシュタスはそれと、と言い聞かせるように囁いた。
「お前はいつでも良い王様だよ。それを、忘れんな。分かったな、エルディア?」
「はい、リシュタス」
くすくすくす、と上機嫌に笑って。若きフェアリールの王は、満足そうに目を閉じた。
**********
バルは、上機嫌で出発準備をしていた。それというのも、先程サマエルから直々に出国命令が出たからである。帰国してから待つこと数ヶ月、やっと任務を与えられた嬉しさに、バルは浮かれて鼻歌を響かせていた。そしてヤグルの時とは比べ物にならない手際のよさで、両手で抱えられる大きさの鞄に荷物を詰め込んでいく。必要最低限の物以外は現地調達が基本なので、そこまでの量ではない。
どうしても必要なものといえば、バルの武器である槍が数本と、刃を研ぐ為の道具が一そろい。野宿用の毛布が二枚と、獲物を裁くための短剣が一本。そして緊急用の毒物と大陸地図に、方位磁針。連絡用の鳥笛と、犬笛が一ずつ。そして、困らない程度の金銭。以上だった。そこまで少なくはないが、困るほどの多さでは決してないのである。全ての荷物をつめ終わり、バルは満足げに一度頷く。
そしてあっと気がつき、荷物に加えたのはヴァイオリンだった。こればかりは、忘れるわけにはいかないのである。なにせ今回の任務は、かつて成しえたことのない程の長期任務なのだ。半年以上は確実に国に戻って来れないのである。忘れてしまったら、次に音を奏でるとき、どんな騒音になるか想像もしたくなかった。一緒に連れてってやるからな、との声に、ヴァイオリンの入った木箱が嬉しげに光を反射する。
ますます機嫌よく笑うバルだったが、気を引き締めなければいけないことを思い出し、部屋の中で一人、背筋を正して深呼吸をした。目を閉じて告げられた言葉を思い出せば、自然に緊張感が高まっていく。出発までは一週間の猶予が与えられたが、バルは今日中にでも国を出て行くつもりだった。なぜならば、イェレたちから連絡が入ったのがあまりに唐突で、その内容が芳しくないものだったからである。
計画に狂いが生じ始めているのである。エシュラースに現れた思わぬ邪魔者のせいで、イェレとミンスの身が危険に陥る可能性さえ出てきた、とはサマエルの言だった。それだけでも危機感をあおるに十分であるのに、イェレたちの報告を追うように、フェアリールに調査に出ていたヤグルからも急な報告が入り、異変を告げる。何者かに邪魔をされたかも知れません、と。確証のない言葉は、不安だけをあおった。
ヤグルが告げてきたのは、少女の任務の難航だけではなく、セルキストから人が、それも王族と教育官が、エシュラースに調査に向かっているとのことで。嗅ぎ付けられたのはイェレたちが意図的に流布した噂の一つであり、今根本まで辿られてしまっては危険なものだった。様々な要因が、イェレたちを追い詰め、危険へと追い立てているような錯覚。バルは、決意を秘めて虚空を睨みつける。
「俺は、俺の家族を絶対に守ってみせる」
危険であれば見捨てろと、バルはサマエルからもその他の指導者たちからも、教育を受けて育ってきた。しかし少年の中に、従おうという意思はない。完全に反抗するわけではないのだが、助けられる危険ならば救いに行きたいのだった。例えるなら、喜びを分かち合うのと同じ自然さで。悲しみを慰めるのと同じ感情で。理由がないような、それは愛しさが心に命じるままに。助けたいと、思うのだ。
「イェレも、ミンスも、ヤグルも。絶対、無事で、生きていく」
己に対し確認するような、世界に対しての布告のような。決意ある言葉は、ゆっくりと紡がれていく。
「だから、誰にも邪魔はさせない」
成すことが悪だというのなら。立ちはだかるものが正義だというのなら。バルは、正義を破壊する絶対悪となるだろう。命令を実行することに、ためらいはない。家族を守ることに、ためらいはない。バルにとってそれは、生きることと同意なのだから。バルは、生きることをためらわない。春に芽吹く、息吹のように。さてと、と呟いてバルは荷物を持ち、立ち上がる。そしてぐるりと部屋を見渡し、笑みを浮かべた。
「じゃ、行って来ます」
そして闇の一つが北の地を旅立ち、エシュラースへと向かう。予言の通りに。その地を、世界を、闇の衣で包まんとして。
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