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十、歴史は繰り返すものなのか



 数分間だけ考えて、アイルは偶然開いてしまった時間の過ごし方を決め、廊下を歩き出した。今日もまた朝から音楽の授業をぎっしり詰められ、昼食後にもまた歌わされ、三時からはロイルとセルカと一緒に歴史の勉強をさせられる、というのが一日の予定であったのだが。昼食を食べ終わったアイルの元に、音楽の教師でもあるフェリエルトからの伝言が届き、体調不良により午後は休講となったのだった。
 そういえば朝も顔色が良くなかったなぁ、と思い出しながら呟いて、アイルは目的地へと向かう廊下の途中で立ち止まる。近年のフェリエルトは体調が思わしくなく、療養旅行に出かけていたくらいなのだ。回復したから戻ってきたと本人は言っているものの、暖かくなってきたことで気持ちも緩み、体調がさらに悪化してしまったのかも知れない。だとすれば、お見舞いに行ったほうがいいのではないだろうか。
 うーん、と廊下の中央で悩みだすアイルに、事情を知らない侍女たちは微笑ましい笑いを向けて去っていく。どうしました、と声をかけるものがないのは、それでもアイルの表情や空気が、深刻なものではないからだった。もしもそうならば医者が呼ばれる筈で、城内も騒然とする筈なのだが、今の所、城の空気は春を迎えた六月らしく陽気なもので、喪失の予感を孕んだ焦りとは、無縁なのである。
 多分行かなくても大丈夫だよね、とアイルが結論を下したのは、悩み始めてから二十分が過ぎた頃だった。いつの間にかしゃがみこんで首をかしげていた王女に、さすがに教育官を呼んできたほうがいいのではないかと、周囲が困惑しだした頃だ。自分の行動が周囲の不安をあおったとは知らず、アイルはいたって暢気に立ち上がると、よし、と頷いてまた目的地へと歩き出した。向かうのは、護衛官詰め所だ。
 トリスは今日もアイルのおやつ作りにせいを出しているので傍にはいない。よって安全の為にも彼らと一緒にいるのは正しいことなのだが、アイルはなにもそれだけを目的にして詰め所に向かっているのではないのだった。聞きたいことが一つ、あったのである。昼間の身辺警護として遠巻きについてくる護衛官たちを手招きつつ、アイルは王女専門護衛官の詰め所の扉を開き、ひょこっと頭だけを中に入れた。
「ねーねー。入っていいー? お話していいー?」
 ぶはっ、と誰かが飲んでいた紅茶を吹き出した。さすがにアイルの専属護衛官は、声だけでも主君のことが分かったらしい。室内がどよめくのにアイルは首を傾げ、ねえねえ、と問いかけの答えを迫った。あわてたのは、休憩中の護衛官たちである。まさか王女が来るとは思っていなかったので、大慌てで散らかっている室内を応急処置的にかたし、比較的綺麗な椅子を出してどうぞ、と引きつった笑みを向ける。
 わーい、と嬉しげな声を上げながら入ってくるアイルに続き、本日の日中警護の者たちが、同僚たちに若干すまなさそうな顔つきで入室してきた。ごめん、と言いたげな彼らに、休憩中だった護衛官の一人、エスタは屈託のない笑みを浮かべ、気にしなくていいと言葉をかける。気になったのは部屋の汚さと、そこにアイルを招く気まずさであって、王女に会えたことは嬉しいのだから、と。
 お昼を食べ終わったら暇になっちゃったんだよー、と室内の者たちに向かって呟きつつ椅子に座り、アイルはきょろきょろとあたりを見回した。そして首をかしげ、訪問の目的を問いかける。
「まだルクセラは来てないー? ちょっと聞きたいことがあったんだけど」
 アイルが告げたのは、護衛官の中でも最古参組の青年の名前だった。本日の勤務の割り当てにその名前があったかどうか自信がなく、エスタは室内を軽く見回してからうーん、と呟く。
「副長ですか? ええっと……長官ー! 副長いますー?」
 護衛官の中では一番アイルと年が近く、また淡い想いを抱くエスタが対応に当たることにしたようだ。合わせて十名ほどになった護衛官たちは遠巻きに二人を眺め、そして部屋の奥に目を向ける。そこにあったのは、護衛官の長官と副長専用の執務机で。『長官!』と書かれた札の位置を神経質に整えながら、青年が顔を上げる。
「さあ、さっきまでいたけど。なんの用事ですか? アイル様」
「あ、シェザだ。シェザがいるんだったら、そっちに聞いても分かるかなぁ」
 最古参組のもう一人。アイルがトリスを教育官として迎える前からその任についていた青年に、王女は若干眉をよせて首をかしげる。シェザは分かることだったら、と言い、ちょっと待ってくださいね、と微笑んで『長官!』の札を机の右上の端に固定する。すぐずれるんだよな、とぶつぶつ呟きながら席を立ち、シェザはアイルの前に歩み寄ると、腰をかがめて目線の高さを同じにした。
「ちょっと待てば戻ってくると思うんですが、誰か呼びに行かせますか? それとも、待ってるか、俺に聞くのとどれにします? もっとも、俺に答えられるのは分かることだったら、なんですが」
「シェザでも多分、大丈夫なことだとは思うんだけど……時間あるから待ってようかな」
「分かりました。書類を届けに出てるだけですので。城内で迷子になる馬鹿でもないので、サボらなければ五分程度で戻ると思います。ところで、ルクセラがなにか? 減俸でもするような事態だったら、俺に直接仰ってくださいね。三ヶ月とか半年くらいだったら、独断で減らせますので」
 にこ、と人の良い笑みを浮かべ、シェザはなめらかな口調で言い放った。数秒の微妙な沈黙の後、アイルは減俸がしてみたいの、と尋ねてみる。するとシェザは直接的な肯定こそしなかったが、俺が長官になってからそれだけは一度もやったことが無いので、と言ったので、ようするにただやってみたいだけなのだろう。事件起こさないのは優秀の証拠でしょー、と呆れた声が護衛官たちから上がった。
 長官たる青年は、そんな同僚たちに向かい、きらめく笑顔で胸を張って見せた。
「なにもないのに興味本位で減俸しないだけ、ありがたいと思え」
「思えるかこの馬鹿長官っ。そんなだから未だに独身なんだよっ。女性の影がないんだよっ」
「いいんですか、いいんですかアイル様こんなんが長官でっ! 不安ですよね不安だと仰って下さいむしろ俺に下克上とか狙ってもいいよと許可を下してくださいっ。お願いしますからっ」
 護衛官たちがいっせいに上げた阿鼻叫喚は、しかし一つたりとて本気の怒りのにじむものではなかった。仲いいなぁ、と笑いながら、アイルは口を挟まず、笑顔で傍観に回る。シェザは、それでも人が良さそうな笑みを浮かべ続けていた。笑顔がうさんくせぇっ、と室内から絶叫が上がる。あはははは、とやる気のない、誰かの笑い声。
「そういう事ばっかり言ってるから、副長に怒られるんですよ?」
「長官がそんなだから、副長とトリアーセ様が時々きらめく笑顔で苦労話で盛り上がってるんですよ?」
「怖っ! その光景はあまりに怖いっ。見るともれなく呪われる気がする」
 引きつった表情で、シェザがトリアーセにもルクセラにも、失礼な叫びを上げた瞬間だった。それを見計らっていたように扉が開き、隙間から飛来してきた一輪挿しがシェザの額を正面から強打する。一瞬のまもなく響き渡る、一輪挿しの割れる音と、シェザの悲鳴。そして団員たちの拍手と、嬉しげな歓声。呆れた表情でアイルが扉方向を向くのに合わせて、エスタがくすくす笑いながら頭を下げた。
「おかえりなさい、ルクセラ副長」
「ただいま戻りました、エスタ護衛官。と、アイル様。誰かその花瓶の欠片を片付けて、長官を外に捨ててから、長官の給料から花瓶代を引いて私のものに上乗せする手続きをお願いします」
 分かりましたー、とのんびりした返事の声が返る。そして指示通り、まずシェザが廊下に捨てられそうになっているのを見つめながら、アイルは仕方なさそうなため息をついた。
「やっぱりアレかなぁ。父上とトリアーセがああいう関係だと、いろんなトコでもそういう関係になるものなのかなぁ。部下は上司の背中を見て育つって言うし。エスタは、どう思う?」
「影響がないとは言い切りませんが、元々の性格や相性も十分関係しているかと思います。長官と副長は、幼馴染だとお聞きしたことがありますし、遠慮がないんでしょう」
「そっか。昔はもうちょっと、ルクセラも言葉で説得しようとしてた気がするんだけどね。諦めたのかな」
 何回言っても聞かない理解できないんだったら、体に叩き込むしかないでしょう、痛みで、と。笑顔も麗しく国王への暴力行為を正当化していたトリアーセの言葉を思い出し、アイルは一人で嫌そうに納得した。私はちゃんと言われたら聞くようにしよう、と呟きつつ、アイルはとりあえず、目の前の騒ぎが過ぎ去るのを待った。別に急ぐ用事でもないので、会話に割り込むのもどうかと思ったのだ。
 かくしてアイルが止めもせずに見守る中、ルクセラはシェザを存分に反省させて、満足げに微笑を浮かべる。そして護衛官の一人から耳打ちを受け、やっと気がついたかのようにアイルに目を向けた。
「アイル様、私に用事だったんですか?」
「うん。でも急いでるわけじゃないから、怒るのが終わってからでもいいよ?」
 やや驚いた風に問いかけてくるルクセラに、アイルは床に倒れて動かなくなったシェザを見つめながら言った。思わず護衛官たちの顔が引きつるのにかまわず、アイルは待ってるねー、とのほほんとした声を響かせる。額に手を押し当て、ルクセラが深くため息をついた。
「アイル様。お仕置きの基準に国王陛下とトリアーセ様のそれを持ってこられるのは、どうかと」
「え? 小休止してたんじゃないの?」
「トリアーセ様、なんてエグいことを」
 アイルの声が本当に不思議そうなので、トリアーセが途中休憩を挟みながら国王をしばき倒すのは、ごく普通のことであるらしかった。呻き声で呆れて、ルクセラは終わったんです、と認識の間違っている王女へと告げる。するとアイルは目をまんまるく見開き、ルクセラとシェザを見比べて、うわぁ、と言った。
「ルクセラ、優しいね」
「お褒めに預かり光栄です、と言っておきます。それでアイル様、わざわざ尋ねてくださったご用事は? 私でないと分からないようなことなのでしょうか」
「うん。あのねえ、シュオ元気?」
 室内からいっせいに、納得の声がもれる。ルクセラも苦笑気味にしながらそれで、と頷き、椅子を引いてきてアイルの傍に座った。そして今朝方の記憶を掘り起こし、変わりなく元気ですよ、と告げてやれば、アイルの笑顔が華やいだ。シュオとは、元アイルの筆頭侍女官であり、侍女官長を勤めていた女性のことだ。二年前に家庭の事情で王宮を辞すことになったのだが、本人は不満で仕方なかったらしい。
 一年前にルクセラと結婚したのをいいことに、アイルは時折こうして、様子を聞きに来ているのだった。アイルにとってシュオという女性は、トリスとはまた違う位置にいる、とても大切な相手なのである。侍女を辞めることになったと人づてに聞いた時は、呆然としてしばらく言葉が出てこなかったほどだ。シュオも最後までやめたくないと言い張っていた為、決定的になるまでアイルには言いにこなかったのだ。
 シュオが止めることをアイルに言ったのは、城を出て行くその日のこと。気さくな人柄と主君を愛すその姿は城内でもかなり有名だったため、シュオが止めるということはかなりの騒ぎとなっていた。アイルにも言ってくる者が絶えなかった為に、その事実を王女は当然知っていたのだが。それでも信じたくはなかったのだろう。告げられた瞬間に涙を流して、アイルはいってらっしゃい、とシュオを送り出した。
 いつか戻ってきてほしいと、言葉には出来なかった想いを感じ取ったのだろう。シュオは多く言葉を重ねることもなく笑顔でいってきます、とだけ王女に告げ、城を去っていった。ある面ではトリスよりも深い、アイルの理解者である女性は、今も気にかけられているのである。ホントに元気、と不安げに聞いてくるアイルに、ルクセラはいやな顔一つせず、安心するまで同じ言葉を返してやった。
 やがて、満足したのだろう。よかったぁ、と華やいだ笑みになるアイルに、ルクセラは笑いながら口を開く。
「アイル様は、本当にシュオが好きですよね。トリス様が嫉妬しますよ?」
「嫉妬しないと思うけどなー。シュオが城にいた時は、えっと、協定だか同盟だか結んでたと思うし」
 嫌な予感がしたから詳しく聞いたことないけど、と言うアイルに、シェザを含む古参組の護衛官たちが、顔を見合わせて頷きあった。確かにアイルの教育官であるトリスと、当時侍女長であったシュオは協定を交わしていたし、同盟も組んでいたのだ。内容は護衛官たちにとっては悪夢と同じようなものだったので、あまり思い出したくもないのだが。そういえば、と引きつった顔でルクセラが頷く。
「意外と仲良しではありましたものね。トリス様の様子も、時々は聞かれます」
「どんなこと話してるの?」
「そうですね。最近のトリス様の趣味とか、言動ですね。トリス様は本当に時々ではありますが、夜勤組に付き合って夜を過ごすこともありますので、適度に切り上げて眠らせるようにとシュオから言われたりもします。さすが、というか分かってるんだなぁと関心しますね」
 ふぅん、とあいづちを打つアイルの声は、しかしどこか不満そうだった。ほんの僅か唇を尖らせ、椅子に腰掛けたままで足をふら付かせる様子を見て、ルクセラは僅かに首をかしげて考え、笑み交じりの問いを向けた。
「アイル様。私が家に帰って、真っ先にすることはなんだと思いますか?」
「なにって。なに?」
 いきなりの問いかけに、どう答えていいのかも分からなかったらしい。意味不明です、といわんばかりに眉を寄せるアイルに、ルクセラはくすくすと、機嫌のいい笑いを響かせて、言った。
「『報告。今日のアイル様』です」
「なにそれー!?」
「そのままですよ。さっきのトリス様のと、似たようなものです。その日のアイル様のご様子だったり、お言葉だったりを、思い出せる限りシュオに報告するのが、私が家に帰って真っ先にしなければいけないこと、だったりします。愛されてますね、アイル様」
 あうぅ、と妙な声を上げつつ、アイルは顔を真っ赤にして言葉も出ないようだった。シュオったらー、と脱力気味に響く声に、先程あった拗ねたような、むくれたような表情の影は無くなっていた。
 覚えておいてね、とシュオはいつも出勤前のルクセラに言い聞かせるようにして語る。それは夫婦間の日課の一つであり、王宮を辞して家庭に入ったシュオの、最後の抵抗のようなものだった。そして今も、シュオがアイルへと向ける優しい想いそのものである。その日の天気や気温、昨日ルクセラが語って聞かせたアイルの様子から、シュオが必死に考えた注意事項が、ことこまかに語られるのだった。
 その一つが、ルクセラが先程見て取ったアイルの仕草である。シュオいわく、アイル様がなにかお話なさっている時に拗ねた風になったら、それはご機嫌が悪くなったのではなくてかまって欲しい気持ちの現われであることが多いから、注意してみて差し上げてね、とのことだ。その言葉から推測を重ねると、先程のアイルは、シュオはトリスの様子を聞くのに自分のことは聞かない、と思った可能性が高かった。
 ためしに日課の一つを言ってやると、アイルの機嫌はみるみるうちに直ってしまったので、さすがだと言わざるを得ないだろう。城内において、もしかすればトリスをしのぐかもしれない最高の理解者は、傍から二年離れた今であってもその地位を不動のものとしていた。さすがにシュオはシュオだった、と意味不明な呟きをもらしつつ顔をあげて、アイルはルクセラを見た。そしてぽそぽそと、響かない声でちいさく呟く。
「あんまり変なこと、言ったらダメだからね。シュオが心配するようなことも、言ったら、絶対、ダメだからね」
「それはもちろん、気をつけていますけれど。お誕生日期間のアレは、言わなくても知ってましたよ?」
 小さな悲鳴のような音を立てて息を吸い込んで、そのまま暫くアイルは言葉を発さなかった。お誕生日期間に起きたことで、シュオが気にするようなことがあれば一つしかないからだ。アレってアレだよねぇ、と救いを求める視線を向けられた護衛官、エスタは、たいそう複雑な表情で微笑しながら、仕方なく補足してやる。己が傷つく言葉であろうとも、少年は淡い思いを抱くアイルの求めを、断りきれないのだ。
「シンフェニティーの、リンスティー王子からの求婚しますからね宣言、じゃないでしょうか。ですよね?」
「ええ。家に帰ったらすぐに知ってることを全て話してもらいましょうか、と笑顔でこう締め上げられましたよ? どうして王宮でもまだ全員が知らないようなことを、街に住んでる彼女が知ってるのかと思ったんですが、追求はしないでおきました。なんとなく、怖かったので」
「そ、それっ、それっで、シュオは……シュオは、あの、なんて言ってるの?」
 アイルは、打ち捨てられた小動物のように細かく震えていた。保護欲を刺激されたので、無礼だと思いながらも手を伸ばして頭を撫でてやりつつ、ルクセラは遠い地平線に沈む、夕日の鮮やかさに感動した表情で言った。
「どうしてトリス様がついていながら求婚なんていう騒ぎになってるんですか、私がもしお傍にいたならアイル様のお傍に男性と呼ばれる種族全員を寄せ付けなかったものを、と。あと国王陛下や王子様方に関してもなにやら怒ってましたね。なにに対して怒ってたのかは、あんまり覚えてたくなかったので思い出せないんですが、まあ、今は大分落ち着きました。大丈夫です。なんとかなります。なんとかします」
「……シュオは、アイル様とお付き合いしたかったら私の屍を超えていきなさい、って叫んだことがあるもんね」
 その叫びが王城の空気を振るわせた当時、アイルは八歳を数えてすこし経ったばかりだった。そういうのはあと五年くらい経ってからにして欲しい、とアイルは当時思ったものだったが。それから四年後が現在である。お付き合いというか、求婚にまで話は及んでいるので、もしシュオが王宮に居たならば、トリスと結託して大変な騒ぎになっていただろう。それが、正式な求婚ではなくとも、かまわない勢いで。
 寂しいけどシュオは今王宮にいなくてよかったのかも知れないと、げっそりした表情でアイルが呟く。するとルクセラは儚い花のような笑みを浮かべ、言葉を付け加えた。もし本当にご結婚なされるのであれば、と。
「私はそのまま、シンフェニティーにアイル様付きとして行く家庭方針ですので、ご了承ください」
「かっ、家庭方針なの? シュオはなんとなく分かるとして、シェザもそうなの?」
 ぱちぱちとせわしなくまばたきしながら、アイルはシュオの実の兄であるシェザを振り返った。虐げられている護衛官長、シェザは、主君に向けられた驚愕の視線にやや苦笑し、そうなんですよ、と頷く。
「シェザ、分かってると思うけど、アイル様に付いて行く気がないと言い出すんだったら、兄妹の縁を切らせてもらいますからね、と。ちなみに、ルクセラは離婚されるそうだ。新婚で、その上赤ちゃんまで出来たのにな?」
「ばっ、シェザそれ言うなってシュオに……あ、アイル様、説明しますから。ちゃんと説明しますから、そんな睨まないでください。お願いですから睨まないでください。はしたないから足もバタバタさせないで、ほっぺぷくーも止めてください。もう十二歳でしょう? ね? アイル様」
「いーから早く私にせつめーするがいいよー! シュオがなに赤ちゃんいつ出来たのっ?」
 なぜか胸を張ってむくれて叫ぶその姿は、見るものが見ればレトニそっくりだと叫んだだろう。妙なところで従兄妹の絆を発揮しつつ、アイルはばたばた足を動かしながら説明を迫った。椅子から立ち上がらないのは、落ち着いてくださいね、とエスタが肩をそっと抑えているので、振り払うことが出来ないだけだろう。その手がなければ、アイルは二人に掴みかかる勢いで騒いでいたに違いない。
 二人から感謝の視線を受け、エスタはアイルに見えないように苦笑を返す。そして目で早く言って上げてください、と促したので、エスタもそのことは知っていたらしかった。アイルにバレればさらに怒られるので、二人は一度だけ顔を見合わせ、諦めたように話し出す。
「まず言い訳からさせてくださいね。私は分かった時に、アイル様にご報告した方がいいんじゃないかとは思いましたし、報告しようとはしたんですよ? あなたはそういう方ですから、言わなければ怒るのは目に見えていましたし、悪いことではなく喜ばしいことですしね」
「あー、シュオがな? 言わないでくれって俺たちに頼んだんだよ、アイル様。心配かけるからって」
 無駄な言い訳を前置きとして使わない分、シェザの方が潔い態度だった。片膝をついて視線の高さをあわせながらの語りかけに、アイルの興奮もすこしだけ収まる。大丈夫だと見て取って、肩からエスタの手が外された。ちらっとエスタに申し訳なさそうな、感謝しているような目を向けてから、アイルはシェザに視線を向け、その顔をじいっと見つめた。青年の表情に、ごまかしや嘘の影は全く見られない。
「今二ヵ月半だそうだ。だから、そこまで前の話でもないんだよ。アイル様にはまだちょっとピンと来ない話かも知れないけど、妊婦の体調っていうのは変わりやすい。調子が良かったり、悪かったりするんだそうだ。日替わりくらいな感覚でな。俺も女性にはなれないし、シュオから聞いただけで詳しく知ってるわけじゃないんだが。だから、その体調変化でな、アイル様に心配をかけたくなかったんだそうだ」
「それくらいで、私心配しないもん。シュオはホントに私のことになると、どうしてってくらい変な心配ばっかりするよね。……でも今は、えっと。シュオ元気?」
 思わず笑いに吹き出しながら、ルクセラは先程言ったでしょう、と優しい声で繰り返してやる。元気ですよ、と。するとアイルは目に見えてほっとした顔つきになるので、シュオの心配はあながち間違っていないのだろう。ツボにはまったらしく、ルクセラの忍び笑いが響きやまないのに軽く嫌そうな顔つきになりつつ、アイルはあのね、とシェザに問いかけた。なんの前触れもなく。とてつもなく答えにくいことを。
「赤ちゃんって、どうやって産むの?」
 室内の空気は、一瞬で凍りついた。誰もなにも、まばたきさえ呼吸さえ許されないような、絶対静寂と緊張が場を混沌に叩き込む。唯一動いているのは、アイルのまばたきを繰り返す目と、さらりと揺れる前髪だけだった。アイルはきょろきょろ室内を見回して、彫像と化した護衛官たちを不思議そうに観察し、あれれ、と呟いて問いかけを繰り返した。意味が通じなかったのだと、思い込んだらしい。
「赤ちゃんって、どうやって産むのか、誰か知らない?」
「つ……つ、つかぬことをお伺いしますがアイル様!」
 俺は今トリス様に殺されてもそりゃもう仕方がないよな、くらいの覚悟で聞いてますが、と涙ながらに叫んだのはシェザだった。長官ーっ、と死地に赴く男の背中に、部下たちから悲痛な叫びが上がる。シェザは、心の中で王族とその関係者に盛大な土下座を行いつつ、言う。
「う、みかたであって、つくりかたじゃないんですよね?」
「あ、そっちは知ってる。生理の仕組みを習った時に、一緒に教わった。大丈夫っ」
「じゃあなんでそっから先が分からないんですか……」
 思わず泣き出したシェザに、アイルのみがぎょっとした顔つきになるが、護衛官たちは勇者を称える顔つきで頷いていた。え、えっ、と周囲と己の反応の違いに戸惑いながら、アイルはだってね、と困った表情で口を開く。
「誰も教えてくれなかったから」
 そりゃそうだろう、と護衛官は全員心の中で絶叫した。作り方を知っているなら産み方も分かるだろう、と教えたものは思ったのだろうし、誰もが考えたのだろうが、大誤算だったようだ。リンスティー王子に聞いてみてください、と泣きながら叫びたくなる衝動を必死にこらえつつ、さすがに説明したくないシェザは、室内を見回した。しかし不幸なことに、今日は女性の護衛官たちが休暇を取っている日だったのだ。
 なんでも皆でお花見をしに行くらしい。今日こそいて欲しかった、と長官は休暇を出したことを心底後悔する。
「それは、どうしても今俺たちが答えなきゃいけない疑問なんですか」
 そして、頭を抱えてうめきながら言うと、アイルはそういうわけじゃないんだけど、と申し訳なさそううに口ごもった。さすがに、質問が困らせる内容であったことは理解したのだろう。じゃあ聞かない、というアイルにもう頷くだけしか出来ないシェザに代わり、全力疾走をした後のような疲労感を背負いつつ、ルクセラが苦い笑みをたたえ、口を開く。
「どうしても知りたかったら、女性に聞いてください。男性には、聞かないでくださいね」
「分かったー。でも、なんで?」
「恥ずかしいを通り越して、悲しくなるからです」
 アイルはいまいち理解が出来ていないようだったが、それでも分かった、と頷きを返した。室内が海よりも深い安堵に包まれる。ここでガンコに問い詰めてくるような性格の主君じゃなくて本当によかった、と誰もが喜びを噛み締めていると、室内の扉が控え目に叩かれた。どうぞ、とシェザが声をかけながら開いてやると、立っていたのはトリスだった。厨房から飛んできたらしく、手にはエプロンが持たれている。
 慌てた態度の教育官は、あの、その、と説明を口の中で響かせながら室内にせわしなく視線を向けて、そして主君が手を振っている姿を視界に納めると、深い深いため息をついた。
「アイル様……お願いですから、予定が変わったときは私に一言、なにか言いに来てから移動してくださいよ。舞音城にいなくて、誰も行き先知らなくて、すごく心配したんですからね? 珍しく、安全な場所でじっとしててくれたようで、なによりではありますが」
「はーい、今度からちゃんと言ってからにするねっ。おやつ作ってたんじゃないの? どしたの?」
「あ、はい。それで聞きたいことがありまして。アイル様、いちごとぶどうだったらどっちが良いですか?」
 笑顔の王女は、一秒たりとて悩まなかった。うんあのねっ、と元気のいい声を上げてから言い放つ。
「果物に差別をしないことにしたのっ。偉い?」
「はいはい。偉いですねー。両方食べたいんだったら素直にそう言いましょうねー?」
「今日はなに作ってるの? あとどれくらいで出来上がる?」
 主従の会話は、見事にかみ合っていなかった。トリスは途中で選んでもらうことを放棄し、苦笑しながらタルトですよ、と教えてやる。今日のアイルのおやつが、いちごとぶどうのタルトに決定した瞬間だった。わーいっ、と椅子に座りながら両手を挙げて喜ぶアイルに、三時には出来上がりますから良い子で待っててくださいね、と笑い、トリスは護衛官たちを見回して数をかぞえ、安心したように頷いた。
「よし、足りる。こっちにも差し入れで持ってきますから、アイル様をよろしくお願いします」
 さすがに、タルトを丸のまま二つ食べるとはいえないのだろう。微妙に不満そうな顔つきをしながらトリスを見送りかけ、アイルはあ、と言って手を打ち合わせた。
「ねえトリストリスー。ちょっと待ってっ。あのね、聞きたいことがあってねっ」
「はい? 答えられることでしたら、なんなりと」
 すでに廊下に体を半分出していたトリスは、不思議そうな笑みで振り返った。その瞬間、護衛官たちは一様に嫌な予感を覚えて逃げ出したくなる。先程女性に聞いてください、とルクセラは言った。そして、トリスは女性である。教育官でもあるので、問いかけには最高の相手だろう。しかし、誰より聞いて欲しくなかった相手でもあるのだ。誰もが退路を確保しようとしたその瞬間、アイルは笑顔で問いかけた。
「赤ちゃんって、どうやって産むの? 皆が女の人に聞きなさいって、教えてくれないの」
 その一言が余計です、とシェザが涙声で絶叫する。トリスの回答は、実に分かりやすかった。後でゆっくり説明してあげますから、と完璧な笑顔で回答を拒否し、逃げることさえ叶わなくなった護衛官たちに、極寒の視線を向ける。
「どんな話をしていたかは、この際だ、問わない」
 お願いだから聞いてください、とルクセラが呻いた。
「全員。首を洗って待っていろ。逃げるなよ」
 結局、その日、アイルの疑問に答えてくれるものは、誰一人としてなかった。



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