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 夜を終らせる光の色を、なんと例えよう。白より柔らかで伸びやかで、赤と橙と黄色が入り混じり、けれど『白』にしか見えない光を。張りつめた空気と硝子越しに見える、薄い闇に一筋の線が引かれた。それはじわりと滲むように太さを増し、やがてぱっと散り散りになって空に還っていく。雲の形が、ようやく視認できた。ぶ厚くもったりとした灰色の雲は、今日ものんびりと寝転んでいて退く気配がない。
 ナイフで切り裂いたようなわずかな隙間からは、瑠璃のように濃い青空が見えた。雲の上は快晴なのだ。地上は一面が白銀で、目が焼かれてしまいそうな程に明るいのだけれど。夜明けの光景を声も出さずに見つめ、アルメリアは羽織っていた布の端を胸元で握り締めた。ゆるゆると力を抜けば、指先まで凍ってしまいそうな寒さに吐息が白く染まる。身をひるがえして歩き出すと、渡り廊下に足音が響いた。
 重たい木造の扉を押し開き、しんと静まり返る室内に体を戻す。外よりはましであっても、暖かい空気とは程遠い。指先に息を吐きかけながら暖炉に近寄って、アルメリアは手馴れた仕草で発火剤を噛ませた薪をくみ上げ、火を起して熱を入れた。すぐに暖かくはならないが、ルードたちが起きてくる時間には十分間に合うだろう。よし、と満足げな笑みを浮かべて立ち上がり、大きく伸びをした。眠気も、すこし晴れる。
 居間と続きになっている台所に足を向けながら、アルメリアは備蓄の食糧を思い出しながら朝ごはんのことを考えた。寝る前にパンの生地は仕込んでおいたので、後は焼くだけで食べられる。卵とベーコンはあるので、これも焼くだけ。きのこが何種類かあったから、それはスープにでもしてしまおう、と思って。野菜がないことに気がついたアルメリアは、軽く口元を引きつらせた。そういえば、使い切ってしまった。
 冬のセルキストで、新鮮な野菜は手に入りにくい。戦争中なので流通が鈍くなっているのも一因だが、元々が手に入りにくいのだ。種類も限られているし、収穫量もたっぷりとは行かない。朝になったばかりの時間では空いている店も限られ、加えてアルメリアは冬のセルキスト独特の移動方法が苦手なので、行き帰りに時間がかかりすぎるのだった。どうしようと悩んでいると、外から直結している木造の扉が開く。
 寒さを締め出すために立派な作りになっている扉は、開け閉めするたびに重たく軋むのですぐに分かるのだ。台所から顔を出して視線を向けると、防寒具から雪を払い落としているエノーラと目が合った。なによ、とばかり眉を寄せられたのにも構わず、アルメリアはエノーラの足元に置かれた袋に視線を落とす。青菜が、袋の口から覗いていた。ずっしりと重たく詰め込まれた袋の中身は、恐らく全部野菜だった。
「無かったでしょ?」
 アルメリアがなにかを問う前にどこかぶっきらぼうに言い放ち、エノーラは足元の袋を持ち上げた。力が込められた動きはゆっくりで、結構な重さがあることが分かる。目を瞬かせるアルメリアの横を通り過ぎ、エノーラは台所の調理場までそれを運んだ。そして手早く中身を取り出して、切る時に気をつけてね、と苦笑する。
「青菜、凍ってるから……まあ全体的に凍ってるから、一度お湯でもかけた方が使いやすいんじゃない? 硬いだろうし、腕痛めないようにしてね。なによ」
 呆然と見つめられるのが不愉快だったのだろう。きゅっと眉を寄せて睨み返されるのに、アルメリアは慌てて首を振った。取って来てくれたの、と恐々問いかけると、エノーラはだって、と唇を尖らせた。
「あなた一人で買いもの行けないじゃない。男どもはまだ寝てるし、私が行かなかったら誰が行くの」
「そういうことじゃなくて」
 思わずため息をついて、アルメリアは頬に手を押し当てた。どうしてだか分からないが、エノーラに苦手に思われている気がしてならない。初対面の時こそエノーラはシルスに敵対していたが、アルメリアにはなんの反応もしなかった筈なのに。一緒に暮らし始めてすこしして、どうも避けられていることに気がついたのだ。二人きりになることがあればエノーラはなんとなく不機嫌で、笑いながら会話した記憶がない。
 二人きりでいることを出来る限り避けようとしているようで、歓迎していないようだった。言葉を切ったアルメリアに構わず、エノーラはすいっと音の無い仕草で移動し、居間に行ってしまおうとする。もう用事はない、ということだろう。全身全霊で構わないで、と訴えるエノーラに手を出すのは勇気が行ったのだが、アルメリアもエシュラース騎士軍では副騎士団長補佐をしている立場である。度胸なら、十分にあった。
 待って、と言って腕を掴むと、エノーラの表情が思い切り歪む。振り払われこそしないものの、触って欲しくないと思っているのがありありと分かる顔つきだった。なに、と言葉短く問い返されるのに、アルメリアは深呼吸をした。ここで怯んではいけなかった。これを逃しては、この風変わりな年下の少女と打ち解ける機会は訪れないだろう。そんな予感があったから、アルメリアはまっすぐな視線で、淡く微笑む。
「どうもありがとう。本当に助かったわ。なにか朝食で食べたいものはある?」
「……暖かければなんでもいいわ。食べられないものが出たこと、ないもの」
 好き嫌いの問題で食べられないということではなく、美味しいかまずいかでの『食べられない』ということだろう。素直ではない表現に、アルメリアは可愛くない、とくすくす笑う。さらにむっとした表情になったエノーラの腕を離さず、アルメリアはねえ、と少女の瞳を覗き込んだ。漆黒の瞳が、アルメリアを見つめていた。挑みかかるように強い光があるが、どこか怯えているようにも感じ取れる。罪悪感が、薄くあった。
 六歳年下の少女を思わず抱きしめたくなりながら、アルメリアはゆっくりと口を開く。
「私のことが、嫌い?」
「そ……んなこと、ないわよ」
 きゅっと軽く唇を噛んでうつむきがちに、エノーラは呟く。今にも消えてしまいそうな声での言葉は、普段のそれとあまりに異なっていた。苛めている気分になってしまう。そんなつもりではないのだが、と心の中だけでため息をついて、アルメリアは勤めて優しい声を出した。
「私が苦手なら、それでもいいの。でもね、感謝くらいはちゃんとさせてちょうだい。嬉しかったの……ありがとう」
「ううぅ……ああ、もう」
 薄く頬を赤に染め、エノーラはひどく困った様子だった。視線をうろうろとさ迷わせ、必死に言葉を探そうとしている。どこか、泣きそうにもみえた。そんなに困ることを言ったつもりはないのだけれど、と思いつつアルメリアは触れていた腕を離し、暖まってらっしゃい、と暖炉の前にエノーラを送り出そうとする。すこしの間外に出て朝焼けを見ていたアルメリアと違い、エノーラの体は比べようもなく冷えていたからだ。
 ぽん、と背中に軽く触れて去っていくアルメリアの指先は、しかし空気を泳ぐ前に掴まれる。驚いて目を向ければ、混乱しきった表情のエノーラがいた。だって、と幼い呟きが冷えた空気を散らす。
「どう……していいのか、分からない。シルスは別に、個人的にムカついてただけだから、それは別にもう、いいし……慣れたから、放置できるようにもなったし、ルードはウィッシュの、ウィッシュが好意的な相手だから私もなんとなく、受け入れられるし、シルフィは保護しなきゃいけない相手で警戒する必要とかないからなにもしなくていいし、大丈夫だけど、あなたは……だって、休暇が終れば、敵になるかも」
 それを言うならルードもシルスも十分敵になりえるのだが、アルメリアはそこを突っ込まなかった。私的な関わりがあった二人とは違い、アルメリアは最初から他人だったから、そこが違うと思ったくらいだ。アルメリアは一時、エノーラに命を狙われていたという事実を知らないままだったから。軽く頷いて言葉を促してやると、エノーラはおろおろと混乱した表情のまま、整理されていない響きで問いかけてきた。
「仲良くしないほうが、いいでしょ……? 仲良く、したくないでしょう?」
「一時でも心を通じ合わせた相手に、剣を向けるのは辛い?」
「……やりたくない」
 普通そうでしょ、とばかりに唇を尖らせたエノーラを、アルメリアは笑いながら抱きしめたくなった。思うだけで、実行に移しはしなかったのだが。エノーラもウィッシュも、考え方に時々ついていけないことがあるものの、アルメリアにとっては素直で可愛いこどもだった。人間の持つ当たり前の心を、当たり前として感じて、持っている。本当はアルメリアもルードも、そういう存在を戦いに晒さない為にこそ戦うのだが。
 裏社会の住人がそうであるというのは、どんな皮肉なのだろう。そうねぇ、と笑いながらエノーラの前髪を梳いて、アルメリアは言った。
「でも、そんなこと言ってたら誰とも親しくなれないわよ? もしかしたら、あなたとウィッシュ君が戦うような未来が来るかも知れないし……これから出会う全ての人が、敵になるかも知れない。出会ってから死ぬまで絶対味方っていう相手の方がすくないんだから。ね?」
「そう、だけど。でも私とあなたが仲良くする理由にはならない」
「私が、あなたと笑っておしゃべりしてみたいからっていうのは、仲良くする理由にはならない?」
 きょと、と目を瞬かせた直後、言葉の意味を理解したのだろう。ぎょっとした様子で見返してくるエノーラに、アルメリアはくすくすと笑った。そんなに驚かなくてもいいではないか。硬直してしまった少女を宥めるように撫でて、アルメリアはそれだけよ、と告げる。
「私ね、あなたと……なんでもいいの。どんなことでもいいから、暖かい部屋の中で、甘いものでも食べながらゆっくりお話してみたいの。それだけなのよ。だから、仲良くなりたいと思う。いつか、近い未来、あなたに剣を向けることになったとしても」
 暖炉の前で紅茶を飲んで笑いあうことも、戦場で怒号の中で刃を交えることも、どちらもアルメリアには身近なものだった。エノーラが腰から離そうとしない剣に視線を向けながら、アルメリアは穏やかに微笑む。
「後悔しないわ」
「私がするんだってば……あんな依頼受けなきゃよかった」
 お金だってたくさんもらえた良い依頼じゃなかったし、とぶつぶつ呟くエノーラの言葉を、アルメリアは上手く理解することができない。なぁに、と笑いながら問い返せば、赤らんだ顔でエノーラはふいっと視線を逸らす。
「別に。なんでもない」
 でも、と息を吸い込んで。わずかに罪悪感が薄れた表情で、エノーラはそろそろとアルメリアを見た。
「な、仲良くしてあげてもいいわよ……言っておくけどっ、私が仲良くしたいとかじゃなくて、あなたがあんまりしつこいからなんだからっ! そ、それにウィッシュも諦めなよとか往生際悪いよとか色々言ってきてうるさいしっ、それっ、それにっ」
「うん。それに?」
 可愛いなぁこれ、と思いながら先を促してやると、エノーラはきゅっと口をつぐんで視線を床に落とした。静かな深呼吸の音が、一度だけ響く。それに、と続ける言葉に迷うように繰り返して、エノーラはかすかな声で告げた。
「あなたがセルキストに寝返ればすむ話だもの」
「……あなたがエシュラースに来れば解決する話でもあると思うのだけれど?」
「イヤよっ。私あの国、きらい」
 ぷぅっと幼子のように頬を膨らませたエノーラは、比較した場合セルキストの方がマシだと思っているらしい。ほらあのコだってセルキストに来てくれたら絶対喜ぶと思う、と付け加えられ、アルメリアは思い切り苦笑した。戦場の事情は複雑だ。昨日の敵が、一時的に味方になったことがある。昨日まで背中を預けていた相手が、気がついたら向こう側で笑っていたこともある。敵も味方も、入り乱れて入れ替わる。
「あなたは」
 ため息に紛らせるように告げた言葉は、アルメリアが思ったよりも上ずってかすれていた。なにを緊張しているのだか、と自嘲する気分になりながら、アルメリアは困惑気味に見返してくるエノーラに問う。
「このまま、セルキストにつくつもりなの?」
「ウィッシュ次第だけど、そうなるでしょうね」
 別に個人的にこの国に思い入れやこだわりはないのだ、とハッキリ言って、エノーラは大きく息を吐き出した。
「アルメリアは、ずっとエシュラースで戦うつもりなの?」
 名前を、呼んでくれたのは初めての筈だ。思わず指摘したくなったが、赤く染まった頬とうろつく視線が意図的な呼称だと告げていたから、アルメリアはあえて言わないことにした。もう二度と呼んでもらえない気がしたからだ。そうね、とちいさく呟き、アルメリアも告げる。
「私も、ルードとシルス次第。あの二人には恩があるし、なによりあの二人がいない場所で働くつもりはないわ」
「……どっちか好きなの?」
 趣味悪い、と言いたげな視線に、アルメリアは黙れ小娘、と首を絞めたくなる自分を必死に律した。落ち着いて私、と胸に手を当てて深呼吸を繰り返しながら、アルメリアはなんの感情にかぐらぐら揺れる意識を持て余しつつ、苛立った声で言う。
「そういう風に見ないで。好きではあるけど恋愛的な意味ではないの。あと、あんな男にも女にも年齢的なものですら節操なしな双子に恋なんてしようものなら、私は即座に舌噛んで死んでやるっ!」
 すさまじい形相だった。恐らく、過去に相当なにかあったのだろう。そ、そうですか、と引きつった表情で呟いた後、エノーラは思わず素直にごめんなさいと謝っていた。



 離宮に住む六人分の食事は、基本的に全てアルメリアが担当している。一時期はシルフィを除く五人が一日づつ持ちまわっていたのだが、アルメリアが一番料理上手だということで、結局は一人が専念することで落ち着いたのだ。ただ、ルードが口にするものだけは頑なにシルスの手出し口出しが入るので、盛り付けや仕上げ、その他の担当として、双子の弟だけはアルメリアの傍にちょろちょろしているのだが。
 手伝っている、というよりは料理をしていて構ってくれないお母さんの気を必死で引こうとする息子にしか見えないシルスを冷たい目で眺めやり、エノーラはシルフィを膝の上に乗せ、黙々と読書しているウィッシュに目を向けた。エノーラとウィッシュは、主に料理の腕が問題で、早々に料理番を辞退した組である。火が通って味がついていて毒が入っていないので食べられないこともない料理、になるからだ。
 食材を無駄にするのは心が痛むわ、といって包丁を投げ出したのはエノーラ。美味しいものを食べたかったらお店に行けばよくない、と首を傾げたのがウィッシュだ。普段の食生活が気になりすぎると絶叫した時点で、アルメリアが料理を一手に引き受ける気配は濃厚だったのだが。二人とは別の理由で台所から追い出されたのが、ルードだった。テーブルクロスに刺繍を施しているルードの腕には、包帯がある。
 二週間前、料理をしていたルードの手元で爆発が起こったからだ。未だになにが爆発したのか、なんの原因でそれが起こったのかは解明されていない。しかしルードは、料理をするたびに台所を修理しなければこれ以上使えない程度まで壊すのである。大きな怪我までしたので、アルメリアとシルス、そして治療をしたウィッシュから立ち入り禁止の命令が出ているのだった。水さえ、一人では取りに行けない。
 それくらいは、と許可していたら、先日水道の蛇口がごとっと音を立てて外れたからである。どういう操作をしたのだか、目撃者がいないので不明だが、とにかくそれが決定打になった。実は破壊魔、ルードは、それでも嫌に器用に布に糸を縫い付けている。指に針を刺す気配さえない。魔法のように手際よく、見惚れるほど優雅に作業は進んでいく。軽く天井を眺めやり、エノーラは理解不能のため息をもらした。
 料理中に謎の理由で爆発を起す人物など、噂の中にだけ存在する伝説の生き物だと思っていたのに、実在するとは。びっくりを通り越して、いっそ引く。それなのに名家の当主で国家騎士団の団長っていったいなにを狙ってるのかしら、と頭を悩ませるエノーラの額に、その時ぺったりと手が押し付けられた。気配がしなかったので思いっきり驚いて視線を向けると、シルフィがびくっと体を震わせて驚いていた。
 驚かれたことに、驚いたのだろう。まんまるく目と口を空けてぽかんとされるのに苦笑しながら、エノーラは丁寧な仕草で手を外させた。熱は、わざわざ測(はか) ってくれなくとも、平常だ。ありがとねー、と言いながら頭を撫でてやると、猫のように目を細めて喜ぶのが可愛らしい。和むー、と息を吐いていると、刺繍に一段落つけたルードが顔をあげて二人を見た。穏やかに見守る、年長者の視線と、微笑みだった。
 意味の分からない気恥ずかしさを感じて、視線を逸らすエノーラとは対照的に、シルフィはわぁいとばかりルードに駆け寄った。針を持っていたので、遠慮していたのだろう。だっこっ、とばかり抱きつかれるのを笑いながら受け止めて、ルードはよいしょ、とシルフィを膝の上に乗せた。先ほどもシルフィはウィッシュの膝の上で大人しくしていたので、なにをしていなくても、そうして抱き込まれるのが好きなのだろう。
 ルードの膝の上で、シルフィはほっこりと伝わる体温にうっとりと笑っていた。そっとルードが抱き寄せても、特になんの反応もしない。甘えるように胸に顔を寄せて、にこにこと笑っている。その姿から感じられるのは、全幅の信頼と甘えだ。絶対に、大丈夫。そんな意思が、言葉もなく伝わってくる。最近になって、ようやくシルフィはウィッシュ以外の二人にも無邪気に触れるようになった。触れられることも、平気だ。
 エノーラはシルスに対してそうなったように、シルフィもまた、慣れたのだろう。警戒を解いたというより、内側に受け入れたのだ。触らないでと拒絶するより、触れ合う温かさが心を溶かす。もう記憶とかそういうの戻らなくていいんじゃないかな、と視線を向けるエノーラと、同意見なのだろう。ごろごろ甘えてくるシルフィを撫でながら、ルードは『これ、どうやって本国に持って帰ろうかなぁ』と悩む表情をしていた。
 恐らく頭の中では身分の偽造から社交界への紹介、そして幸せに添い遂げられる相手探しまでの流れが綿密に組み立てられているに違いない。それはそれで、本当に大切にしてくれそうなので、幸せなのかも知れない。少女たちが夢見る『お姫様』のように、愛されて大切にされて、ふわふわの綿に包まれて守られて、砂糖菓子の甘さの中で生活をする。セルキストではなく、エシュラースという国の中で。
 記憶が戻った状態であればセルキストに居る方がいいのだろうが、シルフィが『シルフィ』のままならエシュラースに居る方が望ましい。なんだかなぁ、とエノーラがため息をつくと同時に、いつの間にか読書をやめていたウィッシュが、物思いにふけるルードの頭を軽く叩いた。本の平面を使ったので、音程は痛くなさそうである。苦笑しながら視線を向けてくるルードに、ウィッシュは幼子に言い聞かせる響きで言った。
「だぁめっ!」
 なにが、と問い返させることもしないで、ウィッシュはルードからシルフィを取り上げた。腕の下に手を差し入れられ、ひょいとばかりにシルフィの体が宙に浮く。シルフィはせっかく暖かくて気持ちよかったのに、と言わんばかりの視線をウィッシュに向けたが、ちいさなあくび一つでそれ以上の抗議はしなかった。ウィッシュはシルフィを背に庇うように床におろし、微笑するルードにやや厳しい目を向けて睨んだ。
 まだ分かってないの、と呆れているようでもあった。全く、と嘆かわしさを言葉に乗せ、ウィッシュは口を開く。
「そういう風にこの国から離されたら、シルフィは長く生きられないよ? たぶん」
 ほら切り花って水につけてもそう長持ちしないでしょ、とルードに言い聞かせるウィッシュの表情は、ごく真剣だった。ことシルフィに関してのウィッシュの発言は、すこし理解しにくいことが多かったが正確無比なので、ルードは黙って聞いている。うん、と呟いて先を促すのに、ウィッシュはやっちゃダメだよ、と優しく繰り返した。
「自分で行くなら、いいんだけどさ。今の状態で、そういう風に連れてくのは、ダメ。分かった?」
 それに、とウィッシュはそっと己の胸に手を当てて、甘く微笑む。
「もうすこしだと思うから」
「なにが? 記憶戻りそうってこと?」
 眉を寄せて会話に割り込むエノーラに、ウィッシュはうーん、と首を傾げてわずかに考えた。そうって言えないこともないんだけど、と呟かれる言葉は尻すぼみに消え、本人にもよく分かっていないのだと告げるため息が空気を揺らした。
「まあ、もうすこし、が終れば分かるよ」
「あのね、ウィッシュ。結果が出てから、こういう結果だった、じゃなにか遅い気がしない?」
「する。おなかすいたー、ご飯まだー?」
 なんの脈絡もなく話題を変えたウィッシュは、しょんぼりした視線を台所の方角へ向ける。居間と続きになっているのでかすかに様子は伺えるものの、調理中なので声は届かなかったのだろう。変わらぬ音だけが響いてきて、ウィッシュはうろんな目を向けてくるエノーラに、にっこりと笑った。それまでの会話を全て忘れ去ったような、無邪気な笑みだった。
「夕食楽しみだよな。今日はなにかな……お祭りだから、豪華にしてくれるって言ってたっ」
「ウィッシュって、どうしてこう全力でぶん殴りたい言動ばっかりなのかしら。よしちょっと来い。殴る」
「なんでー!」
 やめろよばかぁっ、と叫びを残し、ウィッシュはすばやく身を翻した。過去の経験から、言葉での制止など無意味だと理解していたからだ。また、エノーラはやると言ったならやるのである。それも即座に。一瞬前までウィッシュの頭があった場所を、エノーラの拳が空気を裂いて通過する。ちっと品のない舌打ちがもれたと同時に、エノーラは走って逃げるウィッシュの追撃を開始した。目が据わっている。
「ちょっと止まりなさいよウィッシュっ! 悪いのはそっちでしょっ?」
「なにが悪いのか分からないから殴られたくないしエノーラ手加減してくれないからヤだっ! 絶対ヤだっ!」
「なにが悪いのか分かってないから手加減しないんでしょうがっ!」
 ぎゃあぎゃあ騒がしく言い争いながらも、二人の足音はそれほど響かない。とっ、と軽やかな音が時折耳に届くだけで、騒がしさのわりに振動も響かなかった。才能の無駄使い、という言葉がルードの胸に浮かんで消える。
「あの二人は」
 呆れ一色の声に振り返れば、そこにはアルメリアが立っていた。ルードと視線が合うと夕食の準備が出来ました、と控え目な微笑みで告げ、再び逃げるウィッシュと追うエノーラに視線を戻して口を開く。
「なにをしてるんですか?」
「うーん。遊んでる、のかな」
「……元気が良くてなによりです」
 ルードの返事を全く信じていない平坦な声で呟き、アルメリアは腰に手を当てて二人とも、とすこし怒った声を出した。面白いくらい唐突に動きを止めた二人は、そっくりな仕草で恐々とアルメリアの方を向く。思わず笑ったルードには、三人から睨みが向けられた。軽く仰け反ったルードから視線を外して、アルメリアは二人にやんわりと微笑みかける。
「もうご飯よ。元気なのは良いけれど、準備を手伝ってくれると嬉しいわ」
「るーは俺と一緒にこっちダヨー」
 現れたシルスが、ルードを台所には決していれまいとばかりに腕を掴んでくる。入りませんよ、と軽く拗ねた声で返事をしながら、ルードはシルスの意思を汲み取って、なんとなくぼんやりしていたシルフィの肩をそっと叩く。なに、と見つめてくるのに手を差し出して、ルードはシルフィにおいで、と言った。なんの緊張もない仕草で差し出され、重ねられた手を柔い力で引きながら、ルードは先を歩くシルスの背を追う。
「……シルフィ」
 名前を呼べば、にこにこと機嫌の良さそうな笑顔が返される。思わずそっと撫でて、ルードはシルスが開けてくれた部屋の扉をくぐった。
「贈り物。気に入ってくれると嬉しいんだけど」
 手を離して、軽く背をおす。部屋いっぱいに置かれた、贈り物の箱の方へ。色とりどりの紙で包装され、リボンで結ばれた大小さまざまな箱は、小山を形成できるほどの数があった。ここ数日、エノーラやウィッシュ、アルメリアたちが散々シルフィになにをあげようかと思い悩んだ結果の産物だ。とりあえず目に付くものは買う、という金にものを言わせた方法だった為、一人から一つ以上の贈り物になったのだ。
 ルードとシルスからの贈り物も、箱の中には含まれている。けれど双子はどちらも、それが自分からのものだとは告げなかった。受け取ってくれればそれでいいし、喜んでくれれば誰からのものでも構わない。笑顔が、見てみたかった。恐らく、まだ誰も見たことがない、シルフィが心からの喜びで笑う表情を。たくさんの箱を見つめたまま、シルフィはしばらく動かなかった。動くことを忘れてしまったのかも知れない。
 二分ほど過ぎても動く様子がなかったので、双子はさすがに心配になってシルフィの顔を覗き込む。そして、ぎょっとして目を見開いた。声を殺しながら、シルフィは泣いていた。声が出ない状態なので殺さなくとも響かないだろうが、それでもシルフィはそうして、息をつめて目の前の贈り物を見つめていた。なにかやってしまっただろうか、と双子が混乱して声をかけようとした瞬間、シルフィがふらっと足を踏み出す。
 ゆっくり、ゆっくり歩いて。たくさんの箱の中、シルフィが選んで手を伸ばしたのは、クマのぬいぐるみだった。箱を椅子にして座っていた、シルフィが抱きしめるのにちょうどいい大きさのぬいぐるみだ。柔らかい茶色の毛並みに、緑色のボタンで目が縫い付けられている。それをぎゅっと抱きしめて、シルフィは声もなく涙を流した。一匹だけで、部屋の中でシルフィの訪れを待っていたクマに、なにか告げるようにして。
 しんと静まり返る部屋で、シルフィは涙を拭って振り返った。そして心配そうに見てくる双子それぞれに、はにかんだ笑みを浮かべてクマを抱きしめて見せる。ありがとう、とゆっくり唇が動き、シルフィは己の喉に手を押し当てた。一度、目が閉じられる。息が吸い込まれ、そして吐き出された。ゆるゆると持ち上げられたまぶたの向こう、燦然と輝くのは紫の瞳。シルフィは、嬉しそうに微笑んだ。心からの笑みだった。
「ありがとう」
 なめらかに、言葉は空気を揺らして行った。喜びをのせた、透き通る声だった。思わず耳を疑う二人に、シルフィはクマのぬいぐるみに顔を埋めながら、恥ずかしそうに言葉を繰り返す。
「ありがとう。……うれしい」
 息を飲む音を後に残して、双子は勢いよく部屋から飛び出した。アルちゃんっ、ウィッシュっ、と口々に叫んでいるのは、この部屋に連れてくる為だろう。しゃべったーっ、と居間のあたりから二重奏が響いてくるのに恥ずかしい気持ちで肩を震わせて、シルフィはクマのぬいぐるみをもう一度抱きしめる。
「……ありがとう」
 思い出さないままでも、思い出したことがあったから。助けを求めることはしないけれど、声は出るほうがいいのだ。嬉しかったら、ありがとう、と伝えなければいけない。なにかが怖くて、心がすくんでしまっても。ありがとう、の気持ちは、言葉にしなければ本当には伝わらない。嬉しい気持ちも、温かな気持ちも。茶色地に緑目のクマを見つめて、シルフィは柔らかく微笑んだ。そう、シルフィにはぬいぐるみで十分だ。
 『   』には、生身の存在が必要だけれど。シルフィにはそれでも十分だから。
「ありがとう」
 どんなに離れていても、全て忘れたふりをして鍵をかけても。それでも。己という存在に、歩みだす勇気をくれるのは。世界に、たった一人だった。



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