BACK / INDEX / NEXT




 光が落とされた室内に残るのは、静寂だった。誰もいない部屋は冷たい空気だけを抱いて、翌朝まで住人の訪れを待っている。セルキストにしては稀な、快晴の夜だった。春まで退く気配を見せなかった分厚い雪雲は、月と星の抗議に一夜だけ折れたかのごとくどこにもない。明りが降り積もった雪に反射して、目がくらむほどの光を振りまいている。真昼とは違う、どこか落ち着きのある、鋭く冷たい光だった。
 かたく閉じられた窓の、透明な硝子から光が部屋を覗いている。うっすらと浮かび上がる部屋に残された、普段はない紙くずや酒をこぼしてふいた後などが、今夜が喜ばしい日であったことを物語っていた。十二月二十五日。聖夜祭(せいよさい) である以上に、住人にとって喜びの深い日だったのだろう。語る者は無いが、全てが眠って動くものの無い中であっても、どこか穏やかに残る空気は幸福の残り香だ。
 首都の全てが眠りについていた。普段は昼夜を問わず営業する店であっても、今日だけは扉を閉めて灯籠を置くのが慣わしだからだ。全ての門という門、異界へと続き、また死者の国へ続く扉がほころぶ夜は、どんな猛者であろうとも起きているような真似はしない。死にたくなければ、温かな幸福に包まれて眠るのが一番だった。静かな、音の無い都市。天から降り注ぎ、地に灯された光だけが遊んでいる。
 氷に覆われた道は青白く輝き、白い壁もまた同じ色に染まった。灯籠に宿された光は赤く、紅く、あるいは橙に揺れて、青白さの上に温かさを添えている。看板や建物で出来た影は灰色で、穏やかなのにどこか恐ろしい。伝承を知らぬ筈の動物たちも、今夜ばかりは寝床から出てこようとはしなかった。夜に飛ぶ鳥も、集会を開く猫たちも、見回りをする犬たちも。路地という路地を覗いても、動くものはない。
 けれどかすかに、かすかに、靴音が響く。それは首都の外れにある、離宮の前でのことだった。降り積もった雪に難儀だといわんばかり顔をしかめて、その場所を訪れた女性の足音だった。女性は物珍しそうに庭の様子や、すこし遠くに見える首都の町並みを眺め、沈黙している王城を見つめては柔らかく目を細める。愛おしさをそれだけで印象付ける、とびきり素敵な表情だった。女性の吐く息は、白く染まる。
 カツ、カツ、と。まるで存在を深く刻むように足尾を響かせて、女性は離宮の扉の前で立ち止まった。玄関だから、当然呼び鈴はある。特別な日の深夜とて、それを鳴らせば誰か出てくることだろう。しかし女性はそれをせず、五つ並んだ灯籠に視線を落とした。紅く、あかく、炎が燃えている。女性はすこし考える風にそれを見つめた後、そのうち一つを手に取って火を消してしまった。そして、元あった位置に置く。
 灯籠の火は身代わりの火。身代わりの、命の火である。それを知っていて吹き消した女性は、意地悪そうな笑みを浮かべつつ、どこか苦く息を吐き出した。まあ別に殺しに来たとかじゃないけど一応礼儀としてよね、と誰に対するものかも定かではない呟きが落とされる。異界の扉が開いて移動が可能になるとて、無制限に移動できるわけでもないのだ。門をくぐって行くには、存在に対する足し引きが必要だ。
 女性が『ここ』に現れる為には、こちら側の人間を一人引かなければならない。それが決まりだ。けれど一々殺していてはそちらの方が均衡を欠く。その為の灯籠の灯りで、身代わりの火だ。それはなにも異界に連れて行かれない為の防御、という意味だけではない。どうしても連れて行きたがられたら、その時点でそんなものは意味がなくなるからだ。おまじないに似た効果よね、と呟き、女性は扉に手をかける。
 しかし当然のごとく、下ろされた鍵が女性の進入を拒んだ。女性は苛立ったように眉を寄せると、手袋をしていないかじかんだ手に息を吐いて暖め、服に手を突っ込んで鍵を取り出す。『今』の時代には存在していない、それだけで芸術品になるような金無垢の鍵だった。ラゼルってホント、ヘンなトコだけ成金趣味なのよね、と嘆かわしい響きが篭もった言葉を放ち、女性は鍵穴にその鍵を突っ込んだ。そして、回す。
 王家の離宮。合鍵すらも存在していないであろう扉は、しかしあっけなく開いた。女性は得意げな表情で鍵をしまい、中に入って、外と比べればマシな気温に目を和ませる。外套に付着した雪を手で払い落としながら、女性は迷いの無い足取りで離宮の奥へと進んでいく。腰から下げられた二本の剣が、鞘のぶつかり合う独特の音を立てる。足音は、もう殆どしていなかった。意図的に女性が消したようだった。
 歩き方を代えてもなくならない剣の鞘が立てる音に、女性はちょっと眉を寄せて立ち止まった。そして迷ったあげく、白い鞘の長剣を外して腕に抱えた。親しい友の幼子を抱くような、敬愛に満ちた仕草だった。長年、共に歩んだ剣だった。何度命を助けられたか分からない。分かちがたく、双子のようにして人生を歩んできた剣を、女性は返しに来たのだった。女性の剣は、期限付きで貸し出されたものだったから。
 感傷を振り払うように微笑み、女性は迷うことなく歩き出した。玄関から続く長い廊下を歩み、客間や居間を通り過ぎて渡り廊下を進んでいく。目的地が分かり、なおかつ導かれているような足取りだった。表情には見知らぬ空間への不安があるが、足取りには確信だけが宿っている。寝る部屋がいくつも連なる一角に足を踏み入れて、女性はそのうち一つの扉を前にして足を止めた。目的地は、この部屋だった。
 扉を叩くことも声をかけることもせず、女性は中へと入っていった。直後、女性は足を止める。室内に居たのは、一人の少女だった。窓から差し込む月明かりに照らされて、全身を青白く染め上げている少女。きらめく銀の輝きを宿した髪が、冷たくも暖かく背に流れている。少女は窓から外を眺めていて、女性に対しては背中を向けていた。けれど、深夜の侵入者に気がついていないわけではなかったのだろう。
 ゆっくり、振り返る。薄い闇に滲むように輝く瞳は、絶対的な宝玉の紫だった。穢れない新雪のように白い肌は、よく見れば薄く血が通っていることが分かる。けれどあまりに、作り物のような少女だった。あどけなさを残す顔に表情がないことも、より人形のような印象を深めている。細い、まだ伸びる余地のある手足に、若木のようにしなやかで華奢な体つき。ふわふわした青いネグリジェが、頼りなく体を覆う。
 夢を見ているようにぼんやりと、少女の視線が女性へと定められて行く。
「だ……っ?」
 ひっ、と引きつって喉が鳴ったのは、女性のまとう色のせいだろう。漆黒の髪は背の半ばまでまっすぐに伸び、闇そのものを宿した瞳は困惑気味に少女を見つめている。少女とは対照的な、健康的に薄く日焼けした肌はやや黄色で、成長しきった女性の体をしていた。顔立ちは強気な印象を与える、小奇麗なものだった。剣を持ってはいるが、別に怖がるような外見をしているつもりのない女性は、しゃがみこんで。
 青ざめた顔つきの少女と視線の高さを合わせ、ゆっくりと口を開いた。
「こんばんは。言っておきますけど、私はこの色でもセルキストの人間よ? あの大陸の最北端で日がな一日呪詛ってる根暗な国の人間と一緒にしないでちょうだい。いくら女の子でも、容赦なく泣かすわよ?」
 大陸で最北端の国といえば、エカテュロアしかない。エカテュロアの国民といえば、黒髪に黒い瞳が基本だから、少女の反応にそう思われていると悟ったのだろう。異常なまでの苛立ちと嫌悪感を隠そうともせずに睨んでくる女性に、少女は慌てて謝罪した。
「ごっごめんなさいっ!」
「分かればよろしい」
 ふんっと高慢に鼻を鳴らした女性は、しかし見惚れるほどにその仕草が似合っていた。女性は飾り気のない、動きやすそうな格好をしている。旅の女傭兵か、さもなくば軍属の兵士だという装備だ。甲冑こそ着込んでいる様子は無いが、重たいのでいらない、という少数派の命知らずで、天才の風格を漂わせている。あなただれ、と声なく動いた少女の唇を読んで、女性は笑って立ち上がった。外套が揺れる。
 さながら、王者のまとうマントのように。
「私の名前は、神崎 霞(かんざき かすみ) もしくは、カスミ・シルヴィレーチェ・セルキスト。セルキスト八代目国王、ラゼストール・グラン・セルキストの王妃で、『戦女神』サマ、よ。こんばんは」
「こん、ばんは」
「ところで、セルキストのアリスレシェクト。私はあなたをその存在だと思うわけなんだけれども、あなた誰?」
 実に的確な質問だった。少女、シルフィは告げられた名前に痛みを受けたように胸元を押さえ、一歩よろめいて窓に体をぶつけてしまう。そのまま、そのガラスが背もたれかなにかであるように体を押し付けて、シルフィは大きく息をしながらカスミを見た。
「『戦女神』さま……ほんもの、ですか?」
「あああ久しぶりに聞いたわその質問。前にされたのは何年前だったかしら、いや別にどうでもいいけどそんなこと……まあ、本物よ。偽者が出たって話は聞いてないわね。ここが何年くらいのセルキストか知らないけど、かなり未来だってことは知ってるし、当然私は死んでるってことも知ってるけど、そんな事実は私がこの場に現れない理由にはならない。今宵は聖夜祭。ありとあらゆる門が、この地へと開く日」
 あと基本的に私に不可能はない、とふんぞり返ってキッパリいう女性には、説得力が溢れていた。なにより意識を、目を引き付けるだけの魅力があった。そこに居ると知ったら、もう目が離せない。一挙一動が気になって、言葉を聞き逃さぬと耳を澄ませたくなる。鼓動が早くなる。圧倒的な存在感と、魅力だった。ぼぅっとするシルフィに、カスミはにっこりと笑いかける。二十代後半か、三十になるくらいの顔だった。
「あなたは、誰?」
「わたしは、シルフィ。『シルフィアート』(精霊の風謡) の、シルフィなの」
「どっ……っかで聞いたわその名前。主に私の友人方面で。具体的にはバカフィオーレの王妃辺りで」
 まあ今はそんな細かいこと気にしたら負けよね、と呟いて、カスミはシルフィに向かって苦笑した。なんとなく、予想していたような笑みだった。
「じゃあ、あなたはセルキストのアリスレシェクトでは、ないのね?」
「……うん」
 こくりと、素直な動きでシルフィが頷く。それに、信じてもいない神を罵倒するように夜空を仰いで、カスミは最悪、と呟いた。そして前触れもなく、シルフィの左手を取った。やっと包帯の取れたばかりの、生々しい傷跡が残る手のひらだった。シルフィが、思い切り怯えて体を震わせる。カスミの色彩に関する反応とそれを参考に、戦女神は一つ正確な結論を導き出して。怒りに染まった深い呟きを、響かせた。
「やっぱり、まだ滅んでなかったか。エカテュロア」
 舌打ちが響くのにも反応できず、シルフィは嫌々と首を振った。その国の名を聞きたくなどなかった。閉じ込めた嫌な思い出が出て来てしまう。それになにより、セルキストの王族にとってその国名は、すでに毒にも等しいのだった。圧倒的な嫌悪感が押し寄せる。涙を浮かべて嫌がるシルフィに、さすがに悪いとは思ったのだろう。ため息をついたカスミは、よしよし、と言いながら少女を抱き寄せ、背中を撫でた。
「悪かったわよ。もう言わない。言わないから、泣かないの……ねえ、聞いて良い? 答えるのは、今のあなたが分かる範囲でかまわないから。分からないことだったら、そう言って。答えたくないことも」
「う……ん。いいよ」
「今どこと戦争中?」
 平和が途切れた声を、疑いもしていないようだった。希望まじりの言葉ではなく、カスミは本当に平和であることを信じていないようだった。それでいて意気込むでもなく、落ち込むでもなく、ただ事実確認を望む声だからこそ、シルフィは戸惑ってしまう。えっとね、と眉を寄せながら、恐る恐る言った。
「エシュラース」
「エシュラースと、どこ? 連合組まれたりしてない? 単独?」
「うん。だと、思う……よく、わからないの。ただ」
 あの国が糸を引いている、と思って。『あの国』をシルフィが思い出そうとした瞬間、それは来た。視界が黒に塗りつぶされる。闇の黒。そして、笑い声。呼吸をして吸い込んだのは、きっと恐怖だったのだ。意識全てが恐怖に染め上げられそうになる一瞬前、引き上げてくれたのはカスミだった。落ち着きなさい、と冷静な声と共に頬を叩かれて、シルフィの世界が色を取り戻す。止めてしまっていた呼吸も、戻った。
 なにが起きたのか、シルフィにはよく分からない。混乱のあまり頭がいっぱいで、シルフィは息苦しく呼吸を繰り返していた。口の中で、すこしだけ血の味がする。気持ち悪くて仕方がなかった。涙が浮かんでくる。ぐずぐずと鼻を鳴らして半泣きになるシルフィをじっと見つめて、カスミはごくちいさな声であなた、と言った。なんの暗示をかけられてるの、と。ちいさな呟きはシルフィの耳には届かず、ただ闇へと消えた。
 カスミにも別に、追求する気はない。冷たいようだが、カスミには関係ないからだ。長く留まれるわけでもないし、傍にいてやることもできない。ならば荒らさないようにそっと静かにさせて、あとはこの時を生きる者にどうにかしてもらうしかないのだ。良い気はしないが。私の子孫になんて真似してやがるあの超ドエス国家がっ、と吐き捨てたカスミに、気分がとりあえずよくなったシルフィは不思議そうな目を向けた。
「ドエスってなーに?」
「……人を苛めて喜ぶ変態のこと。サイネリアとかサイネリアとかサイネリアとかセレスティアとかっ!」
「し、始祖さまっ?」
 サイネリアという人名に覚えはないシルフィだが、さすがに最後だけは叫んでしまう。それは紛れもなくセルキストの始祖、天から舞い降りてきたとされる神聖なる存在の御名だったからだ。なんてことを、と青ざめるシルフィに、しかしカスミはけろりとした表情で事実よ、と言った。そしてまあ私もちょっと、ほんのちょっとだけそんな感じだけれども、とごく楽しそうに笑われたので、シルフィはカスミから距離をとった。
 そのまま、世にも嫌そうな顔でじりじり距離を広げられたので、カスミは満足そうに微笑んだ。嫌がっているのを喜んだのではなく、あんまり予想通りの反応をしたので嬉しかっただけなのだが、シルフィはそういう風に受け取らなかったらしい。いじめっこだっ、と今にも叫びだしそうな表情になって、目に涙を溜めて警戒たっぷりにカスミを睨んでくる。それにカスミは、肩を震わせて笑った。期待されれば、やりたくなる。
 実行に移せば泣き出したあげく口を聞いてくれなさそうだったので自重して、カスミはそれにしても、とシルフィから視線を外してため息をつく。正直、あんまり予想外だったのである。どうしようかな、と迷いながら剣を抱く腕に力を込めると、シルフィの注意がカスミの方に向いたのに気がつく。視線を追うと、やはり見つめていたのは剣だった。気になる、と微笑みながら問いかけるカスミに、シルフィは軽く頷いた。
 そしてそろそろと開いた距離をつめ、シルフィはカスミに抱かれて静かにしている剣の鞘に、手を伸ばしたのだが。指先が、その白い鞘に触れる直前で、割り込んだカスミの手のひらがそれを止める。驚いたシルフィが視線をあげると、そこにはどこか苦く笑うカスミが居て。カスミは、どこか闇に踊る豪奢な炎を連想させる鮮やかな仕草で首をかしげ、愛おしいものを見つめる視線で言った。
「魔法が解けるわよ、シンデレラ。まだ夢の中に居たいのなら、触れるのはやめておきなさい。この剣は、あなたという存在と縁が深すぎる。触った瞬間、あなたがまとった魔法は解ける。嫌でしょう?」
 ぴっ、と音が立つほど機敏に引っ込められた手の動きを目で追って、カスミはくすくすと堪えきれない笑いに肩を震わせた。たまらなく小動物っぽい。ああこれ思う存分可愛がってちょっと泣かせたりしたいなぁ、と思いつつも我慢して、カスミは触らないなら大丈夫だと思うけど、と言って剣を床に横たえた。手を引いてもシルフィの視線は剣に引き寄せられたままで、興味を失ったわけではないと示していたからだ。
 当たり前だろう、とカスミは思う。この剣は、セルキストのアリスレシェクトのものなのだ。『今』はまだ持ち主の手には渡っていないが、カスミは知っている。これからこの剣は、ずっとその存在の傍にある。共に戦場を駆け抜け、共に生きる剣なのだ。かつてカスミにそれを渡した、『今』から『未来』のアリスレシェクトは、この剣をさして『相棒』だと笑った。我が子に対するような無比の愛情と、絶大なる信頼を込めて。
 世界に存在していたなによりも深い愛と、そして憎悪を捧げた剣だから。『シルフィ』は相手では、歯が立つわけもない。見るだけよ、と念押しして、カスミは剣からそっと離れた。すこしでもシルフィに約束と違う動きがあればすぐに取り返せる距離に立って、カスミは拗ねるだろうなぁ、と口の中で呟く。全く扱いにくいんだから、と剣を相手にしているとは思えない評価を口にするカスミに構わず、シルフィは剣を見た。
 そのすぐ傍にしゃがみこんで、まじまじと全体を眺める。白い鞘が特徴的な、細身の剣だった。バスタードソードだ。一メートルすこしの長さで、刃が狭い。男性ではなく、主に女性が使用するのだろう。なんとなく軽そうだが、柄のつくりや鞘の長さを見ると護身用ではなく、実戦用であることが分かった。何度も血を吸ったのだろうに、どこにもそんな気配を漂わせていない。使い込んだ感があるのに、神聖なのだった。
 人が作り出せるものではなかった。思わず息を飲むシルフィに、カスミは面白がる笑みを浮かべて口を開く。
「セルキストに伝わる五つの剣を、知っているわね?」
 それと殆ど同じ言葉を、シルフィはいつか聞いた覚えがある気がした。『シルフィ』に覚えはなくとも、鍵をかけて閉じ込めた記憶がかすかに反応を示す。頭が痛むように顔を歪めたシルフィに、カスミはにっこり笑いながら言葉を告げた。
「それは、その一つよ」
 もしかしたらそう言い出すのではないかと思いつつも、実際に告げられれば衝撃は大きい。なぜならそれは、セルキストの国宝だからだ。始祖セレスティアが自ら作り上げたとされる、五つの剣。現在は国の国庫に安置されているのだが、それはその内三本でしかない。一本は首都の広間に置かれている始祖の像の手に持たれ、残りの一本はこの二十数年、長らく行方不明とされている代物なのである。
 しかし行方不明の一振りではないことも、『   』は知っている。それは失踪した現国王の姉が所有している筈だからだ。軍師の教育官の姉が、いつか『   』にそう告げた。『   』が己の教育官を見出す前に告げられた、古い古い記憶だ。国庫の奥の奥に作られている安置所は、一年に一度だけ鍵が開かれる。立ち入れるのは王族のみで、足を踏み入れる目的は掃除のみ、と法律に記載までされていた。
 『   』はその掃除の日に、安置されている三本を確認しているし、広間にある剣も見ている。失踪している剣の行く先は分かっている。だから、到底信じられることではなかった。けれどそれ以外に説明がつかない程、その剣は綺麗だった。人の手が作り出すことのできる綺麗さではない。自然の変化でしか心が受けない種類の、『綺麗』だと思う感情だ。それをカスミは、『   』のものだと言う。縁が深い、と。
 呆然と剣を見つけるシルフィに、カスミは淡々と告げていく。
「あなたもセルキストの人間なら、いくら自己を失ってても知っているでしょう? 生きた剣。持ち主を己の手で選ぶ剣。王の血を継ぐ者を愛する『ザレインシア』、覇王を守護するという『シルヴィレーチェ』……ちなみにこれラゼルの、私の夫の愛剣ね。どうでもいいけど剣の名前を私につけるとかやめて欲しいと思わない? いくらカンザキって発音するのが難しいからって言って、剣と私のどっちが好きなのって話よ」
 ぶつぶつ文句を並べ立て、カスミはため息をついた。そして手のひらの指二本折って、三本目をゆっくり倒しながら言葉を続けていく。
「で、残りの三つが英雄となる者を導くとされる『ガンディルグ』と、広間の像が持ってるのが民衆の守護の剣『アーカンロスト』と……それ、よ。統べる者によりそう、白き希望。……『王剣(おうけん)』『覇剣(はけん)』『英剣(えいけん)』『守剣(しゅけん)』で言うと、『光剣(こうけん)』になるわ。名前はついてるけど、今のあなたには教えられない。思い出せないなら、忘れたままでいなさいな。その方が幸せよ」
「でも……居なくなってるのは『王剣』で、『光剣』は国庫にあるんじゃ」
「それを言うなら、『今』、私は歴史的に死んでる筈なんだけど」
 ね、とにっこり笑うカスミの笑顔は、どうしてだか納得しなくてはならない強制力に満ちていた。じゃあそういうことにしておく、と涙目で頷くシルフィに笑いかけ、カスミは歩み寄ってひょいと剣を回収する。
「まあ、これはもうすこし私が借りていることにするわ。今のあなたには返せないし、返していいものじゃないもの」
「借りた、の?」
「そうよ。未来の……『今』より先の時間にいる、アリスレシェクトに」
 とっさに、上手く理解できなかったらしい。それってどういうことだろう、と首を傾げてしまったシルフィに、カスミはひょいと肩をすくめた。
「まあ、私みたいに世界と時間を渡る方法を持ってる存在に、今とか過去とか未来とかって、さほど関係ないってこと……気になるみたいだから教えておいてあげましょう。私は、大体二十くらいの『あなた』から、この剣を受け取った。『力が欲しいのなら私のを貸してあげる。今の私には必要のないものだから、いつか、私が必要になったらその時に返しに来て』って。……私は、必要なのは今だと思ったんだけど」
 もうすこし先だったみたいね、と苦笑するカスミに、シルフィは胸を手で押さえた。心臓の鼓動が早くなっていた。体を熱くするのは高揚感と、そして罪悪感だった。シルフィが『   』に戻ったとして、その時に必要となる武器はないのだ。『   』の剣は、あの夜取り上げられたままで、恐らくもう永遠に戻ってこないだろう。そして今の首都の状況で、『   』が自分にあった武器を手にすることは、非常に難しい。
 焦ったようになにかを言おうとするシルフィに、カスミはダメ、とびしりと言い放つ。
「もし本当に必要なら、あなたはこの剣の名前を呼べる筈よ。今もしそれが出来たら返してあげる」
「……むーっ!」
「人間の言葉で抗議しなさい!」
 ムササビっぽい言語でわめくなっ、と言い放ち、カスミは恨めしそうな目を向けてくるシルフィを鼻で笑い飛ばした。諦めて今日は寝ちゃうことね、と言い、カスミは疲れたように肩を回す。その間もがっちり剣は抱えていたので、シルフィが取り返す隙などないのだった。仕方ないから寝ちゃうもんばかー、と言いながら寝台にのぼるシルフィを、なんだか可哀想なものを眺める視線で見た後、カスミはやや微笑する。
「必要になったら、剣の名前を呼びなさい。そしたら、このコはあなたの手元に返ってくる……『戦女神』から祝福を。あなたの道行きは辛いけど……辛いなんて言葉で表せないくらい辛い、けど。それでも強く歩めるように」
「『戦女神』さま?」
 カスミは問いに答えず、月明かりの差し込む窓へと歩み寄った。そして戻るから、と短く告げ、急激にその存在感を希薄にしつつ、シルフィを見つめてそっと囁く。
「ねえ、剣を愛してあげてね。このコはいつか、あなたの命を救うから」
 さよなら、とにこやかに告げたカスミは、シルフィがまばたきを一度する間に消えてしまった。ずっとそこには誰も立っていなかったかのような、鮮やかな消失劇だった。しかし目を凝らして窓を見れば、そこにはシルフィのものとは違う女性の手の形が残っていて、カスミが確かに存在していたことを告げている。シルフィは一人きりになった部屋の中で大きく息を吸い込んだ。あの剣の名前を思い出し、呼ぼうとする。
 けれどそれは、シルフィに思い出せるものではなくて。悩んでいるうちにシルフィは、いつの間にか眠ってしまっていた。せめて良い夢を、と笑う、カスミの声が聞こえた気がした。



 **********



 二十四日にシルフィの声が出てからというものの、ウィッシュは不安で仕方がないらしい。突発事故のような戻り方だったからだろう。またいつ声を『出さなくなってしまうか』と毎日はらはらしているのに、シルフィは笑顔でおはよう、と言った。たったそれだけのことなのだが、ウィッシュはとても嬉しかったらしい。よかったねー、ととろけた笑みで抱きしめてくるのは、シルフィとしては嬉しいので、全く構わないのだが。
 保護者役のルードと、エノーラに取ってはすこし違うらしい。こもった感情こそ違うものの、総じて『うっとおしい』と言わんばかりの視線を向けながら、布屋の少女はため息をついた。
「もう一週間も経つのに。今日で一年が終って、あと数時間で新年だって言うのに! なにあのうっとおしさ!」
「うっとおしいってゆーなっ! 主治医として心配なんだもんっ」
「だもんとか言わないでくれるかしら十六歳、性別男」
 けっ、とやさぐれた響きで吐き捨てるエノーラに、背中からのしかかるように抱きつきながらシルスはエー、と言った。重そうだから怒られる前に退いてあげなさい、と求める双子の兄の視線に笑顔だけを返し、シルスはひどいと思うヨー、と唇を尖らせる。
「俺は二十四だケドー。言うヨ? だもんって。可愛さ主張中だかんネ!」
「退け! でぶ! 重いっ!」
「えええっ! 俺の体重は脂肪じゃなくて筋肉と骨だと思いたいからでぶじゃないヨっ!」
 うるせぇどけーっ、と激怒した叫びを響かせるエノーラは、上からかかる圧力で動けないらしい。すこしでも動けば体制を崩して、床に倒れこんでしまうだろう。どうもシルスはそれを狙ってのしかかっているとしか思えないのだが、エノーラにやすやすと屈する気などないのである。ぎりぎりと憎しみたっぷりに歯軋りを響かせているのに、お茶を運んできたアルメリアからは呆れ混じりの、厳しい視線が向けられた。
「シルス?」
「うん? ナニカナなにカナー? アルちゃんの言うコトだったら、お兄さんなんでも聞いちゃうヨー!」
「では今すぐエノーラの上から退いて、そこから外に飛び出してきてください」
 にっこり笑顔で告げたアルメリアの指先は、まっすぐに扉を指していた。外は今、吹雪いている。こんな中で外に出れば運が良くて風邪、普通でも遭難、もしくは死ぬしか選択肢がないような状態である。言うこときくんでしょうほら早く、とにこにこ促すアルメリアの言葉に、シルスはそーっとエノーラから離れた。そして若干青ざめた表情で、恐る恐る言った。
「アルちゃんごめんなさいもうしません……許してネ?」
「許すのはエノーラですよ。エノーラ、どうします?」
 ごく当然のことである。重圧から解放されたエノーラは、怒りの炎が見えそうな様子で深呼吸していたが、アルメリアの声にゆっくりと顔を上げ、シルスを見た。瞳に、業火が宿っていた。思わず、本当に思わず一歩足を引いたシルスに、エノーラは感情のままに叫ぶ。
「死んで来い!」
「決まりました。はい、行ってらっしゃいシルス。エノーラ、こっちでお茶にしましょう」
 まあ髪も乱れちゃって、と素直に歩み寄ってきたエノーラの髪に手を伸ばし、アルメリアは姉のような表情で乱れた箇所を整えてやった。エノーラは戸惑いが混じっているものの、嬉しさの滲む笑みでありがとう、と言っている。とても微笑ましい光景だった。ため息をつきたい気持ちで視線を動かし、ルードは反応の無いシルスを見た。シルスは扉を見つめたまま、半泣きだった。本気の要求だと分かっているのだ。
 暖炉の炎で暖かな室内は、眠気を誘う温度で心地良い。ソファに座ってお茶を飲みながら談笑するエノーラとアルメリアの視線の先では、暖炉の前でじゃれあって笑うシルフィとウィッシュの姿があった。一見、平和だ。泣きそうなシルスを除いて。ねえねえ許してヨごめんヨー、と情けない響きが室内の空気を揺らすのよりもっと強く、その時、外で鐘の音が響く。重厚な音だ。歴史の深さを、音にしたような響きだった。
 一年が終わり、そして明けたのだった。



BACK / INDEX / NEXT