年が明けた瞬間、どこに隠していたのか赤いワインを満たしたグラスを掲げ、エノーラとウィッシュはぴったり重なった声でお誕生日おめでとうっ、と絶叫した。天井を突き破る勢いであげられたグラスは、そのままの勢いで口に運ばれたので、動きについていけないワインがばたりと音を立ててじゅうたんに染みを作る。突然すぎる二人の祝いに呆然と見守る三人分の視線の先、ウィッシュは上機嫌に笑った。
「これで俺も十七歳っ。やっと、やっとフィアレートから独立できるーっ!」
「ウィッシュったらマジメよねー。私なんてそんな規約忘れてたわよ? まあ、でもおめでとう」
そのまま、どこに開業するのか、ということについて話し合いを始めかねない二人に、待ったをかけたのはアルメリアだった。深夜の為にかすかに覚えていた眠気など消え去った顔をして、どこから訪ねればいいのかと口を開いたり、閉じたりしている。シルスは外に出されることから意識が逸れたのに胸を撫で下ろしていたが、ルードは頭が痛そうに額に手を押し当てて、二人に対して言葉も出ないようだった。
立ち直りが早かったのはシルフィである。それまでウィッシュとじゃれて遊んでいたので、ごそごそ準備をしている気配も感じていたのだろう。赤いワインを水のような勢いで飲んでいる二人に近づくと、ウィッシュの白衣をそっと掴み、くいくいと引きながら問いかける。
「ウィッシュ、エノーラ。お誕生日なの? 一月一日」
「違うわよ? 私は産まれた日が分からないから、一月一日にしちゃったの。ウィッシュは、まあ色々あって小さい頃の記憶が途切れ途切れらしくて思いだせないから、やっぱり一月一日にしちゃったの……むしろ、フィアレートの伝統? 捨て子とか拾い子とか買われてきたのとかが多いから、とりあえずフィアレート育ちの誕生日は皆一月一日にしちゃえ! みたいな。ふ、世界中が祝ってくれてるのよ……!」
「新年を祝ってる人たちは、俺たちの誕生日も祝ってると思い込むと幸せな気持ちになれるしな」
思い込む、のあたりにふびんさを感じたルードは、しかし突っ込まないでおいてあげた。青少年を泣かすのは、罪悪感が募るだけで趣味ではないからだ。控え目な笑みでおめでとう、と告げてやると、アルメリアとシルスからも口々に祝いの言葉が放たれる。最後にシルフィが元気いっぱい、おめでとうっ、と叫ぶと、二人はまたワインで満たしたグラスを高く掲げ、ありがとうっ、と二重奏をほとばしらせる。
「っつーかこのワイン美味しい。どこ産?」
「え、知らない。王宮から持って来たから」
「ぬすんだー!」
ぎゃああああっ、とばかりにシルフィが叫ぶが、エノーラとウィッシュはあーそっかー、と頷きあうだけで全く取り合ってくれなかった。罪悪感もないらしい。普段のウィッシュならば常識に照らし合わせて突っ込んでくれるだろうが、酔っているので流すのみなのである。どちらが本音、というわけではなく、酔うとフィアレートにて施された教育による思想が強く出てくるだけで、一応はどちらも本当の言葉なのだった。
瞬く間に一本を空にしてしまった二人は、そのまま二本目に手を伸ばした。こちらは白ワインだが、二本持ってくるのはわりと重くて大変だった、とエノーラがしみじみしているのを見る分に、これも王家の所有品だったのだろう。あるいは城に居室を持つ誰かの所有物だったのかもしれないが、そんなことは二人には関係ない。置き去りにされたかわいそうなワインを、自分たちの誕生日に愛でているだけなのだから。
あんまり楽しそうに、かつ美味しそうに飲んでいるので、アルメリアは我慢ができなくなったらしい。いそいそと台所に行くとグラスを持ってきて二人の傍にしゃがみこみ、良い笑顔でちょうだい、と言う。アルちゃん、とその辺りだけ比較的常識に近いものを持っているシルスは呻いたのだが、お酒大好き副官に言葉は届かなかったらしい。ぐい、とばかりにあおってワインを喉に通し、アルメリアはをお、と言った。
「美味しい……! なにこれ、爽やかで果実感たっぷりで、すごい香りが広がる……辛口なのに後味ほんのり甘くって、飲みやすい美味しい! もっとちょうだい」
「るー。なあ、るー。俺ら、アルちゃんの飲酒に関する教育だけ間違えたと思わなイ?」
「言わないで下さい。聞かないで下さい」
孤児だったアルメリアを、文字通り拾って育てたのはルードとシルスである。実際にはカインスタイン家の人間が大部分でも、双子は双子なりに少女を一人前の女性に育て上げた自負があるのだった。落ち込む二人に追い討ちをかけるように、ワインをじーっと見ていたシルフィが、台所に歩いていくと自分のコップを持ってきて、にこにこ笑顔で口を開く。
「ちょーだい?」
「シルフィ……! シルフィまで……! え、なに飲んでいいんでしたけ? セルキストって飲酒に関する法の制限ってなかったんでしたっけ……どうでしたっけシルス。思い出しなさい、可及的速やかに」
「俺、暗記とか記憶ダイキライ。……ん、でも、確か禁止はしてなかったと思うヨ」
ほら飲まないと体冷えて寒いから、とシルスの言うとおり、セルキストの法律に、飲酒に関する年齢の禁止事項は明記されていない。十歳までは保護者、もしくは店の者の監督の元に飲めばそれでいいし、十を過ぎればあとは自由なのだ。さすがに外見が若ければ大人が苦言を呈することもあるが、飲んだからと言って法律に引っかかることはない。シルフィの正確な年齢は定かではないが、十は超えた外見だ。
阻むものなど、なにもない。そして酔っ払いは、むやみやたらに低年齢のこどもに酒を勧めるいきものなのである。双子が止めるか止めまいか迷っているうちに、シルフィのガラスのコップには並々と白ワインが注がれてしまう。そしてシルフィはその液体を、ためらうそぶりもなく、一気に喉に通した。ああ飲んじゃった、と保護者役二人が頭を抱える中、シルフィは飲み干したコップを両手で包み込むように持って。
しぶ、と一言呟いて、ちょっと嫌そうに顔を歪めた。
「甘いのがいいなー、甘いのなーい?」
「今日は用意してないわ……アルメリア、なにか用意できない?」
「そうね……確か、白ぶどうのジュースがあったから、それで割って飲んでみる? 原材料だから、味が変になることはないと思うわよ。ちょっと待っててね、持ってくるからね」
これくらいの年齢は私もワイン嫌いだったわ、しぶいし、と呟きながら脇をすり抜けて台所へ行くアルメリアを見送って、双子は同時にため息をついた。セルキストと違い、三人の出身国であるエシュラースは飲酒に関する年齢制限がある。十五歳未満で飲酒すれば法律に引っかかり、最悪逮捕もされる筈なのだが。シルフィは十以上には見えるが、十五にはちょっと見えない。示す事実は、ひとつだけである。
やっぱりその辺りの教育間違えちゃったねー、と顔を突き合わせて落ち込む二人を完全に部外者扱いしながら、アルメリアは持って来たぶどうジュースをシルフィに渡した。そして、はしゃぐ二人とシルフィを見ながら、なんとなく尋ねる。別に暗殺組織の内部事情を知りたいわけではなく、純粋で素朴な好奇心だった。
「十七歳になると、組織から独立できるの?」
「うん。正確にいうと独立っていうか、繋がりは保ったままなんだけど。一人で『外』に出ていいし、どっかの国で開業してもいいんだ。エノーラみたいに全く関係ない商売してもいいし……なんだろ、社会勉強してきて良い年齢? うー、なんて説明したらいいのかな」
「箱入りで育てられた息子とか娘が、はじめて外の学校に通ったりしていい許可を下されるのが十七の誕生日だって思うと一気に分かりやすくなると思わない? 家から通いでも、寮の学校行ってもいいし、どこかのお店で働いてお小遣いかせいてもお父さん許しちゃうよ、みたいな。ただ、そうは言っても心配だから、月に一回とか半年に一回とか、決められた期間で実家に連絡は入れなきゃいけないの」
すごくよく分かりました、とアルメリアは頷いた。彼女の説明に照らし合わせて考えると、さながらエノーラはちょっと早めに家を飛び出した不良娘だろうか。それでも連絡はきちんと取っているのだろう。ああしなさい、こうしなさいって手紙うるさいのよね、とぼやきつつも、微笑む横顔の印象は優しいものだった。その表情が、ふと変わる。そういえば、と言わんばかりの視線が向けられたのは、シルフィだった。
コップに半分ほど白ぶどうジュースを入れ、もう半分をワインにしたシルフィは、そこでやっと甘さの好みがあったらしい。おいしー、とにこにこ飲んでいたのだが、視線を受けてコップに口をつけたままで首を傾げる。
「なーあーにー?」
「シルフィ、今何歳?」
びしっと、確かに空気にひびが入る音を双子は聞いた。それは危ない質問なのではないだろうか。下手をすれば記憶を呼び覚ましかねない、と保護者役は思ったのだが。そう考えたのは、その二人だけだったらしい。当事者はいたって気楽な様子でえっとねぇ、と首を傾げて考え、コップの中身を飲み干して笑う。
「あとちょっとだけ十二歳!」
「ああ、やっぱりそれくらいの年齢だったのね」
分かってスッキリしたわ、と笑いつつ、アルメリアは褒めるようにシルフィの頭を撫でている。頭を撫でること、がシルフィに取っては極上のご褒美で嬉しいこと、というのはもう分かりきったことだったから。ほめられた、と緩みきった表情でひどく嬉しそうにするのを眺め、ウィッシュはうーん、と眉を寄せた。
「シルフィ、あとちょっとだけってなに? もしかして、自分の誕生日知ってる?」
その質問が、もし『知っている』という言葉でなければ、シルフィは頷くことができただろう。なぜなら『 』をはじめとして、セルキストの王族に明確な誕生日はないからだ。さすがに産んだ母親と父親は知っているのだが、本人には特に秘め隠すのが風習なのである。かの『戦女神』の時代よりも前から続く、主にエカテュロアからの呪詛対策である。本人さえ知らないものが、他国にまでもれる危険はない。
シルフィは、正直に言った。
「それはしらないー」
「そか。知ってたら誕生日、お祝いできると思ったんだけど……まあ、いいか。あとちょっとって言うくらいだから、今月の中ぐらいになったらお祝いしような。十三歳のお祝い」
今月の末でないのは、アルメリアたちの休暇がそこで終るからだ。一月の中頃から末の間。二十日よりは後でも、二十五日になるまでには、ルードたちは城に常駐している部下たちの下に戻らなければいけないだろう。その時、ウィッシュとエノーラは、きっとついてはいかない。最悪の場合、シルフィの所有権を巡って戦うことにもなるだろう。だからこその中盤なのだ。平和な時間の、最後がその辺りだろうから。
ルードとシルス、アルメリアの三ヶ月休暇が、もうすぐ終ろうとしていた。
ぴこぴこ目の前で揺れている猫じゃらしをうろんな目で見て、ウィッシュは思い切りため息をついた。ふさふさの穂先が、その吐息に揺れ動く。絶対無視するからな、と宣言されたというのに、猫じゃらしを振っている本人は諦めない。決して諦めてくれない。無駄な諦めの悪さでまあそう言わずに、と笑顔を浮かべながら猫じゃらしを振っている。ウィッシュが手で叩き落すのを待って待って、待ち焦がれているのだ。
しかしウィッシュは意地になったように猫じゃらしを睨んだまま、片方の手は膝の上に置いて決して動かさない。もう片方の手はうずうずした目で猫じゃらしを見つめ、今にもにゃあにゃあ言いながら飛び掛りそうなシルフィを撫でて止めていた。それやったら人類から外れるからね、と優しく言い聞かせると、シルフィはとても悲しい目をしてウィッシュを見上げた。その間にもぴこぴこ振られる穂先が、目の先にある。
「だ……だぁめ? ちょっとだけ、ちょっと、だけー」
「だぁめっ! ほら、良いコだから寝なさいシルフィ。お昼寝の時間だよ……邪魔すんなっ!」
咄嗟に叩き落しそうになった手を途中で止め、ウィッシュはにまにまニヤニヤ笑うエノーラを思い切り睨みつけた。一体なんの目的なのか知らないが、先程からエノーラは昼寝しようとする二人の前にしゃがみこみ、ずっと猫じゃらしを振っているのだった。じゃれて来ないかなぁ、遊ばないかなぁ、と思い切りなにかを期待した独り言のような呟きをもらして。怒られたエノーラに、反省の色はまったく見当たらない。
ぷぅっと頬を膨らませて、うにうにと目をこすって眠そうなシルフィの頬を、穂先でくすぐりながら言った。
「暇なのよ。私、今すごく暇なのよ。だから二人で遊ぼうと思うことは間違ってないのよ?」
「なあ、なにその聞きようによっては俺が間違ってるような言葉。お願いだから同意を求めないで欲しいんだけど。それと『で』ってなんだよ、『で』って。二人と、ならともかく、『で』って」
ついに我慢できなくなったのだろう。頬をくすぐる猫じゃらしに手を伸ばし、きゃっきゃと笑いながらじゃれているシルフィをしょーがないなーもー、と眺めつつ、ウィッシュは細かく突っ込んだ。よくぞ聞いてくれましたっ、と胸を張ったエノーラは、ぽいとばかり猫じゃらしを投げ捨てて腰に手を当てる。かすかな音さえ立てずに床に落下したふさふさの植物を、シルフィだけが友を失ったようなしょんぼり顔で眺めていた。
「ほら、二人と遊ぶとなんかお花ちゃんの世界に突入しそうじゃない? 私、そういうの似合わないんだもの」
「俺、もうどこから突っ込んだらいいのか分からない。意味不明だしさ。おやすみ」
コレと関わらない為には寝るしかない、という結論に達したのだろう。置いてあった毛布を手に取って一枚を膝の上でしょんぼりしているシルフィにかけ、もう一枚を背中から羽織って、ウィッシュはソファに座ったままで眠ろうとしたのだが。そんなことを、エノーラが許すわけもないのである。仕方ないんだからウィッシュは、と原因が全て自分以外にあるような発言を響かせ、寒さで冷え切った手を幼馴染へ伸ばした。
狙うは、白衣の下から無防備にのぞく首筋である。あー、白衣に生首ちらりって興奮するわー、と聞いただけでウィッシュが身悶えて嫌がりそうな呟きを心の中だけで留め、エノーラはその肌に冷たい手を押しつけた。悲鳴をこらえたウィッシュは、しかし反射反応だけは無理だったらしい。びくっと体を震わせたのに連動して、すでに半分眠っていたシルフィがみぎゃっ、と驚いた子猫の叫びで飛び起きてしまう。
そのままきょろきょろと忙しなく周囲を見回すのを無言で眺め、ウィッシュは視線をエノーラに流した。悪いと思わないのか、と謝罪を求めるウィッシュにエノーラはばっちんっ、と音がしそうな勢いでウインクをして。語尾にキラキラ輝くお星様がついていそうな声でごめん、と言う。エノーラの辞書に、反省の文字はない。あったとしても、それはウィッシュのものときっと意味が違うのだ。そう思い、ウィッシュは諦めた。
ため息をつきながら、ウィッシュはシルフィに手を伸ばす。そして警戒するのを撫でて宥め、再び夢うつつの状態に戻して、ずり落ちていた毛布を肩まで引き上げた。温かな毛布で体をすっぽり包み込んでやれば、それだけで機嫌がよくなってしまったのだろう。くすくすと喉の奥でちいさな笑い声をはじけさせ、シルフィはウィッシュの膝に頬をこすりつけて満足げな息を吐き出した。そしてあっけなく、意識を手放す。
かすかに響く寝息にあわせ、シルフィの胸は穏やかに上下していた。ようやくちゃんと寝るようになったよ、と安心しながら、ウィッシュは微笑を浮かべて眠るシルフィの髪を手で梳く。触れられても、シルフィは目覚めない。時々くすぐったそうな表情をするだけで、まぶたはふんわりと閉じられていた。人の気配や体温に怯えず、怖がらず、シルフィが眠るようになったのはつい最近のことだった。昼でも、夜であっても。
その状態に一番早く持って行ったのはウィッシュだったが、今ではルードもシルスも、アルメリアもエノーラでも、シルフィを安らがせて眠らせることが出来ていた。心穏やかに響く寝息に、元々お昼寝をしようと思っていたウィッシュは、ひどく眠気を刺激されたらしい。幼い仕草で目をこすると、夢の中に片足を突っ込んだ声で俺も寝よう、と呟く。シルフィを膝に乗せているから横にはなれないが、別にかまわない。
背中と背もたれの間にふわふわのクッションを何個かいれて、部屋から持ってきた枕を首の下において、ウィッシュはやけに静かなエノーラに目を向けた。
「じゃあ、俺も寝るけど、エノーラどうする? ってか、どうかした?」
「んー……うーんと、ウィッシュ、あのね?」
エノーラの視線は、眠るシルフィに注がれていた。表情は穏やかで優しいものだったが、言葉に表せないかすかな不安もそこにある。無言で言葉を待つウィッシュに、エノーラはまっすぐに目を向けた。星が輝く静かな夜の、空を映したような瞳の色だった。漆黒と無音の闇ではない。光をたっぷりと抱く、安らぎの黒だ。うん、と頷きを返して、ウィッシュはだからだろうな、とぼんやり思う。その違いは、大きい。
だからこそシルフィは、エノーラの『黒』を恐れない。たとえシルフィが『戻った』としても。たとえ、エノーラの髪が琥珀色ではなく、瞳と同じ黒だったとしても。恐れることは無いだろう。彼らは闇そのものだが、エノーラは『光の中の夜』だった。エノーラは言葉に迷い、どこか辛そうな表情で唇を開く。震えてかすれてしまった声は、泣いているようでもあった。
「どうしよっか、これから」
どういう意味なのか、と。これからとは、と。ウィッシュは問わなかった。そろそろ、ウィッシュからも聞こうと思っていたことだからだ。エシュラース騎士たちの休暇の終わりは、もう目と鼻の先まで迫っている。そのせいで離宮の空気は最近、どこか乾いてすこしだけ冷たい。三人も、迷いがあるのだろう。三人で話し合いたいことも、たくさんあるのだろう。だからこそ、今日のお昼寝係が、二人に押し付けられたのだ。
いつもなら、シルスは絶対その役を誰にも代わろうとしないのに。はあ、と憂鬱(ゆううつ) な息を吐き出して、ウィッシュは壁にかけてあるカレンダーに目をやった。一月の日付が規則正しく並んでいる中、二十日に赤い丸は書き込まれていた。今日の日付は、一月十三日だから、もう一週間のうちにどうしても決断しなくてはならない。けれど、本当は。どうするかなど、ウィッシュはとっくに決めてあるのだった。
「シルフィの記憶が戻っても、このままでも、十九日にはフィレイラと合流しよう。それで、二十日の間には首都から出る。そうすればルードたちは……きっと、休暇だったからって言い訳して、追っ手をかけないで居てくれる筈だ。それで、その後は、遠回りしても構わないから足跡消しながら『シュヴァルツ』に向かう。王家の人たちに、会おう。すくなくともトリアーセとは顔見知りだから、なんとかなるんじゃないかな」
「了解。じゃあ、今日中にフィレイラにも連絡しておくけど……ねえ」
言葉をにごしてもの言いたげに見つめる瞳が問いかけていることを、ウィッシュが理解していなかったわけではない。けれど、どうしても答えたくなくて。後味が悪すぎて口をつぐんだ答えを、それでもエノーラは求めた。
「アルメリアに……ルードとシルスに、それ、言って行くの?」
「……言えるわけないじゃん。知ってて、俺たちがシルフィ連れて居なくなるって……それで、後からシルフィがこの国の王女だってあっちの本国が知ったら、ただじゃ済まされない。けど、本当に、すくなくとも俺たちが居なくなる日とか、計画とか、本当に知らなかったら。それはもしかしたら、なにか救いになるかもしれないから。言わないよ。言ったらいけない。俺、あの人たちのこと好きだもん。すごく、好きだから」
きゅうっと、眉を寄せて。困って泣き出すこどものように、頼りなく、寂しそうに。呟くウィッシュに、エノーラも同じ表情でこくんっと頷いた。ずっと、心のどこかで覚悟して、理解していたことではあるのだけれど。いざ言葉にしてしまうと、罪悪感が大きかった。
「私も、アルメリア好きだし……ルードも、おまけでシルスも、まあまあ好きだから」
「うん。またいつかどこかで、会えるといいよな。敵じゃ、なくて。街角とかでさ、偶然さ、会うの」
「それで久しぶりって言って、お茶飲んだりできると……いいな」
もうエシュラース騎士団がらみの依頼受けるのやめよう、とエノーラは言った。ウィッシュも苦く笑って、俺も、と呟く。理由なく、組織から割り振られた依頼を拒否するのは厳禁だが、今回の場合は仕方がないだろう。組織の長も悪魔ではないので、話せば分かってくれるし、大体がウィッシュたち若手には甘い傾向があるのでなんとかなりそうだった。敵として再会したくないよね、と呟いて、裏社会のこどもは笑う。
「ね、ウィッシュ」
「んー?」
「大人に頼れるの、楽しかったね。あんな風に甘えられるのも、はじめてで……恥ずかしかったけど、嬉しかった」
フィアレートの、組織の大人たちも優しかったけれど。それはあくまで仲間の一員として、あるいは後継者に対する優しさであって、年下の少年少女に対するそれではなかった。早くにフィアレートを出てしまったエノーラも、ずっとその地で生活していたウィッシュも、だから『普通』の年上の相手と、生活したことはなくて。エノーラもウィッシュも組織から独立できる『大人』で、大陸の法律でもそうではあるのだけれど。
ひどく幼い笑みを浮かべて、エノーラはよし、と立ち上がった。
「城下まで出かけてくる。フィレイラに会ってくる……夕方には戻るね。おやすみ」
「いってらっしゃい。おやすみ」
ルードたちに言ってからにしろよー、心配されるからさー、と笑いながら背にかけられる言葉に、肩を震わせて笑って。エノーラはもちろん、と元気よく扉を開け、廊下へと出て行った。
ちょっと城下まで出てきます、夕方には帰るわね、と言いに来たエノーラに、アルメリアはぶ厚いコートと手袋、マフラーを渡して寒くしないようにね、と言い聞かせた。もし時間に余裕があったら買って来て欲しいものをいくつかお願いして、けれど暗くなるようだったら危ないから今日は良いわ、と付け加えたアルメリアに、エノーラはくすぐったそうな笑みではぁい、と笑う。心配しすぎよ、と言い残して扉が閉められた。
ぱたぱたと軽やかに廊下を行く足音が途切れるまで聞いて、部屋の奥に居たルードは軽く笑いに吹き出した。エノーラの言う通りだと思ったからだ。エノーラは歳若い少女ではあるが、一流に属する暗殺者なのである。寒さで風邪を引く心配ならばともかく、暗いから危ないというのはどうなのか。過保護になりましたね、とからかいの響きがこもったルードの言葉に、くるりと振り返ったアルメリアは眉を吊り上げた。
「ルードが心配しなさすぎなんです。私だって、彼女の実力は分かっているつもりですけれど、それとコレとは話が別です! 誰に襲われても撃退する力があろうとなかろうと、襲われること自体が問題なんですから。そこのところ、きちんと理解してくださいね。エノーラも、ちゃんと分かってるのかしら。心配だわ」
別に、若い女の子を力でどうこうする輩は減った方が平和なので心は痛みませんが、と呟くアルメリアは、それでも暖かな笑みを浮かべたままの上司を軽く睨みつけた。そして、いいじゃないですか心配してもっ、と癇癪を起したように叫び、瞬間的な怒りを視線にのせ、その双子の片割れにぶつけた。それで、とごく低い声が、いそいそと外出用のコートに手を伸ばしていたシルスに向けられる。
「貴方はなにをなさろうとしているのでしょう、我が上司殿」
「いやん、アルちゃんっ。まだ休暇中デショー? そんな他人行儀にしないでヨ」
「質問に答えてくれていませんね。首絞めますよ?」
清楚な微笑みを浮かべていようとも、アルメリアはやると言ったらやるのである。しかも、その微笑みを欠片たりとも変質させたりすることがなく。楚々とした笑みで、見ようによっては恥らっているとも取れる風にほんのり頬を染めて。しかし渾身の力で、ぎりぎりと締めるだろう。やるのであれば徹底的に、手を抜かず。そう教えたのは確かにシルスとルードなのだが、己らに対する折檻に対しては全く想定外だった。
引きつった表情でマフラーを持ち、嫌々と首を振るシルスに、アルメリアはにこ、と笑う。
「で、なにしてるんです?」
「お出かけ準備だヨー」
「見れば分かります。どこに、どんな理由で出かけるのかと聞いてるんです私はっ!」
今後についてどうするか話し合ってた筈ですよねっ、と語気を強めるアルメリアに対し、ルードは双子の行動理由を正確に理解していたがゆえに静観を決め込んでいた。すこし冷めてしまった紅茶をすすり、落ち着いた風に息を吐き出している。傍らに本でも置かれていたら、そのまま手を伸ばして読書を決め込む風だった。実際、書物を探して視線がさ迷うのを横目にしつつ、アルメリアは苛立って腰に手をあてる。
「まさか、エノーラの後を追うつもりではないですよね?」
「そんなことしないヨ。ちょっと城下まで行くけど、偶然行く先々にエノーラが居るかも知れないけど、それは全くの偶然であって心配だから影でこっそり見守ってるとか全然ナイヨ。ありえないありえない。だから行ってきまーす、夕方よりは早く戻るネー」
「ぶん殴ってもよろしいでしょうか」
ああ、やっぱり心配なんだ素直じゃないんだから、と思いつつ、ルードは小説を見つけたのでそれを手に取った。推理小説だ。あまり得意ではないが、時間をつぶすにはちょうどいいかもしれない。一枚目をめくりながら、ルードは二人に目を向けた。扉の前に立ちはだかって白い目を向けるエノーラの前で、シルスが不満いっぱいの表情をしている。静かに読書を決め込んだルードの耳に、言葉だけが届いた。
「だってアルちゃんが言ったばっかりでしょデショっ? もしなんかあったらどーすんノ!」
「大丈夫ですエノーラなら過剰防衛くらいは朝飯前ですかすり傷一つなく帰ってくると私は信じていますっ!」
「過剰防衛になっちゃう事態に巻き込まれるのが問題だってアルちゃん自分で言ったばっかりナノニー!」
口調うぜえええっ、と苛立ちのあまり言葉悪くアルメリアが叫ぶ。正当な主張だ。黙々とページをめくりながら、ルードはアルメリアの主張を支持した。だんっ、とアルメリアが足を踏み鳴らす音が響く。
「大体、そんなことしてみなさいっ! エノーラに蛇蝎(だかつ) のごとく嫌われますよっ! どんな理由があろうと、後をつけてくる男なんて変態か変人か奇人か病気に決まってますっ!」
「ねえねえアルちゃん、男の人に後つけられた嫌な思い出でもあるノ?」
「あなたも一回、覆面して斧もった男に鼻息荒く後をつけられてみなさい。私の気持ちが分かるでしょう」
文句あんのかコラ、と言いたげな表情で、アルメリアはぐいとシルスの服を掴みあげる。気管を圧迫されて苦しげな表情になりながら、シルスは恐る恐る問いかけた。
「それ、どうやって対処したのカナ?」
「ボコって手足の骨を折って縄で全身を縛った後、運河に蹴り落としました。斧は売り飛ばしました」
ふふ、若気の至りって怖いですね、と笑うアルメリアは、それでも見かけだけは気弱で清楚な女性だった。実際を知っている者は、羊の見かけをした虎の親戚だと意見を一致させているのだが。それって絶対死んだよなぁ、と思いつつ、シルスはアルメリアの手を外させた。そして諦めのため息を吐き出し、じゃあ行かない、と呟く。アルメリアは満ち足りた表情で頷き、シルスが脱いだコートを手に持ってやった。