ハリアスと一緒に図書館裏から出ると、誰かに見送られたような気がしてメーシャは振り返った。
「……あ、れ?」
不思議に思って首をかしげるメーシャの前には、腰かけも噴水もない、ただの壁が何事もなかったかのようにある。けれど、確かにさっきまでは、夜になると光を帯びる花があり、その光が月明かりと一緒に中央の噴水の水をキラキラと照らしている幻想的な光景があった。それが一瞬で消えてしまうなんて。
驚きで動けないメーシャの隣に、ハリアスが立つ。
「“ひかりさす庭”」
静かに呟くハリアスの声が、じんわり身体に沁みこんだ。
「って、私は呼んでいます」
そう言って、ハリアスが踵を返して歩き出す。その小さな背中を追いかけるように、メーシャも踵を返した。周囲では儀式準備部が忙しなく動いている音や声が聞こえてくる。いつもよりほんの少しにぎやかな道のりを歩きながら、ハリアスの隣に並んだメーシャに、彼女は話を続けた。
「私も些細なことであそこを見つけたんですけれど……、どうやら人払いの魔法かかけられているようなんです」
「……じゃあ、誰かがあそこを故意に作ったってこと?」
「その可能性は否めません。誰が、どうして、あのような庭を作ったのか、私にはわかりませんが……、とても優しい場所に感じます。まるで……誰かを優しく包み込むために作られたような……、そんな気がするんです」
『ここに案内したのは、君を入れてふたり目だ』
ハリアスの話を聞きながら、メーシャはストルの言葉をふと思い出していた。
もしかしたら、あの庭はストルが誰かのために作ったのではないだろうか?
そう思うと、普段彼から伝わらない感情が、あの穏やかな庭を通して伝わってくる。右手に持った彼のローブからも、同様のあたたかさを感じた。が、なんとなくちいさな“違和感”が心を過ぎる。自分の知っているストルと、あの優しさに溢れる庭が繋がらない。なんとなく首をひねるような気持ちでいると、ふと、ストルを自分とはどこか違う人間だと思っていたことに気づく。
メーシャは、普段ストルから感情を読み取られることのほうが多い。それは、彼の持つ水という属性も手伝ってのことだ。だから、そう思ったのかもしれない。――ストルが、感情をあえて殺して生きているのは自分に深入りしてもらいたくないから、だと。
正直、今日のこともストルの意思や心はそこになく“担当教員として”という義務で、メーシャをあの庭へ連れて行ってくれたのだと思っていた。
でも、違う。
今の今まで自分が思い違いをしていることを、あの優しさに溢れた庭とこのローブから思い知った。
決して、彼は自分から距離をとっていたわけではない。だって、ストルは言葉と行動でまだメーシャがこの世界から隔離されていないことを教えてくれた。それだけでなく、彼の心は、真剣にメーシャのそばにいると、メーシャの心に光がさすようにと一心に祈ってくれていた。
「……っ」
ストルの本意に気づけない自分の未熟さに、息が詰まる。
言葉を臆面どおりに受け取って解釈するのは誰にでもできることだ。けれど、そこには必ず“心”がある。それを知っているはずだった。いや、知っている“つもり”だったんだ。彼から距離をとっていたのではない、――メーシャ自身が、自分勝手にストルを遠くに感じていたのだ。そして、それはもしかしたらストルだけではないのかもしれない。周りにいるみんなのことも、メーシャは心のどこかで遠くに感じ、距離をとっていたのかもしれない。
そうして無意識に“孤独”を愛しにいった。
「あの」
いつの間にか歩みを止めていたメーシャの前に、ハリアスがひょこんと顔を出す。
「どうかしたんですか?」
「え?」
「……泣きそうな顔、してますよ……?」
下からそっとちいさな腕を伸ばしてくるハリアスだったが、身長差があるせいかその手はメーシャの頬に届かない。それに気づいたハリアスが顔を真っ赤にして引くに引けない手の所在を考えているところで、違う誰かに名前を呼ばれた。
「あ、いたいた。メーシャくーん」
メーシャの前方から、数名の先輩たちが駆けてくる。メーシャが目の前のハリアスから視線を先輩たちに向けると、ハリアスはちゃっかり所在なさげにしていた手を引っ込め安堵していた。
「よかったー。見つけられて」
「ソキちゃんが今ひとりで談話室にいるから、早く行ってあげて。なんか、ユーニャが珍しく心配してたからさ」
「そうそう。様子がおかしい? っていうか、なんか、珍しく眉間に皺寄せてて……って、あらハリアス」
「ハリアスもメーシャくん探してくれたのね。ありがとう」
この中で一番ちっちゃいハリアスの頭を、三人の先輩たちが交互に撫でていく。それをくすぐったいというか、むずがゆい表情をしているハリアスは、まるで構ってほしくないときに撫でさせてやっている猫のようだった。
「とと、こうしていられない! 私たちも戻らなきゃいけないから、メーシャくんは早く談話室に行ってあげてー」
「お願いよー」
「絶対だからねー」
三人が順に、そんなことを言いながら来た道を戻っていく背中を見送り、メーシャは手を振って応えた。
「あ、あともし時間があったらおねーさんとデートして」
少し離れたところから、思わぬデートのお誘いをした先輩の隣で、他のふたりがなにやら興奮している声は聞こえたが、何を言っているのかまではわからなかった。冗談なのか、本気なのか、ちょっとわからない。ふぅ、と息を吐いて気持ちを切り替えると、メーシャは視線をハリアスに移す。けれど、彼女が俯いているせいで、ルビーの瞳は見えなかった。
「あれ、ハリアス? どした?」
返事はない。
うーんと首をかしげてしゃがみこむ。
「ハーリーアース?」
下から見上げて彼女の顔を覗き込もうとした瞬間。
「ぅわっ」
彼女の両手に目を覆われてしまった。
「え、なになに、ハリアスどうしたの!?」
「なんでもありませんから見ないでください!」
そんなことを言われても困る。
そう、声に出さず思ったメーシャに、深く息を吸い込む音が聞こえた。
「とにかく!」
「はい」
「今日は流星の夜で、メーシャさんたち新入生には大事な儀式があります!」
ハリアス以外からも何度も聞いたセリフに、頷く。
「ある意味、お披露目です。そして、ある意味認められたということです」
「……」
「だから……」
言葉を重ねれば重ねるほど、ハリアスの勢いは失速していく。何かを、決断していくような空気の流れに、メーシャは嫌な予感がした。
「――もう、私とは関わらないでください」
決定的なひと言が、耳朶を打つ。
表情が見えないからよけいに彼女の真意がわからない。かといって、この言葉を受け入れるほど、メーシャは優しくなかった。
「どういう意味?」
「……私と……、メーシャさんは、入学式の日にたまたま出会って、それがきっかけで私があなたを談話室まで連れていきました。それはあなたが魔術師のたまごで、新入生だからです。それ以上も以下もありません。でも、……今夜をもってあなたは魔術師として一歩前に踏み出しました。たまごだろうがなんだろうが“魔術師”として儀式をするのです。……だから……自覚を持ってください。そして先輩たちに心配される自分であることを恥じてください」
「……」
「私が、あなたの世話をするのはこれが最後です。以降、魔術師として扱います」
厳しい言葉の裏にある心が、震える手から伝わってくる。
これでは意味がない。
メーシャは、ハリアスの震える手をゆっくり退かし、なおかつ彼女の顔を見ないよう俯いてその手を包んだ。
「魔術師の自覚を持たせるための厳しい言葉、痛み入ります。――が、これぐらいで嫌いになると思ったら、大間違いですよ?」
びく、と震える手に「やはりそうか」と嘆息する。
「俺は、俺の好きなようにやらせていただきます」
包みこんでいた彼女の手を、恭しく返し、絹のような肌にくちづけ、
「ハリアス先輩」
わざと敬称をつけてやった。
「ご忠告、感謝申し上げます」
相手の反応など見なくてもわかる。かぁっと熱くなった手のひらに、もう一度唇を落としたメーシャはすっと立ち上がり、ハリアスの横をすり抜けて寮へ向かった。
「今日は、これで逃がしてあげる」
すれ違いざま、ハリアスにだけ聞こえるように言い添えて。