――ちょっとだけ、やりすぎたかな?
先ほどの出来事を思い返しながら、メーシャは談話室に向かっていた。
すれ違いざまに見えたのは、俯いたハリアスの耳。それは真っ赤に熟れた林檎のようで、ほんの少し後ろ髪を引かれた。けれど、戻ることはできない。メーシャにはこれから儀式が待ち、さらに言えば彼女のほうから自分を拒絶したのだから。
それがわかったから、メーシャにしては珍しく心が揺れ動いた。言い換えれば、カチン、ときたのだ。彼女は、あの庭で大丈夫だと安心させたかと思えば、もう関係がないから関わってくるなと簡単に自分のことを突き放した。自分に向けられた厳しい言葉は、本物だろう。自覚に関してはメーシャにとっても必要なことだった。けれど、彼女の心が“言葉とは違う”というのも理解していた。
まだ手に残るハリアスの体温と、手の震え。それは明らかに彼女の臆病な本心を隠していた。そして、気づいてしまった。彼女もまた、メーシャと同じように“自分から人を遠ざけることで孤独を得ている”と。
しかし、ハリアスとメーシャは違う。
メーシャの場合は、無意識だった。知らず知らずのうちに、今後くるであろう魔力暴走の可能性に怯え、小さな壁を作り、結果“孤独”という檻に自分を閉じ込めていた。誰だって記憶を失うのは怖い。大好きな人たちを忘れるのも、忘れられるのも、嫌だ。そう、強く思える人たちに出会えた。これこそが、自分にとっての奇跡だとメーシャは思っていた。無意識の恐怖から生まれる“孤独”、それと向き合うことで、自分を知ることができた。これは、メーシャにとっての一歩だった。
――けれど、彼女は何が怖くて何に怯えているのかわからない。
いつもの自分だったら、あそこで彼女の言葉をそのとおりに捉えて、傷ついていたのかもしれない。が、今は違う。言葉の裏にも心があることを知った。だからこそ、メーシャは絶対に退かなかった。
決して同じではないが、似たような“孤独”を味わっているからこそ、彼女を独りにしたくないのかもしれない。
風に舞う花びらが水面にふわりと落ちたときのように、メーシャの心に名前の知らない波紋が広がった。
「なんだろう、この気持ち」
胸にそっと手を置く。不快に思わないのがまた不思議だ。今までにない心のざわつきに言葉にならない感想を胸に、メーシャは談話室のドアを開けた。中では、ナリアンとロゼアがソキの周りにいた。
「あ、ごめん。遅くなった」
『大丈夫だよメーシャくん。俺たちもついさっききたところだったから』
「そうなのか?」
申し訳なさそうにロゼアへ視線を向けると、彼もまたこくりと頷いてくれ、ほっとする。しかし、彼の意識は半分以上ソキに向けられていた。メーシャもロゼアに倣ってソキの様子を窺う。変だった。何が、と具体的なことを訊かれると困ってしまうが、どことなく様子がおかしい。当然、ロゼアもなんとなくおかしいと思っているのか、いつもより注意深くソキを見守っていた。ユーニャが心配していたという話もあったので、メーシャは杞憂であることを願いながらみんなのもとへ歩き出そうと足を踏み出した。――その瞬間、ナリアンの表情が一変する。
今までの笑顔はどこへやら、彼は入り口を見たまま表情が固まった。その様子に、メーシャは思う。
(……寮長か)
その直後、予想どおりの声が談話室に響き渡った。
寮内に設置されている『扉』に向かって歩くメーシャたちを、静寂が包む。
一歩、また一歩と足を進めるたびに、廊下が厳粛な空気に満たされていくのを、肌で感じていた。自然と緊張も高まる。ついに『扉』の前に到着すると、誰の手も借りず、それは静かに開く。『扉』の奥で、静かに佇む王宮魔術師の少女・リコリスに迎えられ、メーシャたちは『扉』をくぐった。
リコリスを先頭にして、メーシャたちは窓のない細道を奥へ進む。ソキは懸命に前を見据え、自分の足で歩いていた。先ほど、リコリスに規則だから歩け、と言われたことも理由のひとつだろうが、彼女の表情を見るかぎりそれだけではないと感じる。彼女もまた自分自身と闘っているのかもしれない。
そう思うと、手助けしたくてもできなかった。いや、しちゃいけないんだ。
彼女自身、助けを必要としていないこともあるのだが、やはりどうしても転びそうになる小さな身体を前にすると、手を出しそうになる自分がいる。その衝動をぐっと堪えてこぶしを握った。見守ることがこんなにもツライことだなんて、メーシャは知らなかった。そしてまた、相手を信じることができなければ見守ることもできないのだと知る。
彼女の姿から自分自身を省みながら、ふと、もしかしたらストルもこんな気持ちだったのではないかと思った。
だから、彼は必要以上に言葉を発しないのかもしれない。授業のときも、普段のときも。もちろん、間違いははっきり指摘する。が、正解は言わない。メーシャの導き出した答えに対し、ただ笑ってうんと頷くだけ。ストルは自分の正解をメーシャに押し付けない。かわりに、メーシャの“答え”を信じてくれる。
(俺も……、先生を信じよう)
優しくも厳しい担当教官に、また触れられたような気がした。
「星は――我ら魔術師たちの導となる」
通路の終わりらしき扉の前で、足を止めたリコリスが言う。
「星は我らの友人だ。我らが暗闇に惑ったときに、我らの手を引き導くが役割」
それはハリアスからも、座学の講師からも聞いていた。そのときは心に響かなかったが、今は違う。
「――……それでも、だ」
リコリスがくるりと振り返り、メーシャたちを順に見つめる。
「星はすべての者にその光を与えるわけではない。自らの足で立ち、歩かんとする者にのみ、その輝きで以て未来(さき)を示すのだ」
そう、――星もまた、見守ることしかできない。
リコリスの言葉で、何かが一本の線に繋がったメーシャから、恐怖が消える。ただひたすら、星に会いたいと、そればかりを考えていた。
開かれた扉の先から現れた星降の国王が、満面の笑みを浮かべる。
「待っていたよ。ソキ、ロゼア、メーシャ、ナリアン……。君たちを、俺も星も、本当に待っていたんだ!」
この国王の言葉が星たちの声だと思うと、言葉にならない感情が湧きあがる。それが涙にならないよう、奥歯を噛み締めてこらえると、国王はメーシャたちをある部屋へと案内し「四人にはこれから、“夜を降ろして”もらうよ」と言った。
何度聞いても慣れない言葉だった。
夜は勝手にやってくる。それを自分たちで“降ろす”というのが不思議でならない。
ぽかんとする新入生に向かって、国王はだいじょうぶだいじょうぶ簡単だよぉすぐできるってぇって言うように笑顔になった。
「一番星がきれいにみえる夜を呼び寄せるんだ。方法はっていうと、星よ! 来い! っていう気分で夜に話しかけてもらうのな? すると夜が挨拶に来る。新しい魔術師のたまごである君たちに。星々の新たな友人たちに。……そうして君たちもまた、惑ったときの導となってくれる星々と、初めましての挨拶をする……それが“夜を降ろす儀式”。天体観測の前に新入生たちにしてもらっていることなんだよ」
しかも、そこに、魔術詠唱はいらないと言うのだ。
さも簡単に言ってくれた国王に、ロゼアやナリアン、ソキも不思議な表情を浮かべている。それもそうだ、かなりおおざっぱな説明だから、伝わりにくいだろう。けれど、メーシャは誰にも教えてもらってないはずなのに、その方法を知っていた。いや、思い出した、というほうが近いかもしれない。
国王がみんなへ説明している間、メーシャはずっとバルコニーの彼方に見える闇を見つめていた。
「――怖いか」
ふと、隣に立った少女の声に、それがリコリスだと気づく。メーシャは嘆息して、正面を向いたまま、自分の弱さを受け入れるように呟いた。
「はい」
「……そうか」
「でも、今は違います」
「……」
「自分でも不思議なんですけど、……すごく、わくわくしているんです」
どう言ったらいいのかわからない。ただただ“会いたい”感情だけが、降り積もる花びらのようにメーシャの心を埋め尽くしていた。そうか。小さく答えたリコリスの声が、さきほどよりも耳にくすぐったい。口元を綻ばせたメーシャに、リコリスは何かを思い出したように、そうだ、と呟く。
「その手にあるローブは、ストルのだろう。儀式の妨げになるから、我が預かっておく」
隣から差し出された小さな手に、メーシャはそういえばそうだったと手にしたままのローブを思い出す。あたたかく大きなローブを見下ろし、やがてこれを自分が着るようになるのかはわからないが、憧れを抱いた。メーシャはローブをリコリスに預け、もしかしてと唇を動かす。
「ストル先生に、何か言われました?」
同じ星降の国の王宮魔術師であれば顔見知りかもしれない。そこから導き出した直感が、口からついて出た。
「だとしたらどうする?」
「情けない生徒ですみません、と俺がストル先生に謝るだけです」
その返答が想像していたものとは違っていたのか、彼女に目を瞠られた。一瞬だけ見えた動揺は、すぐに言葉となって消える。
「安心しろ。誰にも頼まれていない」
そうですよね、と苦笑を浮かべようとしたメーシャをリコリスが見上げ、ただ、と続けた。
「触れるのを極端に嫌がるあのストルが、珍しく溺愛していると噂になっているおまえに興味があっただけだ」
そのとき、メーシャは初めて少女の微笑みらしきものを見た。
「失礼する」
すぐに微笑みを消したリコリスが、ストルのローブを持ってその場を離れていく。それを静かに見送りながら、メーシャは――さっきのは笑顔、あれは口の端を上げてなんとなく何かを企むようなそういう類のものに見えた気がしたのは気のせいですよね。気のせいだと思いたい。むしろ見間違いに近しいはず。俺は何も見てない、見てませんよストル先生。――と、呪文のように心の中で唱えた。
「……」
ふと、誰かに呼ばれた気がして、バルコニーの手前で空を仰ぐ。そこにはまだ闇が広がっていた。夜ではない、闇。
呆然と闇を見つめるメーシャに、国王の説明が終わったらしいロゼアが話しかけてくる。そこでロゼアに夜を降ろすちょっとしたコツを話している間に、時間がやってきた。国王に愛でられながら、入学式のときと同じように手を繋ぐ。そして、バルコニーへと足を踏み出した。
『魔術師よ! 夜を降ろせ!』
すぐに、下からの大音声に包まれる。驚きながらも、みんながいるから大丈夫だと信じて欄干まで歩き――、そこから見下ろした光景に息を呑んだ。
『魔術師よ! 寿げ! 新たなる出会いを!』
広場と街を一望できるこの場から見えるのは、ひしめきあう大勢の人々だった。彼らの瞳はきらきらと輝き、自分たちの存在をすんなり受け入れてくれた。そこに感謝して、メーシャは空を見上げる。
「……」
広がる闇。しかし、恐怖を感じないあたたかい、闇。
ゆっくりと息を吸い込み、まぶたを閉じる。
そこに“彼ら”はいた。
いつも、いつだってソコにいてくれた。
閉じた瞼のあたたかい闇の中、中央にみっつの光が見える。
「やぁ」
本来ならば、ここにはいない星座だ。その星座の中で、ひと際輝く青い星、冬のダイヤモンドと呼ばれる星がそこにはいた。
「やっぱり君だったんだね、シリウス」
愛しげに名前を紡ぐと、彼は嬉しそうに光を強くさせる。それだけで、胸がいっぱいになった。
「……こんな俺に、……応えてくれてありがとう」
『いいんだよ、いいんだよ』
そう、言葉が聞こえてくる。
『君はこうして気づいてくれたじゃないか』
『そうだよそうだよ』
『今日という祝いの日、君の前で輝くことはできないけれど』
『君は見つけてくれた、気づいてくれた』
『見つけてくれた! 気づいてくれた!』
『ボクたちはそれでいいんだ』
『ありがとう、ありがとう!』
『見つけてくれて、ありがとう!!』
純粋な喜びを表す彼らに、涙なんて見せられない。
メーシャはこみあがる何かを必死に堪え、唇を開く。
「……こんな、俺を……、信じて、見守ってくれて、……ほんとう、に、……ありがとう」
そして、ごめん。
待っていた彼らの気持ちを踏みにじるように「怖い」だなんて言って。
「もう、……君たちのことを、怖いだなんて思わない」
強く、メーシャが決意したと同時に、心にひとつ星が咲く。闇に包まれていた花弁が開くように、青く、清浄な希望の光が、咲いた。
「いつも、君たちとともに」
瞼を押し上げた瞬間、メーシャの目からひと筋の涙が頬を伝う。と、同時に夜空を覆う銀の光が駆け抜ける。
次々と流れていく星々が幻想的な世界を作り出す。その一つひとつが、会えて嬉しいと魔術師のたまごたちに祝辞を述べていた。心に灯った星明りはいつまでもメーシャの心の中で彼を守るように煌いていた。