人であれ。そうでなければ。
時間を計るのは雲の流れ。どれくらいこうしているのかしら、と考えるのをやめたのはいつの頃だったろう。あなたを見て安堵した思いと、話しかける怖さと、これからのこと。絶望と希望とないまぜになって、幾度も幾度も嚥下する。そうすることでしか、あなたに近づけないのだと言ったら、あなたは。
微笑んでくれるだろうか。
ニーアがナリアンの家にたどりついて、二週間が経とうとしていた。魔術師に聞いた通りに飛んでいった先は、ニーアが恋慕の情を抱いていた相手の家。一度だけ、無断で入った家。アメジストの君の家。嘘だ、と妖精は思った。恋に落ちるような感覚は、彼にはしなかった。彼以上に、ドキドキする相手はこの街にはいなかったのだけれど。案内妖精が、案内をする魔術師のたまごに出会う感覚は、一体、どんなものなのだろう。先輩に聞いておけばよかったと、どれほど強く思っただろう。信じられなくて、ナリアン、という名前をもつ青年を探した。隈無く探したのに、この街にいたナリアンは、アメジストの君、ただ一人。私が、学園に連れて行く魔術師のたまごは、ナリアン。魔術師のたまごは、アメジストの君だった。心臓が高鳴った。一緒にいられる。そうでなかったら、耐えられないからと、無意識に彼らが同一人物だと結び付けなかった。でも、彼らは同じ人物で、私は、私の望んだ通りだったと知った。アメジストの君の案内妖精になること。私の初めてのひとは、アメジストの君であること! 願いは叶ったのに、成就したのに!
苦しかった。
意を決して、名前を呼んだのに。彼は、彼は! 物語を綴る手を止めて、部屋を見回したまではよかった。アメジストの瞳は、私を素通りした。見えて、いないのだ。口を開かぬまま、視線を机に落とし再びペン先が紙をこする音だけが響く。
インクの香りが、鼻をつく。ナリアンが好んで使う色は、ブルー・ブラック。多くの写本師が使う色。紙に描かれた瞬間は青色だが、インクが乾き青みが抜けていくにつれ黒色が目立つ。青とも黒とも言えぬ色。さらりとしたインクで細いペン先を使う者が多かった中、ナリアンが使っていたのはもったりとしたインクで、細いペン先。さらりとしたインクは伸びがよく、一度に吸い上げる量も多いがにじみやすく少しの躊躇でもインクが滲んでいく。不恰好になるそれは、悩みなどなければ問題ないのだろうが、にじみだけは回避出来そうにもなかった。ナリアンは、にじみよりもただ色の薄さが嫌だという理由で、もったりとしたインクを使用していた。幾度もインク壺にペン先を浸し、同じ大きさ、同じ濃さ、同じ太さ、同じ間となるように一文一文を綴っていく。掠れぬよう、単語が切れぬよう。次の行を追いかけたくなるような区切り方。物語を熟知していなければ、到底出来ないような書き方。ナリアンの手元で、物語を読んでいたニーア。原作と同じ文字を綴っているのにも関わらず、なぜか彼が書く方が面白いと思ってしまう。ずっと隣にいても、一向に彼の瞳は、ニーアを見咎めなかった。
無視をされているのかと思ったけれど、彼の瞳は本当にニーアを見ていないようで。触れることは怖かったのだけれど、恐る恐る右手の甲に触れたときに、彼の皮膚は泡立ち、ニーアを振り払い左手でさすっていた。ものすごく驚いた表情をしていた。胸が傷んだ。涙がこぼれそうになったのを、唇を噛み締めてこらえた。
どこにでもついて行った。家の中も、洗濯物も、買い出しも、教会にだって。付かず離れず、見守っていた。ナリアンの枕元で一緒に眠り、ご飯はナリアンがたくさん食べているのを見て、仕事中はナリアンの邪魔にならぬよう、机の端に座って彼の横顔を眺めた。オリーヴィアの傍に座るナリアンに寄りそうにずっと。外に出たときは、これ幸いとばかりに風にあっちへコロコロこっちへコロコロ弄ばれて泣いた。それでもナリアンの後ろをついて回れば、やがてそんな妨害も馬鹿らしくなったのだろう、邪魔もされずたまに足元を掬われるだけになった。
優しいひと。あなたが思っていること、少しでも相手に伝えられたなら、もっと喜びを知れるのに。私なら、あなたを、幸せに。首を振って、考えを否定する。ワンピースの裾を握り締めるのは何度目だろう。
叫び声を上げて、助けてと、私の、わたしの宝を、助けてと。
彼のたった一人の大事な人を救って、彼は苦しみを背負った。やめて、と何度も叫んだ。私の声など届きはしない。今までだって一度も届きはしなかった。何度も、何度も叫んだのに、風は彼の思い通りに動き、彼は責めを背負い込む。泣いてはいけない。飛ばされそうになる体を己の魔力でつなぎとめる。息ができなくなるほどの魔力。味わったことのない、膨大な魔力。ピリピリと肌を刺すような痛み。でも彼が背負おうとしているのはこんなものではない。彼の大事な人、オリーヴィアと目があったような気がした。頷くことしか、出来なかった。風が止み、ナリアンは倒れた。どうすればいいのかは教えてもらわなくても、きっとこうするのだと体が知っていた。魔力を放り出して、空の向こうへ。届け、届いて、早く、お願いだから。
程なくして、一陣の風が妖精の元を訪れる。倒れたナリアンに寄り添い、消え入りそうなニーアを救い上げたのは、ニーアに道を示した魔術師だった。魔術師の手の中で、ナリちゃん、と手を伸ばす妖精にお前の方が重症だと告げた。飲まず食わず、生きるために魔力を使い、その魔力を、助けを求めるために解き放った。命を削ったのだ。消えてもおかしくない。それでもなお、たまごを慈しむか。焦げ茶色の髪をまとめあげ、緑の眼鏡。レンズ越しに見つめるのは、ナリアンとオリーヴィア。
「吹き渡れ、青嵐。叩き起こせ、あいつらを。連れてこい、この地まで」
眼鏡の奥で、オブシディアンが煌めく。指す色は、水色。唇が紡いだあとに、女性から魔力が溢れる。青嵐となりて、妖精の魔力が蹴散らしていった花々を散らして、花舞の国の王都を目指す。
「さっさと来い。死にそうだぞ」
独り言のように呟いた。それは、風が運ぶ伝言。出て行った魔力の多さに、魔術師は溜息をつく。さすがに、三人へ同じように伝令を飛ばすのは疲れる。もう一度、オリーヴィアに視線をやり、下手くそな永続魔術を解く。優しさで組まれた甘い魔術。
「たまごで、ここまで出来れば大したもんだ。お前の魔力は、お前のために使え」
オリーヴィアへ、頭を下げた魔術師は、ナリアンが無意識の内にかけた魔法を解いていく。丁寧にかけられたリボンを解いていくように、オリーヴィアを守ろうとする魔力をナリアンへと返すように。
「包みこめ、空風。肉体が天に還るまで、腐蝕を押し止めろ」
オリーヴィアの体を冷たい風が包み込む。花舞の国の季節は、初夏。日増しに暑くなる。ナリアンがまともに動けるようになるまで、彼がきちんと見送れるようになるまで、彼が背負うはずだった魔力を魔術師が請け負った。瞳を閉じ眉間に皺を寄せ、小さく首を振った魔術師が次に見たのはナリアン。オリーヴィアへ分けていた魔力を取り戻してもなお、己に巣食う病魔に魔力が食われている。眠ることで最低限の消費に抑えているのだろう。
「残念だが、白魔術はちょっとな」
苦虫を噛み潰したような顔で謝罪する魔術師。少し思案し、仕方がないとばかりに溜息をつく。大量に分け与えても、あればあるで、たまごは魔力を食い潰すだろう。やりたくないが、これしかない。
「私の魔力をお前に贈ろう。あいつらが来るまでだけどな」
今日だけでどれほどの魔力を使ったか。考えるのも馬鹿らしい。面倒事が起きなければいいんだ。そう考えて、ナリアンの投げ出された左手に、右手を重ね、魔術師は言の葉を紡ぐ。
「繋がれ、薫風。ナリアンと私に道を繋げろ。私から、ナリアンへ。花の香りを運び続けろ」
花の香と共に、一滴一滴、水がこぼれていくように、己の魔力がなくなっていくのを魔術師は感じた。代わりに、花の香りがほのかにし始める。魔力の感じ方は人それぞれ。魔術師は、魔力が香りとなってわかった。そろりと、ナリアンから右手を離しても、魔力がナリアンの元へ届いていくのを感じる。度重なる魔力の消費に、魔術師の顔は青白くなっていく。それでも立つ足はしっかりとしたまま。
「最後は、お前だな」
魔術師の左手の上で、ずっと青年を見つめていた妖精。本来であれば、巣に返してやるのがいいのだが。
「あいにく、ナリアンからは遠く離れることはできん」
魔法使いであれば可能かもしれないが、ただの魔術師に魔力の供給路をつなぎとめたまま、国をいいや、街すらも越えることは出来ない。一歩、ナリアンから離れる傍ら、つながっていること確認しながら、ナリアンの家を魔術師は出た。東の空が明るみ始めた。妖精を連れて、この街で一番、花の咲く、日の当たる場所。ナリアンがよく訪れる教会へと、足を伸ばした。祝福は喜び、喜びは力。花の香りは、魔術師にとっての安らぎ。小さな存在も包んでやらねばならない。
「距離的にも苦しいが、王都からあいつらが早く来れば問題無いだろう。さっさと来い」
一人愚痴て、ゆったりと歩く。久しぶりに魔力を繊細に、しかも大量に扱った。軽い目眩がするのを耐えながら、ゆっくりゆっくり着実に。
「はーい! ロリエス、俺! 俺参上!」
開け放たれたナリアンの家の窓から、騒々しく乗り込んできたのは、オリーヴィアとナリアンへ魔法をかけた魔術師が呼び寄せた、“王都のあいつら”のうちの一人。誰も反応しない部屋の中を見渡し、床に倒れたままのナリアンを見つけ、ニコニコ笑っていた顔が急に引き締まる。ローブの裾を翻し、ロリエスの魔力の残り香をさせる二人に近づく。ちらりとベッドに眠る老婆を見遣り、目礼をした。ナリアンに触れれば、ほんの少しだけ花の香り。
「ロリエスの魔力じゃねぇか」
「ちょっと、ジュノー!? あんた、どっから入っているのよ!」
「キアラも、落ち着いて、ね? 」
「落ち着いてられないわよ、シンシア! だって、不法侵入じゃないですかやだー!」
「やああああああああん!」
「キアラ! シンシア! こっち!」
玄関先でおろおろしていた二人に、ジュノーと呼ばれた青年は呼び寄せる。お邪魔します、と二人はまだ見ぬ家主に断りを入れ、ジュノーがいる部屋へ入った。おっかなびっくりと入ってきた二人の顔が、部屋に足を踏み入れた途端、引き締まる。ベッドの上のオリーヴィアに一礼し、床に倒れたままのナリアンへ近寄る。
「状況は?」
「わからねぇが、重病、だな」
「これって、ロリエスの魔力?」
「そう、みたいね……」
「魔力で、補っているのか……?」
シャボン玉が一つひとつ飛んできてはナリアンの上で弾け、魔力を与えているようにジュノーには視えた。
「この人は、魔力を補助に回復、してる? 保ってる? 保ってるのか?」
「生存本能なのかしら……?」
「んー、見た目、黒魔術師さんぽいんだけどなー?」
三人が同じように片手で顎を触り、同じ方向に首を傾げ、そして同じタイミングで、逆側に頭を傾ける。
「……というか、この人、すごく魔力多くないですかやだー!」
「本当……ロリエスもそこそこあると思うのだけど、完全に上回ってるわよ」
「えっと、とりあえず、やばそうなのから治していけばいいよな、いいよな?」
二人それぞれに目線を合わせるように、二度尋ねるジュノー。二者二様に頷き返され、硬い表情のまま頷く。ナリアンの足元から、肩口へ近づき、ナリアンの左肩へ、左手を這わせる。息を吸い、願いを紡ぐ。
「小さな炎。ゆらり、ゆらり、照らすのは道先。ふわりふわり、揺れるのは影。痛みを焼け、病を燃やせ、命を暖めよ」
ジュノーの左手に熱が宿る。冷えたナリアンの体をじわりじわりと温めていく。左腕を辿り、左胸へ。弱々しく打たれている鼓動に眉をひそめる。胸に手をあて、鼓動に合わせるように魔力を送り出す。流れていけ、炎よ、病を昇華させろ。
「あっ」
「キアラ?」
「ロリエスの魔力が途切れた……?」
「……ロリエスから切ったみたいね。近くにいるのかしら?」
キアラとシンシアを横目にジュノーは、ことさら慎重にナリアンの様子を窺い、治していく。一歩間違えれば、神経を焼き、血液を沸騰させてしまう。
「あせらず、ゆっくり、落ち着け、俺。大丈夫だ、俺の手は温かい」
己に言い聞かせるように幾度も、唱える。手の届く範囲にあった病を治癒させ、ナリアンの胸からそっと手をどける。ほうっと、溜息が漏れた。大きく肩で息を吸い、シンシアを呼ぶ。ロリエスが、ベッドに横たわる老婆にほどこして行った術を眺めていた彼女は、ジュノーの向かいに来て頷く。熱にあえぐナリアンの額に左手の指先を触れさせ、唄う。
「私は、雪。すぐに溶けてしまう淡雪。私は残ることを望まない。溶けて、あなたに溶けて、共に生きたい。あなたの記憶にすら残ることを望まない。私は淡雪。白く小さな存在。あなたに触れるのが夢。あなたに、溶けてしまいたい」
シンシアの指先から冷気が漂う。右手の指先をナリアンの鼻先と口先に寄せる。すっと、吸い込まれるように、ナリアンの体へ溶け込んでいく。歌は続く。
「あなたが望まない。私が望む。あなたは知らない。私は知っている。思われなくてもいいの。私はすぐに溶けてしまうから。すぐに、散ってしまうから。残らないわ。私は、わたし。私の行き先は、私で決める。私は雪。永遠などいらぬ、あわゆき」
唄い終わり、ナリアンから指先を離す。呼吸の落ち着いたナリアンに、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを向ける。
「キアラ、頼めるかしら」
シンシアの後ろに膝を抱えて座っていたキアラは、待っていましたとばかりに立ち上がる。
「さぁ、行くよ、アルティメットキアラスペシャルやっちゃうもんね!」
右肩をぐりんぐりん回し、シンシアと入れ替わる。シンシアの時にはナリアンの傍にいたジュノーが慌てて離れていく。
「ばっ、お前、大丈夫か? 大丈夫なのか? 平気だよな、任せて平気なんだよな!?」
両手を振り回して確認をとるジュノーを、キアラはスタイリッシュに無視した。横を向いていたナリアンをかけ声と共に仰向けにする。ナリアンの後頭部が、いい音を立てた。
「いやあああああああ! キアラアアア!」
何してるのおおと、崩れ落ちるシンシア。ナリアンの後頭部を診るべくヘッドスライディングをきめるジュノー。
「お、お前、何! やって! るの! ねぇ、なにやってるの!?」
「……て、てへ」
拳で床を叩くジュノーに強張った笑みを見せたキアラだが、耐えられなくなったのだろう、窓から逃亡をはかろうとし、床に寝そべったままのジュノーに躓いてダイナミックに転んだ。ついた勢いのまま壁にぶつかり家を揺らす。ぱらり、と天井から塵や埃が舞うのが見える。水の流れがピタリと止まるように、無言になった三人だったが、同じタイミングで喚き始めた。
「もーやだああああああ! 王宮に帰るうううううダイレクト直帰するうううううもーやだー!」
「やあああああん! 『絶対ただではすまない、それが花舞の魔術師』『全力で、体を張ってボケる、それが花舞』とか言われるのよおおおおお!」
「俺たち、なんでこうなの、ねぇなんで。別に、普通にしてるだけだよね、ねぇなんで」
ロリエスが目を合わせてくれないんだけどねぇなんで合わせてくれないのねぇなんで、と己の頭の中にロリエスを登場させ、鬱々と沈み込んでいくジュノー。キアラは窓枠にすがりつきさめざめと泣く。シンシアはうなだれ、顔を両手で覆い悲嘆している。一気に大惨事である。
「……おい」
心底、声をかけたくないという気持ちを滲ませながら女性の声が低く響く。床に伏していた三人は、死んだ魚のような瞳を、声をかけてきた人物に向ける。
「ろり、えす」
「……ロリエス」
「ろりえすうううううううう!」
会いたかったようわああああん! と、三人にすがりつかれたロリエス。右腕にシンシア、左腕にジュノー、正面にキアラ。天を仰ぐロリエスに、三人はそれぞれ口を開き、今までに起こったこと、己の言いたいまま、口々に言う。順番など、話の順序もなく、三方から喋る。ロリエスの相槌などなくても、この際よい。ロリエスが、いる。三人にとってこれほど心強いことはない。大きな子ども三人に懐かれたロリエスは、頭が痛いと呟くもそれを聞き入れてくれる相手ではない。三人が一様に落ち着いた頃を見計らって、口を開く。
「もういいだろ、離せ」
普段ならすでに振り払われている状況だが、これでも甘やかしてくれたロリエスに三人は渋々離した。上目遣いに潤んだ瞳を向けて、捨てられた子犬のような。無言でそれらを見下ろし、床に転がったままの魔術師のたまごを見やる。
「あれは、もう大丈夫なのか」
ロリエスを見ていた三人の視線が、転がされた魔術師を見やった。あ、と口を開け、異口同音、忘れてたと言う。それを聞いたロリエスは溜息を一つこぼし、ベッドに眠る老婆に視線を移す。
「シンシア、この方に術をかけ直してやってくれないか。そっちに分けてたのよりは、楽だがいつ途切れるかわからない」
黒魔術師のロリエスよりも、白魔術師のシンシアの方がこういったことは得意であった。
「おそらく、その魔術師に縁のある人だろう。彼が動けるようになるまで、なんとか保たせてやって欲しい」
「そうね、やりましょう。キアラ、今度は頼みますよ。ジュノー、キアラをフォローしてあげて下さいな」
先程までの落ち込みっぷりが嘘のように、シンシアは毅然とした態度で、残りの二人に指示を出す。頷くジュノーとキアラに微笑み、シンシアはベッドに眠る老婆へと向き直る。
「んー。ねぇ、ロリエス」
「なんだ」
「ロリエスがかけた術って、恒常的に風を吹くようにしたのよね?」
「そうだ。気温に左右されないよう、この方の周囲だけ風を巡らせている」
シンシアは少し考えるようにロリエスへ口を開いた。
「それをそのまま流用してもいいかしら? 冷やすには少し足りないようだから、冷やすのは私がするわ。冷気を循環させるのはロリエスの方がいいと思うの」
「出来そうか?」
「本当はロリエスの術に織り込むほうがいいのだけど、私の技量では無理だわ。だから、ロリエスの術ごと包もうと考えているの」
「わかった。私は構わない」
「ありがとう」
ロリエスから視線を外し、シンシアは老婆を見つめる。安らかな顔。一つの苦しみも、心配も持たずに旅立ったのだろう。本当なら、すぐにでも肉体を空に還すのが筋だろうが、勝手には出来ない。床の上で眠る彼は、別れを、弔いを行わなければならないのだから。目を細め、微笑む。氷という属性を感じさせないほどの温かな微笑み。歌を唄う。
「私は氷。薄く薄い氷。人は薄氷と呼ぶ。私は薄氷。薄いがゆえに、幾度も割れてしまうけれど、何度でも張り直せる。幾度も、溶け切り、消え失せても、何度でも、何度でも蘇りましょう。あなたを守るのではなく、あなたの傍に。あなたを包む。優しく、そしてきっちりと。私があなたを包む限り、あなたの時は止まる」
唄い終わると同時に、氷が老婆を頭から爪先まで包み終わる。窓から差し込む光が薄氷で反射する。光の屑が老婆を彩る。ひんやりとした空気が、ベッドの側に立つ二人へ伝わっていった。
「今更だが」
「なぁに」
「私がお前の魔術を内包したほうがよかったんじゃないか」
「……やあああああん!」
床にうずくまるシンシアを無表情に見下ろすロリエス。ぐすんぐすんと泣く同僚をフォローするはずもなく、床と仲良くしているシンシアから視線を外し、キアラとジュノーを見やった。
「……大丈夫か、お前ら」
肩で息をしながら、キアラとジュノーはロリエスに片手を上げて返事をした。床に座り込んではいるが、大丈夫であろう。
「じゃあ、職務に戻るから」
ゆるゆると頷く三人を残し、夜よりも幾分ましな顔色になったナリアンを見て立ち去った。幾ばくかの間をおいて、うずくまっていた体を起こし、シンシアが声をあげた。
「ジュノー、立ち上がれそうかしら?」
力なく頷くジュノーだったが、数瞬の後、ゆっくりと立ち上がった。
「運んでやらないとな」
せっかく治してやったのに、風邪でもひかれたら、かなわないしな、と続けた。
「お願いね」
「キアラ、手伝って欲しいんだけど、立てるか?」
顔を一度も上げないキアラは、ふるふると顔を横に振る。
「もうちょっと、もうちょっと待って」
蚊の鳴くような声に二人も、もう一度床に腰を下ろした。早朝、いいやあれは夜も明けてない深夜と言っても過言ではない時間に、ロリエスによって叩き起こされ、扉を使って国境へ。扉を使うのに急いで書類を作り、女王陛下を揺り起こし、ハンコをもらい門番を起こし、主にジュノーがぶん殴られ、国境からは馬をとばしたのだ。肉体的にゴリゴリ削られながら、ロリエスの魔力を辿りたどり着き、青年の回復に努めたのだ。日もそろそろ真上に到達しそうである。でも、一つの命は救えた。俺たち、頑張ってるよな、うん、頑張ってるな、ちょっとくらい休んだって、いいよな、うん、いいよな。よし。
「この魔術師さん、無事でよかったわ」
シンシアが、疲れた顔の中にも安堵を見せる。うん、そうだな。
「なー。どこの人だろ。通りすがりの魔術師さんかなー?」
学園でも見たことないや、とジュノーは床に横たわったままの魔術師の顔を覗き込む。こんな目立ちそうな人、忘れそうもないけれど。
「在籍、かぶらなかったのかなー」
「私も存じあげないですね、キアラは知ってますの?」
「私も知らないなー」
んー、と三人は考え込むが、まぁいいかと考えるのを放棄した。考えても埒があかなそうだから。それに何より、早く帰って寝たい。眠いのだ。意を決して、ジュノーは行動に移す。ちょっとくらい甘えたってバチは当たらない。
「もしもーし、ねぇ、起きれますかー? もしもーし」
「ちょっと、ジュノー」
出来れば背負いたくない。見るからにジュノーより高い身長に、筋肉も人並みについた青年など、背負ってベッドまで送り届けたくない。肩を貸すぐらいに留めたい。出来れば。しつこく、肩をつついて、揺さぶって、頬をふにふにと。
「やっべ、ちょーやわらけぇ」
安らかな眠りを妨害されている床の上の魔術師の眉がひそめられる。逃してなるものか、とジュノーは頬を更に触った。
「おーきーてー。ねぇ、おーきーてー」
薄く瞼が開かれ、何度か瞬きを繰り返す。見える瞳は、アメジスト。覗く瞳が、ジュノーを捉えた。冷たい瞳に見据えられ、ジュノーの心臓がどきりとした。ぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと開かれたアメジストに魅入る。ゆっくりと上体を起こす魔術師にジュノーは手を貸してやりながらも緊張していた。起き上がった魔術師は、室内を見回し、ベッドの上に眠る老婆を見て、悲しげな顔をした。
「あなた方は?」
視線は老婆を見たまま、アメジストの魔術師は三人の闖入者に問いかける。
「あ、おれ、おれた」
「申し遅れました、私たちは花舞の国の王宮魔術師です。私は、シンシア、こちらが」
「同じく、キアラ」
「……ジュノー」
「魔術師、さん?」
その言葉に反応したように、アメジストは三人を捉え、瞳を覗く。ジュノーに視線を止め、じっと見つめた。
「あなたが、大変、危険な状況である旨を聞き、参りました。許可無くに家に入ったのは謝ります」
すみません、と頭を下げるシンシアに目もくれず、アメジストの魔術師はジュノーを見続けた。居心地悪そうにジュノーが体を揺らしてもそれは変わらぬまま。
「いいえ、こちらこそありがとうございます」
「そう言っていただけると、嬉しいです。こちらの方には、勝手ながら防腐の術をかけさせて頂いています。まだ、体力の方が戻られていないと思いますが、なるべく早く空に還して上げてください。心から哀悼の意を表します。どうか安らかでありますよう」
シンシアの言葉にも、魔術師は小さく頷くだけで、ジュノーから一瞬も瞳を逸らさなかった。頬つついたのを怒っているのだろうか、とジュノーがそわそわし始めたのを見て、魔術師は興味を失ったように、シンシアへ視線を向けた。
「ありがとうございます。何か、書類等、書かなければならないのであれば承ります」
「……起床されたばかりで申し訳ないのですが、こちらにサインを頂けますか」
「ええ、ああ、少しお待ちください」
足に力を入れて、魔術師は立ち上がり、少し、よろめきはしたもののしっかりとした足取りで部屋を出て行った。今更になって、三人は部屋を見渡し、愕然とした。机の位置、転がった椅子。部屋の隅に重なった本に、小道具。部屋の中で嵐でもあったような、そんな。目を合わせるが、誰も口を開きはしない。ここにペンもあっただろうに。
「お待たせ致しました」
羽ペンとインク壺を持ち、魔術師は再び現れた。よく使い込まれたそれら。シンシアから手渡された紙をざっと眺め、元は壁伝いにあったであろう重そうな机に置き、さらりとペンを走らせた。無言で、シンシアにそれを差し出し、ペコリと頭を下げる。受け取ったシンシアの後ろから、行儀が悪いと思いつつもジュノーは覗きこんだ。彼の、名前が知りたかった。救えれば、どこの誰でもよかったのに、なぜだか、無性に、知りたかった。
「……なり、あん」
紙から視線を上げ、シンシアの肩越しにナリアンに視線をやれば、彼はこちらをひたと見据えていた。
「何か」
「あ、いえ、なんでも」
ないです、と声とともに視線が下る。ナリアン、かの有名な、写本師、だったろうか。彼の写した物語。本は嫌いだった自分に、少しだけ、面白いと、思わせたその人。無理やり読まされた物語だった。もう一度読みたくて、同じ物語を借りて読んだけれど、こんなにおもしろくなかっただろうかと思ったのだ。同じ物語なのに、写す人が変わるだけで、こんなにも違うのかと衝撃を受けた。考え事をしていたジュノーの側を風が通り抜けた。顔を上げれば、ぶつかるアメジスト。風の出処は、窓ではない。
『早く、出て行ってくれ』
「え?」
「ジュノー?」
「シンシア、い、ま」
「ジュノー?」
どうしたの? と、キアラにまで声をかけられ、ジュノーは空耳だったのかと疑った。声が、脳に響くなんて。そんな、まさか。思い過ごしだ、首を振って否定する。
「なんでも、ねぇ、よ」
二人に言って、ナリアンに視線を戻す。アメジストは冷たい。唇の端は、沈んだまま。笑み一つ、よこすつもりはないらしい。
『まだ用事があるのか。出て行ってくれないか』
目の前の人の唇は動かない。するり、と右手に何かが触れる。ぞわり、と背筋に震えが走る。右手を見るのが怖い。ナリアンの目が細められ、少し口角があがったように見えた。
「大丈夫、ですか」
目の前の人の唇が動く。誰に言ってるんだ。右手にまとわりつく気配は未だ続いたまま。
「ちょっと、ジュノー、大丈夫なの!?」
ぎょっとしたようなキアラの声と、右手に触れられた温かさに、どっと汗が噴き出た。ナリアンから視線を逸らし、キアラを見つめる。はちみつ色の大きな瞳が心配そうに覗き込むのに、涙が出そうになった。右手にまとわりついていた気配はもうない。左手で、右手を触り、大丈夫だ、とキアラに伝えるが、唇が震えて上手く、喋れない。
「すみません、連れの体調が悪いようなので、この辺りで」
シンシアが、ナリアンにペコリと頭を下げるのを横目に見ながら、もう一度、ナリアンを見た。彼はこちらを見ていなかった。窓の外。青い空を見上げていた。彼の唇が薄く動く。ばっちゃん? 室内にいても聞こえるほどの緑のざわめきが耳に届いた。魔術師、それもとびきりの。シンシアと、キアラに頭を下げさせられ、引っ張られながら外に出た。玄関先まで来ていた彼の瞳は、興味を失ったかのようにこちらを一切見ない。見ているのは先程から空だけ。青い空。雲ひとつない、太陽だけがそこにある空。ナリアンの髪が不自然に揺れる。それから、俺たちの側を風が走っていく。ああ、そうか、彼は。
「風の、魔術師」
言葉を打ち消すように風が強く吹いた。空を見ていたはずの彼の目が、いつの間にか自分を見ていた。硬質なアメジスト。冷たく見つめてくるそれに、背筋が、震えた。彼の姿は、曲がり道を曲がって、物理的に見えなくなるまで見えていた。風が通り抜ける。柔らかさなど、優しさなど微塵もなく、ただ激しい風。その後に、運ばれて来るのは、甘い花の、香り。花舞の国。花咲き誇る国といえども、彼の家の庭ほど、花が咲いている家はないだろう。彼が見上げていた空。色とりどりの花びらが空に舞っていくのはそれから少しあとのことだった。