愛して、愛して、私を見て。
花が揺れている。臙脂色の家の周りには、おびただしい量の花が咲いていた。家に続く道も、敷かれたレンガの飛び石も覆い隠すように咲き誇る。風がそれを揺らし、まるで幼子が眠る揺り籠のようにも、花に抱かれた棺桶のようにも見えた。その家の玄関に一人の青年が立ち、空を見上げていた。空気が乾いた、空が高く、高くよく見える日だった。
青年のそばを、風は幾度と無く通り過ぎて行く。何度も、何度も青年の髪を揺らしながら、頬を撫でていく。アメジスト色の瞳が空をじっと見つめ、空を横切って行く鳥にも反応を示さない。太陽が地表から顔を出すころに玄関に立ち、日が沈んだ頃に思い出したかのように家の中に入っていく。何日もその光景は繰り返されていく。家の集合地から離れた場所にある彼の家に、用もなく人は来ない。通りかかる人もなく、彼がそうして立ち尽くすだけの日々を過ごしていることなど、誰も知らなかった。大切な人をなくしたことも、知っているのは青年の隣を過ぎていく風だけだった。
青年の大切な人がいなくなって、世界は小さく変わっていく。一つ、よく風が吹くようになった。一つ、晴れの日が多くなった。それもとびきりの快晴。一つ、ある時間になると青年の家を起点に、花びらの道が空に出来る。一つ、花舞の国に咲く花々の量が増えた。些細な、偶然で片付けてしまえるほどの小さな変化。それらを敏感に感じ取り、これは必然であると誰かが言った。その声は次第に大きくなり、王都のとある一室に席を構える黒魔術師はため息をついた。
「阿呆が」
口汚く、毒づきたくもなる。目の前にいない青年に向かって、花舞の王宮魔術師を束ねる地位にある、一人の女性がつばを吐いた。彼女の印象といえば、常に寝不足、常に疲労状態、常に不機嫌、であるのだが、今の彼女は、少女の頃のようにお肌はつやつや、慢性的な肩の重さもなんのその、乾きがちな髪さえも潤いに満ち、ただしすこぶる不機嫌であった。いつもと変わらない、同僚に休めと言われる程度には働いていた彼女。一般女性が悩むあれやこれやそれやをすべてクリアした奇跡を、彼女は疎んじていた。それもそのはず、彼女が薄っすらと感じる魔力は、数日前に彼女がつないだ命のものだからだ。
数日前に、魔術師のたまごを助けたことは記憶に新しい。花舞の国の中でも、それなりの力を持った三人を国境の街まで召喚させたのだ。アルティメットなんとかと叫んでも、いきなり泣きわめいたとしても、いいと言っていることを何度も繰り返して確認したとしても、花舞の白魔術師の中でも上位の力を持つ三人組を。彼らが助けた命だ。自分がつないだ命だからというわけではないが、彼らの努力を裏切るような真似だけはして欲しくなかった。彼の命だから、どのように扱おうと彼の勝手ではあるが。
ギリリ、と噛み締めた唇が痛い。今すぐにでもやめさせに行きたいが、生憎、簡単に外に飛び出して行ける身分でもない。悶々と、書類のチェックを行い、気を紛らわせようとするが手に付かない。見計らったように、締め切られた扉が叩かれた。
「ロリエス? 今、いいかしら」
「構わんさ、シンシア」
「失礼するわね」
ゆっくりと、開けられた扉からするりと身を滑り込ませ、パタリと閉めてしまうシンシアにロリエスは、視線を送る。
「キアラと、ジュノーは一緒じゃないのか」
勤務表は一緒であったはずだが。全員の勤怠表を頭のなかでめくりながら、ロリエスは、シンシアに声をかけた。
「一緒、だったのだけど、ロリエスに報告に来たのよ」
いつも優しく微笑むシンシアにしては、珍しく気落ちし、悲しげな表情を見せる。ロリエスにはなんとなく、シンシアの言いたいことがわかっていた。どう言おうか言葉を選ぶシンシアにロリエスは、待つつもりなどなかった。
「誰が倒れた」
テキパキと机の上に散らかした書類を片付け、机に立てかけていた剣を佩く。シンシアの眼前に立ち、案内を促す。
「……ロリエスは知っていたの?」
「いいや。ただ、自分の身に起こっていることぐらいは気づけるさ」
おっとりとしているシンシアとは思えないほどの速度と力を持って腕を掴まれる。加減など忘れているかのように、華奢な手が、ロリエスの手首を戒めた。
「ロリエス」
無茶は許さないわ、と柔らかな黄碧の瞳は何をしてでもベッドに送り込む、と強い意志を告げていた。そんなシンシアに、落ち着け、とロリエスは慣れない笑みを浮かべる。たじろいだ拍子に緩んだ手から、手首をすり抜けさす。じんわりと熱を訴える手首も、いつもよりも早く、よくなってしまうのだろう。予感めいた事実に気が重くなる。
「ロリエスは、ロリエスは、なにか知っているの」
「そうだろう、と思うだけだよ」
きゅっと、手を握りこみ、俯いてしまったシンシアの背をゆるく叩きながら、ロリエスたちは執務室を後にする。シンシアに導かれた医務室には、いくつかのベッドと、椅子が埋まっていた。その一つに近づきながら、ロリエスは魔術師に声をかける。医務室に運び込まれたのはすべて、花舞の魔術師たちだった。魔力に身を委ねやすい、感じることに特化した魔術師ばかりであった。キアラとジュノーもそんな魔術師たちの間を忙しく動きながら、甲斐甲斐しく世話をしていた。吐きそうだ、と訴えれば吐いてしまえ、と器を渡し、吐けぬほどに弱り切った者達の手を握ってやる。
「……魔力過多だな」
ロリエスの呟きに、医務室にいた魔術師たちの面があがる。安堵と不安の入り混じった泣きそうな顔ばかり。どうすればいいのか、途方にくれたそんな顔。
「ろりえす」
「キアラ、お前は大丈夫なんだな」
「だいじょうぶ」
キアラスペシャル! などと、叫ぶ余裕はなさそうだ。三人組の中でも、一番魔力に敏感なキアラのダメージが大きい。それでも、自分にできることを探して回り、苦しむ同僚のために不調を押して世話をしていたらしい。空いている椅子を視線で探し、腰掛けさせてやる。戸惑うキアラに、いいから座れ、と無理矢理にロリエスは座らせた。ぐるりと、医務室を見渡し、そっと息を吐く。すがるような視線を一身に受け止め、打開策をどう立てるべきか考えあぐねる。やるしかないか、と口を開きかけた途端、医務室だというのに蝶番がはじけ飛びそうなほど、勢い良く扉が開かれた。
「ロリエス」
ここにいたのか、ぜえぜえはあはあと、肩で息をしながら、ずんずんと中央に歩み寄ってくる青年を見とめ、ロリエスは、忘れていたとバツの悪そうな顔をしてみせた。
「ローリーエースー?」
「なんだ」
「なんだ、じゃないでしょ、こっち見てよ」
ちらっと視線を向ければ優しげな言葉とは裏腹に、親の敵を見るような視線で射抜かれる。
「タルサ、すごい顔だぞ」
「そうしてるのは誰のせいでしょうかねぇ?」
私じゃない。ロリエスはそう言いたいが、言ったが最後、不安定になっているこの男が暴れかねない。
「どうにかしろ」
「根源をどうにか出来ると思うか?」
「どうにかしろ」
「無理だ」
あれは、手に余る。ただの魔術師がどうこう出来るレベルを超えている。本人が気づいてやめるか、やめなければならない状況に陥らない限り、これは続くのだから。タルサ自身も無理を言っていることはわかっている、わかってはいるが。
「国境の石が、ざわめきすぎる」
「だろうな」
「割れるぞ」
「それは困る」
「だったら」
首を振る。一部の魔術師が倒れた理由は、魔力酔い。自分自身のではなく、与えられ過ぎた魔力によるもの。ロリエスは魔力が枯渇しているわけではないが、与えられ続けていた魔力はロリエスの体力となって使われていた。薄っすらと、触れたか触れないかの魔力ではあるが、敏感に感じるものはそれだけできっかけとなる。ロリエス自身にはどうやら、つないでしまった残り香を伝手に多めに与えられているような気がしないでもない。花舞の国境に置かれた魔術具である石だってそうであった。元々は、花舞の国に災いをもたらさないために置かれた。有事の際に石に込められた魔力を発動させ、結界を築き上げる。それは花舞の国内部で、何かが起きた時も同様に発動される。他国に被害が及ばぬように。表向きはそうであるが、花舞の魔術師たちの宝である女王陛下を他国に預けるための布石でもあった。その石の魔力は発動されていないが、たゆたう魔力をじんわりとその身に受け、吸収しながら押し止めていた。その石の管理者であるタルサも間接的に魔力に当てられ不安定になってきている。いよいよ、根性論を押し出して乗り切るしかなくなってきたのだ。ロリエスなら気づいて、大丈夫か、と声をかけに来てくれるとタルサは信じていたのに、一向に現れる気配がない。有事だと気づいているのかどうかさえもわからなくて、我慢のならなくなったタルサは、気持ち悪さを押し殺してロリエスの元に走ったのだ。走ったのに、本来彼女がいるべき執務室にいなかった。ちょっと意地悪な気持ちになったって、仕方が無いね、うん、仕方が無い。
「どうするの」
あれもできない、これもできない、どうしようもできない。では立ち行かぬ。思うことがあるのなら、教えて欲しい。力になれるのなら、いくらでも。
「魔力酔いは、魔力を開放すればいい」
「使うのか」
「石については、根源を潰さない限りは」
「……その根源も、魔力を使うことで解消できる、そう考えてるんだろ」
頷くには、少し勇気が必要だった。大きなため息をつかれ、ロリエスの肩が震える。
「知ってるやつなわけ?」
「……ああ」
「いいか、ロリエス。お前はこの国の魔術師だ。女王陛下を守るための、剣であり盾であるべきだ。だったら」
「……わかっているさ。シンシア、ジュノー、キアラ。みんなを、中庭へ」
歌え、唄え、魔術師たち。祝福の言葉を告げろ。王都を中心に、花舞の色が濃くなる。歌は風に乗り、福音を告げる。何でもない一日が、誰かの特別な一日が。少しでも、より一層。輝くものでありますように。
風が舞う。花びらを連れて、空を渡る。ゆるやかに、風はやんでいく。空に還る道すがら、飛ぶすべを持たない花びらを置いて、巡りあうために還っていく。
ねむたい。青年は日を追うごとに抗えない眠気と闘っていた。それでも毎日、玄関に立ち、青年の大切な人を見送り続けた。幸せであって欲しい、どうか行く路が明るく、満ち足りたものであって欲しい。空へ飛び立てるように残された肉体は燃やしてしまった。だから、きっと空へ還っていけるはず。永遠にこの手に、留めてしまうことも考えたけれど、できなかった。幸せを願えば、そんなこと出来なかった。叶うなら、もう一度、名前を呼んで、頬に触れて、笑って、欲しかった。
人が死ぬことは、いなくなることは苦しい。青年は一人になった。失うものは、もう何もない。だからこそ、持っている人たちが幸せであればと願わずには居られなかった。
「誰かの、今日という一日が、明日という光が、あたたかなものでありますように」
青年の望みは宙にとけ、さらわれていく。誰も聞いていない望みは、確かに風が聞き、望むように体から代償がひかれていく。自分ではない、他の誰かの幸せを望み、苦しみを代わりに。ただの自己満足で、いびつな願い。三人の魔術師に治してもらったいくつかの病の他は、未だ青年の体にあった。手放すつもりなど、なかった。この苦しみを背負えば、一人ではないと錯覚できたから。人の体は不思議なもので、望めばそのように少しの力が働く。治らなくていい、と青年が望んでしまったがために、病は進行もしなければ快方もしなかった。ずっとそこに、異物のように座り込む。青年の力を食い物にして、そこに、ずっと居座った。異物はやがて、一部となる。そこにあることが当たり前であるように、体が作り替えられていく。
花を揺らす。その風は青年を撫で、青年の思いを乗せていく。行き場のない思いを大切にくるみ、手放そうとはしない。私のもの、私が見つけたの、私が慈しむの。倒れそうになる青年を支え、そっと耳に囁く。
『休みましょう』
青年の手を引くように、昇る太陽を尻目に、青年を家に引きこむ。ベッドに誘おうとするが、青年の足取りは危うい。数日の間、青年は魔力を垂れ流し、飲まず食わずであった。かろうじて睡眠はとってはいたが、栄養をとっていない彼に限界が来るのは早い。傾いだ体を、床に打ち付けないように風は受け止めるので精一杯であった。倒れた青年から、水が一滴ずつこぼれていくように魔力が滲みでていくのを風は拾い集める。ゆっくりと、それは人の形をとりながら、青年の頭を膝に乗せたように見えた。青年の髪が揺れる。たおやかな女性の手が、ゆるりゆるりと青年の髪を梳いているかのような動きだった。
ゆっくりとした時間が流れようとしていた。薄く開いた玄関の扉が開かれるまでは。風しか通らぬ隙間を広げて、ピンクの妖精は室内に飛び込んだ。
『ナリちゃん!』
全力で扉を引いて、転がり込んだ室内に、倒れているいとしの魔術師。名前を呼んで、聞こえてと願ったのに。
『ナリちゃん!!』
倒れているなんて思わなかった。つい今しがたまで、倒れていたのは自分の方だった。教会のステンドグラスの下に、柔らかなハンカチの上に寝かされていた。ぱちぱちと瞳を瞬かせて、悲鳴を上げた。今は何時だ、今は何月何日だ! ここはどこだ! 魔力が戻ったのを確認し、大慌てでナリアンの家に来たのだ。もちろん、ハンカチをしまうことは忘れていない。きっとあの黒魔術師のお姉さんのものだろうから。羽根を震わせて、ナリアンの元に妖精は急ぐ。近づくに連れて、そこに人でないものがいることに気づく。妖精でもない、実態のない、ただの。
『どきなさい』
妖精にはわかっていた。幾度と無く、追い回され、転ばされていたのだから。
『それはナリちゃんのなの! 返しなさい!』
こぼれていく魔力を拾うそれに、妖精は憤慨した。あってはならないことだと、直感した。
『大事なら! やめなさい!!』
最後は絶叫だった。何かがこぼれた気がする、気のせいだ。目の前で倒れているナリアンがずっと苦しそうだったから。あんなに、あんなに綺麗に咲いていた花は見る影もなく、砂地が広がっている心など。
『ナリちゃん』
ねぇ、起きて。あなたのために私は来たの。大丈夫、私が案内をするから。あなたの手を、握りたいの。ナリアンの体が揺らぐ。それは風ではなく、ナリアンの意思によるものだった。隠されたアメジストが、薄っすらと覗く。幾度かの瞬きを持って、億劫そうに体を起こす。その手伝いを風がする。ちっぽけな自分に、妖精はワンピースの裾を掴んだ。走る、ナリアンの元に。ナリアンの、床に置かれた両手の前に回り込む。
『ナリちゃん!』
ぎょっとしたように、今まで見向きもされなかったアメジストの瞳が妖精を捉えた。驚きと、焦りと、恐怖、だろうか。見たこともない小さな生き物に、それは如実に向けられた。胸の端が小さく痛むのを妖精は気づかないふりをした。覚悟をしていたはずじゃないか、声が届かないことを確認したあのときから。今は己のことではない、私のたまごを守らないといけないのだから。
『ナリちゃん、あのね』
「誰……?」
二の句が継げなかった。わかっていたはずなのに、あまりにも痛みが強かった。ワンピースの裾を握りしめるのはすっかり癖になってしまった。一度俯いて、ぎゅっと目をつむる。大丈夫。言い聞かせて、顔をあげる。
『初めまして、ナリちゃ、ナリアンくん! 私、あなたの案内妖精なの。あなたを、学園に、魔術師として学園に迎え入れるために、来ました』
これが、ナリアンくんの入学許可証よ、と妖精は取り出そうとした。
「まじゅつし」
硬い声に、妖精は取り出そうとした手を止め面を上げた。怒りをたたえたアメジストと視線がかち合った。心が震える。そんな瞳を向けられるなんて、ちっとも、いいえ、恐れていたことだった。力を込めようとした、手が震える。渡さないといけないのに。うまく、力が紡げなかった。
『魔術師よ、ナリアンくんは、たまごとして』
「俺は、魔術師なんかじゃない」
『ナリ』
「魔術師なんかじゃない!! 魔法なんて、魔法なんて使えない!!」
『ナリちゃ』
「違う! 俺は、おれは!!」
頭を振ってナリアンは、妖精を見ようとはしなかった。知識として、ナリアンは知っていた。魔術師が赴く学園があると。魔術師に自由はない。魔術師は、自分の道を決められない。なりたくはなかった、自由なんてなくったって構わなかったが、魔術師にはなりたくなかった。魔法なんてものがあるから、俺は、俺は。
「……出て行け」
一人になった。
『……ナリちゃん?』
一人になってしまった。
「出て行け! 俺は、魔術師なんかじゃない! 魔法なんて使えない!」
失ってしまった。
『違うわ! ナリちゃんは!』
大切な人を、苦しめてしまった。
「もう嫌だ、苦しい。こんな、こんな力なんて、俺なんて、要らなかった!!」
喉が枯れた声を絞り出して、ナリアンは吠えた。血が混じって吐出されそうな、そんな声だった。妖精は、両手を胸にあて、首を振る。否定させてはいけない。自分を、要らないだなんて、そんな。抱きしめてあげたいのに、熱を与えてあげたいのに、自分の小さな手を、これほど恨めしく思うなんてことなかった。苦しくて、胸が、はちきれそうになる。悲しみで、無力に打ちひしがれる。声が届かない、言葉を聞いてもらえない。耳を塞いで、目を閉じて、否定の言葉で、肯定するそんな姿なんて。涙が溢れる。泣いちゃいけないのに。辛いのは自分じゃないのに。泣いたって、なにも変わらないのに。
ナリちゃん。
言葉は音にならなかった。暴風が吹き荒れる。その源は、ナリアンだった。床に座り込んだままのナリアンの目が光る。アメジストが、ほの暗く、絶望の色を浮かべる。妖精は吹き飛ばされないように、床に手をついて、しがみつくので精一杯であった。目が開けられない。そんな顔をさせてはいけないのに。音にならない叫びを、何度もあげてすがる。届かない、声も、手も、思いも。妖精の心に悲しみが浮かぶ。こんなことじゃいけないってわかっているのに、どうすることも出来ない。胸に咲いた花までも、萎れてしまいそうだった。吹き止まない風は、扉を押しやる。扉は勢い良く外に放たれた。壁に付けられた飾りも、床に置かれたものも巻き込んで、落としていく、打ち上げていく。両手で顔を覆って、嫌だと、頭を振るナリアンが子供に見えた。迷子の子供。あの時から、時間が止まっているのかもしれない。大切な人から愛をもらい、育まれたとしても、心に巣食っていた必要とされないことまでは拭えなかったに違いない。だって、たった一人、愛し続けてくれた人はもういないのだもの。愛していると、もう誰も、あの子に告げてあげられないのだもの。
『ナリちゃん。愛してる』
風が強くなる。ナリアンの魔力以外の介入も感じた。嫌になっちゃうなぁ。しがみついていられるのも時間の問題となってきた。泣いたままのナリアンを、抱きしめてあげられないことを苦しく思う。せめて、せめてあなたに祝福を。
『私が、あなたを導くわ。だから、それまで、それまで、どうか』
無事でいて。
人の心に、花が咲くというのなら、あなたにもう一度、花を咲かせてみせる。
その乾ききった大地に、ひとつの種を植えましょう。その種を、私が大事に大事に育てるわ。水も、光も、愛情もすべてあげて。寂しくないように、歌も歌いましょう。たくさんの物語を聞かせてあげましょう。毎日、毎日、私がどれだけ、あなたを大事に思っているか。あなたと喋りたいか。あなたの、笑顔がみたいか。私の一生をかけて、慈しみましょう。大丈夫。私はあなたよりもきっと長生きだもの。あなたを置いてなんていかないわ。あなたが、私を選ばなくても、ずっと待って見守って。花を増やしましょう。もう決めたわ、決めたの。あなたの心に、たくさんの花を。
ふわりと、体が浮く。持ったほうかな、病み上がりだし。泣きそうな瞳とかち合う。先ほどの射殺さんばかりの瞳はどこかへ行ってしまったようだった。
『ナリちゃん』
呼んだ声は届いたのかしら。強い風に体が運ばれる。ナリアンの意思に運ばれる。どこに行ったって、もう一度、あなたの元に帰るから。もう少し、待っていて。
花舞の国を、猛然と風が横切って行く。星降の国境から、楽音の国境までその風は止まらない。家の窓を揺らし、木々の葉を揺り動かし、木のバケツを転がして、眠りかけた花々をたたき起こす。楽音の国境付近で、風は霧散した。