まだ、まだ間に合う、がんばれる。
花舞の王宮には平和が戻った。魔力酔いから解き放たれた人々は、ささやかながら自主的に宴を催し、羽目を外さないよう互いで互いを監視し、それなのに一緒に潰れて朝方誰かに揺り起こされ、宴に参加しなかった同僚の世話になる、をそれぞれが順番に行っていた。ロリエスはいつもどおりの風景に、ため息をこぼし生ぬるく見守っていた。そしてロリエスは飲み会には参加せず、一通の報告書を、いつもの気だるさを訴える体で書き上げた。先日、花舞の国を混乱に陥れた魔術師のたまご、ナリアンのことだった。花舞の魔術師全員がロリエスの書いた報告書を知るわけではない。ごく一部と、各国の王と、学園の教員の一部が知ることになる。そこには、ナリアンの経歴とプロフィール、ロリエスが実際にナリアンと接触した所感、その案内妖精のこと。情報種別の厳秘を、表紙にでかでかと印し、ため息をついた。
「今年は逸材ばかりだな」
もちろん嫌味だ。風の噂程度でしかないが、砂漠の花嫁に、おそらく太陽属性のたまご。もう一人はぜひ普通の子であってほしい。なんの問題もなく学園に到着する魔術師のたまごの方が稀だとは言わないが垣間見える特性や、状況を加味しても、いわゆる問題児と呼ばれる割合の多いこと。毎年数人、いないときもあるが、今年は四人。自分がたまごのときはまだ手のかからない生徒だった、と思う。そう思って、過るのは恩師のニヤついた顔。ロリエスはねー、と知ったような口ぶりを思い出し、頭の中でボコボコにして闇に葬り去った。眉間に寄ったシワを揉みほぐす。
肘掛けにもたれながら、ロリエスの役職のためにある一人部屋を見渡す。うず高く積まれた、本棚に入りきっていない本。紅茶が入っていたマグカップが3つ。つい最近、空になったインク瓶。使えなくなったペン先が数個。丸められた書き損じの書類。不要な書類が雑多に積まれ、要る書類は届けられるのを待っている。あまりにもロリエスがベッドで寝ないので、持ち込まれ、端に置かれた簡易ベッドは、きちんとベッドメイクがされ、使われた形跡がない。その上に、読みかけの本が数冊、脱ぎ捨てられたローブ、同僚が置いていったぬいぐるみに、チラシ、タオル。惨状を見渡し、よし、片付けよう、と頷いた。久しぶりに、ベッドで寝るのも悪くないだろう。まずは要る書類を、各部署、人へ配付すべく、宛先別に分ける。結構な量だったが、提出日はどれも過ぎていない。それなりの重量を抱えあげ、片付いていない部屋を後にした。
一つ目の目的地のところで、学園の寮長シルの魔術について考察する談義に捕まり、二つ目のところで、マドレーヌのプレーンとハニーはどちらがおいしいのかという対決に巻き込まれ、三つ目のところで、用事があるのに帰れないと泣く同僚を手伝ってやり、四つ目のところで、チェス盤とにらめっこしている、チェスのセンスがまるで皆無な同僚に教えをひたすら請われ、五つ目のところで、花舞女王陛下の逸話談義に花を咲かせ、六つ目のところで、キアラ、ジュノー、シンシアに泣きつかれた事案のフォローを行い、最後の目的地、女王陛下のところに来た時は、夕方前には部屋を出ていたはずなのに、日が変わりすでに正午を回っていた。
「ロリエス、また寝ていないのかい?」
目の下に隈を作りながらも、陛下陛下! と尻尾を振っているように見えるロリエスを女王陛下はたしなめた。その言葉をロリエスは否定できず、申し訳ありません、としか返せない。しょんぼりと、尻尾が垂れている。
ナリアンのことを書いたものをおずおずと差し出す。女王陛下しか開けることのできないよう、魔術により封をされたそれを、女王陛下は丁寧に開けた。女王陛下が目を通し終わるのをロリエスは、黙って待っていた。微動だにせず、寝ていないのを微塵も感じさせない。
「ご苦労だったね」
読み終わった報告書を陛下は、元の封筒に戻し、ロリエスに返した。受け取り、ロリエスは、女王陛下の言葉を待った。少し考える様子を見せる。その瞳は、じっと机を眺めていた。どれくらいの時間が経ったのか、空気を動かすのは罪であると言わんばかりに、ロリエスは動かない。陛下の瞳がロリエスを見つめ、ロリエスが持つ封筒を指差した。
「王と、その王たちが必要だと思うものへ」
「御心のままに」
ロリエスの言葉を聞き、ふっ、と陛下の目元が緩む。
「ロリエス。まだ時間はあるんだろう?」
「陛下のためならば、いくらでも」
「おいで」
女王陛下の手がロリエスに、伸ばされた。ロリエスがその手を拒むはずもなく、恭しくその手をとり、椅子に座る女王陛下の足元へ跪く。
「少しお眠り」
くい、っと緩くロリエスの手を引き、膝を示す女王陛下に、されるがまま、ロリエスは身を委ねた。柔らかな太ももに頭を預け、瞳をつむる。息をゆっくり吐き出せば、力がゆるゆると抜けていく。パチン、っと後頭部のバレッタを外す音がし、さらり、と焦げ茶色の髪の毛が滑っていった。女王陛下の手が、ロリエスの頭を撫で、髪を梳いていく。幾度もいくども、女王陛下が満足するまで続けられる。寝入るわけにはいかないが、ロリエスも与えられる休息にうつらうつらと、意識が揺らぐ。適温に保たれた部屋はとても気持ちがいい。その中で、たまごを思う。あの魔力、あの愛。間違った道に進まないようにと願わずにはいられない。どうか、人であれ。
女王陛下の手が、優しくロリエスの頭を撫でる。頑張りすぎる己の魔術師に、砂漠のあの魔術師を呼ぼうかどうしようか、と考える。自分の膝で眠らなくなったら、決断しよう。夏に向けて日々強さを増す陽射しに眼を細め、ロリエスを寝かしつける。女王陛下の部屋の扉がノックされるまで、その時間は続いた。
案内妖精のニーアを遙か遠くに飛ばしたのは風だった。ナリアンの思いを壊さないように、ただ愛している子の望みをきいた。それでも、ナリアンの魔力なしには生きられない。ナリアンの魔力の後押し、加護があってこそ、風は遠く、強く、望みを遂行する。温度の差、もしくは何かの動作によって生まれるそれは、微風か、自然の脅威であれば暴風となり得る。街なかで、小さな一軒家で起こる風など、暴風にはなりえない。腕を振った際に起きた風を増幅させるのが、初歩として取り扱われるのが風の黒魔術師であったが、ナリアンが行ったのは、声の振動を利用した風だった。風に愛されていたからこそ、そのことが可能だった。風が望みをきき、小さく風を起こせば、ナリアンの魔力が後についていき、それが大きな力となった。ナリアン自身が、望んで魔力を使い、風を操っているわけではない。声に出せば、望みが通りやすくなるだけで、表情に、オーラとして読み取れる程度の怒りや喜び、敵意などであれば風は読み取れる。ナリアンの為に駆けていく風を、ナリアンの魔力が反応して追いかけていく。魔力を、意思を持って使っていないそれは、制御ができていないのと同じこと。きっかけさえあれば、魔力を吐き出す。しかも無意識に。本人は、何かが体から出ていったと認識すらしない。本来であれば、魔力を消費することは本人が認識できるものであるのに、ナリアンはそれができなかった。出ていった魔力がごくごく僅かであれば、気づかないかもしれない。しかし、ナリアンが使う魔力は常人にとってみれば、それで気づかないってなんなの、と絶句する量である。ナリアンの持つ魔力が膨大であるからなのか、鈍いのか、それはまだ本人すらも知らない。
そんな魔力の使い方を繰り返し、更には睡眠も食事も満足にとらず、己の魔力を食って生きているようなナリアンは、ニーアを吹き飛ばすのに、それなりの魔力を使ったようで、ドアも窓も、風により開け放たれ、家の中も嵐が通っていたかのようにぐちゃぐちゃになっている景色をしかと見ることはなく、ぜえ、と息を吐きだし、ゆっくりと前に倒れた。手をつくこともできず、打ち付けられるだけとなった体を、優しく抱きとめたのはやはり風で、ふわりと、ナリアンの体を横たえた。扉も窓も、強めの風が、意志を持ったかのように動き、一見、何かがあったようには見えないよう蓋をしてしまう。床に無防備に投げ出された肢体は、体力の限界を迎え、ぴくりとも動かなかった。意識も遠の前に沈み、アメジストの瞳を隠していた。垂れ流す魔力も尽きたナリアンの体は、死んだように眠りについた。生命の維持活動のみを続けようと、最低限のエネルギーしか使わないように。魔力を作り、生きるためにそれを食う。彼が生きているのが不思議なほど、それは周りから見て異常なことだった。ただ、その場にそれを異常、と判断する人がいないだけで。
こんこんと眠り続ける。彼を訪ねる人もおらず、彼の姿を見ないことに誰も疑問を抱かない。ただその中でも彼の妖精だけが、心に少し戸惑いを抱え、会いたいと会いたくないをない混ぜにし、ナリアンを思っていた。早く早く、彼のもとに行かなければならないのだけれど、彼に拒絶された心が涙を流していた。自分はもっと強い、リボンには負けるけれど、それでも大概のことはなんでも出来る、乗り越えられるって、大丈夫だって思っていたのだけど。敵意を込め、濃く色づいたアメジストの瞳が心を鷲掴み、握りつぶさんばかりの力を感じ、恐怖を覚えた。覚悟が足りなかった、覚悟していたことはなんて甘かったのだろう、ナリアンを傷つけてしまった、明るく笑うが、毎夜、そんな気持ちに、苛まれた。リボンに話せばきっと鼻で笑って、あんたバカね、と慰めもせず、意気地なし、やっと気づいたの? 遅すぎよ、お・そ・す・ぎ! と罵り、さっさと行け、と蹴り飛ばされるのだ。その方がいいのだとわかっていても、もう一度、あの瞳で睨めつけられるのが怖かった。自分が傷つくのが怖くて、先延ばしにしていいわけがないのに。ソキから言われた、ゆっくりしていてはダメなんですよ、の言葉にハッとさせられ、何度転んでも頑なに前を向いて自分の足で歩くのだと言うソキに、自分を見直すことができた。
『ニーアのガッツと根性はこれからなんですよー!』
二人と別れて、少ししたところで寂しくなってしまった心に、ソキの口ぶりを真似て、活を入れる。両手を振り上げ、大きな声を出すと、腹の底から力が湧いてくる。ソキに貰った普通の角砂糖をもぎゅもぎゅと食べれば、元気になった。普通の角砂糖の値段が三倍もする小さなお花が描かれた角砂糖は丁重にお断りした。更に買ってもらった鞄に詰められるだけ、角砂糖を詰めてもらった。ソキとリボンには頭が上がらない。
まだ、ナリアンにあんな瞳を向けられるのは怖いけれど、枯れ果ててしまった彼の心を見るのが苦しいけれど、それでも私は彼を導くためにいるのだから。前を向いて、飛ぶ。いくらでも待つわ、待てるわ。あなたの心に、花を咲かせる。荒れ切った、乾いた大地に、花を、再び。
臙脂色の家を目指して、ニーアはすいすいと飛んで行く。夕暮れどきの空は、赤と紺を伸ばしあった色をしていた。何度も、うろうろした街だから、迷いもしない。街の外れの家は、シン、と静まり返っている。さわさわと揺れていた葉も、今はちらりとも揺れない。ゆらゆらと風と戯れていた花も、所在なさげに立ち尽くしていた。妙な胸騒ぎがした。ビビッと羽根を震わせ、たくさんの花が咲いていたはずの庭を疾走する。あんなにも咲いていた花が、まばらに数本、咲いているだけだった。玄関に立ち、閉まりきった扉を、魔法で開く。
『私の前に、何人たりとも立ちどまることを許さない。私の言葉、私の行動に従い、その道を開け!』
蝶番が軋む音をあげ、ゆっくりと、ニーアが通れるだけの隙間を開けた。それだけしか開けられなかった。魔法、魔術を拒むのはそれに対する魔法と魔術だけ。ニーアの手が力を緩めようとするとその扉は勝手に閉まろうとする。前はそんなことなかったはずなのに! 眉間にシワを寄せ、慎重に部屋の中へ入る。以前ナリアンが倒れていて、ニーアが飛ばされた部屋に飛び込むがそこは、嵐が通ったかのように荒れているだけで、誰の気配もなかった。差し込む陽がなくなった部屋は薄暗い。辛うじて、まだ部屋に差し込む光でぼんやりと見える。
『ナリちゃん!』
呼びながら、一つ一つの扉を開け、ナリアンを探す。一階は全て見た。二階へと全速力で飛ぶ。灯りのついていない廊下は薄暗く、床に落ちているものは陰で判断するしかない。空を飛ぶニーアには、それは障害物にはならないが、人の足ではいささか歩きにくいだろう。
ナリアンの部屋へ真っ直ぐに飛び、扉を押し開こうとして阻まれる。
『どきなさい!』
ぶわり、と小さな体から、魔力が吹き出ていく。抵抗を押しのけて、勢い良く扉を押し開けた。ぜえぜえと、肩で息をしながら、部屋の真ん中に倒れているナリアンに駆け寄る。胸くそ悪かった。風の実体はそこにはいなかったが、ナリアンの顔は真っ白だった。
『ナリちゃん!!』
唇から薄く息が漏れていることを確認する。弱々しい脈にニーアは焦った。そして、心のうちの寂しさに胸が張り裂けそうになった。
床の上に眠るナリアンを、せめてベッドの上に寝かせてあげたくて、ただベッドはすぐそこなのに、ニーアの小さな手では、ナリアンを引っ張り上げることができない。布団すらも、ナリアンにかけてやることが出来ない。夏に近づいているとはいえ、夜は気温も落ちる。冷たい床の上に、転がしておくなんてこと、とてもじゃないが出来るはずもなかった。
『ナリちゃん、ナリちゃん、ねぇ、目を覚まして』
ゆさゆさと、ナリアンの手を揺らすが起きる気配など微塵もない。ナリアンの意識さえあれば、手伝うことが出来るのに。小さな体のままでは、ナリアンに何もしてあげられない。頬を、ぺちぺちと叩いてみても、艶の落ちた髪の毛を引っ張ってみても、なお瞳は固く閉ざされたままだった。このままではいけない。そう、心が急くのに、手立てがない。なぜ、このときに体は大きくならないのだろう。なぜ、どうして? 私は、望むのに。
『ナリちゃん、ナリちゃん』
ナリアンの顔の前まで飛んで、頬を叩くが、まつげの一本すらも揺れない。弱い呼気に、きゅっと、心が締め付けられる。ひんやりとしたナリアンの頬に、熱を分けて上げたくて、ぎゅっと抱きつく。ナリちゃん、ねぇ、ナリちゃん。
魔法で、部屋の温度をあげようと試みるが、うまくいかない。自分が、花の妖精でなければそれも自由に出来たかもしれないのに。不得手なことがある自分が、悔しくて、つらい。小さな手が、口惜しい。せめて、もう少し、大きく、なりたい。決められた時期にしかなれない、大きな体。普通の少女と同じ大きさになりたい。今でないことが、どうしてこんなにも、腹立たしいのか。
今、あの手があれば。あの手があれば、ナリアンを布団に寝かせてあげられるのに。でも、今は、その時期じゃない。どうして、自分の体が、人のように大きくなるのかも誰も知らない。先ほどよりも、ナリアンの脈がゆっくりになっていっている気がする。泣きそうになる自分を叱咤して、考える。自分の魔力では、ナリアンをベッドに寝かせてあげることができない。かろうじて、掛け布団をかけてあげられるだけ。それではいけない。床の上で、ナリアンの疲れがとれるわけがないのだから。ぎゅっと、唇を噛み締めた。
『……いるんでしょう?』
押し殺した声は、低く響いた。答えるように、ナリアンの癖毛が揺れる。ビビっと羽根が震える。
『私に協力して』
ぐっと、体が押される。転びそうになるのをこらえた。
『ナリちゃんを! 助けたいの!!』
喉が切れそうだ。風のせいで、呼吸もままならない。私の体、命でいいのならいくらでも差し出す。
『力を貸して!』
叫んだ。体をぐいぐいと押していた風が止む。げほっ、と肺から空気が押し出される。
『ナリちゃんを、布団に寝かせるわ』
ソキにもたせてもらった、鞄から角砂糖を取り出す。一つ、二つ、三つ。一食分が、すでに他の妖精よりも多いのだ。一食分よりも、はるかに多く、ニーアは角砂糖を食べる。満腹になったことなど、一度もない。だからいつも三つでやめる。ソキがたくさんくれた角砂糖はみるみる減っていく。燃費が悪いわけでは決してないと、思いたい。角砂糖を三つ残して、ナリアンに向き直る。
一呼吸おいて、口を開いた。
『暖かな世界を私は望む』
強めの風が駆け抜けていき、ベッドの布団を、壁際に寄せる。久しく使われていないシーツだろうが、背に腹は変えられない。
『私を揺らし、私とともにあった盟友に、願う。舞い上がれ、私の、わたしのたまごを、どうか安らげる場所へ』
腰を落とし、踏ん張る。ぶわり、と魔力が体から吹き出ていく。小さな風が大きくなったのを感じた。己の魔力だけではないそれ。ぐっ、とナリアンの体が動く。じわっ、と浮き上がる。額には汗が滲む。つっ、と背中を汗が伝う。生涯、こんなに魔力を使うなんてこと、きっとないに違いない。先ほど食べた角砂糖が、熱に変わっていくのを感じた。ぐぐっ、とナリアンの体が浮き上がり、ベッドよりも少し高い位置まで辿り着く。ここからだ、ここからナリアンをベッドに寄せなければならない。両手を突き出し、その思いを魔力にのせる。ゆっくりと、ナリアンの体が動く。どうどうと、体から魔力が出て行くのがわかる。力が抜けそうになるのをこらえる。小さな体に、魔力を貯めおけられない。もう少し、もう少し。気持ちだけが急く。
ナリアンの体が、ベッドの上に来た時、ふわりと風が解けた。
『えっ、ちょっと!』
ニーアだけの魔力で支えられるわけがなく、ドサッ、とナリアンの体がベッドの上に落ちた。その音に飛び上がり、急いで駆けつけようとしたが、足が動かず、つんのめって、したたかに床へ鼻をぶつけた。ビタンっ、と鮮やかに転んだ。じんわりと、痛みが体を襲う。痛い、と呻き、ハッ、と前を見上げ、がくがくと震える腰に、苛立ちながら、這うようにしてベッドにたどり着く。ナリアンの顔を覗き込む。顔色も、脈も全然良くないが、先ほどと何も変わっていないように見える。
『ナリちゃん』
ホッと、胸をなでおろす。床よりも、ましなところに寝かせて上げられたことに喜びを覚えた。
少し休んで、ガクガクと笑う膝がましになった。壁際に寄せた布団の端を持って、ニーアは飛び上がる。重い布団を引きずるようにして、ナリアンにかぶせた。端っこをぎゅっ、と押し込む。寒くはないだろうが、少しでも、ナリアンの熱を逃したくはなかった。ナリアンの顔まで飛んで、座り込む。緊張が解けたのか、きゅぅ、と腹が鳴った。バッ、と押さえ、ナリアンを見上げるが、起きる気配はなかった。そのことに安堵し、角砂糖を食べるか悩む。残された三粒。あれだけ食べて、盛大に魔力を使ったとはいえ、もうお腹が空くなんて。きっと、ナリアンの家にも角砂糖はあるだろうけど、勝手にもらうのは忍びなくて。花の蜜を採りに行こうか。でもナリアンの家の周りにはあまり花が咲いていない。たくさん咲いていた花の行方が気になった。ナリアンから離れるのが嫌で、街の方へ行くのもはばかられた。顔色の悪いナリアンに、少しでも力を分けてあげたい。
鞄から一つ取り出し、かじりつく。ゆっくり、味わうように、しゃくり、しゃくりと口にいれた。一口含んでは、じわりと溶けるのを待つ。飲み込んで、口の中の余韻がなくなった頃に、もう一口。少しお腹が満たされた、そんな気がした。
『ナリちゃん』
ナリアンの頬に触れる。まだまだ血色の悪い頬。胸がツキリと、痛む。
『ナリちゃん。ニーアが、私が、いるからね』
いついつまでも、私はあなたを思う。
『優しい、蜜の味。僅かな甘み。穏やかに、癒やし、震えるような純粋さを、あなたに』
じわり、と熱を逃がすように、ナリアンへ魔力を与える。それは、一種の祝福で、それは一種の愛だった。自分で、食べ物を消化できるまでにかみ砕き、吸収しやすいようにしてやる。ゆるくゆるく、じわりじわりと、熱を。自分の体が空っぽになる前に、ナリアンから離れ、もう一つ、角砂糖を食べる。時間をかけてゆっくりと、咀嚼し、魔力に変える。そうしてまた、ナリアンに熱を分ける。最後の一つも、同じように。夜が開ける頃に、三つ目の角砂糖の魔力をナリアンにあげた。たった三つの角砂糖など、ナリアンにしてみれば、全然足りないに違いない。それでも、数時間前より、呼吸も、熱も確かなものになったのを見て、気持ちが落ち着いた。安堵とともに、あくびが出た。さすがに、疲れたと、体が訴える。緊張も解け、のしり、と疲労が襲う。
疲労に抗えず、ナリアンの頬の横に丸まる。もし、お腹が鳴っても聞こえづらいように、きゅっと、自分の体を抱く。ナリアンの熱が、少し伝わる。ゆっくりと、体から力が抜けていく。まどろみながら、呪文を唱える。明日が、目が覚めたら、きっと良い一日でありますように。
『ナリちゃん、おやすみなさい』