世界を叩き割るだけの力を君は持っている。そう、男は笑って言った。
「ロリ先生? お邪魔してもいいですか?」
少しだけ、不用心に開かれた扉の向こうに、大きな机に片肘をついて、分厚い本を眺めているロリエスを見とめ、ソキは声をかけた。ナリアンが、実技試験に入ってから五日目の金曜日だった。授業が終わり、もう週末を迎えるだけのソキは、一週間姿を見せなかったナリアンを不思議に思い、その担当教官であるロリエスを訪ねた。ナリアンが実技試験に入る前に、ほわほわと俺の実技試験は来週からなんだ、と言っていたが、大抵の場合、日中の拘束、長くても三日から五日の連続した拘束で、月曜日に始まったとしても、金曜日の夕方には解放されるのが常であった。錬金術師の場合のテストはちょっと長くかかったりもするらしいが、黒魔術師はそんなに時間がかからないとも聞いていた。
メーシャにも、ロゼアにも、ナリアンくんはまだ帰ってこないですか、と聞き、その度に二人から、まだ見ていない、と返事を貰った。だったらソキが聞いてくるんですよ、と忙しそうなメーシャとロゼアに言いおいて、てててと早足になりかけて、ゆっくりそろりと、うんと時間をかけて、ロリエスが貸し切っている部屋まで来たのだ。
軋む扉を開け、その音に顔を上げたロリエスの瞳が、より黒く、その目の下の隈がよりひどくなっているのをソキは見つめ、んん、と唸った。
「ソキか。いいよ、お入り」
「お邪魔しますですよ」
分厚そうな本を閉じ、ソキのために椅子と、ふわふわのクッションを椅子に敷いた。ロリエスの手を借り、ソキは椅子に座る。ロリエスは、自分が腰掛けていた椅子に戻り、ソキを真正面に見据え、ああ、と呟いた。
「茶が出ていなかったな、ちょっと待ってろ」
「大丈夫なんですよ」
ロリエスの手を止めさせて、ソキは単刀直入に聞いた。
「ナリアンくんは、どこにいるんです?」
「……隣の部屋だ」
「会えないんですか? ソキ、ちょっとナリアンくんのお顔見たいです」
「ナリアンが、自分であの扉を開けない限り、あの扉が開くことはない。力づくで壊せば、開くが、保証はできない」
ロリエスの言葉に、ソキは少し首を傾げた。
「ナリアンくんは、中で何をしてるんですか? ソキ、実技試験してくるですよ、って聞きました」
「実技試験だよ」
「ナリアンくん一人でしてるんですか?」
「そう、だな。ナリアンにしか、わからないこと、だから」
私は舞台を整えただけ、とロリエスは机を見つめたまま言った。
「ナリアンくん、部活に来なかったですよ」
テスト期間といえども、部活動の日は巡ってくる。どうしても担当教官がその日でないとだめとか、テストの日程的にずらせないとか、やむを得ない事情を除き、それは絶対だった。日当たりの良い、茶会部の部室で、お茶を飲みながらソキはナリアンが、遅れたごめん、と癖毛の髪を鳥の巣のように乱しながら、駆け込んでくるのを少し期待していたのに。
話の方向を変えてしまったソキに目くじらを立てるどころか、ロリエスは目元を緩ませた。
「よく、言っておくよ」
「……もし、もしですよ。ナリアンくんが、来週も、まだ」
「ああ」
言いづらそうに話を進めるソキの言葉を汲み取って、ロリエスは促す。
「ロリ先生、ソキとお茶してくださいね」
絶対ですよ、約束なんですよ。
ロリエスの返事を待たず、ソキはするりと椅子から降り、てててと扉まで急いで、転ぶのを避けるように扉にぶつかった。呆気にとられているロリエスを振り返り、おじゃましたんですよ、と小さな声で退室した。もう慌てなくてもいいはずなのに、ロリエスを誘ったこととか、ナリアンの顔を見たいだとか、ちょっと自分でも追いつかないような気持ちになってしまって、びっくりしてしまった。もやもやとしていた気持ちが、ロリエスを前にしたら、するんと晴れてしまった。ぺしょん、と転んで、痛い、と思う気持ちと、ソキちゃん、と呼んでくれる声が遠くなってしまったような不安に思う気持ちで、胸の真ん中が苦しくなった。
「……なりあんくん」
ソキといっしょに、おちゃ、してほしいんですよ。
荒野をただひたすら二人は歩いていた。黙々と、時々ガトアがナリアンに話をふりながら。疲れることも、眠くなることも、お腹が空くこともなかったのだけれど、ふっと思い立った時に休憩や、日が沈めば行軍は中止し、満天の星空を見上げた。寒くもなく、暑くもない。過ごすにはちょうどよい気候だった。ガトアも、ナリアンと同じように行動をした。
歩き始めて、二日が過ぎた。行けども行けども、景色は変わらぬ。本当に、何かがあるのか疑い始めた頃だった。諦めの気持ちを見せたナリアンに、ガトアはのんびりと笑う。
「君の器は広いねぇ。でも、お待ちかね、かな。見てごらん」
スッと伸びた指先は、右方向を指さした。つられて見やれば、荒野には似つかわしくなく、たった一輪の。
「……花?」
赤茶けた土の上に、咲く一輪の花。土の上にひょっこり、と小さな赤色の山。
「行ってみよう」
断る隙もなく、ぐいっと手首を引かれ、よろめきながらナリアンは歩き出した。そう遠くもない距離。近づけば、荒野のど真ん中に、その存在を主張していた。濃い緑と、赤い花。土しかなく、水があっても地中深くにしかないであろうに、凛とその花は咲いていた。ただその花を見つめているナリアンに、ガトアは慈しむように言葉を紡ぐ。
「フクジュソウだね。一説には、とある青年の血から、彼を愛した女神が咲かせたといわれている。永久の幸福、思い出。この花に込められた思いはなんだろうね」
ガトアはしゃがみ込み、花の周りの土に触れた。湿り気を確認しているのか、それとも何かの力を確認したかったのか。
「植物が育つには、太陽と水が必要なんだけども」
きょろきょろと周りを見渡すガトアの言葉すらナリアンの耳には入らなかった。赤い花に魅入られたように、視線が離せなかった。
「ナリアン、どうする? 今日は、ここで……ナリアン?」
くいくい、っと袖口をガトアに引っ張られて、ようやくナリアンはのろのろと視線を花から外し、ガトアを見た。動揺を隠し切れない若人に、ガトアは口をつぐんだ。ガトアが喋らないのを見ると、またナリアンの視線が花に向かう。だって、その花は。
「俺の」
妖精。
首を振って、何度も打ち消すが、ずっとその姿が脳裏に思い浮かぶ。ピンク色の、ふわふわとした、甘いあまい。何度も、何度も。その名前を。名前を。
足に根が生えたように動かないナリアンに気を遣ったわけではないだろうが、ガトアとナリアンはその花の側で休むことに決めた。まだ日が高かったが、ナリアンの器の中で、ナリアンの足が止まったこの花が、きっと導かれた先の答えなのだろう。日が落ち、辺りが夜になり始め、徐々に空には星が瞬き始める。驚いたことに、ナリアンの世界には月がなかった。たまたまこの世界に来た日が新月の日だったのかと思ったが、数日たっても細い三日月の形が現れなかった。月がないということは、普段は月の明るさに紛れてみえない星がよく見えるということで、ナリアンの器の中はひたすらに、どこまでも星が光っていた。金平糖をぶちまけた机の上よりも、ナリアンの作業部屋に置かれたインク瓶の数よりも、うんと多く、たくさんの光が見えた。
その星空のもと、ナリアンは飽きることなく花を見つめていた。赤い花。どこにでも咲く花なのに、心を掴んで離さない。ぎゅっとぎゅっと、苦しくなるほど、でもそれを見るのは胸の奥底がくすぐられるように、ときめきを覚える。見飽きることはない。
膝を抱え、花の側から離れようとしないナリアンにガトアは苦笑する。まるでその花に恋をしているように、傍目からは見えるが、きっと当の本人はそんなこと思いもよらないだろう。ガトアも言うつもりはない。当分、ここからあの子は動くつもりがないようだし、のんびりしようか、とガトアは夜空を見上げるように寝転がった。赤茶けた大地。地の奥に流れる水。嗅ぎ慣れた、風。何もかもが懐かしく、何もかもが、心を締め付けた。
ふわり、と夜風がナリアンの頬を撫でた。立てた膝の上に腕を乗せ、そこに顔を埋めていれば、うとうとと眠気が襲う。するすると、風が髪をかき混ぜ、耳をくすぐっていく。少し伸び始めたなぁ、とナリアンはうつらうつらとしながら思う。落ちかけては急速に浮上し、ゆっくりと沈んでいく。虫の声もなく、風が地面を撫でていくだけ。音は皆無に等しく、静かな夜だった。リーンと胸で鈴が鳴った。びくり、と意識と体が起きる。自分とは別の場所で、空気が動いたのを感じ、視線を巡らせる。赤い服の女の子がいた。赤い花のあった場所に、赤い瞳をまんまるに見開き、ナリアンを凝視する小さな女の子。ばっちりと、二人の視線が絡む。互いに互いの時を止め、凝視しあう。言葉を紡ごうにも、喉も口も動きを忘れたかのように動かない。赤い小さな女の子が、後ろに重心を傾け過ぎて転びそうになり、そのままくるりと体を反転させて、背中に生えた二枚羽を羽ばたかせ、どこかに行こうとした。
「待って!」
するり、と風が女の子を引き止め、ふわり、とナリアンの元へ女の子を運んだ。ナリアンの手のひらよりも小さな女の子。あ、とか、う、としか言葉が紡げないナリアンに、怯えを見せていた女の子が、うかがうようにナリアンを覗きこんだ。ガーネットのような、赤い瞳に心配の色を浮かべる小さな女の子に、ナリアンの心が揺さぶられる。違う、この子はニーアじゃない。そうわかっていても、彼女は、とてもよく似ていた。
『だいじょうぶ……?』
小さな女の子から発せられた声は、闇夜を震わせ、角砂糖のようにざらり、とナリアンの耳に広がった。甘美な酒のように、ぐるりと流れこむ。じわり、と広がり、喉が乾く。
「き、みは」
かすれた声は届いた。くるりと女の子が回り、少し短めのワンピースの裾がひらりと舞う。
『なまえ? なまえはないの。すきによんで?』
小さな手がナリアンに向かって差し出された。導かれるように、ナリアンは指先を伸ばし、その手に触れた。ぶわり、と体中に風が駆け巡った気がした。
慈しむように、愛おしむように、花を、咲かせましょう。
その乾ききった大地に、ひとつの種を植えましょう。その種を、大事に大事に育てましょう。水も、光も、愛情もすべてあげて。寂しくないように、歌も歌いましょう。たくさんの物語を聞かせてあげましょう。毎日、毎日、どれだけ、あなたを大事に思っているか。あなたと喋りたいか。あなたの、笑顔がみたいか。一生をかけて、慈しみましょう。大丈夫。あなたよりもきっと長生きだもの。あなたを置いてなんていかないわ。あなたが、私を選ばなくても、ずっと待って見守って。花を増やしましょう。もう決めたわ、決めたの。あなたの心に、たくさんの花を。
あなたの心に、花を咲かせましょう。