おいで、いとしいひと。
ふわり、ふわり、と小さな女の子はナリアンの肩の辺りを飛びまわり、ガトアとの旅についてきた。眠っていたガトアに事の顛末を話すと、ガトアは真面目な顔をしていた。てっきり、笑われると思っていたナリアンはガトアの真剣な目にたじろいだ。
「君は、本当に」
鈍感だな。言葉を飲み込んで、ガトアは微笑む。愛されることを、愛されていることを知らないナリアンが、それを知った時、どうするのか、教えるのは今じゃない気がして、ガトアは唇を結んだ。
「さて。おそらく、風が行く先を示したのは彼女がいたからだと思う」
ナリアンの回りを嬉しそうに飛び回る女の子を見つめながらガトアはナリアンの注意を引いた。右手を持ち上げ、ナリアンに問う。
「俺か、君か。どうする?」
ガトアの言葉にナリアンは、少し考えた後、口を開いた。
「ここは、俺の、器? なんですよね」
「そうだね」
「だったら、俺が決めます」
どうぞ、とガトアは手で示した。スッと、息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。青い空を見上げて、ナリアンは紡ぐ。
「俺の、行くべき道は」
リーンと、ナリアンの胸元で鈴が鳴った。その音に、呼ばれているような気がした。
「行くべき道を、示して欲しい」
ふわり、と体が少し浮き上がったような気がした。甘い香りが鼻孔をくすぐる。どこからともなく、薄い桃色の花びらが、ひらりと風に舞い、ナリアンの左前を滑っていく。
「行こうか」
ガトアは花びらに何の不思議も抱かず、ナリアンを促した。何がありえないことなのかも、ナリアンはわからなくなった。ひとつ頷いて、歩き出す。すいすいと、女の子もナリアンについてきた。何もない荒野を三人は歩き出す。
週が変わって、月曜日の夜。一週間、まるっきり姿を見せなかったナリアンに、同期の三人は連れ立って、ナリアンが試験を受けている部屋の隣の扉の前に立っていた。メーシャの右手が、持ち上がり、閉め切られたドアを叩こうとした。薄い、ありふれた木目調の扉が、ゆっくりと開き、コーラルピンクの瞳がその隙間からのぞいた。メーシャの瞳をひたと見据え、心なしか機嫌が良さそうだった。持ち上げた手がそのまま静止し、後ろに佇むロゼアやソキがいぶかしむように首を傾げた。
「今寝付いたところだから、出直してこい」
メーシャの返事を聞く前に、その扉は音もなく、そして速やかに閉じられた。薄い扉のくせに、それはとても重厚で、開くことをためらうような雰囲気を醸し出す。果たして、その扉は先ほど自分が叩こうとした扉だっただろうか、と疑いたくなるような変貌の仕方だった。持ち上げた手に、じんわりと熱が伝わってくるような気がする。外界からの侵入を拒むように、それは広がったような気がした。
「……まさか」
「メーシャ?」
呟いた言葉に、ロゼアが反応を返す。まさか、まさかとは思うが。
「……寮長が中にいるです?」
ソキが若干嫌そうな顔をしながら、メーシャの服の裾をくいくいと引っ張る。なんとも言えない表情を浮かべながら、メーシャはうなずき、ロゼアとソキになんと説明しようか迷う。寮長、ともあろう人間が、魔術師である人間、しかも一国の要となる魔術師の眠りを妨げられないように、結界を張ったなんて。例えそれがおまじない程度のものだとしても、なんだかとってもぬるい気持ちになった。その結界から出て、中にいるであろうロリエス一人にするならまだしも、結界を張った張本人のシルその人も中にいるのだとしたら、ロリエス先生早く起きて! と叫びたくもなる気がする。メーシャの胸中に浮かぶ言葉は、ナリアン早く帰ってきて、だった。
一方、扉の中でシルは耳を澄ませる。扉の向こう、三つの足音が、ゆるりと遠のくのを聞いていた。シルの魔術の専門は召喚だ。時空魔術師でもなければ、空間魔術師でもないシルに、大層な結界を張ることはできない。メーシャでも、誰でもがそれを突破しようと強い意志を持っていたのなら、たやすく壊れてしまう結界しか作り出すことはできなかった。少しだけ、人を拒むような結界。その中で守りたかったのはささやかな眠り。運び入れた簡易ベッドの上で、胎児のように丸まって眠るロリエスを見やる。そのロリエスのそばに寄り添い、一緒に眠る黒のたてがみを持った獅子。体全体が黒く、瞳だけが金色に光る。闇夜に身を潜めるのに最適な姿をしていた。悠然と、自分の雌を守るようなポジションにいる彼に少しだけムッとするが、ロリエスは彼が好きなようだった。口には出さないが、時折、シルの呼びかけに応え、向こう側の世界からやってくる彼には、仕事の手を止め、額や喉を撫でてやるのだ。彼自身も満更ではないようで、呼べ、とシルにせっつくときもあるのだから、嫉妬しても良いのではないか、と思うようになっていた。幼少の頃、間違えたとは言わないが、ロリエスを慰めるために呼び寄せようとした向こう側の可愛い生き物が、子猫同然の彼だった。本当は、もっと違う、変わった、女の子の大好きな、とってもかわいいものを呼ぶ予定だったのだ。まだまだ魔力制御のできない小僧が、見栄を張って呼んだ生き物だった。そのときは、そんな生き物でもロリエスを笑顔にすることが出来て、子供ながらに誇らしげな気持ちになったものだが、担当教員からは盛大に雷を落とされた、ちょっぴり苦い思い出もある。でも、シルはロリエスを笑顔にできた。入学してからずっと口をへの字に、誰とも話さず、ただひたすらに勉学に励み、ずっと一人でいた女の子の笑顔を見られた。それは、シルにとって初めての花が開く感覚だった。
ロリエスの眠るベッドに腰掛ける。ぎしり、と簡単に軋むベッドはやはり上質とは言えない。咎めるように、獅子の瞳がシルを射抜いた。お前にやるつもりは、毛頭ない。そう、視線で制す。体にかけられたシルのローブの裾を握り、すやすやと眠るロリエスは、年齢よりも幼く見えた。笑顔にしたい女の子、守ってあげたい女の子、一緒にいたい女の子。幸せに、ただ、しあわせにしてあげたいと願ったのはいつだったろう。苦楽をともに、至上の喜びをくれた君と、ずっとこれからも。
「……ローリ、ロリエス」
小さく、すぐに溶けてしまいそうな声で。
「一緒にいたいんだ」
触れるか触れないか。バレッタでとめられていない、焦げ茶色の髪の流れをたどる。
「……あいしてる」
なにもない平坦な道を三人は歩いていたが、徐々にその様相は変わってきた。時折、地面がひび割れている箇所や、少し窪んだところ、石がごろごろと転がっているところ、それから意図的に積み上げられた石造りの壁の名残。徐々に息苦しく、足取りが重くなっていたのは、ナリアンなのか、それともガトアなのか。黙々と、三人は進んでいた。小高い丘を登り、そこから見渡す景色。ざあ、っと風が後ろへ流れていく。ずうっと平野だと思っていた地は少しだけ高台にあったらしい。丘の向こうはなだらかに、下へ下へと広がっていた。大きな集落、街だったようだ。丘を登る前にみた石造りの壁の跡地が、ある統一性を持ってまばらに並んでいた。目を凝らして見つめた先に、延々とその姿は残っていた。遠く、広く、うっすらと。
はあ、っと息を漏らしたのは二人ともだったか。どちらともなく、膝をつき、その場に座った。この地に来て感じたことのなかった疲労感が二人を襲った。なにを言うでもなく、ぼんやりと、眼下に広がるその景色を見つめていた。陽が落ち、星が瞬き始め見える範囲がぐっと狭くなっても、二人は動かなかった。ナリアンの隣に、ちょこん、と妖精が座り、時折ナリアンを見やっていた。気遣うように、ちらり、ちらりと視線が地面とナリアンを往復する。地面に置かれたナリアンの指先に、触れたそうな素振りを妖精がみせる。伸ばしては引っ込め、触れそうになって自分の胸元へ指をしまう。触れて、彼の世界を、思いを壊してしまうのを恐れるように。でも、彼に振り向いて、気づいて、頼って、甘えてほしい、そんな気持ちがない交ぜになって、指先をさまよわせる。名前を呼ばれれば、すっと、彼の元に舞い降りて、いくらでも愛を、好意を振りまくのに。
ぐぐっと、夜が濃くなっていく。座り込んだまま、空は白み始め、ようやく男二人は、腰を上げた。進まなければならない、そんな風に誰かがささやくのだ。この先の風景を、この先の何かに出会えと、風も、土も、水も、柔らかな陽の光も、魔術師の手を引いた。
跡地をひたすら歩いていく。立ち止まって、一軒家のような形をした跡をナリアンはしげしげと見つめた。その跡から、人が住んでいたであろう風景が思い描かれる。ガトアは、そんなナリアンになにも言わなかったが、どこか苦しそうに、視線を逸らし、ただひたすら導かれる先を見つめていた。
無言で三人は歩む。残る跡がだんだんと、しっかりと建物の形を残していく。石だけでなく、木の戸や、窓枠、ぼろぼろでも布のカーテンが残っている。そうして歩いていくうちに、人の気配を三人は感じた。人の動きにあわせて、空気が揺らぐ。人が巻き起こした風に、においがつく。小石が跳ね、とぷとぷと水が奏でる。ざわざわと、音が生まれ、いつの間にか、活気にあふれた街の中に三人は立っていた。ナリアンは歩いてきた道を振り返ったが、振り返ったその先も同じような景色が続いていた。崩れた建物など、一軒も見あたらない。そうであったかのように錯覚する。
露店で飛び交う売りの言葉。値切る声や、感嘆。子供たちの高く、響きわたる声。行き交う人で道ができ、真ん中に佇む三人を避けて、各々が望むべき行き先へ向かう。視線を巡らせる度、少しずつその景色はにぎやかになっていった。ナリアンの肩のあたりを、妖精はきゅっとつまむ。にぎやかなこの景色に、怖じ気付いたような不安を滲ませる。そっと抱き寄せ、大丈夫だ、とその髪をナリアンの指先がなでた。
「シリウス!」
喧噪の中、その声はよく響いた。つられたように、ナリアンも妖精も、ガトアもそちらをみやった。女が、誰かに手を振っていた。その姿を認めたガトアの瞳が見開かれた。ナリアンも、薄く口を開け、女の姿を見つめた。嬉しそうに笑う女の顔を、ガトアは食い入るように見つめ、その女の視線の先をたどる。
「……ああ」
シリウス。そう、ガトアの唇が動いた。ガトアの声は、誰に届くでもなく消えていった。ナリアンも、女の視線をたどり、息をのんだ。
「りょう、ちょう……」
女が、嬉しそうに駆け寄った先には、寮長こと、シルによく似た男が立っていた。違う点をあげれば、少し背が低く、代わりにがっしりとした体躯であることだろうか。それ以外は、服が昔の、それこそ歴史で見るような服装であること以外、シルとの違いがなかった。そして、そのシルによく似た男に駆け寄った女も、ナリアンのよく知る人、ロリエスに酷似していた。ただ、ロリエスよりも明るく、背が低く、華奢だった。ロリエスの持つ剣など到底振るえるような腕ではないし、寝不足で不機嫌な様子もない。ただ外見が、恐ろしく似ている。それだけだった。それだけなのに、それだけ、なのに。
胸の内が、切なく、苦しく、懐かしいと、訴えた。ガトアも、ナリアンも、ロリエスに似た女性に、締め付けられるような思いがあふれた。シリウス、と呼ばれた男は、ロリエスに似た女性を慈しむように話しかける。目を細めて、大事な宝物を見つめるように。ガトアの唇が、何か言いたげに、薄く開いては、引き締められる。数度、繰り返し、下を向いた。
シリウスとその女性は連れだって、人混みに紛れていった。ナリアンも、ガトアもその後ろ姿を見つめたまま、一歩も動けなかった。日が暮れ始め、ざわざわとしていた通りは、夜の明かりを灯し始める。そうしてようやく、二人は前を向き歩き始めた。