もし、もし願いが叶うなら。今度、あなたに会うときは、どうか、あなたを守らせて。
もし、もし願いが叶うなら。今度、君に会うときは、君を、泣かせたりなんかしない。
大きな街だった。城下町、と言った方が正しい。緩く長く続いていく丘の上に、すらりとした城が建っていた。陽の光が当たると、きらきらと、真っ白に輝く城だった。綿密に計算され、切り出された石を精緻に積み上げられた城。朝日が当たれば、乳白色のつるりとした印象を与える。その城の背には切り立った崖が、天にまでのびていた。城を起点に扇状に広がる街は、建物の屋根の色が様々に変わり、きらきらと輝く湖面のようであった。雑多に建てられた建物たちは、それだけで城への到達を困難にする。本当は、設計者が綿密に検討を重ねた結果なのだが、街の住人ですら、すぐに袋小路に行き当たるため、昔から適当に、思いつくままに、建てられてきたのだと街の住民たちは笑う。
街の中の食堂で、ガトアとナリアンは向かい合わせに座っていた。ナリアンの肩には、妖精が座る。そこが自分の居場所だと、疑うこともなく。二人の間には、ざっくりと刻まれ、どっさりと入った野菜のスープと、どどんと盛られた肉団子、少し固くなったパン、汗をかいたジョッキになみなみとつがれたビールが鎮座していた。最初に軽くジョッキをあわせて一口飲んだきり、食べることに集中していた。空の皿が何枚も回収されていく。ガトアが、知った風に街をすいすいと歩いていくのをナリアンはきょろきょろとしながらついて行った先にあったのが、今二人のいる店だった。人気の店のようで、威勢と愛嬌のいいおばちゃんが仕切る店は、少し無愛想な若い女性の二人と、オーダーに黙々と応える調理場で構成されていた。おばちゃんに会いに来た、と言い切ってしまう客もいるほど、馴染みの顔ぶれがそろう店でもあった。木の、少し重い椅子に、平べったくなってしまった座布団がそれぞれ敷かれ、年期の入った机が並ぶ。よいしょ、のかけ声で、机を並べ替え、あっという間にレイアウトを変えるおばちゃんに、客たちも自然と手を貸す姿は他所ではそうは見られない。お金の心配をするナリアンをよそに、ガトアはさっさと注文していく。ガトアが好きだという料理が所狭しと並べられ、食べきれるかの心配もし始めたナリアンを裏切るように、ガトアのカトラリーは止まらない。皿と口をせわしなく往復し、たくさん食べるナリアンをぽかんとさせた。お前も食え、と言わんばかりに、ガトアは頬をぱんぱんに膨らませ、ナリアンを見やる。呆気にとられながらも、ナリアンも同じように食べ始め、止まらなくなった。今まで、水すら飲まなくても平気だったのが嘘のように、空腹を覚えたのだ。同じものを何度も、気になる物をガトアの様子を窺いつつ、注文する。ナリアンが頼もうが、ガトアが頼もうが、等しく二人の胃袋へ食べ物は消えていった。カトラリーが、速度をゆるめ、間を置きながら往復し始めたところで、ガトアが口を開いた。
「この国は、俺の国だ」
ぽつん、と呟いたその言葉は、己に言い聞かせているようでもあった。一つ一つ、今まで見てきたものを肯定し、確かにそうであると首肯する。
「お前の器でもある」
ナリアンの瞳を見つめ、言葉を選ぶように口をもごり、とさせ、浅く息を吸った。
「お前の器は、俺の国だ」
ぐびり、と舌を湿らすように、ガトアはビールを飲んだ。店内が、一瞬、シンとなったような錯覚をナリアンは覚えた。どう言葉を返していいのかまるでわからなかった。
「500年前。ざっと、500年前の話。お前は、どこまで知っている?」
「……世界が、争い、世界が、割れた。魔術師たちの思いが、世界にヒビをいれ、魔力が引き裂いた」
「……世界を割ったんだ。世界が魔力に耐えきれなかったんじゃない。俺たちが、俺たちを愛してくれた人が、そう望んだんだ。そうして、幾人かの魔法使いが、世界にヒビをいれ、数多の魔術師たちと、世界を割った。俺の国は、滅んだ。500年前の大戦、名を残すことなく、その渦中で、消えた。俺が、おれが、俺がそう望み、俺が消した。俺自身の魔力で、魔法で、国一つ、消した。愛した姫も、愛したこの店も、愛した城も。美しかったこの国を。俺は、愛されなかった……魔術師だったから」
坂道を転げ落ちたんだ、俺もあいつも。虐げていた、そんなつもりはなかったけど、そうだったに違いない、虐げられる側に俺はなった。
「魔術師は道具、だった。人間じゃない。兵器で、いくらでも替えのきく道具だった。俺が魔術師になったのは、十八の時だった。あいつもそうだった。俺よりも早く、魔術師になった。太陽の黒魔術師。お前の友達にいるだろう? 太陽属性の黒魔術師で魔力の少ないものは非常にまれだ。そいつも魔法使いを除けば、一、二を争うほどの魔力を持っていた。これがどれだけ他国に驚異かわかるか? 普通の黒魔術師よりも魔力の多い、熱を操る魔術師の存在。制御なんてなかった。あの辺りを熱する、そう思うだけだ。一瞬にして、人などいなくなる。同輩も、兵士も。お前の世界よりも、500年前は魔力があちこちに満ちていた。死ぬ魔術師が多かったから。魔力を生み出しながら死ぬ魔術師を何人もみた。そいつの扱いは、普通の魔術師よりもよかったよ。なにせ、最強と謳ってもいいほどの力だ。でも、でもな。そいつは死んだ。俺が、殺した。能力の暴発、制御不能、自国にあだなす存在になった。そいつが、俺が魔力で、最初に殺した人間だ。同じ釜の飯を食った仲だった。あいつと、轡を並べ、平原を走った。互いに切磋琢磨し、同じ騎士団に配属された。そして、同じ人を、好きになった。美しい人だった。可憐で、可愛らしい、ふわりと微笑む人だった。王家の、次代の王としていただくにふさわしい人だった。愛したさ、国民として、仕える騎士として。俺は、それなりの出自だったから、望めばもしかしたら、結婚できたかもしれない。そいつも貴族だったけれど、そこまでじゃなかった。でも、彼女が愛したのは、そいつだった。街娘に扮装した彼女が、そいつを見初めた。複雑だったけれど、俺は祝った。二人を、よかったな、って。幸せにな、って。運命ってのは残酷だ。あっさりと、あいつは、引き離された。魔術師になってしまったから。騎士の称号を剥奪され、薄暗い地下へ放り込まれた。国中から集められた魔術師たち。そこから、何人かずつ、戦場に送り込まれる。首都を経由する魔術師は、城下町か、希少価値が高いか、力のある魔術師だった。普通は、近くの戦場に送り込まれたさ。親が、周囲がそう望むんだ。得体の知れないものだから。国のために死ね。お前は人ではなくなった。王家の道具として使われるのだ、と。姫は、戦いをやめたがっていた。魔術師も人だと、そう訴える人だった。王は違ったけれど。あいつの、シリウスの属性は太陽だった。しかも黒魔術師。転戦に転戦を重ね、シリウスの心が死んでいった。同じ人を、魔術師を骨も残さず焼き切るその所業に、ひとつひとつ、壊れていった。姫は、幾度も彼を、魔術師を救おうと、王に停戦を、和平の申し入れをしていたけれど、無駄だった。そして、その日が訪れた。俺が、魔術師として目覚めたその日、シリウスは壊れた。絶望したんだ。姫を守れる人もいない、託せる人も、つなぎ止めて、支える人がいなくなった。涙を流しながら、呆然と、魔力を暴走させ続けるシリウスに誰も近づけなかった。敵も味方も、見境なく、その熱に命を尽かされる。俺は、国のために死ねと言われた。シリウスの、ただ、涙を流し続け、その柔らかな赤い瞳はなにも映していなかった。俺の声も、姫の声も届きはしなかった。幾度も呼んださ、のどが切れ、血混じりの唾を吐きながら。届かなかったばかりか、あいつは、その刃を姫に向けた。やめろ、そう叫んだ俺の魔力があいつの心臓を貫いた。血しぶき、傾くからだ、折れるひざ、最後にあいつは、笑った。一瞬だけ、瞳に光が戻った。まだ熱を持つ地面を、姫はためらいもなく走った。倒れたシリウスの死を確認し、撤退を命じた。シリウスの亡骸はそのままにされた。野ざらしだった。魔力のないただの器に用などない。そうして、戦争は続く。魔術師は魔術師に、兵士に、人に、思いに殺された。魔術師の魔力はもったりと、世界に蔓延っていった。俺は世界が軋む音を聞いた。徐々に大きくなって、たわみ始めた。聞かない振りをしたかった。していたんだ、姫の涙を見るまでは。俺はこの国を壊した。俺は自然属性の黒魔術師だ。時代が時代なら、魔法使い、と呼ばれていただろうよ。シリウスを救うことが出来なかった、たくさんの魔術師たちを救うことが出来ない、争いをとめることが出来ない。何よりも、身ごもってしまった自分を責めていた。シリウスの子ではなかった。噂では実の父親の子だと。それも、噂ではなく、事実だったけれど。地下の部屋にいた俺に、姫は、夜中、王家だけが知る通路を使って会いに来た。この国を、滅ぼして欲しい。そうして、世界を叩き割って、どうか、魔術師が救われる世界を作って欲しい。候補地も、それに協力してくれる王家とも密書を通じて、話がついている。だから、どうか、魔術師たちを救って欲しい。姫が持ってきた密書には、魔法使い、と呼ばれていた名前が列挙されていた。彼らの協力を仰ぐ。世界を終わらせる。俺は、この国を捨てた。城を壊し、王女が、姫が望んだ通りに。そして、この国は消え、世界が割られる」
長い、長い話だった。時折、ビールで喉を潤しながら、ガトアは、己自身が見てきたことを、ナリアンに伝えた。歴史の授業では学べない、生の声だった。ナリアンの肩にいた妖精も、ガトアの言葉に時折、怯えをみせ、ナリアンに擦り寄っていた。
シリウス、シル、シー……。彼女が、シリウスを呼んでいた声がめぐる。甘く、あまく、その声は風にも、水にも、土にも、光にも溶けこんで、この世界を泳いでいく。ガトアの耳に、わんわんと、美しく鳴り響くその音色。自分の名前でなく、他の男の名前なのに。なぜこうも、自分の心は落ち着いているのだろう。
「ナリアン、一つ、聞かせて欲しい」
「……なんですか?」
「君の師、ロリエスが持っている武器は?」
「……トパーズ? の嵌めこまれた長剣」
ロリエスはふた振りの剣を携えていた。ガトアに言った剣と、もうひとつは、飾りのない普通の長剣に見えた。宝石の種類がなんなのか、遠目にしか見えていない。正しいかどうかはわからない。
「トパーズ、だろうね。シリウスが持っていたものだと、思う」
その剣もまた守りきれなかったから、彼女の言葉に呼応したのだろう。今度こそ、あなたを守りたい。遠く遠くの言葉に、武器が持ち主を選んだ。君と、ともに、守れなかった、あの人を、ともに。そうして、ガトアは気づいた。自分自身が、ナリアンの杖に呼ばれた理由を。
「ナリアン、俺は、俺の叶えたかったことを叶えた。もう、俺は消えるよ」
「……は?」
「お代は、これ。お前は、お前が見つけるべきことをなせ」
ちゃりん、と重そうな小袋が机に置かれた。どこから出したのか、ナリアンにはわからなかった。
「え、ちょっと」
「俺自身が、操作できることじゃない。これは、俺に与えられた、お前の持つ、杖が望んだことで、俺の剣が導いたことだから。ナリアン、俺がやり残したのは、この国をもう一度見ること、だった。もう、叶わないことだと思っていたさ。ありがとう、ナリアン」
生まれてきてくれて。その杖に、選ばれてくれて。
じんわりと、体が冷たくなっていく。感覚がなくなり、ああ、消えていくんだ、と実感できる。アメジストの瞳がゆらゆらと、唇が開いたり閉じたり、せわしない。ナリアンの肩に座り続ける妖精に、どうか彼を頼む、と願う。小さく、頷き返してくれた彼女に、彼女の望みを知った。だったら、心配ない。
「最後に。ナリアン、お前のおばあさまは、幸せだよ」
俺が、幸せにするから。
ふわり、と跡形もなく、ガトアは消えた。面と向い合って座っていたはずなのに、そこには人のいた熱も、痕跡さえもなかった。二人の間に空になったジョッキと、二人分の使用済みのカトラリー、それからガトアの置いていったお金だけが、あった。
ガトアが、最後に言い残していった言葉をナリアンは反芻した。おばあさまは、幸せ。俺の、おばあさまって。脳をビビッと、信号がめぐり、答えがはじき出され、涙があふれた。耐えることも、備えることも、意識することも出来ず、ボロリ、とこぼれた。止めどなく、大粒の涙が転がり落ちていく。悲しいんじゃない。ただ、漠然とした喜びが、胸を締め付けただけ。口元を右手で覆い、目元を左手で隠す。嗚咽が、勝手に口から出て行く。頭を撫でていく風に、小さな手。騒ぐ心が落ち着くまで、ナリアンは顔を隠して、泣いていた。