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 疾風に勁草を知る 06

 こぼれ出る涙が落ち着いた頃、ナリアンはのろのろと立ちあがり、元気あふれる店のおばちゃんに勘定をしてもらい、外に出た。完全に陽が落ちた夜は、少し肌寒く感じた。今まで隣にいたはずの男はおらず、ただ一人、ナリアンは立ち尽くしていた。どこにいこうか、と視線をさまよわせ、気の向くまま歩き出した。真っ白な城は、街のどこにいても見えていた。引き寄せられるまま、迷子になりそうな道を歩いて行く。曲がりくねって、折れ曲がって、長くまっすぐ続く道はない。見通しづらい道を、初めてであるはずのナリアンは、風に導かれるまま曲がっていく。行き止まりに合わず、広場へとたどり着く。そこは、城の正面だった。まっすぐに伸びる道は、正門へと続いていた。露店はなく、道幅も馬二頭が並んで通れるくらいの道幅であった。ただ、両脇に立つ建物は、高く、まっすぐ見上げたら屋根が見えなかった。その道を、ナリアンは歩いて行く。引き寄せられるままに、城へと向かっていた。石畳を踏みしめ、真っ暗な道を進む。建物から漏れる明かりもわずかで、足元はちっとも明るくはなかった。それでも不思議と、歩くのには困らなかった。半分ほど歩んだところで、後方から蹄が石を打つ音が聞こえ、振り返った。狭い道であるから、避けねばとナリアンは思った。その馬の影はナリアンに近づき、少し離れたところで止まった。
「そこで何をしている」
 馬上から声がささる。顔はよく見えずとも、ナリアンにはその人がわかった。どこまでも、よく似ていると思う。
「三度目はない。何をしている」
 すらりと腰から剣を抜き、馬上のシリウスはナリアンを見つめた。
「散歩を」
「夜間の広場から王城へ向かうことは禁止されている。旅のものか」
「……はい。本日、この街へ」
「ならば、早急に宿へ戻れ」
 ナリアンが戻れるようにと、馬を操り道を開けるシリウスから、ナリアンは城へと視線を移した。真っ白な城は、明かりなどなくとも、闇夜に浮かぶほどだった。面倒事を起こすほど、冒険心があるわけでもないので、ナリアンはおとなしくシリウスのいうことを聞いた。横を通り過ぎようとしたところで、シリウスはナリアンを呼び止める。
「……お前、魔術師か?」
 脳が警鐘を鳴らす。黙りこんだナリアンに、シリウスは馬の向きを変え、ナリアンを見つめる。
「……違います」
 ようやっと絞り出した声に、シリウスは怪訝な顔をする。
「本当にか」
「ええ」
「ならば、その杖はなんだ」
「……ただの杖です。旅人、ですから」
 ナリアンの言葉を聞きながら、シリウスは近づいてくる。それに後ずさりそうになる体をナリアンは押しとどめる。妖精はナリアンの影に隠れた。
「それにしては、随分と綺麗な杖に見えるが」
「……大事にしていますから」
「ほう、まるで魔法でも使えそうだな」
 どうにかしてこの場から離れたいと願うが、シリウスはそうでもないらしい。どこか、ナリアンを魔術師と決めかかっているような雰囲気を漂わせる。そうやって、距離を詰めてくるシリウスに、ナリアンはシル、寮長とは違うと思った。気に入らないのは一緒であるが、シルは決めつけることをしない。そういうところは評価してもいい、とナリアンは思う。じりり、と足が後ろに引いてしまったところで、胸の鈴が、リーンと鳴った。不思議な鳴り方をした鈴に、シリウスの視線がきつくなる。
「止まれ! 動くな!」
 馬を一歩動かし、ナリアンとの距離をつめ、喉元に剣をつきつける。無駄のない動きは、鍛錬の賜物だろう。前方にシリウス。後方に壁となり、ナリアンは唇を噛みしめる。
「もう一度聞こう。魔術師か?」
「違う」
「では、先ほどの音はなんだ。ただの鈴ではないであろう。旅人が、そのような高価なものを持てるとは思えぬ。貴様自身か、近しいものが魔術師であるのだろう?」
 ガトアの言っていた大戦の話が脳をよぎる。ガトアも、目の前のシリウスも、ロリエスによく似た王女も、戦火に巻き込まれる。魔術師というものが、ナリアンがいた時代よりももっと物のように扱われていた時代。魔術師は物だ。たまごであるとはいえ、ナリアンは薄々わかっていた。ロリエスという魔術師とナリアンという魔術師との間に壁があることに。同じ風の黒魔術師になれないことを、ナリアンはわかりかけていた。目の前のシリウスを見つめ、ナリアンは口を開く。
「……俺は魔術師なんかじゃない」
「それはお前が決めることではない。その鈴と、杖はなんだ」
 突き付けられた剣が、月光を反射しぎらりと光った。月が出ていることにナリアンは気づいた。この世界に来てから初めて月を見た。真ん丸な月は、建物の影に隠れるほど、大きかった。月が大地を飲み込むほどの大きさで、なぜ今まで気づかなかったのか不思議なほどだった。
「月が」
 思わず、と言った風に剣が喉元にあるにも関わらず、ナリアンは月に目を奪われていた。すごいというよりは、それは恐怖を覚えるものだった。びりりと杖を握る指先が痛み、喉が鳴る。
「どうした!」
 すぐ近くで、もう一人男の声がした。聞いたことのある声に、ナリアンはどうして、と思ったが月から目が離せなかった。
「魔術師と思わしき怪しい人物を問いただしているところだ、ガトア」
 呼ばれた名に反応するように、リン、とガトアの耳飾りが鳴る。ナリアンの鈴に呼応するようにリーンと鳴る。驚いたガトアの足が止まり、シリウスもガトアを振り返った。一瞬の隙にナリアンは風に押されるように動いた。するりと剣の下をくぐり抜け、王宮へと、一歩よりも大きく滑るように進む。
「待て!」
 かけられた声にちらりとナリアンは振り返った。パチリ、とガトアと目があった。普段は使わない明るい青色したインクのような瞳が驚きに見開かれていた。馬を駆るシリウスよりも速く、ナリアンは滑っていく。ふわりと、建物の壁を苦もなく駆け上がり、通りから見えぬようにと、屋根の影を進んでいく。ふっと、進む速度がゆるくなり、石畳を打つ音が前に出たのを確認しゆっくりと止まる。ペッタリと石の屋根に背を預ければ、今になって心臓がバクバクと鳴る。吹き出る汗と、荒い息に、ずっとナリアンの襟に隠れていたのに妖精が伺うように周りを飛ぶ。
『だ、いじょうぶ』
 目を見て伝えれば、頬にぎゅっと抱きついてくるのを、そっと抱く。呼吸が落ち着くまでそうしていた。
「……ン」
 何かに呼ばれた気がして、ナリアンは顔を上げた。少し離れた妖精に瞳を合わせれば、違うと首を振られる。じっと体を縮こまらせていれば、また呼ばれる。ふわり、と風が押す方を見やる。間近にそびえ立つ城がナリアンを見下ろしていた。見えるはずのない窓の向こうをナリアンは見た。ロリエスによく似たその人を。そしてその人と目があった、ような気がした。ざわり、と心が騒ぐ。行かなければならない気がした。どうしてだか、無性に、話をしなければいけないような気がした。
「いたぞ!」
 路地から声が刺さる。見下ろせば、シリウスやガトアが着ていたような服ではなく、もっと簡素なものを着た兵士がいた。一人ひとりは対して脅威に感じない。それでも、光に集まる虫のようにわらわらと次から次へと集まってくれば、焦りが生まれる。ひゅん、と顔のそばを何かが通っていく。目を凝らせば、矢をつがえているもの、石のような物を布に巻き、遠心力を使って飛ばそうとしているものが見えた。煮えたぎるような熱が身に生まれる。出ていきそうなそれを押し込めて、城を見つめた。見えるはずがない、窓の向こうを見据えて、ナリアンは一歩を踏み出した。先程まで、どうやって走っていたのかわからない。反っている屋根をぐらつく体で走る。すぐに息が上がる。
『ここは君の器の中』
 ガトアの声が蘇る。
『君自身のものだ』
「俺、自身……」
 ぐっと唇を噛み締め、願う。行くべきところへ、俺を連れて行け。
 世界の色が変わる。月に照らされていた黄色の世界が、色相を変え、真っ白に塗りつぶされる。ナリアンから光の玉が生まれ、四方八方に弾ける。ナリアンを追っていた兵士たちは眩しさに立ち止まりうずくまる。あまりの光量に目が潰れたものもいた。光が落ち着き夜が戻った時には、屋根の上に誰もいなかった。不可思議な現象に動揺と畏怖が生まれる。さざ波となって広がった。その場から動けなくなるもの、ほうほうの体で逃げ出すもの、震える足を叱咤しながら探そうとするもの、そのうちの誰かがやがて漏らす。魔術師だ、と。その言葉は、大きなうねりとなって月夜にこだまする。魔術師がでたぞ!
 城の、開け放たれていた窓に、風に飛ばされたナリアンが転がり込んだ。柔らかな絨毯が少しばかり着地の衝撃を和らげる。左肩から落ちたナリアンは痛みに呻く。内臓や節々が痛むことは多々あったが打ち付けて痛いのは久しぶりのような気がした。起き上がろうとして違和感に気づく。絨毯につこうとした右手がなかった。右手どころか、肩から先がなかった。あんまりなことに息が止まった。痛みはなく、服の袖を残して腕だけが消えていた。
「だれ……?」
 かけられた声に勢い良く振り返る。そこにいたのはロリエスに似た王女だった。チェストに手をつきナリアンを怖々と見つめていた。
「あ……」
「殿下! 大きな音がされましたがいかがなさいました」
 扉の向こうで年嵩の女の声がした。王女はナリアンから目を離し、扉を押さえる。
「本を落としただけよ」
「……お怪我はないのですね?」
「本が傷んでしまっただけ」
 ナリアンは王女のやり取りを見ながら視界の端に山と積まれた本を見た。なるほど、よくあることなのかもしれない。そっと王女が扉から離れた。床に転がったままのナリアンを見つめ恐るおそる一歩を踏み出す。ナリアンの手がかろうじて届か無い場所で立ち止まり、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「魔法使い、さんですか」
 ロリエスよりももっと柔らかな声だ。やんわりと包むそれは真綿のような柔らかさで、ナリアン背が震える。言葉を選んだ王女にナリアンは気付かされる。自分は魔術師ではないのだと。ただ、魔法使いと呼ばれるのも未だしっくりとはこなかった。
「……あなたがそう思うのなら」
 肯定ともとれる言葉をナリアンは吐いた。目の前の王女をよく知りもしないのに、迂闊なことを言っていると思う。ガトアから聞いた500年前の話の中にいた王女が目の前の人と同じであるとは限らないのに。ただナリアンの思いは目の前の王女に応えたいという気持ちだった。真摯でありたい。誠意的でありたいと、なぜだか思った。ロリエスに似ているからではなく、ガトアの話の王女に心惹かれたわけでもなく、夜空と、そこに浮かぶ月を瞳に宿した王女に心を寄せたかった。
「……魔法使いさん。良ければ教えて貰えませんか?」
「俺にわかること、なら」
 王女は微笑みナリアン手を差し出した。体の下敷きになっている左手を差し出せば、その華奢な腕とは裏腹に力強く引っ張り起こされる。
「これでも力持ち、なんです」
「……あの本が関係している?」
 ナリアンの視線を辿り乱雑に積まれた本を見て頬を染める。ロリエスにはない恥じらいがナリアンの心を揺さぶる。
「あっ、いつもはあんなではないんですよ、本当です! 笑わないでください!!」
 ふくれっ面を見せる姿はロリエスに似ても似つかない。笑みをしまいながら、ナリアンは起こされた体を見やる。右腕と、足の指が何本かない。ひょっとしたら、内臓もどこか欠落しているかもしれない、と思う。自分のことなのに他人事のように感じられることに違和感を感じない。千切れたよりは不要だから取れたに近い。ポロリと、椿が花ごと落ちるように腕も足の指も無くなった。
「こちらにどうぞ」
 誘われるまま足を踏み出す。慣れないバランスに体が傾ぐのを次を踏み出すことで堪える。向けられた椅子に礼を言いながら腰掛ければ王女も椅子を引っ張ってきて腰掛けた。明らかに良い椅子を譲ってもらったのを見て慌てて腰を浮かせば、押し留められる。
「私が呼び止めたのですから、どうか」
 先にこの部屋に飛び込んできたのはナリアンだというのに、王女は笑う。
「……遠慮なく」
 花のように微笑む王女にナリアンも釣られて笑った。
 不思議とこの王女と話していると心が落ち着く。まるで唯一無二の足りない複雑な形をした部分を埋めてくれる水のように心地よかった。惹きつけられるその笑みもただ美しいだけでなく甘さも滲んでいた。
「魔法使いさんと呼んだほうがよいのでしょうか? お名前を……?」
 伺うような視線にひとつ頷いて名乗る。花が開くように笑みが広がるその様はたまらなく心を熱くさせる。ポウっとした表情を見せる王女は、ハッと気づいたように姿勢を正す。もともと美しい姿勢だったのが、より一層きらめいて見える。
「申し遅れました。風駈(かざかけ)の国第一王女ロリエス、と申します」
 一瞬、ナリアンは言葉を失った。ぐっと出ていきそうになっていたものを飲み込み、微笑む。気にした風もなく、王女はキラキラとした目でナリアンを見つめる。
「ナリアンさまは、世界を見たことがおありですか?」
「……いいえ、全てを見たわけでは」
 否定したナリアンを王女は謙遜と受け取った。
「でも、私よりもきっと世界を知っておいでだわ。ナリアンさまから見て、この国はどういった風に見えますか」
 真剣な眼差しは、ロリエスに甘さを足せば似ていた。
「……美しい国だと思います。複雑な道も、高いところから見渡せば、緻密な模様を描くのでしょう。その模様が彩るのはこの城で……城を魅せるための街であるように見えます。その他はどうでしょう。今日着いたばかりで」
「それは、聞くには時期尚早でしたね……ナリアンさまは、どうしてこの国に来られたのですか」
「自分を、探しに」
「ご自身を探しに?」
「ええ、師に言われまして。俺……私自身の器を確かめに」
 魔術師としての力を見定めることがナリアンに課せられた問いだった。王女の瞳が揺らぎ、悲しげな表情を見せる。
「ナリアンさまは、この国がどういった国かご存じないのですか……?」
「魔術師を捕らえて戦地に送り込む、ですか?」
 ひゅっと、王女は息を飲んだ。ナリアンを見つめていた瞳は自身の膝に落とされた。
「ご存知でしたら、魔法使いなどと。私はこの国の王女です」
「魔法使いではありませんからね」
 王女の視線を受け止めながら、ナリアンは自分を確かめるように言葉を紡ぐ。
「魔術師でもなければ、魔法使いでもありません。俺には、そう名乗る資格は無い」
「でも」
「魔力を持つものが魔術師なのではありません。私は、師からそう教わりました。魔力を操るものが、魔術師なのだと」
「この国では、魔力を持つもの、が魔術師と呼ばれます」
 ナリアンは頷いた。王女の言葉を否定するつもりはない。
「この国の定義では、私も魔術師になるのでしょう、恐らく。私は自分に魔力があると思ってはいません。師から、そういったものが見えない、と言われてしまいました」
「え? こんなにも、満ちあふれているのに……?」
「……殿下は魔力が見えるのですか」
 ナリアンの言葉に、王女は口を手で覆い震え始めた。血の気が失せ、恐ろしいものを見るかのようにナリアンを見つめる。ふるふると首を振る。
「ちが、私は」
「大丈夫です、見える、ことがすなわち、持っていることにはなりえません」
 自分を抱きしめて震える王女をナリアンは根気よく待つ。しばしの沈黙が訪れ、ようやく落ち着いた王女が顔を上げた。
「見えるだけ、なんです。本当に。火を撃ちだしたり、大地を隆起させたり、人の傷を癒やすなどできないんです」
「ええ。私からもひとつ伺ってもいいですか」
「もちろんです」
「私の、魔力はどういったふうに見えますか」
 ナリアンの言葉を受け、王女はぼんやりとナリアンを見つめる。頭の先から爪先まで、じっくりと見つめる。そして、首を傾げた。
「先程までは確かに、魔力が満ちあふれているように見えていたのですけど、よく見ようとすればするほどわからなくなって、あの、触れても……?」
 王女の言葉を受け左手を差し出した。その手を、王女はちょんと指先で触れ、すぐに離した。熱湯に触れたかのような速度に、ナリアンは目を見開く。同じように、王女も目を見開いていた。
「……ナリアンさま自体が、魔力であるように、思います」
 腑に落ちた。王女の言葉に、ナリアンは疑いを持たなかった。しっくりとくるそれに、なくなった右腕がうずく。そして思い至る。いつの間にか人ですらなかったと。唇にうっすらと自嘲気味に笑みをのせる。
「私は、何人もの魔術師を見てきましたが、ナリアンさまほど、魔力を持っている方を見たことはありません」
「この世界には、魔法使い自体少ないのですか」
「いいえ、この国にはいませんが、遠くの国には何人も、そう呼ばれる人がいると言われています」
 先程はすぐに離した手を、王女はおそるおそる近づけ、ナリアンの左手を握る。ホッとしたような顔を見せる王女をナリアンは見つめていた。その視線に気づき、王女は慌ててナリアンの手を離す。その手を追いかけて、握る。柔らかな手だった。剣を握ったことのない美しい手だった。白魚のような手を見つめ、ナリアンは口を開く。
「……私に聞きたいことは終わりましたか」
「最後に、一つだけ聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「世界を砕きたい、と言ったらナリアンさまは力を貸してくれますか」
 迷いのない声で、まっすぐに言葉をつきつけられる。凛とした瞳は、ナリアンの知るロリエスと似ていた。
「……必要であれば」
「どうか、ご無事で」
 ナリアンの手を王女はそっと離した。窓枠へとナリアンは近寄っていく。ふわり、と風がナリアンをたぐり寄せるように包み込む。瞳を閉じ、欠落している右手と足の指へ神経を張り巡らせる。なくなったそこに、それらがあったように思い描く。血が巡るように、思い描いたそこへ魔力を巡らせる。ぐっと体が重くなった感覚に瞳を開く。スッと右手を窓枠にかけ、後ろを振り返る。胸の前で両手を組んだ不安げな王女へ、笑いかける。
「ありがとうございました」
 体を窓の外へ投げ出し、落ちていく中で、妖精がいないことに気づいた。薄情者だと、ナリアンは自分を嗤う。そこにある右手を見つめ、風を掴む。くん、と落ちる体が縄で繋ぎ止められたように止まった。眼下に見下ろす街は、綺麗に整えられているようで、雑然としていた。まるで自分の心のようだとナリアンは思った。あれだけ大きな、落ちてきそうな月はどこにもなかった。星だけが瞬く夜空だった。空から視線を外し、つま先を見つめる。そこに階段があるように、一歩足を踏み出す。固い感触が足裏に伝わる。ぐっと踏みしめ、一歩一歩踏み出して歩いて行く。建物の屋根よりも高いところを悠々と。眼下に街を見下ろしながら、ナリアンはぐっと背を伸ばした。骨が組み変わる感じがした。髪が伸び、体中が毛に覆われていく。広げた腕は翼で、宙を踏んでいた足は体に密着するように折りたたまれていた。風を切って鳥が滑っていく。街から少し外れた大樹のうろで、めそめそと泣く妖精を見つけていた。急降下でそばの枝へと降り立ち、うろを覗き込む。まんまるに目を見開いた妖精は怯えながらも、手をナリアンへ差し出した。小さな手が、嘴を撫でる。抱きついてきた体を迎え入れるように羽を広げる。もう離すものか、としっかりと握りしめる小さな手にナリアンは謝る。泣き疲れた上に、ナリアンが戻ってきた安堵に気が緩んだ妖精はうとうととし始める。ナリアンも鳥の姿のまま木の上で妖精を抱え込み、眠りについた。

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