ナリちゃん、大好き。
胸の上が重い。だが、それは温かな重みで、久しく感じていなかった熱を感じた。ゆっくりと、くっついてしまった瞼を引き剥がす。ぴりり、と皮膚が突っ張るような感じがしたが、明るい世界に誘われるように、外を見たかった。目に映ったのは見慣れた天井だった。閉められたカーテンから、薄っすらと陽の光が差し込んでいるのも、よく知った風景だった。この光をまどろみながら見ていると、オリーヴィアの叱責がとぶのだ。それももう、遠い過去のように思う。オリーヴィアはもういない。ナリアンを叱る声はいつまでも響かない。部屋も、周りの景色もなにも変わらないのに、そういった小さな日常がまったく違うものとして、流れていく。これもまた、いつか日常になるのだ。悲しいことに。痛みも悲しみも、ずっとは覚えていられない。心が壊れてしまうから、鈍く、思い出さないように、ゆるりゆるりと忘れていく。
じわり、と浮かんだ涙が、頬をつたい、ぽたり、と落ちた。ぐじゅ、と鼻が鳴る。喉が、上下し、息がつまる。
「っはぁ」
熱い吐息が溢れ、胸が大きく動く。涙が、熱い。頬をつたい、熱を失い、枕が冷たくなる。身じろぎをしようにも、金縛りにあったように体が動かなかった。重い。熱が出た時のように、体がだるかった。ほんの少し、動くのにもどれだけの労力が必要なのだろう。苦しくなって、息を吐き出すので精一杯だった。明かりを取り入れた瞳を闇に落とす。胸の上が、じんわりと熱くなった。胸の中心より、少し左にずれた心臓の上。その上だけが熱かった。
『ナリちゃん』
鈴のような声が耳を打った。実際の声ではなく、記憶の中の声だった。何度も、何度も名前を呼ばれた。不快な気持ちは一つもなく、その声がどこからするのか、きょろり、と視線を彷徨わせた。真っ暗ななかに佇む自分は、右も左もわからない。むしろ、上も下もわからなかった。自分の足がある方が、下、と決めつけていいものか悩んだ。ふわり、と左胸だけが温かい。その熱を包み込むように、手を当てた。熱は光になり、それは周囲を照らし始めた。色の薄い、地面が広がり、緑など一つも見当たらない場所だった。歩き出すのが怖くて、ずっとそこにいた。やがて、視界が狭まり、何も見えなくなった。もう一度、瞼を、開けた。
やはりそこは、自分の部屋だった。カーテン越しに差す陽の光は、変わらない。たいした時間は過ぎていないようだが、先程よりも体が動きそうだと、感じた。ただ、まだその布団の熱を感じていたくて、もぞもぞと居座る。眠っている間、誰かがそばに居てくれたような気がした。風邪をひいたときも泣きじゃくったときも、誰もいてくれたことはなかった。オリーヴィアが時々、見に来てくれただけだった。そのオリーヴィアももういない。だから何も考えたくなかった。一人になってしまった、と感じることが嫌だった。もう何も要らなかった。失うなら、なにも要らない。失うことは怖い。手をすり抜けていく水のように、あったという事実しかなくなるのは嫌だった。愛して、慈しんで、微笑んで、大切に、大切にして。それでもなくなるその事実にもう限界だった。心を閉ざして、何も抱かなくて、期待することに怯えて。なにもいらない、ほしくない。このまま死んでもいいとさえ思った。誰のことも思わない。ただ一緒にいてくれたオリーヴィアの元へ逝けるのなら、それで一つも構わなかった。心も空っぽなのだから、何も残らない。誰も、置いていかない。誰かに、好き、など言われたことがあっただろうか。あったかもしれない。忘れた。遠い昔に捨てた。好きってなんだっけ。わからないことは、怖い。あの小さな子には、妖精には悪いことをした、と今更のように思う。怯えたように見えた。ごめんね、そうするしかなかった。自分を守るために。
名前をずっと呼ばれていた気がする。自分の心が冷たい。そんな自分に、ずっと誰か隣にいる気がする。そんなことをしても無駄なのに。いつの間にか、夢をたゆたっていた。まどろみ、現実と非現実が曖昧になっていく。眠ることで、つらい記憶に蓋をした。眠っていれば、その事実を見なくて済むから。そばにいる気配から、ずっと声が伝わってきた。好き、いっしょにいて、ずっと、大丈夫、私がいるわ、一人になんてしない、案内するわ、どこまでも。時折、涙を含ませた声で。いとおしげに、囁かれる。そんなの嘘だと、拒絶していた。きっと君はいなくなる。俺を残して、消えてしまう。熱を与え、その熱から離れられなくなったら、その熱がなくなる。だから、嫌だ。信じない。それでも声は降り続ける。大事なの、好きなの、一緒にいたいの、守りたいの、私がずっと側にいるの。甘い言葉が、誘惑する。信じてみようか、と淡く期待を懐きそうになる。ほだされていく心。
本当よ。ねぇ、私と一緒に行きましょう。私と一緒に、笑いましょう。気になり始めた外の世界。その声の姿を一目見たいと思い始めた。その裏腹で、裏切られる、一人にされる、と心に過る負の感情。駄目だ、無理だよ、ごめんね、そう告げた。その答えに、いいのよ、と聞こえた気がした。
ずっと声は途切れない。ずっと気配はあり続ける。肌に触れる体温は温かい。溢れた涙を拭われた。呼ばれる名前に、うん、と返事をした。信じてなんて言わないわ、ナリアン、ナリアン。名前を呼んでほしい、もっと。ナリアン、なりあん、ナリちゃん。
ハッ、と目が覚めた。すでに外は薄暗く、カーテン越しに光は差し込んでいなかった。夜の帳が降りた部屋は、暗く、瞼を開けているのか、瞳を閉じているのかわからなかった。ただ、ぼんやりと、部屋の様相が見え、自分は目覚めているのだと知る。腕に力をいれ、起き上がろうとして、胸の重さに気づく。ゆっくりと、体を起こし、胸の上にいた小さな存在を見とめた。ピンクのワンピース。ショートカットの髪の毛。疲れたように眠り、その頬には涙の跡がいくつもあった。痛ましい姿に、胸にナイフを突き立てられたようだった。自分が、その子を、追い出したのに。ナリアンの手が触れても、その小さな存在は身動ぎ一つしなかった。すうすうと、眠り続けるその子を抱き上げ、ゆっくりと、枕に寝かせた。自分が使っていた布団に寝かすのは、少し忍びなかったが、代わりのものを用意するまで、と言い聞かせて、布団をかけてやった。
ぐっと、足に力をいれ、立ち上がる。どれだけベッドにいたのか、と疑いたくなるほど、足はガタガタだった。転けそうになるのを、ベッドに座り込むことで回避した。ベッドが大きく揺れたが、小さな存在は眼を覚まさなかった。そのことに少し、安堵し、もう一度立ち上がる。ゆっくりと、部屋を出て、覚束ない足取りで、キッチンに向かった。
ナリアンが出て行って、少し立ち、ニーアはぶるり、と身を震わせた。寒い、と感じたからだ。開かない瞳をそのままに、ぽふぽふと左手でナリアンを探した。どこにも触れないことに、心臓が止まりかけた。バチッと、音がしそうな勢いで瞳を見開き、ガバっと、体を持ち上げ、首が千切れそうになるほど左右に振った。ぐわん、と視界が揺れたが、気にしてられない。
『ナリちゃ、どこっ』
ビビっ、と羽根を羽ばたかせ、半ば、落ちるようにして飛ぶ。飛べなくて、どたどたと、床を走り、べしょり、とこけた。痛い、などと思う暇などない。ぐっと体を起こし、走りだす。右に、左に足が前へ出て行かない。スローモーションのように、こけない程度に、足が前へ出ているのだが、ニーア自身は走っているつもりだった。一歩、一歩、もどかしくなるような速度で、ニーアは進む。階段は、意を決して転げ落ちた。ものすごく痛かったし、気を失いかけたので、もう二度とやるもんかと、心に決めた。その音に、驚いたようにナリアンが顔をのぞかせ、階段へと近寄ってきた。その姿を認め、ニーアは安堵を覚えた。名前を呼びたかった。ナリアンの名前を。迎えに来たと、もう一度、言いたかった。体は平気? 大丈夫? まだ寝てなくてもいい? そう聞きたかった。それなのに。
『かく、ざ、と』
がくり、と力尽きたようにニーアは、床に伏した。
「は? え? え?」
目の前で、力尽きた小さな存在をナリアンは、おっかなびっくり掬い上げた。小動物は怖い。あっさりと死んでしまうから。そのくせ、警戒心が強く、すぐに牙を剥き、威嚇してくる。だから、ナリアンは小さな生き物がめっぽう苦手だった。たまに出てくるネズミなども、非常に怖い。オリーヴィアに、泣きついて対処してもらうほど、苦手だった。そんなナリアンが、目の前に倒れた小動物をどうすればいいのか、悩み、悩みぬいた挙句、牙はない、と判断して恐る恐る手を伸ばした。そういえば、先ほど掴んだ、と思い出し、寝ぼけてた自分の判断能力の低さに目眩を覚えた。
うつらうつらと、ニーアは夢をたゆたっていた。大好きな人に、ぎゅっと、抱きしめられ、涙した。嬉しいんじゃない、悲しいのだ。私はこんなに好きなのに。あなたの心はぽっかり空いてしまっている。好き、を思い出して欲しくて、温かな思いを受け止めてほしくて。乾いた砂漠のような心に、たくさんの水をあげて、渇いた心を潤して。あなたの心に、好き、の種を植えようと、心に決めた。ずっとずっと、その種の花が私に向いてくれなくても、私はあなたに水をあげる。好きなのナリアン。私はあなたが好きなの。あなたの笑顔がみたいの。破顔して、愛されて、幸せなあなたを見たいの。私に向いてくれなくてもいいの。あなたの隣にありたい。あなたに、水をずっとあげる役は、私がもらうの。誰にもあげないわ。この役だけは。水を含んだ土が、太陽の光を浴び、栄養を蓄え、上等な土になろうとも、あなたの土に水をあげるのは私。好きなのナリアン。無償の愛をあなたに。あなたに水をあげる存在が他に出来ても、私はずっとあなたに水をあげるの。
ずっと昔、姿を見て、恋に落ちた。王様から、頼まれたお仕事。ちょっと嫌だったお仕事。あなたじゃない誰を迎えに行くなんて。でも、その子と仲良くなれたらいいなって思ってた。その子があなただったから、私は決めた。私の最初で最後の案内。先輩達から聞いた話はとても、キラキラしていた。楽しみだった。ものすごく。見た目が麗しかったからじゃない。声が好みだったからじゃない。そうじゃなくても、私はきっと恋をした。いつ出会ったとしても、きっとあなたに恋をした。小さなあたなに恋をしたと言えば、周りから纏う空気に酔ったのだと言われた。そうかもしれない。でも、今、あなたの心にもう一度触れたのだ。たくさんの花が咲いていた心に、恋をしたのなら、この恋は冷めるだろう。でもそうじゃなかった。再び触れた心は、なにも、なかった。なにも、だ。嬉しさも、怒りも、寂しさも、大事な人がいなくなった悲しみさえもなかったのだ。ぽっかりと空いた心。なにもない、ただ闇が広がった心だった。そんな心は、妖精は好まない。だから、酔ったわけじゃない。きちんとした、恋だった。
あんなに花が咲いていたのに、なんで、何も。なにもないの、その心に。信じられなかった。何人かの人間や動物、妖精に会ったことがあったけど、みな心に色が付いていた。喜色、嫉妬、傲慢、羨望、希望。千差万別だけど、何かしらあったのに。何もない心は何も映さない。輝かない瞳に、去れ、と言われ、心がしぼんだ。辛かった。彼の風に追い立てられ、牙をむかれた。怖かった。でも、これは私の仕事だった。届けに、行かなきゃならないの。もう一度、彼の元に。あなたを導くために、選んでもらったの。私なら、きっと彼を連れてきてくれると。王様が、そう言ってくれたの。王様を裏切りたくないという思いじゃない。この身が果てても、受け入れられなくても、ただ、何もない心に激怒でも、鬱陶しいでもいいの。芽生えて欲しいと思った。先輩に、馬鹿だなと言われてもいい。報われなくてもいいの。ただ、あなたに幸福を見つけて欲しいと思った。王様が言ってた。彼に立ち直る時間を与えられない自分を恨むと。何の事だか分らなかったけど、わかったの。ナリちゃん、私は待つわ。あなたの心に花が咲くまで。なんの花でもいいの。花が咲くまで、花を咲かせれるようになるまで、私はあなたを慈しむと決めたから。渇き切った土壌が柔らかくなるように。その土壌に、再び花が咲くように。私は隣にいる。多分、あなたの一生よりも長い時間を過ごせる私にしか出来ないこと。待つわ。あなたの瞳が気持ちを映すまで。一緒にいるわ。要らないと言われても、ずっとそばにいるわ。ずっとよ、ずっと。置いてったりしないの。置いていかれることはあっても、私は絶対、あなたより前には行かない。ぐっと唇を噛みしめて、前へ前へと。もう一度、あなたの元へ。急いで、急いで。側にいると決めたのだから。一分一秒でもあなたの隣にいるのだから。拒絶されても、何度でも、あなたの側に戻るわ。あなたが、必要とされる世界の、嫌でも必要とされる世界への許可証なの。他人からみれば、不幸せに映るかな? 私にはあなたが幸せであることしか見えないわ。これを授けられたあなたは、必要とされることを知るの。今まで生きてきて、知らなかったことをたくさん、たくさん知るの。
あなたを護るこの風が、あなたを閉じ込める、あなたを一人にするというのなら。引っぱたいてやる。あなたをずっと護ってきた風でさえ、あなたを不幸せに向かおうとさせるのなら。私は、私は。この身が滅びようとも、何度も吹き飛ばされようとも。あなたに、恨まれても。その風をひっぺがえして、あなたに、他の人が触れれるように、そうしてあげる。私は、案内妖精なの。
学園に、あなたが幸せになる未来が見えたのなら、そこに。案内をするのが私の役目。そう、私が決めたの。ナリちゃん、私、結構しつこいの。女の子なの。好きになった人の笑顔がみたい、そう思うのなんて私の勝手でしょう? 私が許可証を持って行く役目を任せられたのが運の尽き、そう思って観念して欲しい。
『ナリちゃん』
声に吃驚し、身を起こした。バクバクと心臓が高鳴る。それは夢だったような、現実だったような。少し前の自分を振り返っているようでもあった。だんだんと気持ちが落ち着き、目の前に、見開かれたアメジストがあるのに気づいた。ぴゃっ、と体が跳ねた。そして、目の前の彼も、体が跳ねた。お互いが、自分の胸を押さえ、見つめ合う。
『あああの!』
同じように声を出し、同じように、どうぞどうぞと先を譲りあう。根負けしたのは、ニーアの方で、羽根を震わせ、ぺこり、とお辞儀をした。
『えっと……こんにちは! ナリアンくん! 私の話、聞いてくれる……?』
少し戸惑ったように、ナリアンは頷いた。ちょっと前に比べれば、だいぶ態度が緩和していることにニーアは嬉しくなった。
『うんと、私、案内妖精なの! そのね、えっと……』
『……まじゅつし?』
言い淀んだニーアの言葉を引き継ぐように、ナリアンが声を発した。その言葉がナリアンから出てきたことにニーアは驚いた。
『そ、そうなの! えっと、ナリちゃ……ナリアンくんは、えっと、魔術師のたまご、なの』
『……たまご?』
『そうなの。えっと、これが、ナリアンくんの許可証』
ニーアは、ナリアンに薄いピンク色のカードを差し出した。花の透かし模様が入った妖精の身丈ほどのカード。ナリアンは、その許可証をじっと見つめた。手を出しては引っ込め、を繰り返すのをニーアは辛抱強く待った。心を決めたように、ナリアンはそのカードに触れ、引き寄せた。ぐっ、と唇を引き結んだナリアンをニーアは、見つめる。
『……夏至の日?』
『そうなの! もう、家を出ないと、間に合わない、の』
言いにくそうに、ニーアは言葉を切る。ナリアンは、カードを三度読み、テーブルの上に置いた。ニーアが起きる前に入れていたハーブティーはすでに冷めていたが、乾いた喉を潤すにはちょうどよかった。ぐいっと、煽り飲み、息を吐き出す。
『……間に合わないと、どうなるの?』
『……魔術師さんたちが、連れて行くの。だから、間に合わない、ってことはないのだけど、ペナルティが』
言葉がしょもしょもと、消えていく。自分のせい、とは言え、ナリアンもすぐに家を開けることはできなかった。約束の仕事の期日がそこまで迫っていたから。
『わかったよ』
なんとかしないといけない、どちらとも。星降の国の城まで、馬車や徒歩で行くならば、もう今日にでも家を出ないと間に合わない日程感であった。すこぶる元気な自分であれば、もう少し、遅れても間に合うだろうが、いささか体も重いし、時々、息切れや、膝が痛んだりする。この体で行くのであれば、日程にだいぶ余裕を持たないといけない。そうは思っても。オリーヴィアの一件で、待ってもらっている仕事を放り出しては行けなかった。それは、自分の誇りでもあり、唯一のものだったから。残っている仕事量と、日程を照らし合わせるが、どう頑張っても無理だと悟る。ポットから、ハーブティーをつぎ、濃くなりすぎたそれを飲み干す。苦すぎて目が覚めそうだ。
『魔法』
『え?』
『いや……』
小首を傾げるニーアに、ナリアンは首を振った。出来るかどうかを尋ねて、してはいけない、と言われては、どうしようもなくなるからだ。決行日まで、このことは胸に閉まっておこう、とナリアンは決めた。
『すぐには、発てない』
『……うん』
でも、と言いかけたその口を閉ざし、ニーアは下を向いた。ナリアンの気持ちを尊重したかったのだ。ニーアが怒られるぐらいで、ナリアンの気持ちが落ち着くのであれば、そうしてあげたかった。
『……間に合うようには、行くよ』
しょんぼりと肩を落とすニーアに、ナリアンの心が少し痛んだ。その言葉に、パッと、顔をほころばせたニーアに、口元が緩んだ。ほんのりと、頬を染めたニーアの緊張が解けたのか、盛大に腹の虫が鳴った。バッ、と勢いよく腹を押さえたニーアだったが、ナリアン耳には届いてしまったようで、まんまるな目に羞恥を覚えた。そっと、白の丸いポットが差し出され、かちゃり、と蓋が開けられた。
『……お食べ』
真っ白な角砂糖が、たくさん入っていた。ニーアは、ちらりとナリアンを見て、角砂糖を見た。何度か繰り返して、決意したように、一つだけとって、ありがとう、とつぶやいた。ぺたり、とテーブルに座り込み、がっつきそうになるのを、必死にこらえて、時間をかけて一つを食べた。全然食べた気がしない。でも、ガツガツと食べるのは、なんとなく恥じらいを覚えた。すでに、ソキの目の前で、リボンの何日分ものご飯をたった数分で平らげたのに、ナリアンの前ではできなかった。一つだけ食べて、じっと下を向いたままのニーアに、ナリアンは心配そうな顔をした。
『もう、食べないの?』
その声に顔を上げたのが、まずかった。眉をハの字にしたナリアンと、ポットからのぞく角砂糖から、視線が離せなかった。びしっと、固まったままのニーアに、ナリアンは、ポットから一つ、角砂糖を取り出し、ニーアの口元に持ってきた。開きそうになる口を必死でつぐんでいるニーアの唇に、距離を見誤ったナリアンが角砂糖を押し付ける形になった。ふわりと、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。きゅう、とお腹が鳴る。ソキからもらった角砂糖は全て魔力として使いきってしまった。自分のためには使っていない。お腹が減るのは当たり前。生存本能が刺激される。じゅわり、と解けた砂糖が、ニーアの口内に広がった。我慢などできない。震える両手で、ナリアンから角砂糖を受け取った。好きな人の前では、可愛くありたいという小さな願望は、欲求の前に霧散した。
がじゅ、とかじりつき、先ほど、じっくり味わった甘さなのに、更に甘く感じる。じわっ、と目の前が潤む。
『ふぅっう』
ぽろん、と涙が溢れ、大きく口を開けて、がぶっと、かじった。じゃくじゃく、と口の中で噛めばとろり、と溶けていく。時間をかけて一つ食べたときは、何口にも分けて齧ったから味がよくわからなかった。口いっぱいに頬張って、その甘さに、涙がこぼれる。
『おいひいでふ』
ぼろぼろと涙を零しながら、あっという間に角砂糖を食べきったニーアに、ナリアンはもっとお食べ、ともう一つ差し出す。恥を忍ぶしぐさを見せたが、耐え切れず伸びた腕にそっと持たせてやる。うぐうじゅと、角砂糖を食べるニーアに、せっせと角砂糖を差し出してやった。それは、ニーアの食べる速度が落ちて、うつらうつらと、船を漕ぎだすまで続いた。