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 きっと花は咲く 07

 きっと、花は咲く。

 世界が朝を迎えるたび、夜は明けるのだと知る。真っ暗な闇の中で、どれほど心細く、寒さを感じでも、暖かな日の光が目の前を照らし、温めてくれる。そうして、夜を乗り越えられる熱を与えて、去っていく。その熱を大事に大事に食いつなぎ、また朝を迎える。熱が足りなくて、そのまま目覚めることができなかったものや、暗闇に心を挫いてしまうもの、様々だろう。
 最初の闇は、温かに守られ、徐々に一人で乗り切る。そしてまた、誰かの熱と共に過ごし、誰かを守る存在となる。一人で過ごす闇は寒くて寂しい。その寂しさに、生きることを投げ出したくなる。誰かが自分の隣にいてくれれば、急に失った熱を、紛らわせるかもしれない。それが、望んでいた熱とは違っても、まやかしでも、まだ共にありたかった。
 緩やかに揺らされ、ナリアンは目を覚ました。カーテンがぼんやりと、明るい。朝が来たのだ。じわりと、熱を伝えるカーテンを見たのは久しぶりのような気がした。目をつむり、開く。はぁ、と息がこぼれていく。ぐっと、体に力をいれ、起き上がる。オリーヴィアがいなくなって、この体がやけに重くなった気がする。もう誰も愛してなどくれない世界に、居座り続けることに諦めを感じた。いつでも、この世界と決別できる、そんな風に思ったからこの体は重いのかもしれない。緩く口元を歪め、手を握る。なんの力も持たない手。力があれば、正しく生きられたかもしないのに。
 ふと、隣に気配を感じ、視線を巡らせる。布団の端に、胸の前で手を組み、うりゅうりゅと瞳を涙で滲ませた、ピンク色の小さな女の子がいた。手のひらに乗るぐらいの、ふんわりとしたワンピースを着た、女の子。かちりかちりと、何かが頭の中で音をたてる。じわり、と紙が水っぽいインクをにじませるように、記憶が呼び起こされる。
「……ああ」
 ふっと視線を外し、もう一度、そちらを向く。先程よりも涙をたたえた小さな存在に、固まる。何かしただろうか。何か言わねば、と思うのだが、うるうると上目遣いで涙をこらえている存在にかける言葉がうまく見つからない。頭もよく回らない。ようやっと、考えついた言葉が、口からこぼれる。
「おなか、すいたの……?」
 女の子に見えるその子に、デリカシーのない発言をナリアンはした。
『ち、違うもん!! ちがうもん!!』
 ちがうもん、と涙声になりながら女の子はうつむく。どうみたって、ナリアンが悪い。気まずそうに視線を逸らすナリアンを責めるものも、今にも涙があふれそうな女の子を慰めるものもいない。どちらかが、一歩を踏み出すか、空気を変えない限り、このままである。ちらちらと、互いに視線を向けてはそらしを繰り返していた。片方が、片方へ向いている時、もう片方はぜんぜん違う場所を見ていて、声をかける勇気を失ってそっぽを向く。その繰り返しだった。
 きゅうっと、腹が鳴ったのはどちらだったろうか。同じように腹を押さえたから、二人ともだったのかもしれない。顔を見合わせて、唇をとがらせる。
『ナリちゃ、ナリアンくん、ご飯食べて』
 ぴるるっと、羽根を震わせてニコッと微笑む女の子に誘われるようにナリアンは、ベッドを降りた。先導をするように、ナリアンの前を女の子はふよふよと飛んでいく。今日は何を食べる? と嬉しそうに聞いてくるのだから、ナリアンはやはり彼女はお腹が空いているのではないだろうかと、疑いを持った。
 キッチンに立ち、卵をゆで、みずみずしい葉のものを大雑把にちぎる。葉のものは、裏の畑から収穫したばかり。鬱蒼と生い茂っているのに目を見張った。両手で抱え、顔が隠れるのではないかという大振りの葉にも驚いたし、その手に乗る重みが、何よりも違った。ゴロゴロと鍋の中を転がっていく卵の隣で、ちょっぴり分厚く切ったベーコンを焼き、その端でウィンナーも焼く。出てきた油で、卵を割り入れかき混ぜ、形を整える。少し固くなってしまった丸いライ麦のパンに幾筋か切れ目を入れ、バターを塗り、茹で上がった卵を水につけ、殻を剥く。フォークの背で卵を潰し、オリーヴィアが作り置いていたマヨネーズをたっぷりと入れかき混ぜる。準備し終わったそれらをパンにはさみこむ。ベーコンをパンに挟むのに、何度唾を飲み込んだだろう。マヨネーズに胡椒を混ぜ、味付けにつかう。オリーヴィアと二人、三食分のパンを全部、サンドイッチに変えた。ニーアが興味深げに、しげしげとサンドイッチを見つめる。直径がニーアの背丈ほどの大きさのそれらが、ごろごろと積み重なるのはなかなか壮観であった。
『……ニーアも、食べる?』
 呼びかけられた意思に、ニーアは顔を向けた。準備をしている間、名前を尋ねたナリアンに、ニーアは少し迷ったような顔をしたが、おずおずと名乗った。ニーア、と口の中で転がすように幾度か呟いた後、なんの疑いもなく呼んだ。約束を忘れてしまったかのように。まあるいパンを眺め、ぺろりと一つ、食べられそうだと思いつつも首を振る。
『ナリちゃんが食べて』
『……うん』
 出来上がったサンドイッチを、二つ残してワックスペーパーで包む。空のかごに、包んだそれらを入れる。包まなかった二つのサンドイッチと、ハーブティーがナリアンの朝食だ。ニーアには角砂糖を好きなだけ。向かい合って食べる。シャキシャキの葉のものと、ベーコンの塩気、マヨネーズと、丹念に潰されたたまごが絡み合い、食感が生まれる。炒り卵にしたものはマヨネーズを添えただけ。本来の卵がもつ甘さが舌の上に乗る。あっという間に二つが胃に消えた。ぐーっと、ハーブティーをあおり、ほうっと息を吐き出す。角砂糖を頬張るニーアと視線があう。幸せそうに食べていたニーアの頬が真っ赤になった。慌てて口の周りを拭い、こちらを気にするようにちまちまと角砂糖を食べる。それもそれで可愛らしいと思うけれど、美味しそうに食べる方が、見ていて好ましかった。
『いっぱい、お食べ』
 じゃくん、と噛んだ音と飲み込んだ音が同時に聞こえ、ケホケホとむせたように咳をする。水を差し出してやりたいが、あいにくとニーアが持てるような小さな器がない。あわあわと慌てるナリアンを尻目に、ニーアは人差し指を縦に振る。そうすると、ナリアンのマグカップからハーブティーが一滴、宙に浮かんだ。それはそのまま、ニーアの口に吸い込まれていく。こくん、と喉が動き、少し潤んだ目が大丈夫、というようにナリアンを見た。まじまじとその様子を見ていたナリアンにニーアはこてん、と首を傾げた。
『ナリちゃん?』
『……なんでも、ないよ』
 もっとお食べ、とナリアンはニーアに角砂糖を差し出した。恥ずかしげに角砂糖を受け取るニーアは可愛かった。ニーアが食べているのをみると、やたらと腹が減る。ワックスペーパーに包まれたサンドイッチの山にちらりと視線を向ける。悩んだ末に、サンドイッチの山から、一つ、包みを開けた。
 残ったサンドイッチの山と、水差しとコップを持って、作業部屋の扉を開けた。ナリアンの仕事場。オリーヴィアさえも立ち入ることのなかった部屋。壁の高いところに、風を通すだけの窓があり、正面に幅の広い机が置かれ、背もたれのついた木の椅子には、オリーヴィアが作ってくれたクッションが鎮座する。壁という壁は、全て棚になっており、床から天井まで埋まっていた。下の棚には、分厚い本や紙束が並び、中段、上段には様々な形や色をした、インク瓶や道具が並んでいた。ナリアンが生業とする写本に使うインクとペン、製本をするための道具は正面に、あまり使われないものは扉の方へと、並べられていた。サンドイッチの入ったかごと水差しを机の右端に置き、椅子に座る。任せられていた仕事の半分は終わっている。もう半分。常ならば、五日かかる作業を、三日で終わらせなければならない。きょろきょろと、辺りを見回していたニーアが、邪魔にならないようにと、かごの側に座った。
 切り揃えられた羊皮紙を一枚、ゴム板の上に置き、ガイドラインを引いていく。手本となる本をめくり、必要になる印を打つ。書き上げる枚数分、ガイドラインを書き上げ、使う順番通りに並べておく。ペン軸を取り上げ、真新しいペン先をはめる。インク瓶の蓋を開ければ、独特の臭いが鼻をつく。徐々に落ち着いていく心はストン、とあるべきところに収まったような気がした。そこにあるのが、一番、正しいのだと思える場所に。ペン先をインク瓶に沈め、縁で指先が覚えた量にしごく。不要な紙に己の名前を書きつける。同じように並んだ名前と同じ形、同じ大きさであることを確認する。真新しいペン先では線の太さが変わってくる。書き始めるのは物語の転換の場面であるからちょうどよいだろう。ガイドラインを引いた羊皮紙に、最初の単語を書きつけた。
 徐々に埋まっていく羊皮紙をニーアの視線が追う。一単語、一文を追うごとに、先へ先へと引き込まれていく。迷うことなく描かれる文字に、姿勢が前のめりになる。気づいて、何度も姿勢を正す。昼ごろから始めた作業は、日が沈み、月が出てようやく、ナリアンの手が止まった。書き上げた紙を避け、ペン先からインクを拭う。インク瓶の蓋を閉め、ぐっ、とナリアンが背を伸ばした。ぐいーんと背が伸びたように感じるが、固まってしまった筋が伸びただけ。腰をひねり、肩を回し、肩甲骨を意識的に動かす。目を休めるために、まぶたを閉じる。灯りが透けて、視界が赤黒く染まる。こめかみ、目の下、眉の上。眼球に触れないよう、ゆっくり、柔らかく指圧する。トイレにすら行っていなかったことを思い出し、立ち上がる。用を済まして戻ってきて、お腹が減っていること気づく。机の端に置いたサンドイッチに視線をやれば、両手を胸の前で組み、こちらを潤んだ瞳でナリアンを見つめるニーアがいた。ドキリ、と驚きで心臓が跳ねた。今の今まで、本の世界に入り込んでいたせいで、自分と物語の主人公、それと登場人物以外がその場にいるとはちっとも思わなかった。
「……ご飯に、しようか」
 コクコクと頭が落ちるのではというほど頷くニーアに、そんなにお腹が減っていたのか、とナリアンは思った。
『ナリちゃんは、頑張り屋さんです』
 ニコニコと言いつつも不安げに瞳が揺れる。ナリアンが、椅子に座らず、かごとポットを持ち上げたのに、ニーアは不思議そうな顔をした。
『あっちで食べよう』
 自分一人なら、ここで食べてしまうのだが、ニーアがいるので折角なら、と思ったのだ。
 向かい合って、座る。ニーアは机の上。食事の挨拶を済まして、各々がかぶり付く。無言で食べすすめ、あっという間にサンドイッチ一つを食べきる。次の包みに手をかけ、更にぺろりと。二つを食べきった後も、物足りなくて、もう一つ、食べる。それでもどこか、まだ食べたくて。サンドイッチの包みを凝視していたナリアンの手を、ニーアが触れた。びくり、と肩を震わすナリアンに、ニーアの真剣な瞳が刺さる。
『食べたいのなら、食べたほうがいいわ』
 小さな手が、温かいことを知る。
『食べて、熱を生み出すの。体に熱をためるの。それは、あなたを動かす原動力になるわ。ナリちゃんの手、こんなに冷たい』
 ぴっとり、とその体を預けるように、抱きしめて、ナリアンの手に寄り添うニーア。
『使い果たしてしまった力を、回復させて。大丈夫よ、いずれ落ち着くわ。今はただ、欲するままに』
 そういう、ものなのだろうか。しばし逡巡したのち、かごに積んだサンドイッチを取り上げた。ミルクをたっぷりといれたハーブティーを供に、一口かじる。先ほどのように、噛んだと同時に飲み込むのではなく、ゆっくりと味わうように噛みしめる。オリーヴィアの作った、マヨネーズの優しい味が口内をしめる。使い切ってしまったマヨネーズは、もうこれっきり。自然と顎を動かす速度が遅くなる。角砂糖を抱えたままのニーアが、心配そうにナリアンをうかがう。それに、なんでもない、と首を振り、サンドイッチに齧り付く。普段よりもずっと時間をかけて、一つのサンドイッチを食べきる。
 互いに口を開くことはなく、仕事部屋に戻る。同じように、ナリアンは不要な紙に自分の名前を書きつけ、新たな紙に物語を綴っていく。物語の主人公が、転機を迎える、新しくも苦しい場面だった。
 一睡もせず、ナリアンは物語を書きつけていく。その横でニーアは、ナリアンが書き出す一文字をハラハラしながら見つめる。早く早く、続きを読みたい。高いところに開いた窓から、朝日が差し込む眩しさに、ニーアが気づく。ナリアンの手は止まらない。一晩中、その手は止まることがない。物語も佳境に差し迫っていた。手本にしている本も、残り僅か。物語とは別に、急ぐことがニーアにはあった。夏至の日までに、学園にたまごがたどり着くこと。そのための案内妖精であるニーアであったが、ナリアンを急かすようなことは言わなかった。間に合うようには行く、というナリアンの言葉を信じているから。たとえ、もうそれが、無謀な日程だとしても、ナリアンがそういうのであれば、ニーアは信じたかった。その後に、先輩から叱られても、王様から使えない妖精とため息をつかれても。ナリアンの、気持ちの整理がつくまで。だから、ナリアンの仕事の進み具合がいいことに、ニーアは内心胸を撫で下ろした。少しでも、少しでも早く、ナリアンを送り届けたい。天秤にかけた気持ちは、ナリアンに傾いていた。
 書きつけが終った紙をナリアンは丁寧に読んでいた。手本の本と見比べ、誤字や脱字、区切りの位置を確認する。そうして弾かれた何枚かを書き直す。その工程を見ていたニーアには、どこがダメなのかさっぱりわからなかったが、書き直されたそれと見比べてみれば、なんなく良くなったように見えた。その理由は全くわかなかったが。ナリアンの手を止めるのは偲びなく、一人でうんうんと唸りながら何が悪かったのか考えたがわからなかった。まだ些細だけれども違いがわかるものならいい。どこが変わったのか、まずかったのか、わからないことはもやもやと気持ちをくすぶらせる。
 ナリアンの背がぐっと伸びて、吐息を漏らしたのは、朝が空けようとしていた。丸二日、ナリアンは睡眠をとらず、机に向かっていた。それに付き合っていたニーアも、目がしょぼしょぼ、一瞬意識が遠のきかけ、急いで戻ってきているような状況だった。目元に疲労をたたえたナリアンだが、ホッとしたような表情を見せていた。
『終わったの……?』
『あと、まとめるだけ』
『……寝た方がいいと思うの』
 ひどい顔してる。言葉を飲み込み、寝られる? と首をかしげた。ゆるり、と首を振ったナリアンは、緊張が解けたのか、ぐったりと椅子の背もたれに体を預けたまま動こうとしなかった。目を閉じてしまえば、アメジスト色の瞳が見えなくなり、表情が余計に曇る。ニーアは座りっぱなしだった足で立ち上がる。ふらり、と体が揺らぐが、一歩を踏み出しこらえる。ふわり、ふわりと踊るように足を出す。ぐっと、机を蹴り、空を踏む。階段を上るように宙を駆り、ナリアンの顔の目の前に浮かぶ。
『……花が、』
 両手を胸の前で組んで、願う。
『花が咲くように』
 花が咲くように。つぼみが、地平線から昇る陽光をひろいあつめ、じわり、じわりと熱を取り込み、かたくなに引き結んだ唇がほころぶように。だれのためでもなく、だれに強制されるでもなく、私がわたしであるように。たったひとつ、その身を染め、たった一度、咲く。
 組んだ両手をほどいた指の先に、こんぺいとうのような淡い光が生まれる。目の前で歌われた詩を、くるくると回るニーアをまじまじと見ていたナリアンの唇に、そっと光を差し出す。熱に触れたそれが、花の、ほのかな蜜の味を残して消える。すっ、とナリアンの喉をさわやかな風が吹き抜けていく。ひんやりとした波が、指先にめぐる。きゅっと、胃が冷え、すぐに熱が宿る。力の入らなかった指先に、感覚が戻る。先ほどまで、動かせそうにもなかった体が、不思議と軽くなった。ナリアンは体を起こし、最後の仕上げに取りかかる。そんな様子をニーアは、嬉しそうに見つめ、少し寂しそうにうつむき、机の上にスカートをひらめかせて降り立った。
 一冊の本になったそれに、ナリアンは木の小箱から印を取り出した。なんの変哲もない小箱は、写本師である印をしまっておくためのものだった。少しばかりすり減ったように思う印をなぞる。本の裏表紙に自身のサインと、与えられた印を押す。写本師、一人ひとり、印が違う。押すためのインクは、国から支給される特殊なもの。ナリアンの印は花を中心に蔦と鳥がとりまいていた。かすれること無く、綺麗に押されたそれに、どっと力が抜ける。
「終わった……」
 ぐったりと、椅子に背中を預ける。すでに、窓の外は日が差し込んでいた。ぎゅっとまぶたをつむり、反動をつけて立ち上がる。最後のサンドイッチを噛み締め、マグカップを洗い、流し場を乾いた布で拭き上げる。肩掛けカバンに、学園へ持っていくための荷物を詰める。着替えと、オリーヴィアの日記と、筆記用具。膨大なインクと、仕事道具は置いていく。鎧戸を全て閉めて回る。カーテンも、閉めれば、部屋は真っ暗になる。玄関に、荷物をつめた鞄を置き、仕上げた本と借りていた本だけを小さな肩掛け鞄に詰め込んで、教会へ急いだ。ニーアも、ナリアンの後を着いて行く。
 ナリアンは急いでいるつもりだが、体が重く、ぜぇぜぇと息が荒い。走るなど無理難題で、精一杯足を動かしてやっと人並みに歩けるといったところだった。教会に続く道を転ばぬように踏みしめていく。気を抜けば、石畳に足を取られそうだった。ニーアはナリアンの周りをふよふよと心配そうに飛ぶ。気遣いの言葉をかけようか、長く迷っているうちに、ナリアンはやっとの思いでたどり着いた。来た道を振り返る。小高い丘の上にある教会からは、街並みの景色が眼下に映った。屋根の色の間に、花の色が多く見える。緑も心なしか、ツヤツヤとしていた。じっと、街並みを眺めたまま動かないナリアンの横顔をニーアは眺め、前を向く。同じ目線で、同じものを見下ろした。花舞の国を、ニーアはソキと旅をしてきた。その街並みと比べれば、ナリアンの住む街は花が多く、緑も鮮やかだった。花舞う国といえども、国中が花にあふれかえっているわけではない。確かに、他の国よりも花は多い。だが、ここまで色があふれている街は、ニーアの記憶になかった。花の妖精であるニーアにとって、一番、落ち着く街だった。何度も、何度も、風がナリアンを撫でていく。その度に、隣にいるニーアの鼻孔を花の匂いがかすめていく。思い出したかのように、ナリアンがゆっくりと、視線を剥がすように踵を返した。教会の扉の前に立ち、そっと、押し開く。
「……こんにちは」
 小さく囁いた声でも、ふわりと風が声を運んでいく。響くようにナリアンの声がこだまし、ややして神父が顔を出した。
「こんにちは、ナリアン。少し顔色が悪いみたいですが」
 顔を曇らせ、神父はナリアンへと歩み寄る。ホッとしたように、ナリアンは教会へ足を踏み入れた。背中の後ろで扉が閉まる。ゆっくりと、ナリアンも神父へと歩み寄りながら、鞄から本を差し出した。
「すみません、遅くなってしまって」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
 差し出された手に、ナリアンは書き上げた本を置く。ぱらり、ぱらりと神父は一通り確認し、微笑む。
「いつも素晴らしい写しだと思います。次の本を頼んでも?」
 ナリアンは申し訳なさそうに首を振った。少し考え、口を開いた。
「旅に、出ようかと思いまして。いつ帰ってくるかは決めていないんです」
「旅に?」
 こくり、と頷いたナリアンに、神父は驚いた顔をすぐに笑顔に戻す。ナリアンへ報酬の代金を渡しながら、頷く。
「お気をつけて。神の加護がありますように」
「はい、ありがとうございます」
 袋を受け取り、厚みに驚いたナリアンが、神父へ顔を向ける。神父は笑い、見舞い金ですよ、という。返そうとするナリアンから一歩、距離を開けた。
「また、戻られたら、仕事をお願いしてもよいですか?」
 笑みを崩さない神父に、ナリアンは迷ったようにうなずいた。お礼を言いながら、鞄へ封筒をしまう。ペコリ、と頭を下げ、ナリアンは教会を後にした。来た道を急ぎながら戻る。今日中に出発する心づもりであった。途中でニーアのために角砂糖を買い、保存食を買って家に帰る。ナリアンを出迎えた鞄の中に保存食と水筒を押し込み、それぞれの部屋を再度確認して回る。戸締まりと、詰め忘れたものはないか、見て回っていたが、途中でやめた。見れば見るほど、ここを離れるのが嫌になりそうだったからだ。
陽が落ちて、空が赤く染まっていく。反対の裾はすでに紺色をしていた。家を出て、鍵を閉める。鞄の奥底にしまい、開けた場所へと移動する。てっきり、馬車の乗り合い所へ行くのだとニーアは思っていた。迷わず、ナリアンは人のいない方へと歩く。声をかけるべきか悩んだが、すでに馬車で向かったとしても間に合うかどうかと言ったところだった。速い馬車でなければ、星降の王宮へと招きいれてもらえないだろう。
『言ったら、駄目だって言われそうだから、言わないけど』
 立ち止まったナリアンが、ニーアへ手を伸ばした。不安げにその手に乗るニーアをそっとナリアンは引き寄せ肩へと乗せる。
『掴まっていて』
 言葉が終わったと同時に、ナリアンの足元から風が舞い上がった。咄嗟に、側にあったナリアンの襟をニーアは掴んだ。渦を巻いて上へ上へと伸びていく風に、体が浮き上がりそうになる。必死に掴んで入れば、そっとナリアンの手がニーアを押さえた。風が遮られ、ホッとする。
「俺は、星降の国、王宮へ行きたい」
 ずっと強く、風の勢いが増して、暴風が吹き荒れる。木が倒れそうになるほど枝が煽られ、緑がなぎ倒されていく。押し上げる風の力に任せるように、ナリアンは足の力を抜いた。浮き上がった体から力を抜き、天を仰いだ。ひときわ強く吹き上げた風がナリアンの体をさらう。
『な、ナリちゃん!?』
 自分で浮いたわけではない浮遊感に、ニーアが慌てる。一度浮いた体はぐんぐんと空へと投げられた。ぽーんと、空へ放り上げる風が唐突に止み、体が落ち始める。悲鳴をあげたニーアの声をかき消すように、横殴りの風が吹く。背中を押されるように、ナリアンは前へと進む。歯を食いしばって、ナリアンは前だけを見た。力の使い方なんて知らない。魔力がどうやって出て行くのかもわからない。でも、それでも、出来ると、不思議なまでに信じている自分がいた。まっすぐに、空を滑っていく。怖くて下は見られなかった。ナリアンに出来ることは、ただ、信じることだけだった。国境を越えたところで、気持ちが悪くなり、体が落ち始めた。せめてニーアだけは、と思い、胸に抱え込む。地面に叩きつけられるギリギリのところで、風に受け止められる。どさり、と体を地面に転がした。街道を大きく外れ、人の気配はひとつもない。仰向けに転がる。満点の星空がナリアンを見下ろしていた。
「げほっ」
 つまった息を吐き出して、大きく呼吸をする。手足はしびれたように動かなかった。ナリアンの手を除けて、ニーアが顔を出す。ナリアンの目の前まで、飛び、腰に手を当て、眉を吊り上げて怒った顔を見せるが、すぐに眉を下げ、泣きそうな顔を見せた。
『……こうやって、移動するの?』
 頷く力もないナリアンは、ただニーアを見つめた。
『一日前には着ける』
 唇を噛み締めたニーアから逃げるように、まぶたを下ろした。すぐに眠気が失った体力を回復させようと忍び寄る。そんなナリアンにニーアはなにも言えなかった。止められなかった自分に嫌気がさした。ナリアンに怪我がないかニーアは飛び回り確認する。それが終われば、もう、ナリアンは眠っていた。固い地面の上ですらすぐに眠れるのだ。ナリアンの体力が心配だった。ほんの少し、ナリアンに祝福の魔法をかけ、周囲を見渡す。街道と、街を除いた場所はどこも人の手入れがされない無法地帯となっている。ナリアンは私が守る! とニーアは気合をいれ、きょろきょろと辺りを見回す。緊張がずっと続かず、うつらうつらと眠りが襲う。ナリアンの寝息に誘われるように、胸の上で寝てしまった。そうして、ナリアンが起きた気配に、ニーアも飛び起きる。
『寝ちゃった!』
 その声にナリアンはおはよう、と笑みを含んだ声でささやくのに、ニーアはもじもじしながら、返した。太陽はすでに昇りきっており、手櫛で髪を整えたナリアンが、ニーアに角砂糖を渡す。ナリアンも鞄から出した保存食を食べる。湿らせる程度に水を飲み、落ち着いたところで立ち上がる。太陽を眺め、星降の国の王宮への方角を確認する。ニーアに手を差し出せば、迷うように問われる。
『飛んでいくの?』
『……今は、これしかないから』
 掬い上げるように抱え上げ、ナリアンはニーアを肩に乗せる。ぎゅっとニーアはナリアンの服の襟にしがみついた。それを確認し、ナリアンは行きたい方角を見つめる。
「風よ。俺は、星降の国、王宮へ行きたい」
 一言目で、風がナリアンの足元に寄る。言い終われば、同じように空へと放り上げ、押して行く。前だけを見て、空を駆る。いくつかの街を過ぎ、力尽きたように落ちる。人気のない場所だった。眠りについてしまったナリアンに怪我がないか見て回り、ナリアンの胸の上でニーアは警戒する。まだ陽は落ちていなかった。徐々に暗くなり始め、不安が胸を覆う。間に合うのか、というよりは、ナリアンが無事であるのか、ということだった。王宮までは、まだ距離がある。ニーアは、街道沿いを飛んできたため、この場所は知らない。どの辺りか、と問われても、いくつも過ぎていった街の名すらわからない。
『ナリちゃん……』
 眠るナリアンの頬を撫で、眠りについた。何事も無く、朝を迎え、ナリアンが食事をとる。ニーアもその横で、たんまりと差し出された角砂糖を食べる。食べ足りないのか、ナリアンは腹を押さえ、考えこむ。当然だ。自分の身とはいえ、一人ひとり飛ばしているのだ。力の使い方も知らず、その身が万全でもないにも関わらず。三日分の量だとしても、足りはしないのだろう。ぼんやりと浮かぶナリアンの魔力が、赤々と燃えていた。ナリアンの荷物を覗き込み、食料の残りを見る。三日の三食分、と思って持ってきたのであろうそれは、一回しか食べずとも、きっちり二日分なくなっていた。どうみても、少なかったのでは、と思いつつも、持ち運べる量に限度があった。ナリアンを仰ぎ見れば、視線に気づき、困ったように微笑む。
『角砂糖、食べてね』
 ニーアの分の角砂糖は、潤沢にナリアンは差し出してくれた。飢えることがないようにと、それはもう、十二分に。
『ありがとう』
『……本当に、ほんとうによ? ナリちゃん、食べて』
 押し付けるように、角砂糖が入ったビンを押し付ける。そんなもので、ナリアンの腹が膨れるとは到底思えないが、少しでも助けになりたかった。あんまりにもニーアがむくれるものだから、ナリアンは苦笑しながら、一粒、角砂糖を食べた。口の中の水分を吸い取って、ぼろり、と崩れていく。甘い唾液を飲み込み、喉の奥へと放り込む。じっと見つめてくるニーアに笑いかければ、もっと食べてと言わんばかりに、ビンを押し付けてくる。請われるまま、一粒、二粒、食べれば一応は満足したようだった。ビンを鞄にしまい、立ち上がる。方角を確認し、飛び立った。
 同じように、地面に落ち、同じように、飛び立ち、ようやく、ナリアンは星降の王宮にたどり着いた。落下してきたナリアンに、城門を守る兵士たちがざわめく。ふわり、と足から降り立ったナリアンは、よろめきながら、歩み寄る。見たことのない青年に、兵士たちは警戒を露わにする。
『あの』
 掠れた声が、脳に響くのを兵士たちは疑問に思わない。静止の声をあげるが、よたよたと目の前の青年は歩いてくる。声をあげようとして、後ろから肩を叩かれ振り返れば、王宮に務めている魔術師が立っていた。戸惑いながらも道を開ければ、その魔術師はナリアンに声をかけた。その声に、ナリアンは膝から崩れ落ち、案内妖精が泣きながら飛び回る。そして、迎えに出た魔術師の首元を掴み、助けて、と叫ぶ。額を押さえた魔術師は、ナリアンに言い、後ろから走ってきた他の魔術師に向かって指示を飛ばす。
「星降の国、王宮へようこそ……ナリアン? 歓迎する。フィオーレを、砂漠の国、白の魔法使いを呼べ」
 魔術師の声を聞かないまま、ナリアンはベッドの上の住人となった。

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