「ロリ先生」
開け放たれた扉から、ソキはひょっこりと覗きこむ。椅子に深く腰掛け、書類を見つめているロリエスが顔を上げる。目元を緩ませ、どうした? と聞いてくる声に、ソキはそろりと部屋に入った。じぃっとロリエスを見つめながら口を開く。
「今日は水曜日なんですよ」
「ああ、水曜日だな」
「ナリアンくんは、まだですか?」
「ん。まだだな。約束だったな、茶を出そう」
交わした約束を果たすべくソキのために椅子を移動させようと席を立ったロリエスに、ソキは手を差し出した。その手を不思議そうにロリエスは見つめ、首を傾げる。
「部活動は、部室でするものなんですよ」
案内するんですよ、とロリエスの手を握り、ソキが引っ張っるのにあわせてロリエスは歩き出す。ちらりと隣室にいるナリアンが過ぎったが、ソキの手を振り払えなかった。ソキの歩みはゆっくりで、ロリエスは足をもつれさせそうになる。こんなにゆっくりと歩いたことは物心ついたときからなかったように思う。いつもきびきびと足早に移動していく。幼少の時からの習い事や、次から次へと来る父親の客人への顔見せ、教室の移動に、ふわふわとどこかへ行ってしまう師匠を捕まえるため、仕事に追われるようにあちこちへ出向くこと。そんなことが積み重なったといえども、癖というよりは、性分に近いもので今更それを直せるものでもなかった。大きくなりがちな歩幅を狭く、ゆっくりと足を動かす。ソキの歩みにあわせて、ゆっくりと。ソキを蹴らないように、踏まないようにとソキの後ろ頭ばかりを見ていた。小さな背で、ロリエスの前をゆく。守ってやらねばと思うような背格好をしているくせに、なぜだか今は姉のようにも見えてしまう。ぴたり、と歩みを止める背に考え事をしていたせいで、ぶつかりそうになるのを堪える。
「ここなんですよ」
茶会部の部室と書かれた白い紙が花飾りで彩られた扉を、ソキはうんしょ、と開ける。一歩中に入り、ロリエスを見上げ、招き入れた。
「茶会部へようこそなんですよ、ロリ先生」
「ああ、お邪魔するよ」
一歩、室内に踏み入れればそこは、やわらかな空間だった。太陽の光がふんわりと差し込み、レースのカーテンがゆらゆらと揺れている。中ほどに設けられた机と椅子は、アンティークのものだが、綺麗に磨き上げられてツヤツヤとしていた。長椅子にロリエスは座り、ソキがティーカップに注いでくれる。向かいのクッションがたっぷりと置かれた長椅子へ腰かけたソキに礼を言いながら、カップを持ち上げ一口飲む。カモミールの香りが鼻孔をくすぐる。茶請けにと、ナリアンの焼いたクッキーが差し出される。大きなガラスの瓶に入ったそれは、三分の一ほどしか残っていない。ロリエスがナリアンに渡されていたクッキーはもうなくなっていた。あんずや、ナッツが散りばめられたクッキーを口に運ぶ。優しく、ほろりと崩れていく。
「うまいな、茶もクッキーも」
でっしょぉ! と嬉しそうに胸を張るソキに、ロリエスは微笑む。ソキもカップを持ち上げ、コクリ、と飲む。両手でクッキーを持ち、小動物のようにちまちまと食べるのを見て、ロリエスはもう一口、茶をすすった。
「俺も欲しいな」
ぬっと、ロリエスの背後から寮長が顔を見せる。ビシリ、とロリエスが驚きに固まる。気配を感じなかったというよりは、気配を感じられないほどに気を緩めていた事実に、ロリエスは焦った。目の前のソキは最高に嫌そうな顔をしている。それがおかしい、と笑う余裕もなく、ロリエスは驚きで張り付いた喉を引き剥がした。
「ノックもなく入ってくるやつにやるクッキーなどない」
「……それは失礼した。開きっぱなしだったもので」
空気の流れで確かに開いていたことをロリエスは知った。そうであれば、咎めることは難しい。気を緩めれば、そのまま隣に座ろうとする寮長をロリエスは牽制した。
「つれないなぁ、俺の女神は」
「誰がだ」
「ロリエス以外にいるとでも?」
あえて返事はせず、目の前のうまいお茶とクッキーを無心で食べるロリエスを寮長は嬉しそうに見つめる。ロリエスが、そうやって肩の力を抜き、茶を飲みクッキーを食べるのが嬉しくてたまらない。すぐに根を詰めたがるので、そういった姿は純粋に嬉しい。ロリエスからようやっと視線を外し、寮長はソキを見やる。まだまだ嫌な顔をするソキに寮長は口を開いた。
「この席の主はソキだったな。呼ばれたいんだが」
「お断りなんですよ」
間髪入れずにソキは寮長を拒否した。それにめげることもなく、長椅子の背に肘をつきながら、別にいいだろう茶ぐらい、と食い下がろうとしたが、ロリエスに一瞥され飲み込んだ。代わりに、とロリエスの顎を掬い上げ、レンズを通さないで黒の瞳を覗き込んだ。
「ロリエス、お茶してくれないか」
「断る」
にべなく拒否されるが寮長はめげたふうもなく、仕方ないなぁと肩をすくめた。椅子に座る女二人の視線に押されるようにして渋々寮長は出て行った。その姿を見送り、ロリエスは立ち上がり扉を閉め、ソキと再び向かい合わせに座った。
「寮長はずっとあんななんですか」
「そうだな」
本当に嫌そうに眉をひそめるソキに、ロリエスは笑う。
「……ロリ先生は寮長のこと、どう思ってるんですか」
じっとり、とソキはロリエスを見つめながら聞く。それに視線を合わせないまま、ロリエスは、クッキーを食べた。
「ところでソキはロゼアのこと、どう思ってるんだ?」
露骨に話をすり替えたロリエスにソキは怒るどころか、大好きなロゼアのことを聞かれて、どうでもいい、むしろ意識の中に置きたくない寮長のことは綺麗さっぱり忘れた。
「ロゼアちゃんはぁ、えっとですねぇ」
ロゼアの格好いいところや好きなところを指折り次々と上げていくソキにロリエスは、そうかそうかと頷く。やんやん、と頬に手を当て身をくねらせながら身悶えるソキに、相槌を打てば、ソキはますます饒舌になっていく。そうしていれば、ソキのお迎えが来て、お開きとなる。別れ際にソキに来週も、と約束させられる。来週も、まだナリアンが帰ってこなかったら。それに頷き、茶会部の前で見送る。来た道を思い起こそうと、天井を見上げる。ソキの後ろ姿ばかりが蘇って、自然と笑みがこみ上げる。窓から周りの景色を覗き込み、ここが錬金術師が実技授業でごくたまに使う授業棟の一室であることを知る。ソキに手を引かれていた時の速度を思い出しながら、ゆっくりとと言うよりは、のろのろと借りている部屋へと戻る。ひとり、ナリアンがこもる部屋の前に立ち、こつんと額を扉に預ける。
「ナリアン、ソキが待ってるぞ」
聞こえないとわかっていても、声をかけたかった。どうか無事に、早く顔を見せて安心させて欲しいと、願う。先ほど自分が感じた安らぎを、ナリアンに味わって貰いたかった。
「……お前に、花の加護がありますように」
朝を迎え目を覚ませば、ナリアンは背中に妖精を乗せ空を飛び始めた。ぐんぐんと空へ上がり、まっすぐ器の終端を見つけるために飛ぶ。城から離れてしまえば、淡々と荒野が続いていく。生き物の姿もなければ、草木の一本もない。赤茶けた平たい乾いた大地がひたすら広がる。昼夜もなく二日飛び続け、やっとナリアンは、終わりを見つけた。すっぱりと大地が切れていて、その先はただ闇が広がっていた。言われずともそれが、器のふちであることがわかる。そこから時計回りにふちに沿ってナリアンは飛ぶ。時折胸元で鈴がリーンと鳴る以外、音はなかった。途中で何度陽が昇ったか数えるのをやめてしまった。綺麗な円でも四角でもなく、ボコボコとした国で、大きく欠けている箇所もあった。ようやく、一周を終え、今度はぐるりぐるりとふちから渦を巻くように国を見て回る。ナリアンの器の中心は城が鎮座していて、景色が豊かであった。大地は隆起し、水が流れる。草木が生え、人がいる。建物が立ち並ぶが、城下街以外に街はなく、緑は一つもなかった。
器は国。風駈(かざかけ)の国。そこにある魔力を表すのは、豊かさ。まだまだ少しだけであるそれは、どこまで蓄えられるのだろう。ナリアンの体調が安定しないのは、この国が戦をしているからか。国が器など、途方も無いほどの力だと、ナリアンは思った。ロリエスでさえ、井戸だった。話に出てきた湖が一番大きかった。正確な大きさは分からないが、それは一国が沈むほどの大きさだろうか。ただの赤茶けた大地ではあったが、最初にガトアと出会った場所、妖精と出会った場所はピンと、心が跳ねる。休むための木々はなく、ただひたすら、ナリアンは飛び続けた。器を見て回り、妖精がうろの中にいた大樹へとたどり着く。枝に止まってようやく、その大樹がナリアンの杖であることに気づいた。幹に寄りかかり、目を瞑る。轟々と、水を吸い上げる音が聞こえてくる。生きている証の音。その音に流されるかのように、久方ぶりの眠りについた。そっと寄り添う妖精を羽で抱き寄せながら。
ざわめく人の声でナリアンは目を覚ました。大樹を遠巻きに眺めながらも、人が集まっていることに気づいた。ナリアンは自分が鳥であることを確認していると、妖精も起きだし、辺りを不安げに見回す。不快な気持ちになりつつあるナリアンは、翼を広げ、飛び立とうとした。妖精を背に乗せ今まさに空へと駆け上がろうとして、風に絡め取られ墜落した。驚き身を起こそうとするが、押さえつけられたように体は動かなかった。地面で暴れるナリアンに恐れることなくひとりの男が近づいてきた。首を巡らせ、威嚇しようと睨みつければ、その男はガトアだった。途端に決意が揺らぐナリアンを、ひょいと掴みあげ麻袋へ放り込みきゅっと、口を閉じてしまう。暴れるナリアンを物ともせず、ガトアは馬に乗り、あっという間に王城へと戻っていった。ナリアンから引き離された妖精は、怒りに身を震わせ、慌てて飛んで行く。ガトアは確かに妖精が見えていた。見えていたからこそ、引き剥がされたのだ。
ぐらぐらと揺すられる動きにナリアンは天地左右がわからなくなり、気持ち悪くなった。ぐらぐらと揺れる体と頭と精神が一致しない。ぐったりと、麻袋に身を委ねたまま次にたどり着いたのは、鳥かごの中だった。ぺしょり、と籠の中で倒れ伏し周りの状況を伺うこともできない。なんのためにここに連れてこられたのか全くわからなかった。これから自分の身がどうなるかなども、まったく。ぐわんぐわんと響く頭で、ゆっくりと魔力の在り処を見定める。巡る魔力の速度を故意に落とし、安静を保とうとする。その中で、首元に下げていた鈴がなくなっていることに気づいた。体を変えても変わらずそこにあった鈴がない。がばり、と身を起こせば視界がぐるぐると回る。構わずにパタパタと探ってみても、己が入れられている籠の中にはなかった。どこまであったのか、と思い起こしてみてもそれはわからなかった。リーンと、涼やかに鳴る音はもうナリアンの耳に馴染んでしまっていて、特別に思いを抱かなくなっていたのだ。ロリエスから渡されたそれは、どこか無くしてはいけないものだと思っていた。不安が膨らむ。急に、この世界が怖いものに見え始めた。懸念も、恐怖も全く思っていなかったのに。鈴一つがなくなった途端、辺りに光がなく帰る道がわからなくなってしまったかのようだった。
「どうしよう」
呟いた自分の言葉にさえ不安が煽られていく。そうやって一人の世界に入り込みすぎていた。
「気づいたのか」
突然かけられた声に、ナリアンの身が跳ねた。おそるおそる窺うように振り返れば、扉に半身を預けたガトアが立っていた。ナリアンと一緒にいたガトアよりも若い印象を受けた。刺さる青い瞳は、澄んでいて冷たい印象を受ける。ゆっくりと扉から体を離し、ガトアはナリアンに向かってくる。伸ばされた腕は籠を揺らすように掴み、ガトアの顔がナリアンの目前にまで迫る。
「何をした、魔術師」
地を這うような声にそんな声も出せたのか、と驚きが先に立つ。ただ、何をしたと問われても、ナリアン自身に覚えはない。沈黙を貫けば、舌打ちとともに籠から手が離れていく。ゆらゆらと揺れる籠に、吊られた籠だと理解した。吐き気が助長される。腕を組みイライラと指先で己の腕を叩く姿を見つめる。その視線に眦をつり上げ、ガトアは苛立ちをぶつけるように籠を叩いた。あまりにも大きく揺れる籠にナリアンは体をぶつけ、痛みをこらえていれば、肩で息をして落ち着こうとしているガトアが悔しそうに呟く。
「なんで、なんであいつなんだ」
その言葉に、シリウスが目覚めたのだろうとナリアンは推測した。同時に、目の前のガトアも、魔術師として目覚めてしまったのだと気づいた。そのことに、ガトアはまだ気づいていないようだが、そう遠くないうちに知るだろう。じっと、ナリアンはガトアを見つめた。うっすらと、だが小さく確かに腹の辺りに赤々と燃える火種が見えていた。それは色を変え、流れを変え、形を変えて渦巻いていた。
「なんとか言え!」
ガシャン、と籠を叩く腕に一瞬、視線がそれる。再びガトアの腹に視線を戻せばそれは僅かに大きくなっているようだった。じわりじわりと広がっていくそれに、ガトアの言葉を思い出す。時代が時代なら魔法使いと呼ばれていた。それはナリアンがそうしたからではなく、そうであった過去のことだ。いつの間にか、この国は滅亡へと進んでいることにナリアンは思い至る。器の国が滅びることは、すなわち何を意味しているのか。器のない魔術師の魔力はどこへいく? ふるり、と羽が膨らむ。熱をためるように、羽が広がる。滑る籠の床に、ナリアンは立った。天井に頭が着きそうなほど狭い籠だ。ひたと、ガトアを見つめる。
「あなたも、魔術師か」
「は?」
「あなたも、魔術師だ」
「なにを」
「俺が決めるのではなく、俺がそうしたのでもなく、これは全て終わっていること」
変えられるのは、未来だけ。
「王女に、ロリエス殿下に会わせてくれ」
ナリアンが望めば世界は応えてくれる。この器の中であれば、どんな願いでもきっとそれは叶う。無理矢理にでも、この籠を抜けて行くことはきっと可能だ。でもそれでは駄目なのだ。人を動かさねば、何も変わらない。
「お前のようなものを、王女殿下の御前に通せるわけがないだろう」
「ならば、何も変わらない。あなたも、シリウスも、王女殿下も、この国も、全部」
消えてなくなる。ナリアン自身も。恐らく。
「……チッ」
籠を引っ掴み、揺れるのさえも構わないままガトアは部屋を飛び出した。ナリアンは狭い籠の中で出来るだけ打ち付けられないよう努力をするが、体のあちこちが痛む。この籠を出たら絶対につついてやる、と心に決める。取次に取次を重ね、ようやく王女に会えることになったらしい。これでも破格の早さだとガトアは言う。部屋に通され、ナリアンはキョロキョロと見渡す。ゆっくりと扉が開き、王女が部屋に入ってきた。
「ナリアンさま!?」
開口一番、籠の中に入ったナリアンを見つけ駆け寄る。姿形が全く違うというのに迷いなく王女はナリアンを見分ける。一度見た魔力は忘れないというのだろうか。ガトアが止める間もなく、籠の扉を開け、ナリアンを外に出した。
「殿下!」
「お怪我はありませんか、ナリアンさま」
ガトアのことを気にも留めず、王女はナリアンに怪我がないかを確認していく。一通り確認し終えたところで、ガトアを睨む。
「魔法使いさまになんてことを」
「それならば、なおさら! というか、なぜ捕まえておかない!」
「お二人とも」
言い争いに発展しそうな二人をナリアンは止める。口を止めた二人は、気まずそうに視線を逸らす。先に口を開いたのは、ガトアだった。
「俺は、シリウスを助けたい」
ひたと、王女の目を見つめガトアは言う。負けじと王女も見つめ返す。
「私だって」
でも、と王女の表情が曇る。
「私は、この国の王女だわ。彼だけを特別扱いできない」
「でもそこの魔法使いは逃がしたんだろう」
「ナリアンさまは」
「違わない」
ナリアンはおもむろに羽を広げ、ばさりと飛び上がった。その音に反応したガトアが腰に手をやるが、そこに剣は無い。ツイッと宙を滑り、ナリアンはガトアの頭をつついた。
「いっ」
涙目で睨むガトアに、ナリアンはフン、とそっぽを向く。一回では心は晴れないが仕方がない。本題に移らねばならないのだから。ガトアの肩に止まり、王女に向き直る。
「殿下は、この世界をどうされたいのですか」
「私は、私はこの世界を変えたい。誰も悲しまない、世界に。魔術師だけではない。この世界に住む人々が、飢えることも、戦争で殺されることも、殺すこともない世界に」
「そうであるのならば、急ぎましょう。あなたには、それが出来るはずだ」
とん、とガトアの肩からナリアンは飛ぶ。ぐっと姿勢を変えれば、骨格が変わっていくのがわかる。巡る血の量が増え、皮膚が滑らかになっていく。体毛が髪へと集約され、やわらかな靴底が床を踏む。身を包むのはずしりとした隊服だった。肌に触れるそれがいいものだとわかる。ガトアが信じられないものを見るかのように目を見開いていた。部屋の隅に置かれた鏡が、ナリアンを映し出す。褐色の肌に、アメジストの瞳。普段と違うのは、腰まで伸びた銀髪とその髪質が癖の無いまっすぐな髪であること。どこか雰囲気は、ナリアンの知るガトアに近かった。髪の色も、瞳の色も違うのに、似ていると思ってしまった。そうして、気づく。目の前の王女がロリエスの前世、シリウスが寮長の前世であるのならば。
「俺は、あなた、ということになる」
くるり、と振り返りガトアを見つめる。ぽっかりと、口を開けたままのガトアはナリアンを見つめていた。鳥が人の姿になったのだから当然であろう。ナリアンの独白にも返事をしなかった。
「私は、私は、どうしたらよいのでしょうか」
震える声にナリアンは王女を見据える。ロリエスよりも華奢で、まっすぐに不安を伝えてくる。この王女のようにロリエスも不安を隠さなければもっと生きやすいだろうにと思ってしまう。もっと、側にいるものを頼ればいいのにと。ナリアンの視線にたじろぎそうになるのを王女は耐える。最初に見た時よりも、ぐっと大人びてしまったのは髪と服のせいだけではない気がしていた。目の前の魔法使いが来ている服は、風駈の国の最上位の軍人が着るものだった。今、この国でそれが着られるのは国王である父だけのはずである。すっと伸びた背筋に、長い銀髪はその服装も相まって王子のようにも見えた。
「私に、望んでください」
王女に手を差し出し、ささやく。突然来訪したあの時は違って、王女は正装をしていた。略式であるのだろうが、王女として人前に立つための格好をしていた。ふんわりと広がったドレスに、ささやかな装飾。パーティーの時に見たロリエスよりも、やはりずっと儚げに映る。
「ナリアンさまに、望む……?」
「ええ、なんなりと」
おずおず、と言ったふうに王女は手をナリアンに伸ばした。その手を遮るように、ガトアがナリアンを押しのけて王女の前に出る。王女を背に隠しながら、ガトアはナリアンを睨んだ。
「殿下をたぶらかす気か」
「……どうして?」
「お前は、この国の人間ではないのだろう!?」
「だから?」
「……っ、王女の望みを聞いて、それからどうするつもりだ! 他国にでも情報を売る気か!?」
「叶える。それ以上でも以下でもない」
ナリアンの目線にたじろぐガトアを、王女が押しやる。
「なんでも、ですか」
「なんでもです。世界を滅ぼせ、と言われるのであればそれも、承りましょう」
迷うように視線を彷徨わせた王女は、決心したようにナリアンを見つめた。一言、ひとこと、確かに告げる。
「この国を、世界を、壊してください。争わないと決めた国だけを残して、魔術師達を人として扱ってくれる国だけを残して」
びしり、とどこかに亀裂が入った。ぐっと、ナリアンの喉が鳴る。ずん、と体が重く鉛のようになった気がした。500年前、世界が割られたように、ナリアンの器もまた、その運命をたどるのか。この国は大戦の最中で消えた。一つのかけらも、その歴史に残すこと無く、忘れられていった。この国をなくせば、きっと死ぬ。器をなくした魔力は、ナリアンの体を食い破り消えるか、ナリアンという人間を形成できないまま崩れるか、どちらかであろう。それでも、ナリアンは目の前の王女が望むことを受け入れる。
「あなたが」
「待て、待ってくれ」
遮ったのはガトアだった。ナリアンの知らないガトア。この国の行く末を知らないガトアである。
「この国は、どうなる」
「滅びます」
凛とした声で王女は答える。その中に自分の死も含まれていることを恐れているふうには見えない。
「私は、私だけが生きようとは思わない。魔法使いさまに、その責を負わそうとは思いません」
「シリウスは、シリウスだって」
悲しげに眉尻を下げ、首を横に振る。
「この国は、戦争をやめようとはしません。ガトア」
王女の指が伸び、ガトアの胸を突く。一言、この国の誰しもが恐れる言葉を、王女は吐いた。
「あなたも、魔術師です」