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 疾風に勁草を知る 09

  軽い音を立てて、世界が割られていく。ほんの少しの隙間を開けて、風駈(かざかけ)の国は、隣国より切り離された。世界と争うことのなくなった国に、ナリアンの器はなった。風が巡っていく。世界を渡っていた風は、ぐるりぐるりと、ナリアンの器を回る。どこかで、花の芽の大地を割る音が聞こえた。
「世界は、変わったのでしょうか」
 なにも変わっていないように見える国の中心で、ぽつり、と王女が呟いた。
「少なくとも、この国は変わった」
 ガトアが、拳を握りしめ王女を見返す。ナリアンは、空を見て、風を聞いていた。視線を巡らせ、変化を感じようとしていた。そして、見つける。
「鳥だ」
 ナリアンの声につられるように、王女もガトアも空を見上げた。一羽の鳥が、雲一つない大空を羽ばたいていた。灰色に満ちていた空はいつの間にか晴れ渡っていた。王女へとナリアンは視線を戻す。
「行きましょう。もう、出兵は要らない」
 ハッとした王女は、ガトアを見やる。ガトアも王女を見返す。
「シルは、シリウスは助かったのでしょうか」
 不安げに揺れる瞳からガトアの目線は外されない。青の瞳はふわりと笑う。
「魔法使い。割られた国からは、他国に行けないのか」
「行けない。向こうから来ることもない。迎えに、行きますか?」
「……行けるのですか」
 頷き、ナリアンは集中する。思うように、体を、血の巡りを変え、翼を広げる。体が変わることに、慣れつつある身に、覚えていた恐怖はどこかへいってしまった。人でないかもしれない、その困惑も、だからどうしたと、思えるほどに心が落ち着いていた。ばさり、と翼で空を撫でる。両手両足が地に着き、背中に羽が生え、体は羽毛が覆う。馬よりも、足が太く、背が低い。人が二人、悠に乗れそうな大きさの体。グリフォン、と呼ばれる生き物へとナリアンは変わる。唖然とする二人に乗れ、と膝を折る。妖精はナリアンの首筋に掴まっていた。王女が先に動く。慌てて引きとめようとするガトアを振り払い、そっとナリアンの首筋を撫ぜる。
「温かい」
 頬を寄せ、またがろうとする王女を、ガトアは後ろから持ち上げ、横向きに座らせた。ひらり、とガトアもナリアンの背に乗る。
「落とすなよ」
「よろしくお願いしますね」
 ぐっと体を起こし、ナリアンは目をつむる。珊瑚の色をした瞳を、思い浮かべる。風がナリアンを呼ぶ。翼を開き、地を蹴るのと同時に、羽ばたく。二回、三回と宙を蹴る度、ぐんぐんと空へ上がっていく。体を倒し、導かれるまま空を滑っていく。すぐに一団が見えた。ナリアンは集団の先頭へ降り立つように降り始める。空からの来訪に気づいたものが騒ぎ始める。ひとりが武器を構え、魔力を放とうとするのをナリアンは翼で風を起こし、押し倒す。ゆっくりと、地面に足を着き足を折る。飛び降りるように王女が駆け出していく。ざわめく集団から、一隊を率いる隊長が飛び出してくる。
「殿下!?」
「この行軍は中止です、王都へ戻りなさい。責任は、私が取ります」
「しかし」
「同じことを言わせるつもりですか」
 団の後方から、通してくれ、と手枷をはめられたシリウスが出てきた。傷だらけで、服はぼろぼろだった。腰に佩かれた剣のトパーズがきらめく。その眩しさに、ナリアンは目を細める。どれだけ傷めつけられても、どれだけ傷を負っていても、シリウスの背筋は伸びていて、堂々としていた。
「殿下……どういうことです、俺たちは国のために」
「……この国は、もう世界の一部ではありません。この国は、この国だけで生きていきます。誰からも侵略されることのない、ただひとつの国として」
「何を」
「世界を割りました。徐々に、世界は一つずつの国になります。そうして、手を取り合える国だけが、また世界を創ります」
 ざわり、と動揺が広がっていく。戦争に行かなくてもいいのか、と言う声と、これからの不安。貿易もなく、たった一国で生きていけるのか、この国から出て行ってしまったものとはもう会えないのか。不安が不安を呼ぶ。
「みなさんは! 私たち王家を守ってくださいます。私たち王家は、それに応えなければなりません。国を、みなさんが帰る地を、私は守りたい、いいえ守ります」
 凛と響き渡る声は、風に乗り遠くへと運ばれる。国の端から端へと、思いが走っていく。シリウスは、くるりと背を向けた。呆然と立ち尽くす、隊長へと向く。肩を落とした彼に何を言うでもなく、シリウスは口を開く。
「撤退だ、隊を戻す」
 その声に、ひとり、ふたりと背を向け王都へと向き直り始める。シリウスが先頭を行き、ガトアが続く。その背を王女は見送り、ナリアンの背へと乗る。ばさり、と宙へ駆け上がる。動き始めた隊を見下ろし、ぐるりと、国境を確認し、王都へと駆け戻る。
 白の、そびえ立つ城は陽の光にきらめいていた。陽の光によって、白にも橙色にも、青にも変えていく。美しい城。そのバルコニーに、ナリアンは降り立つ。城に近づいたところで、矢を放たれかけたが、背の王女が見えたのか、射られることはなかった。
「……着いて来て頂けますか」
 ナリアンの首に抱きつき、王女は呟く。グリフォンの姿からただの人へとナリアンは姿を変える。その姿は、この世界に来た時と同じ服装、髪型。落ちそうになる妖精を支えながら、ナリアンの胸元ぐらいしか背の高さがない王女に手を差し出し頷く。
「あなたが、そう望むのなら」
「……私は、ダメな王女でしょうか」
「どうして?」
 深く呼吸をした王女はナリアンを見上げる。優しく、夕焼けと夜の境目の色をした瞳が見下ろしていた。その甘さに、優しさに、ぎゅっと胸が押しつぶされる。
「魔法使いさまに、ナリアンさまに、頼ってばかりです。己の手で、人を、国を、動かせない。愚かだとお思いでしょうか。たった一人の男を捨てられない、ただの女である私を。一国を背負うには相応しくないと」
 下を向く王女の頭をナリアンは胸に引き寄せた。ゆるりと撫でる。綺麗に結われた髪を崩さぬようにと、慎重に。頑張りすぎる細い肩を温めるように触れる。するりと力を入れたままの、しゃんと伸びた背を助けるように腕を添える。多分、きっと。時代が時代で、タイミングがあったなら、きっと。ナリアンはロリエスに、王女に恋をしたのだろう。愛おしいと思う気持ちは、妖精へ。慈しみたいと思う気持ちは、たった一人に捧げる。
「あなたは、タイミングを勝ち取った。なにもしていないことなんてない。あなたがここまで進んできた。あなたが、進めて来た。あなただからこそ、俺は力を貸している。他でもない、あなただから」
 ぎゅっと、ナリアンの背中の服が握られる。
「さあ、まだ終わってはいません。あなたにしか出来ないこと、あなたが望むことを、叶えに」
「……はい」
 王女はひとつ頷き、扉を見つめる。バタバタと騒がしくなった外にナリアンは魔力を這わせ始める。床一面に、水浸しになるように。満遍なく。入室の許可を求める問いかけはなく、いきなり扉が開かれる。打ち込まれた火の玉を、ナリアンは打ち返した。ガン、と扉の向こう、跳ね上がった火の玉は高い天井にあたった。その勢いのまま、ナリアンの風が怯んだ魔術師もろとも兵士をなぎ倒す。咄嗟に背にかばった王女をナリアンは見た。差し向けられたそれに怯えることなく、毅然と前を向いていた。ナリアンの背から出ていき、怯える兵士たちに見向きもせず、王の元へと進んでいく。その後ろをナリアンは魔力を纏いながらついていく。先へ後ろへ、蛇のように魔力が這う。
「陛下」
 大きな扉の前で、王女は立ち止まり声をかける。すっと扉が開き、王座に座る男を正面にとらえた。
「世界を割ったのか」
「はい」
「ばかめ。戦争に勝てばいくらでも贅沢をさせてやれるのに」
「要りません。人の悲しみの上に出来上がった贅沢など」
 吐き捨てる王に王女は一歩踏み出した。玉座の間を守る近衛兵が槍を交差させ、王女の行く手を阻んだ。
「どきなさい」
 鋭い声にも、近衛兵は一歩も引かない。王と王女で睨み合いが続く。
「お前はもっと賢いと思っていたよ」
 すっと、右手がかざされ振られる。槍の穂先が王女へと向けらる。
「王とは! 王とは、民を思い、国を思い、良き方へと導くものではないのですか!」
「やり方は人それぞれであろう? 私はこの国を栄えさせたい。一代で栄華を極めるには戦争が手っ取り早いとは思わんか」
「戦争は憎しみを生みます」
「ただ生きていくだけでも同じだ、かわらんさ」
「お父様!」
「ロリエス、お前も王女であるならば大意を見たらどうだ? 牢に放り込め」
 突き出される槍から守るように、ナリアンは王女の腕を引き、背後にかばった。足元に渦巻いていた魔力が風の壁となり、穂先を弾く。集まり始める近衛兵にナリアンは手を宙に向ける。何もない空間を撫でるように円を描けば、杖が現れる。握りしめ、床を打つ。澄んだ音は、大気を震わせ、人々は足を止めた。
「我が名はナリアン」
 口をついて出た言葉に、ナリアン自身が驚く。ぐっと、息を飲み、王をひたと見つめる。
「この国の守護者なり」
 リン、と胸元の鈴が鳴る。押されるように、気持ちが前に出る。
「風駈(かざかけ)の国、王たるは、我が身の反映を切に願うものを望む」
 ナリアンの足元から、旋風が巻き起こる。魔術師の象徴であるローブをはためかせ、立つ。
「我が守護たるは、風。幾星霜、この地を護り、慈しんできた。今、この時をもち、我が主君たる王を選ぼう」
 短い髪が、風に煽られかき乱される。すでに室内は暴風が吹き荒れていた。ナリアンの背後にいた王女は、かろうじて立っていたが、その後ろにいる近衛兵すらも立てるものはおらず、槍にすがりつきうずくまっている。その後ろから駆けて来る人影も、風の範囲に入れば、一歩進むことすらも困難なようであった。
「殿下!」
 ガトアとシリウスの声が交差する。その声に、王女は振り向き、風にすくわれる。ふわり、と浮き上がり叩き付けられようとしたのを、ガトアの魔法が抱きとめる。緩んだ落下速度に、シリウスが滑りこむ。身を挺してかばい、ガトアがそれに駆け寄る。風の勢いは増していく。ナリアンの、アメジストの瞳が爛々と輝く。ばたばたと裾がはためきながらも、ナリアンは前を見据える。
「お前!」
 ガトアの声も、シリウスの声もナリアンには届かない。ゆらり、とナリアンの線が揺らぐ。ちらり、とナリアンが二人に視線をやるが、その瞳には温かさはなく、ガラスのような輝きだった。どちらともなく、息を飲み震える。魔法使い、と呼んだ王女の言葉がよみがえる。到底、目の前の存在には敵わないのだと。震える足を叱咤しながら、ガトアが立ち上がろうとしたのを、王女の手が止めた。シリウスから、よろめきながら王女は立ち上がる。
「あなたが、魔法使いさまが、王を選ぶ、というのですか」
 王女を紫紺の瞳が見据える。
「我が国を、守ってくださるのですか」
 ぐっと、風が王女を押しやるように吹く。王女は腕の一振りで、それを払ってみせた。
「ならば、私は民に誓います。争いのない、豊かな国をつくると。誰もが飢えもしない国をつくると」
 肩越しに見つめていた王女からナリアンは視線を外し、玉座に座る王を見つめる。その王は、なにも言うことはなく、誰も王を支えることはなく、ひとり、その玉座を守っていた。一歩、ナリアンは踏み出す。魔力が及ぶ範囲がそれにつられて、動く。重圧が王女から除かれていく度、王に負荷がかかっていく。屈強な近衛兵すら立てない風の渦の中、王女はよろめきながらも立ってみせた。今もなお、離れていくナリアンを引き止めるでもなく、ただ凛と前を向いている。王への距離が縮まる度、王の座る椅子が動き始める。重い、立派な椅子が煽られるように後退していく。それに座る王もまた、じわりじわりとさがっていく。ナリアンの杖が、床を打つ。カツン、と軽い音を立てたかと思うと、一際強い風が吹き荒れる。
「玉風」
 選べ、とナリアンの口が動き、声が漏れたのを聞いたのは、ナリアンの首元にいる妖精だけだった。すべてをなぎ倒す風が吹き荒れ、誰もが立っていられない、目を開けられない。窓ガラスは割れ、扉の側面が煽りを受け、蝶番を引きちぎろうと動く。中腰ですらおれず、床に這いつくばろうとも、ごろごろと大の大人が幾人も転がっていく。ガトアが咄嗟に使った魔法の中で、シリウスをかばいながらそれでも、なるべく風の抵抗を受けないよう、床に伏しているので精一杯だった。
 最初に王女の体が揺らぐ。一歩、後ろに踏み出しその体勢を整えるが、吹き付ける風に押されるように姿勢が崩されていく。ガトアですら、その風を阻むことはできない。綺麗にまとめ上げられた髪は、解け、豊かな焦げ茶色の髪が風に弄ばれる。ただ、前を、ひたすらナリアンを見つめようと、その意志の強さを表すような黒の瞳は閉じられることはなかった。がたん、と玉座が倒される。王は、よろめきながらも立ち上がり、腰に佩いた剣を抜こうとした。五歩ほど進めばいるナリアンを、それで斬ろうとした。平時であれば苦もなく簡単にできるであろうそれが、風に押され阻まれる。そして、ようやっと抜いたその剣が、吸い込まれるように己の首に深々と刺さり、吐いた血すら吹き飛ばされて、浮いた体は、割れた窓ガラスに傷つけられながら外へと運ばれ、落ちた。
 お父さま、と呼んだ声は誰にも届かず、霧散する。より強さを増した風に、王女も身をすくわれ、浮き上がる。天井に叩きつけられそうになって、瞳を閉じた。選ばれなかった、と。覚悟した痛みも衝撃もなく、ただ時間だけが過ぎていく。おそるおそる目を開ければ、軽い落下の後、目の前にナリアンの顔があった。抱き上げられていると、気づいたのは、今まで王が、父が座っていた玉座に下ろされた時だった。
「あなたの言葉を、思いを、信じましょう」
 ボサボサになってしまった髪を手櫛で整えられるも、王女はされるがままだった。
「武器を持たないあなたを、盾を構えないあなたを、俺は慈しみましょう」
 頬を撫で、熱を分け与える。こわばってしまった手を掬い上げ、指先に、触れるか触れないか。
「幸多からんことを」
 木の芽を咲かせるような柔らかな春の風が吹いていく。ゆっくりと、王女の手を離し、一歩、ナリアンは下がる。ゆらりとその体がほどけ、実態をなくしていく。消えゆく最後に、唇に小さなくちづけが落とされる。あまく、やさしい、おだやかな風が、くちびるを撫でた。
「まほうつかい、さま……?」
 目の前で消えたナリアンに、手を伸ばしてももうそこにはいない。赤い妖精がぽつんと浮かんでいるだけだった。王女は初めてその妖精を見た。驚くことはなかった。いつもナリアンの隣に誰かがいるとわかっていた。その瞳に、悲しみの色が見えないことに、安堵した。恐ろしいものを見るかのように近寄ってきたガトアとシリウスを見つめ、手を下ろす。
「……魔術師たちの解放を。風駈の王、ロリエスの名のもとに」
「……御意」
 踵を返し、室外へと二人は出て生き様、扉を閉める。閉じゆく扉をロリエスは毅然と見つめていた。妖精とロリエスしかいない部屋。
「あなたは、魔法使いさまの」
 ふるり、と首を振る妖精にロリエスは口をつぐんだ。ひとつひとつ、たどるようにナリアンが立っていた場所を妖精は回る。そうして、宙を見上げ、ふっと笑う。花が、咲くように。蕾が、風にくすぐられて、ほころぶように。恋の言葉を、歌う。
『ナリちゃん』
 うつくしさに、ロリエスは見とれていた。小さなものが、ただうつくしいと。心から。花びらが散る。幻影の花びらが宙に散り、妖精の姿も消える。誰もいなくなった部屋で、ロリエスは椅子から立ち上がり、ナリアンがいた辺りへと立つ。妖精がそうしたように、宙を見上げた。何も見えず、何も感じない。妖精と同じように動いても、何も変わらない。
「魔法使いさま、ナリアンさま」
 呼んでも応えるのは風だけ。



 花が視界を埋め尽くしていく。赤い花びらが、次から次へと、絶えず降り注ぐ。愛だと、誰かが言った。苦しみだと、囁かれた。器を得たナリアンは、ただ空だけを見ていた。ひとり、なにもない空を見上げていた。体は軽く、どこにもないような気がしていた。器になったのだと、気づく。ナリアンは、地面で、水で、風で、光で。ただぼんやりと、時間だけが過ぎていくのを感じていた。何も変わらない景色でも、ゆるりと時間だけは流れていく。自分の身に、じわり、じわりと力が宿っていくのがわかった。一滴の水、砂塵、吹き溜まり。淡く、色づく花。すべてナリアンの力となり、喜びとなる。そうして、自分が何者かわからなくなる。人だったのか、鳥だったのか、国だったのか。沈んでいく意識に、ひとつ、またひとつと手放していく。軽くなって、ふわりと宙に浮く。時折、ずしりと重くなって、動けなくなる。それでも、空を見上げていた。
 一筋のひかりが差し込んで、ナリアンを照らす。ゆっくりと、瞳を開いて見つめる。黄色の中に、赤の花びらが一枚、舞い降りてきた。探すように、ゆらゆらとさまようそれに、手を伸ばし、ささやく。
「おいで、いとしいひと」
 リーンと、小さく鈴が鳴り響き花びらが触れた指先から、灼けるような熱が生まれる。
『ナリちゃん』
 うん、と頷いて、引っ張り起こされるままナリアンは起き上がった。くちびるに、角砂糖の味。人の形をとりながら、ナリアンは夢から醒める。
 小部屋の許容量を超えた魔力は扉を壊し、学園を揺らした。

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