ため息をつきながら、ランツェはナリアンを残してきた部屋へと戻る。とん、と扉に触れ、ノックをひとつ。ゆっくりと扉を開ければ、真剣な眼差しで紙飛行機を折るナリアンがいた。成果は聞かないが、連れ立って昼食へと向かう。途中、ロリエスを引っ張り出したが、正午から一時間ほど過ぎただけである。正直に言えば、まだロリエスどころかナリアンでさえ腹は減ってはいない。すっと、ナリアンの皿にパンを無言で乗せてくるロリエスは、一際、渋い顔をしていた。クリンゲルがしていたように何か渡そうとナリアンは己のトレーに視線を巡らせたが、ロリエスの腕が己の領分を守るように伸びていた。一口食べては休むロリエスを置いて、ナリアンとランツェは部屋へと戻る。
「さて、聞きたいことはあるか?」
散らばった紙飛行機を数えているらしいランツェはナリアンに問う。ランツェの視線を追いながら、ナリアンは少しばかり考え、首を振った。まだ、なにかを聞けるほど自分の中に落とし込めていない。俯いたナリアンに一つ頷きながら、ランツェは床に散らばる紙飛行機を取り上げた。くしゃりと歪んだ先端を、太い指で器用に伸ばし、すい、っと宙へ滑り出させた。その紙飛行機は、徐々に降下していき壁に当たって落ちた。風に操られるのではなく、真っ直ぐに飛ぶ動きをナリアンは目で追っていた。
「本当によく飛ぶな」
ランツェの独り言にナリアンそっと頷いた。どっかり、とその場に腰をおろしたランツェは散らばった紙飛行機の一つに手を伸ばし検分を始めた。それを尻目に、折ったばかりの紙飛行機をナリアンは両の手のひらに乗せる。紙飛行機に意識を集中させ、願う。高く、高く飛んで、どこまでもどこもまでも。ぶわっと手のひらの中で濃密な塊が膨れ上がる。下から押し上げられるように紙飛行機がしなり形を変えながら天井に向かっていった。途中で失速し、落ちてきそうになったが、横へと滑る。それは、ランツェのように、紙飛行機が飛ぶようにではなく、紙くずが無理やり振り回されているようだった。ぽてり、と途中で落ちた紙くずをランツェは見つめていた。
「なるほどな」
呟いただけで、特にナリアンに何かを言いたかったわけではないらしい。興味を失ったように、手の中の紙飛行機をいじり始めた。それからナリアンは、三機の紙飛行機を紙くずに変え、ようやくランツェが口を開いた。
「演習場に行くぞ」
「はい、え?」
ほらほらと急かされるまま、ランツェの後ろを小走りでついて行く。ずんずんと歩くランツェはナリアンが付いてきているのかを確認しようともしなかったが、少しばかり速度を落とした。隣に並んだナリアンを見て、前を向く。
「武術の心得は」
「な、ないです」
息を切らせながら、あっちだそっちだと曲がる方を指さされ、ぐるぐると回った末に着いた場所は、屈強な男たちの人垣ができていた。わーわーと歓声が聞こえる中に、ロリエス、という単語が混じっている気がして、ランツェを仰ぎ見たが、ランツェは別の誰かを探しているようだった。ランツェと人垣を交互に見て、ロリエスの危機ではないのか、いやあの人をどうにかできる人なんているのか、いやだって女の人、いやでも俺があそこにいっても何が、いやでも行くしか、うん行こう、と心に決めて駆け出そうとした瞬間、人垣が崩れるのと、ランツェに首根っこを掴まれるのは同時だった。
「ぐえ」
「あぶねぇぞ」
どっと何人かの男たちが倒れて、首が締まりながら見たのは、肩で息をしながら獰猛な瞳で倒れたらしい相手を睨みつけているロリエスだった。
「次!」
鋭くあがった声に、また歓声があがり名乗りを上げていくものが後を絶たない。大丈夫なのだろうか、と案じた己の熱がすっと冷めるのがわかった。よくわかんないけど大丈夫だ。
「ランツェ殿!」
大きな声が横から聞こえて驚き、そちらを見れば食堂で会った騎士団長がじんわりと汗をかいてそこにいた。ひえっ、と姿勢を正して立ち、なんとなくランツェの陰に隠れた。
「ロリエスが世話になっているようで」
「いやいやこちらのほうが鍛えてもらってますよ」
あっはっはっは! と大きく笑う騎士団長は嬉しくて仕方がないようで、ずっとにこにことしていた。なんだか優しい人だ、とナリアンはランツェの陰から見ていたがそれでも、魔術師よりも格段に太い腕や胸板の厚さ、それに加えて鎧まで身につけている。そういえば、割れた人垣の向こうにいたロリエスは防具をつけていなかったように思う。吹っ飛んでいた相手は、それなりに身を固めていたような気がして、またロリエスが気になり始めた。体格差の前に、ロリエスは女性である。花舞の魔術師筆頭であろうが、剣術の腕が立とうが、一人の女性なのだ。傷でもつくったらと、思えば気が気でない。チラチラと人垣の向こうのロリエスに視線をやっていれば、何を勘違いしたのか騎士団長がぬっと腕を伸ばし、ナリアンの首に腕を回して引き寄せた。
「混ざりたいのであれば、ぜひ」
「あっ、いや、ちがっ」
ランツェは引きずられていくナリアンに、少しばかり目を見張って楽しそうに唇を歪める。一応は、付いて来てくれるようだが、いつ何時、放って行かれてしまうのかわからない。逃しませんから! と目に涙を溜めながらランツェを見つめれば、肩をすくめ、わかったわかったと目が物語っていた。
「ええっと、ナリアン殿は、何が得意か?」
「いや、その、俺、私は特にその」
「素人だ」
見兼ねたランツェが後ろから助けてくれるが、できれば横か前に立って欲しいとナリアンは切に願っていた。騎士団長と呼ばれる人から、殿と呼ばれるのも、敬語を使われるのも慣れておらず変に萎縮してしまう。ランツェがいるから建前上そうなのだろうが、昨日会ったように、失礼だと感じるほどの馴れ馴れしさでちょうどよいのだが、うまく言えるような気もしない。
「ああ、そういえば、ロリエスがそのように言っておられました」
ではこちらに、と案内されるまま付いて行く。ぎゅっと、ランツェの袖口を握れば、離せ、と目で訴えられ、ぶんぶんと首を振り、拒否を示せば、やれやれとされるがまま付いて来てくれた。もしかしたら、袖口を掴む、などという子供じみたことをしなくても、ランツェは保護者よろしく付いてきてくれたのかもしれない。ただ、ナリアンの心の平安を最優先にしたためにそうなったのだ。許して欲しい。ずるずるとランツェを引っ張りながら連れて行かれたのは、武器庫、と呼ばれそうな部屋だった。
「訓練用のものがしまってあるところですな。まぁ、貸し出せるように実践のものも少しはありますが」
どの長さの剣がよいかと、見繕う騎士団長をよそに、ランツェは人の縄張りだろうがお構いなしに漁り、ナリアンへ一つ武器を寄越してきた。渡されたのは、細長い棒で、先端は丸く整えられている。
「お前は剣よりも、棒術がいいだろう」
ほらほら、とナリアンの背を勝手に押しながら騎士団長を振り返りもせず外へと出ていく。騎士団長は、ランツェ殿がそう言うのであれば、と楽しそうに付いてくるのだから、もうどうにでもなれという気持ちだった。ランツェの手にも、ナリアンが持つ棒と同じものが握られていた。握り方を習い、攻撃と防御の構えを叩き込まれる。その形を作る流れを延々と繰り返し覚え込まされる。腕と足をその形に留めるだけだが、ロリエスがナリアンの元を訪れたときには腕はパンパンに、膝はガクガクと震え始めていた。幾分すっきりとしたようなロリエスは、羽織っていたはずのローブを肩に引っ掛けるように手で持ち、いつもまとめあげられている髪は解かれていて、髪留めがあった辺りの毛はゆるく波打っている。常にかけられている眼鏡は外されていて、黒の、漆黒の瞳が爛々と輝きナリアンを見つめていた。
「棒術か?」
「あっ、はい」
「見てやろう」
えっ、と焦るナリアンをよそに、ロリエスは細身の訓練用の剣を片手で構えた。左手は、ローブを押さえたままで、手加減をしてくれるつもりなのだろう。とん、と背中を押したのは、ランツェだったか。叩き込まれた構えをおずおずととれば、目の前にあったはずの剣先は消え、構えた腕に衝撃が走るのと同時に、腕が千切れそうな痛みを覚える。ひゅっと、流れるように剣先が視界に映り込んで、腕が自然と動く。ガンっと、ぶつかる音と痺れが同時に襲った。
「ほう」
ロリエスの顔が愉悦にゆがむ。ぞわりと背筋を寒気が走る。捕食者の目を向けられた。普段の眠たげな目など全くなく、爛々と輝いているわけでもない。ただ、視界に入った絶好の獲物を狙うようなそんな目だった。何かが落ちた音がして、重みが増す。足に力を入れ、踏ん張り、ガチガチと剣と棒に付けられた金具が擦れる音が耳元で響く。押し負ける、と思った。
「えっ?」
ふっと、押される力がなくなって、よろめいた。ぬっと横から刃がのぞいて、気づく。
「なるほどな」
ぴたり、と首のそばに剣刃が止まっているのを触覚が感じ取る。ぞわぞわと次から次へと寒気のようなものが体中を這っていた。次から次へと波打つように襲い来るそれが不快で仕方がない。
「その感覚を覚えておけ」
ゆっくりと離れていく剣にじわじわと不快が薄れていく。完全に離れて、どっと汗が噴き出た。危険察知を体で覚えさせられたというよりは、それを感じたら死ぬのだということを身をもってわかったと言うべきか。手から棒が滑り落ちてカラン、と軽い音が響いた。崩れ落ちるように膝をついて、ロリエスを見上げる。眼鏡をかけておらず、頬の横に髪がかかっている見慣れぬ姿を呆けて見上げる。凛と見下ろしてくる黒の瞳がただただ見つめ返していた。その目が離れたのは、後方からかけられた声に反応してだった。騎士団の誰かと、振り返って話をしている。どっと襲う疲労に、ポンと肩を叩かれて、見上げる。
「初手でロリエスの剣をとめるたぁいい筋してるな。俺んとここねぇか?」
「それはうちのだ、やらん」
ナリアンが拒否を示すより早く、ロリエスの声が飛ぶ。誰かと話をしながら、こちらの会話に耳を傾けているなどどんな脳をしているのか。
「残念だなぁ」
ちっともそんなふうに思っていない声音の裏腹に、瞳は値踏みするようにナリアンを見ていた。差し出された手を取れば、慌てふためくほどの力で引っ張り上げられる。足についた土を払われ、大きな手がぽんぽんと、肩を叩いて、ぼそりと耳元に声が落とされる。
「生きろよ」
ぽん、と最後に背中を叩かれ、広い背中はナリアンの使っていた棒と共に去っていった。激励、にはとても取れない言葉はナリアンを不安に陥れた。絶望を感じ、呆然とその背中を見送る。
「行くぞ」
いつの間にか話を終えていたロリエスに声をかけられ、びくりと肩を揺らした。その横を颯爽と通り抜けていくロリエスの後ろを慌てて小走りについていく。ナリアンよりも遙かに背の低いロリエスだが、歩くスピードはうんと速い。何かに追われているのか、と思うほどだ。ナリアンの後ろを遅れてランツェはついてくるが、急いでいるふうなど微塵も感じさせない。悠々と、それでいて確実に距離を詰めてくる。ロリエスの先生とは、かくあるものなのか、と感じ入っていた。いつの間にか訓練用の剣は手放していたが、ローブは肩にかけたままで、手ぐしで髪を整え、パッパとまとめあげていくのを眺めていれば、後ろの様子などひとつも確認しなかったロリエスが、ぴたりと止まり、危うくナリアンは激突しそうになった。振り返り、それじゃあ、と口を開きかけたロリエスを引き留めたのはランツェだった。
「食堂はあっちだぞ」
ぎゅっと口を閉じたロリエスを後目に、ランツェは食堂のある方へと歩き出す。立ち止まったままのロリエスと、ずんずんと進んでいくランツェとに交互に視線を送るナリアンの耳に届いたのは、かすかな舌打ちで、焦げ茶色の髪が目の前を過ぎていった。見送る形となったナリアンは、すぐに気を取り直し、二人の後を追う。食堂に着いた頃には、すでにランツェは盆を手にしており、ロリエスにも渡しているところだった。
給仕係に、あれやこれやと指示を出して、ロリエスの盆に次々と料理を乗せていくのはランツェで、自身の盆にも負けず劣らずの量が乗せられている。ナリアンを見留めたランツェがおもむろにナリアンを示し、同じのを、と言った言葉に目を見開いた。あいよ、と気っ風のよい声が響き、中途半端に差し出した盆の上にこれでもかと、皿が追加されていく。一つ一つの皿にはこんもりと山のように盛られ、盆を支える手にずっしりとした重みを感じさせる。どんよりとした空気をまとったロリエスに何も言えないまま、隣に座れば、さきほどの給仕係が、追加の盆を持ってきて、三人の真ん中に置いた。ランツェとロリエスが並び、ロリエスの前にナリアンが座れば、周りからどよめきにも似た空気が伝わってくる。ひそひそと、あの若いのは誰だ、と嫉妬と羨望が入り交じったような声は、居心地が悪い。もぞもぞと落ち着かないまま座り直していれば、不機嫌を具現化したようなロリエスに一瞥され、借りてきた猫のように大人しくなる他なかった。ランツェが手を着け始め、のろのろとロリエスも手を着け始める。遅れて、ナリアンもカトラリーを持ち上げて、一口食べれば、きゅうっと腹が鳴る。先ほどまでは、減ったと思っていなかったのにも関わらず、ぐっと空腹を感じた。無心で食べ進めるナリアンに、それも食えよ、とランツェから声がかかる。口に入っていたものを飲み込んで、返事をしながら、フォークをのばす。おいしい料理を堪能しながらも、もっと欲しい、と訴える腹に次々と送り込む。ロリエスの手はすでに止まっていたが、皿から一口ずつすくい上げただけのようだった。
もともとロリエスはそう食べる方ではない。ナリアンが知っているロリエスは、どうやって動いているのか不思議なほど、食べない人だった。それが、花舞の魔術師たちに言わせれば、ナリアンの定期考査の間に、シルに甲斐甲斐しく食事の面倒をみられたおかげで、三食、少ないながらもきちんと食べるようになったと聞いた。えらいねぇ、となぜかナリアンが褒められたのは謎だったが、花舞の魔術師も、女王陛下までもがそれを喜んでいたのだ。どんだけこの人食べなかったんだろう、と思いはしたが、今日の食事量は一段と多いのだろう。朝と昼を間をあまりあけずに食べ、体を動かしたといえども、すぐに夕ご飯を、と言われれば、ロリエスもしんどいと感じるのだろう。ランツェもナリアンの皿が空になっても、ロリエスの皿は食べ始めた頃とそう変わってはいなかった。
「食わんともたんぞ」
頬杖をついて、隣に座るロリエスにランツェは真面目に言っていた。やりすぎではないか、と心配そうな目を向けたナリアンに、ロリエスは表情が死んだ顔を向けて、少しばかり威嚇した。それにびびったナリアンが泣きそうになったが、ランツェは気づいているのかいないのか、助け船を出しはしない。気づいていても、出してくれないのでは、と薄々気づき始めるのはもう少し後になる。食後のコーヒーまで飲んだランツェは、席を立ちながら、ロリエスに釘をさして、食器を下げ始める。どうしようか、と迷っているナリアンも、行くぞ、と声をかけられれば、立たざるをえなかった。この三人で力が一番強いのは、ランツェなのだ。権力という意味では、花舞の魔術師筆頭であるロリエスが一番なのだろうが、そういった権力外のことでは、全く頭が上がらないのだろう。己にもそれが当てはまることを重々噛みしめながら、睨みつけてくるロリエスの視線から逃げるように立ち去った。
先を行くランツェに追いつけば、ちらりと視線をよこしただけで前を向いてしまう。その後ろを小走りに追いかけ、いくつかの角を曲がったところで、ぽつりとランツェが口を開いた。
「あれの、好物を知っているか」
その声はひそめられていて、ナリアンも自然と声を抑えた。
「好物、ですか……?」
あれとは、ロリエスのことであるのは間違いなく、好物といわれて即答できるほど、ナリアンはロリエスのことを知っているようで知らなかった。逆に嫌いなものは、といえば、甘いものは避けているように見えるが、その実、食わず嫌いであるようにも見えるので悩ましい。しばし考え、結局、首を振った。ランツェも、そうか、と短く呟いたきり、前を向いてしまった。
「……知って、いるんですか?」
ナリアンの声に、自嘲気味に唇の端をあげながら、知っていたつもりだった、と俯く。
「そう、ですか……」
会話をうまく広げられないまま、例の大きな部屋にたどり着き、ランツェは扉を開け放つ。高い、高い天井になぜだか笑われているような気がした。