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 花と、なれ 04



 結局、その日、紙飛行機は、飛ぶことはなかった。ランツェは壁にもたれ掛かり座ったまま、ナリアンに何を言うでもなく、じっと見つめていた。ただひたすら、ナリアンは、紙飛行機を紙屑に変えていた。ランツェに声をかけられ、初めて時間を気にした。熱中していたのか、と問われれば素直に頷けはしない。迷いながら、時折、違うことが脳をよぎっていた。そうすれば、すぐにそれは結果として現れる。紙屑、または紙片に変わり果て、部屋のあちこちに散らばったそれを、ランツェは腕を一振りしただけで、一カ所に集めてしまった。それをナリアンが拾い上げ、今日のところは終わり、となった。ランツェの一振りで動いた魔力は少しばかり感じられたが、最初に見た紙飛行機を操っているときには全く感じられなかった。驚きの方が大きかったからかもしれない。きちんと見ようと、感じようと思えばできたのかも知れない。集められた紙飛行機だったものを見つめる。
「見えたのか」
 黒の瞳が、ナリアンを見ていた。確証はない。見えた、というよりは肌に違和感を覚えた。その程度だ。ありのままに告げれば、ランツェは顎の髭を撫でた。一つ頷き、ランツェの瞳が光の加減か、紺色に見えた。不思議な色合いだ、とまじまじと見つめていれば、ざわり、と空気が騒いだように感じた。勢いよく、感じた方を振り向いたが何もない。瞬きを何度か繰り返しても、何もない空間が広がっているだけだ。なんだったのか、と思いつつ、ランツェに視線を合わせれば、何か言いたげな顔をしていた。言いたいことがあるなら言って欲しい、と瞳に乗せれば、ため息を一つこぼされた。
「お前、にぶいのか」
 呆れたような声音に、理解しないまま、胸が痛む。なぜだろう、すごく、傷ついた気がする。
「なるほどなぁ」
 納得したようにランツェは頷くが、ナリアンは何一つとして納得できない。むすり、と不満をにじませるが、どこ吹く風のようにかわされてしまう。なるほどなるほど、と背を向け歩き出すランツェについて行くしかなかった。
「明日、八時にロリエスの執務室だ」
 ナリアンが返事をするのを待たず、ランツェはおそらく彼の私室へと向かってしまった。紙屑と、余った紙を握りしめたまま、ナリアンは誰もいない廊下に、はい、と言うしかなかった。
 与えられた部屋に戻り、紙屑を捨て、紙は机の上に置く。荷物を下ろし、整えられたベッドを見つめれば、ドッと疲労が出た。洗濯物をまとめたいが、明日でいいだろう、と目覚まし時計の時間を確認し、枕元に置く。ゆったりとした服装に着替えれば、とろとろと瞼が落ちてくる。それに抗いながら、日記帳に今日あったことを走り書きで書き付け、ベッドに倒れ込んだ。すぐさま、眠りに落ち、目覚まし時計に起こされる。痛みを訴え、固まってしまった体をなんとか宥めながら、よろよろと準備をし、ロリエスの執務室へ向かった。ちょうど、ロリエスの執務室の扉の前で、ランツェに出くわし、挨拶を交わす。短いノックで、応答を待たずにランツェはロリエスの執務室へと足を踏み入れてしまう。こんなことが出来る人間がいったいどれだけいるのだろう、とナリアンはなんとも言い難い気持ちを抱いた。
 相も変わらず、書類の山から、何人か人を殺したのではないのだろうか、という顔をしたロリエスが覗く。多少ビビりながら、ランツェを盾にちらりと窺い、すぐさま引っ込む。回れ右をしたくなる足を叱咤し、その場にとどまったが、本心はすぐさまこの部屋から失礼したかった。
「行くぞ」
 短く言い放ったランツェは、ロリエスが立ち上がるのを待たずに、部屋を出ていく。その背を追いかけつつも、ロリエスを振り返り、視線を瞬時に戻す。いつの間に席を立ったのだ、と冷や汗を垂らしながら、一心不乱にランツェを追いかけた。振り向いてはいけない。本能がそう叫んでいた。
 当たり前のように大盛りにされた皿を盆の上に乗せてもらい、ランツェの向かいに座る。遅れてきたロリエスの盆は、フルーツが中心となっていた。それを見たランツェは片眉を跳ね上げるが、ロリエスは無言でナリアンの隣に座る。
「そんな飯で仕事が出来るか」
 自分の盆の上からトマトソースで煮込まれた肉を差しだそうとするランツェに首を振ってロリエスは拒否を示すが、ランツェが譲るわけもない。無言のにらみ合いに巻き込まれたナリアンにどうするすべもない。冷や汗を流しながら、誰かが助けてくれないかと、周りの気配を探るが、あからさまに視線が反らされていく。魔術師も、騎士も、例外なく。騎士団の団長さんなら、と思うがあいにくといないらしい。八時に集合して食堂に来たのだ。ナリアンはずっと家で仕事をしてきたが、仕事というのは、始業と終業が決まっているのだ。そういう時間が近いのだろう。人もまばらであるがゆえに、そういった力を持った人が現れるのは希望的観測に近いような気がした。空気を読まず、空腹を訴えそうな腹に力を入れてなだめているが、沈黙は終わりそうになかった。温かいものは温かい内に。冷たいものは、冷たい内に、食べたい。言い合いをしてくれれば、先に食え、と言ってくれたなら。恨めしそうに、自分の盆をナリアンは見つめた。お腹が空いた。
「お久しぶりです、ランツェさん」
 ポン、と頭に手が乗せられ、わしゃわしゃと特に整えてもいない髪の毛がかき乱される。べしり、と払い除けて、不機嫌を露わに声の主を振り返ったのは、ナリアンだけではなかった。
「シルか。息災のようだな」
「ええ、おかげさまで」
 振り払われた手で、ポンポン、とナリアンの頭を軽く叩き、誰の許可も得ずに、ロリエスの隣へと腰を降ろす。あまりにも自然な流れであった。
「麗しの俺の女神。今日も君の花がほころぶような可憐な笑顔が見れて、鳥たちが喜び歌い踊る素敵な朝だ。顔色も、少しはいいな。偉いなロリエス。ちゃんと朝ご飯を食べて」
 ナリアンにしたよりも、いっとう優しく、その手は、指先はロリエスに触れていく。流された前髪に触れ、頬に、顎にと流れていく。その光景を見て、ロゼアがソキへと触れるのを思い出し、少しばかり心が落ち着いたが、ロリエスの死んだ目に、粉砂糖のような淡い癒やしは、煮詰めたコーヒーの味を変えることは出来なかった。胃が痛い、と空腹なのかこの雰囲気になのか、胃薬があったかどうかを考え、いやいや白魔術師の宝庫なのだから治してもらえばいいのでは? と自問自答を繰り返す。シルに、寮長の存在を認めたのか、そうでないのかわからないが、ロリエスは反応を返すこと無く、自分の朝ご飯へと手をつけ始めた。ロリエスに肉を渡そうとしたランツェも、寮長のあまりの破壊力に気を削がれたのか、そっとナリアンの盆の近くに置く。ランツェも手をつけ始めたので、ナリアンも遅れて手をつける。おいしいはずなのに、温度の違いしかわからなかった。粗方、食べ進めた辺りで、ランツェが居心地悪そうに、寮長へと話しかけた。
「で、お前は何しに来たんだ」
 にこにこと、嬉しそうにロリエスの顔を一心に見つめていた寮長が、その視線を外そうともせずに、頷く。無表情で、パンをちぎり、野菜がたっぷりとはいったスープに浸しながら無心で食べているロリエスに、ナリアンは図太いを通り越して、神経がないのではないか、と疑いをかけ始めていた。
「学園からの使いですよ」
 なんてことはないように寮長は言うが、それは結構、大事なことではないのだろうか、とナリアンがそちらを見ないように盗み聞きをしながら砂糖漬けにされた果物をもちもちと噛み締めていた。おやつにもっと欲しい。
「……陛下へはもう、謁見出来るんじゃないか?」
「ええ、挨拶はしてきましたよ」
 ランツェに言葉を返してはいるが、寮長の視線は一切、ロリエスから離れはしない。だが、その視線は、交じらない。ロリエスは、まるで隣に誰も居ないかのように振る舞っていた。関わりたくない一心で、ナリアンは皿を次々に空にしていく。盆から外れていた肉もありがたく胃におさめた。いい塩梅で膨れた腹に満足すれば、目の前の課題を思い出した。さっさと用事を済ませて、学園に帰って欲しい。ナリアンの気持ちを汲んだわけではないだろうが、ランツェは一言、変わらんなぁ、と呟き、席を立った。つられてナリアンも席を立ち、ロリエスへ一礼して着いていく。寮長のことは好きではないが、こういう、妙なというか、誰もが割って入るのを嫌がるところへ切り込んで行くところは、まあ、なんというか、褒めるに値するのだろう。鬱陶しいが。



 食堂を出て行くナリアンとランツェの背中を見送ることもなく、寮長こと、シルはただただ己の女神が食事をしているのを見ていた。なんだ、と問われることも、見るな、と拒否されることもない。まるで、己のことを全く気づいてはいないのではないか、と思えるほどの対応だが、近くに来るな、と言われたわけではない。ずっと側にいることが出来ないからこそ、こうして近くにいられることが嬉しい。飽きることなく、ロリエスの横顔を眺める。愛しい愛しい、俺の女の子。頃合いを見計らってコーヒーを二つ取りに行き、また当たり前のように隣に座る。差し出したコーヒーをなんの疑いも持たぬまま、ロリエスは口を付ける。信頼は、おそらくされているのだろう。警戒心ばかりが強い、己の足で立たねば、逃げねば、戦わねば、と周りに心を許そうとしない、信用しようとしないロリエスにここまで踏み込むには、まあそれなりに、大変だったのだ、いろいろと。
「用件はなんだ」
 一つ、息を吐き出したロリエスはコーヒーに視線を落としたままシルへと話しかける。話せば五分もかからない内容だが、ナリアンの試験で頻繁に会っていたロリエスに、長期休暇はほぼ会えない。降って湧いたお使いに、真っ先に飛びついたのはやっぱり少しでも顔を見ていたいからだった。
「んー、ここではちょっと」
 欲望を隠し、言葉を濁す。返事は返ってこないが、ロリエスのコーヒーを飲む速度が僅かに落ちた。とろとろと、己のコーヒーを時間をかけて飲み干していく。ロリエスが飲みきるのにあわせて、盆を代わりに片付ける。立ち上がろうとしたロリエスに差し出した手は無視され、エスコートするのに腰に回そうとした腕は叩き落されたが、隣を歩くことは許されていた。
 当然のようにロリエスの執務室のドアを開け、一人がけの椅子に座るロリエスをエスコートする。山となった書類を見つめるロリエスに苦笑を漏らしながら、手伝えない歯がゆさを感じた。ため息を吐いたロリエスの手がそれにつき始めたところで、ロリエスを見つめられる位置へと、丸椅子を持ってきて座る。伏せられたまつげが描く弧がやはりどこか眠たそうであった。いつもそうだ。学生のときから生真面目で勤勉で、手を抜くことを知らない。来たやっかいごとは全て抱え込んで手放そうとしない。そのくせ、人には何一つとして甘えられない、頼れない。苦言を呈してきたつもりだ。そのままでは、体を壊すと。ロリエスは決して、わかったとは言わなかったが。花舞の魔術師に、筆頭となってからも、それは変わらず、余計に酷くなり、無理やり寝かしつけに、飯を食べさせに来たりと、要請は絶えなかった。人に任せ、育てるのも役目だ、と何度言ったかわからない。それについては、少しばかり視線を逸らせるものだから、わかってはいたのだろう。少しずつ、人に任せ始め、それ故に尻拭いも増えたようだが一切合切を自分でやっていた時よりは、多分、楽になったのだろう、多分。
 積み上がっている書類を手元に引き寄せながら、書き込まれた付箋を貼り、ペラペラと捲りながら読み進めている姿を見つめる。用件はなんだ、と再び聞かれないということはまだここにいてもいい、ということだ。許されている、ということを、しみじみと感じる。懐に、粗相があれば立ちどころに放り出され締め出される懐に、側に、いてもいいのだと。今はまだ、言えばさっさと言え、と怒られるであろう話をまだ言わずに、ただただこの場所にいたかった。
 ロリエスの手が止まり始めた頃を見計らって、差し入れに持ってきた茶葉を使う。水がひとりでに湧く水筒から湯へと変えるポットにそそぐ。カップに、一杯分にまとめたパックを落とし、茶請けにと、最近、なないろ小路に出来た菓子屋のクッキーを二枚、小皿に置く。湯を注ぎ、少し蒸らして、茶葉を取り出し、横からクッキーとともに差し出す。そうすれば、ちらりと視線が向き、無言で手が伸び、カップを持ち上げ、口元へと運ばれる。熱い息を吐き出し、クッキーを口に。口に広がる香りを楽しんでいるのか、ゆっくりと咀嚼したのを確認すれば、腹の底がほのかに熱を持つ。一枚、食べ終えたところで、ロリエスの瞳がようやく、シルを見て、くるりと椅子が回る。
「用件は」
 肩をすくめて、肘掛けに肘を付き顎に指を添えるロリエスに、ついっと近寄る。そのまま、その肘置きに手をついて、逃げられないようにぐっと身を寄せる。
「結婚して欲しい」
「断る」
「間違えていないが間違えた。結婚して欲しいのは確かだ」
「……用件は」
 呆れ返ったロリエスの手が、どけ、と言わんばかりにひらひらされるが、全く意に介さず、見つめ続ける。居心地悪そうに顔をしかめるロリエスに、結婚して欲しい、と続けながらも、この楽しい一時はもう終わりなのだと、悟る。先程、遠くで爆発音が聞こえた。程なく、誰かがこの部屋に泣きつきに来るだろう。時間はあまりない。
「定期試験」
「ああ」
「あれはなんだ」
「なんだ、とは」
 盗み見たのか、悪い子だ、とくふくふと含み笑うロリエスに少しばかり嫌な顔をしてみせる。ちょっとうっかり見ちゃったのはその通りで、ロリエスに悪い子、と言われてちょっとなんというか、嬉しいというか、妙な気持ちが芽生えそうだからやめて欲しいのと、うん。
「……事実なのか」
 絞り出した声に返ってくるのは、雄弁に物語る瞳だった。お前が、一番、よく、知っている、だろう? 一言一句、丁寧に区切られて言葉が伝わってくる。唇を少し噛んだシルに、ロリエスは眼鏡越しではなく、上目遣いで見つめる。
「私に言っていないことがあるだろう?」
 たくさんあるに決まっているが、そんなことをロリエスは言っているのではないと、シルは知っていた。言えなかったのではなく、言わなかっただけ。シルしか気づけ無いことだった。最初にその話を聞いたとき、なぜ目の前の、たった一人、欲しいと願った者の、”もの”ではなかったのかと、血が滲むほど唇を噛み締めたものだ。そうであれば。そうで、あれば。こんなにも。
「知りたいのか」
 肘掛けに置かれた右手の人差し指の爪に、そっと触れる。ロリエスが本気で望むなら、なんでも与えてやりたい。望まれたことなんて、一度もないが。闇夜というよりは、朝が始まろうとするその一瞬前の色に似ている瞳がじっと見つめていた。血色の良い唇が薄く開かれて、くるりと椅子が周り、正面を向くと同時に、ノックも何もなく、勢い良く扉が開かれる。
「ロリエスー!」
 わあわあと泣きながら飛び込んできたのは、花舞の白の魔術師で、シルよりも年上の、ということはロリエスよりも年上の人だった。誰がいるとか、どういう状況であるとか、全く見もしないまま、シルが置いたままにしていた丸椅子に躓きながらロリエスの執務机にすがりついて、おいおいと泣き始め、陳情を述べ始めるのをロリエスはハイハイと頷きながら、シルにそこに置いておけ、と机の一角を指で差していた。ため息を吐きながら、持ってきた封筒をそこに置き、丸椅子を片付け退出する。持ってきた封筒の中身は、ナリアンに関することで、今回の定期試験の内容について詳しく説明を求めるものだった。
 入学式、それよりも早く。妖精に迎えに行ってほしい、と星降の王が頼んだときから、薄々わかっていたこと。ロリエスへ最初に課されたものは、ナリアンがそうであるか、そうでないかの見分けを可及的速やかに実施、報告することだった。それを、定期試験まで、さらにはそれ以上に引っ張り続けようとさせた。手塩にかけられている、と少しばかり嫉妬を覚えるのも仕方がない。可愛いかと聞かれれば、可愛い。手間がかかるし、良き魔術師となれと願ってやまない。だが、雄の立場からすれば、可愛くないどころか、邪魔だとさえ思う。そういった、小さな隠しきれないものを、ナリアンは敏感に感じとるのか、なつきはしないが、ロリエスが頻繁に学園へ来るためには致し方ない、諦めてもらおうと思う。と、同時に。初めてナリアンを見たときにわかってしまった。ロリエスの”もの”でなかった自分が、ナリアンの”もの”であったことを。歪んだ愛でも愛は、愛だ。ナリアンがこれを知ったとき、絶望した顔をするのだろう。今から、とても楽しみだ。

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