音がしている。
きぃん、こぉん……。
不思議な音だ。澄んだ、硬質の。水琴窟の水音めいた反響を伴う、うつくしい音。
きぃん……こぉん……。
音源を探して目を開くと、いつも砂漠に立っている。
生命の息吹はどこにも見られない。広漠とした砂の丘陵が地平の果てまで続いている。
遮蔽物も何もない砂漠の只中、幹の奇妙に捩じれた樹木だけが、自分を取り囲んで生えていた。
こぶの浮いた根から葉のない枝先まで、黒炭の如き闇色の樹木は、鉄格子に似た圧迫感を持っている。
その狭間に、全身に黒衣を纏った、ひとりの男が立っていた。
彼が、口を開き――……。
ガタンッ……。
馬車が大きく前後に振れて動きを止めた。
御者が軽く窓を叩いて到着を知らせてくる。道中の記憶がない。どうやら眠っていたらしい。
ロゼアは瞼を上げて頬杖から顔を放した。硝子の嵌められた窓に目を向ければ、眠たげな青年の顔が映っていた。
短く切られた赤褐色の髪のひと房は、窓に押し付けすぎたのか折れ曲がり、髪と同じ赤褐色の瞳にも疲労が滲む。日中であれば煮詰めた飴色と喩えられる肌色も、心なしかくすんで見えた。
ロゼアは浮腫んだ目元を擦って、開かれていた扉から馬車を出た。未明と呼ぶべき時刻ながらうっすら白み始めた空の下、高い壁に似せた巨大な館がロゼアを出迎える。ゆるやかな円を描くその建築物の向こうには、広大な敷地が広がっていた。
砂漠の王都の東部を占めるこの場所こそ、〈屋敷〉と呼び習わされ、砂漠のもうひとつの国とすら揶揄される機関の中枢である。
不寝番とのやり取りを経て裏門を潜る。幾棟もの邸宅と精妙に整えられた庭園が、噴水の水音と共にロゼアを出迎えた。
三日月状の館が互い違いに並ぶ屋敷は、砂漠の只中とは思えぬほど緑ゆたかだ。湖より引いた水が網目模様を描き、多種多様な植物が青々と葉を広げている。上がり始めた気温に綻ぶ花々も彩りに満ちていた。
ほんの半月前までは霜が降りていたのに、と、ロゼアは思った。
もう、立春を過ぎたのだ。つまりソキを、〈ロゼアの花嫁〉を、〈旅行〉という責務に送り出し、ひと月を経てしまったことになる。
ため息を吐いたロゼアは屋敷の奥を目指して、立体迷路よろしく入り組む空中回廊を歩いた。小部屋の並ぶ廊下を進み、階段の昇り降りを繰り返す。最後に訓練場の脇を抜ければ、使用人たちの居住区があった。
「ロゼア」
声を掛けられた場所は寮の談話室だった。階段の中腹で手すりから身を乗り出す声の主を、ロゼアは驚きに目を瞠って仰ぎ見た。
艶のある黒の髪と暗がりに溶け込むような濃い色の肌を持つ青年だ。双眸は目に鮮やかなコバルトの青。年は十八。ロゼアよりふたつ上となる。
彼の名をリグルーシュ。ロゼアがこの屋敷で暮らし始めた幼少の時分からの同期であり、親友であり、兄弟分である。
「おつかれ」
彼は握っていた小ぶりの林檎と、労いの言葉をロゼアに投げた。
「リグ。起きてたのか」
「ミルゼが旅行に出たんだ。さっき見送ったばかりなんだよ。……起きたら怒るだろうな」
階段を下りてきたリグは談話室のソファの背に腰を預けた。林檎をかじる彼の腰には、ロゼアと同様にひと振りの短剣。彼が〈傍付き〉である証だ。屋敷において佩剣を許される者は傍付きに限られる。
この〈屋敷〉は〈砂漠の輝石〉と呼ばれる少年少女たちを養育している。
砂漠の花婿、花嫁、とも呼ばれる彼らは、莫大な財貨を国にもたらすことと引き換えに、他国の貴族、ないし豪商へと嫁ぐことを定められた、格別にうつくしい少年少女たちである。
人身売買が禁じられて久しいこの世で唯一、砂漠の王の名の下に、婚姻を通じて富と引き換えられる生ける宝石。
その彼女たちそれぞれにひとりずつ選ばれる特殊な従者が〈傍付き〉。ほかでもないロゼア自身もそのひとりである。
「ミルゼ様、早く戻ってこられるといいな」
ミルゼはリグの〈花嫁〉だ。御年は十五。本来なら屋敷を離れているべき年齢だが、まだ嫁ぎ先の決まっていない稀有な花嫁である。
お前もな、と、ロゼアに笑いかけたリグが、表情を険しいものに改める。
「……先触れはあったのか?」
「いや。……裏門でも訊いたんだ。まだ何もないらしい」
「そっか。……もう、ひと月になるのにな」
嫁ぎ先の選定に関わる〈旅行〉は、花嫁花婿にとって義務である。期間は長くてひと月半。とはいえ、半月も経てば帰りの日を知らされるものだ。けれどもロゼアの花嫁であるソキが戻るという報せは未だ届かぬままだった。
リグと別れて自室へ。寝台の上に仰臥し、目元を手で覆った。全身が気だるくてならなかった。ソキの戻りが確定していないことがわかって、なおさら身体を重く感じた。
愛情と献身の限りを尽くして仕える花嫁花婿は傍付きにとって半身にも等しい。けれど傍にいられる時間はひどく短い。
期限は、己の輝石が嫁ぐまで。
成人である十五で嫁ぐことが長年の慣習だったが、近年は旅行に出てそのままという花嫁花婿も多い。
できれば、ソキが十五となる年まで。それが許されないなら、せめてきちんと、屋敷で送り出したい。
それともこのまま二度と会えないのだろうか。
「ソキ……」
『ロゼアっ!!』
煩悶に疲れて息を吐いたロゼアは、他者の声が自分しかいないはずの部屋に響き、驚きから上半身を跳ね起こした。周囲を見回し、声の主を探る。しかしひとの気配はどこにも感じられない。
怪訝さから眉をひそめたロゼアの間近で少年のものと思しき声が再び弾けた。
『ロゼア! ロゼアですよね! やっと見つけましたよロゼア! 探したんですからもーどこへ行ってたんですかろぜ』
ばちんっ
『ぶぶっ!?』
蚊を殺す要領で反射的に挟み潰したそれを、ロゼアは驚きから目を丸めて見つめた。
それは、小人だった。身長はロゼアの手のひらほど。蜜色の髪をした紅顔の美少年である。特筆すべきはその背から生える、翅だろう。形状は羽虫のものに似ている。けれど質感は明らかに異なっていた。小人の翅は虹色の光を帯び、かすかに波打っているのだ。
「……なんだこれ……?」
と、自問する一方で、理性が冷静に推測する。
妖精ではないだろうか。これは。
砂漠から二つ国境を越えた星降の国に住むという亜種。しかしそこを出ることは滅多になく、そもそもが通常のひとの目には見えない。
「……よっぽど疲れてるのかな、俺」
こんな妙に現実味のある幻を見るとは。
妖精から手を放したロゼアは横になって毛布をかぶった。目を閉じて深く息を吐く。
『ろぜあぁああ、ちょ、話を聞いてくださいよロゼアろぜ』
意識の曖昧な中、耳元を煩わす妖精を叩き落としたことに、悪気はなかった。
本当に、幻覚だと思っていたのだ。
ロゼアは寝台の上で胡坐をかいたまま胸中で自己弁護した。逃避から窓の外を眺める。日はすでに昇りきり、白い光に焼かれた砂が、陽炎に波打っていた。
眺望から現実に立ち返り、ロゼアは妖精に要求する。
「わるい、もう一度説明してくれよ」
枕の上に座る妖精はうんざりした様子で、ですから、と呻いた。
『ロゼアは魔術師になったんです。いえ、なる、のほうが正しいでしょうか。あなたは魔術師のたまご。ボクはあなたの案内妖精。星降の国にある学園へあなたを案内するように、世界に命じられてここにいます』
ロゼアは無言で手元のカードを見下ろした。今しがた妖精から手渡されたその紙札には、入学許可証の文字が穿たれている。
「俺が……魔術師?」
『はい』
自問するロゼアに妖精は大きく頷いた。
魔術師とは、奇跡を起こせる力を持った、人々の総称である。
何もないところに火を熾し、風を呼び、土を揺らし、水を生みだす。多大な力を持つものの、その数は決して多くなく、ともすれば実在を危ぶまれるほどである。
魔術師になれる者は限られる。魔術師としての才は後発的であり、遅くとも十八頃までに発現し、この入学許可証が送られてくる。そう、ロゼアは聞き及んでいた。
「俺、魔術って使ったことはもちろんないし、使えそうな感じもしないけど」
『ボクが見えているっていうことが魔術師のたまごである証明です。魔力のある人にしか、ボクら妖精は見えません』
「……ふうん、あ、ちょうどいい」
ロゼアは妖精の襟首を摘まみ上げて立ち上がった。妖精の口から、ぐえ、と呻きが漏れる。
ロゼアが扉を開けると、教本を抱えて部屋の前を通過する少年がいた。
「スウェン。ちょっと」
「はい?」
手招いた少年の鼻先に妖精を突き出す。
「俺が摘まんでいるもの、なんだと思う?」
「……くうき、です……か?」
少年が首を捻る。とぼけているわけではなさそうだ。
「引き止めて悪かった。行っていいよ。ありがとう」
一礼する少年を見送って扉を閉じ、ロゼアは寝台の上に戻った。枕に腰掛けた妖精が鼻を鳴らす。
『ひどいですよ! 猫みたいに襟首摘まんで吊り下げるなんて!』
「ごめん」
『いいですよ……これで信じてくださるのなら。それじゃあ納得していただいたところで、荷物をまとめてくださいますか? ロゼア』
唐突な要求にロゼアは瞬いた。
「……は? どうして?」
『これからあなたは魔術師になるんですよ』
「あぁ、うん。そこはわかる」
『星降の国にある、魔術師の学園に入学してもらいます』
「うん……」
『入学式は夏至の日です――今年の』
「今年!?」
ロゼアは壁に掛けられた年表を振り返った。夏至の文字を探して今日からの日数を計算する。
残り、四十日強。
「……星降の国までってここから確か」
『二十日ぐらいでしょうか』
何事もなければ、の話だ。
つまり。
「それって……すぐに星降に向かって出発しろってことなのか?」
念のための確認を入れたロゼアに、妖精が神妙な面持ちで首肯する。
『その通りです』
五百有余年前の話だ。世界を分断するほどの大戦が勃発した。
両陣営で戦線に組み込まれた魔術師たちは、その数を減らしながら屍山血河を築いた。終戦して久しい現代の魔術師たちは有する力の危険性ゆえに、王の監視下に置かれることを義務づけられている。
魔術師として覚醒した者は現在の生活を速やかに放棄。そして夏至の日までに魔術師たちの養成所に入学すること。つまり、屋敷を、傍付きを辞職せよ、ということだ。
それは世界を治める五王から魔術師たちに最初に下される勅命。
拒否の許されない、決定事項である。
しかしそれは果たして本当に回避できないことなのか。
ロゼアから相談を受けて王城に照会するべく離席していた男は、戻ってくるなり端的に述べた。
「王陛下に確認しました。不可だそうです」
ロゼアは絶望から顔を手で覆った。座っている椅子が応接用のソファでなければそのまま沈み込んでいただろう。
扉を閉じた男がロゼアの前を通過し、執務机から引いた椅子に腰を落とす。ロゼアは頭を軽く掻きまわしてから居住まいを正した。男が握り合わせた両手を膝の上に置き、ロゼアが落ちつくまでを待っていた。
窓からの鋭い陽が男の小麦色の頬を照らしている。暗がりでは黒に見える髪も光に透けて、本来の色である藍色があらわになっている。反して琥珀の双眸には影が差していた。
年は二十六。目元涼しげな美男子だ。
「ありがとうございました、ラギさん」
男はロゼアの謝辞に微笑んだ。
「礼には及びませんよ。傍付きの進退を管理するのは私の仕事のうちのひとつです」
ラギは〈屋敷〉の次期当主、レロクの補佐を務める男だ。自身も元は傍付きであったラギは、ロゼアたちを総括する立場でもある。ロゼアが辞表を出す相手は事務方ではなく彼である。
「わたし個人としても、あなたには屋敷を離れて欲しくはありませんけれどね」
ロゼアはラギにぎこちなく笑みを返した。膝の上に視線を落とせば、ほら見ろと言わんばかりの顔で、妖精がロゼアを見上げていた。
『だから言ったでしょうロゼア』
妖精は言った。
『訊いても仕方ないですよって』
(うるさいな)
魔術師はその養成所となる学園の入学許可証を案内妖精から受け取った時点で、世界を治める王たちの所有物となる。学徒はそのとき籍を置く学び舎から去り、職を持つなら手放さなければならない。ロゼアとて、告げられなくとも知っていた。
かといって、はいそうですかと、すぐに従えるはずがない。
承服できない。
どうしても。
自分は花嫁を持つ、傍付きなのだから。
「ラギさん……ソキは……?」
ロゼアの花嫁が、ソキが、屋敷に戻る気配は未だに見られない。
もし彼女が近々に旅行を終えるなら、問うまでもなく報せがあるはずだ。だからロゼアにはわかっていた。
「待ちなさい、ロゼア」
ラギが彼の端整な顔から笑みを消し、静かな声音でそう告げることは。
(だけど、ラギさん)
自分はいつまで彼女の帰りを、待つことができるのだろう。
今すぐにでも旅立てと急かされる身で。
『急なことでロゼアが戸惑うのも、もっともだとは思いますよ』
廊下を早足に歩くロゼアの隣を飛びながら、案内妖精は同情の響きでそう言った。
『ロゼアが今のお仕事を大切に思っていることはボクにもわかりました。けれど決まりなんです。魔術師として目覚めてしまったら、ボクら案内妖精と一緒に夏至までに学園に入らなきゃいけない』
「みんなすぐに納得して、学園に出発するものなんだな。すごいな」
『みんなというわけじゃありませんもちろん……。それまでの日常を、いきなり失うわけですから』
でもね、と、妖精はロゼアを諭した。
『ちょっとしたことがきっかけで、それまでの生活ががらりと変わってしまうことって、あるでしょう? 今回のことも、そういうものだと思ってほしいんです。……交友関係を断てって言っているわけじゃないんです。親兄弟を捨てるわけでもありません。しばらくは離れることになっても、また会えます』
「会えないんだよ!」
ロゼアは鋭く反駁していた。足を止めて振り返る。宙でつんのめりかけた妖精は困惑顔でロゼアを見返していた。
「俺がここを離れたら……もうソキと会えない」
『……ソキさんって?』
「俺の花嫁」
説明はひと言で足りた。ラギとの会話を耳にしていた妖精はロゼアが〈屋敷〉の〈傍付き〉であると理解しているだろうし、傍付きが口にする〈俺の花嫁〉という単語の示すところはひとつしかない。
屋敷に複数名いる花嫁花婿の中でも、傍付きが敬称を付けずに名を呼ぶたったひとり。傍付きを傍付きとして選び、任命した存在。ロゼアが心身を費やして慈しみ、献身の限りを尽くして守り、育ててきた、ロゼアの〈砂漠の輝石〉。ロゼアの〈宝石の姫君〉。
ロゼアとソキは元より別れる運命にある。
傍付きと花嫁とは、そういうものだ。時が来ればロゼアもソキを送り出すはずだった。しかしこのままでは見送ることすら叶わない。
ひと月前の東雲の時分にまだ眠るソキを馬車に乗せて旅行へと送り出した。
それが、本当に、最後になってしまう――……。
生木を裂くような別れの予感。震えるロゼアをよそに妖精は訝しげな顔のままだ。
『……それって、ロゼアの婚約者って、ことですか?』
「違う」
ロゼアは眉間にしわを寄せて即座に否定した。妖精の無理解に呆れてしまう。
『ですよね。……ラギ、という方のお話から、ロゼアのお仕えするお嬢さまのことなのかなって思っているんですけど……合っていますか?』
「そうだよ。……わかってるなら変なこと言うなよ」
『……すみません。でも、だったら帰省したときに会えるんじゃないんですか?』
やっぱりわかっていない。
ロゼアは憮然となった。
ロゼアが帰省したところで屋敷を離れた人間と花嫁の接触が許されるはずもなかろう。加えていえばロゼアの離職はソキの婚期を早める。傍付きを失った花嫁を、長く留めてはいられない。
「……俺は、行かない」
ロゼアは拳を握り締めて、絞り出すように訴えた。
「俺は、学園へは行かない」
『それはできません』
「遅らせることは?」
『出発の日程を多少ずらすことは構いません。でもそれは、夏至の日に間に合う範囲内でのことです』
「ソキが戻るまでは屋敷にいたいんだ」
『ロゼア……それはいつまでですか? 何度でも申し上げます。夏至の日までに学園へ着くのなら、いくら出発を遅らせても構いません……あなたのソキさんが戻るのは、いつの話ですか?』
「……わからない」
妖精がこれ見よがしにため息を吐く。ロゼアは歯噛みした。嘆息したいのはこちらの方だ。
『あなたにとってあまりに急な話だとは思います。でもあなたが魔術師になることは覆らない』
「魔術師になるしかないなら従う。でも待ってくれって言ってるんだよ。せめてソキが旅行から戻るまで」
もしくは、彼女が屋敷に戻るか否か、明白になるまで。
『駄目です』
妖精の返答はにべもない。
『あなたは早晩ここを発って、学園へ行くんです。ボクと一緒に』
(少しぐらい譲歩しろよ!)
ロゼアからすれば〈傍付き〉を辞職するなど、断固として拒否したい。それを受け入れると言っているのに。
ロゼアの心情を斟酌するつもりはないと言いたげに、妖精は唇を引き結び、腕を組んで宙を漂っている。かわいらしい顔立ちとは裏腹に、眉間にしわを寄せる様が妙に堂に入っていた。気難しい、とまではいかないが、それなりに頑固な性質であるとみた。彼のような雰囲気を持つ少年が世話を焼く下の世代にもいるからわかる。
頑固で。
そして生真面目(シディック)な――……。
「シディだ」
ロゼアから唐突に人差し指を突き付けられ、宣言された妖精は、大きく見開いた目を瞬かせて首をかしげた。
『……はい?』
「名前だよ。……あんたの名前。俺はこれからあんたをそう呼ぶ。妖精って確か名前を他人に教えられないんだろ? 違ったっけ?」
『……違いません』
妖精にとって名を明らかにすること自体が主従契約となるらしい。とはいえ名がないと不便きわまりない。
「妖精って呼ぶのもどうかって思うし。……ほかに希望の呼び方があるなら、そう呼ぶけど?」
妖精は本名に代わる通り名をいくつか持っているとも聞いている。砂漠で生真面目を意味するシディの呼び名はロゼアの単なる意趣返しだ。
が、妖精はあっさりと首肯した。
『わかりました。シディですね』
「……それでいいのか?」
ロゼアが揶揄の意味を込めて命名したと理解していないのだろうか。
念押しするロゼアに妖精は笑みを返した。卑屈な笑みだ。
『かまいませんよ。ボクは融通の利かない妖精だって、仲間内でも通っているぐらいですからね』
妖精の拗ねた物言いに、ロゼアは我に返った。俄かに頭が冷えていく。
自分はかなり、頭に血が昇っていたらしい。
妖精がロゼアの横をついと通り過ぎる。その背を呼び止めようとして、ロゼアは口ごもった。今しがたロゼアが付けた通り名で呼んでもいいものか。それともまず謝り、妖精から希望の呼び名を訊き出すか。
逡巡は一瞬だ。しかし、時機を逸した。
ひとり少女がおびただしい殺気を撒き散らしながら、ロゼアたちの進行方向から歩いてきたからだった。
小麦色のしなやかな腕を大きく振る少女の歩調は力強い。薄い唇は引き結ばれて、とび色の瞳が爛々と輝いていた。頬の輪郭に添うように切り揃えられた赤みの強い金髪が、ともすれば怒りに逆立って見える。
周囲を射殺しそうなその物々しさに、妖精もロゼアも思わず静止していた。
「……メグミカ?」
前のめりの姿勢でロゼアの下へ歩いてくる少女はメグミカ。ロゼアの補佐としてソキの世話役を務める少女である。
傍付きはその名の通り一日の大半を花嫁花婿に侍って過ごす。だが教育や訓練で席を離れなければならないことも当然ある。そのようなときに傍付きの代わりを務める者が補佐だ。元は傍付きの候補者。ロゼアとその座を競った同期であり、今は職場の相棒とも呼べる存在が彼女だった。
妖精の横をすり抜けたメグミカは、ロゼアの間合いにひと息に踏み込んできた。肩を掴まれ、壁際に押し付けられる。
ロゼアを仰ぐ少女の眼差しは押し殺せない憤りに満ちている。
メグミカは言った。
「……アスルが帰ってきたわ」
ロゼアの腕を握るメグミカの五指に力が籠る。その戦慄く指先をしばし見つめ、ロゼアはメグミカに問い質した。
「アスルが……アスル、だけが?」
「そうよ」
アスルはソキのお気に入りのぬいぐるみだ。ロゼアたちの代わりにソキの旅行に同行している。アスルが戻るなら、当然その主人たる花嫁も帰宅するはずだった。
にもかかわらず、ぬいぐるみだけが主人不在のまま戻ってきた。
彼女の発言の意味を酌めぬほど馬鹿ではない。
「ソキ」
「待ちなさいロゼア!」
来た道へ踵を返しかけたロゼアをメグミカが引き止める。彼女の握力は強く、なまはかな力では引きはがせない。
「どうして止めるんだよ!?!?」
「ラギさんなら部屋に行ってもいないわよ! ハドゥルさんたちとどこかへ出たわ」
「父さんたちと?」
「わたしがあんたのところに来たのは、あんたが先走らないようにするため」
「若様の命令か」
「違うわよリンデンさんの命令。それがわたくしたちのお役目ですよ、メグミカ=v
補佐の総括者を口真似て、メグミカが肩を落とす。自然とロゼアの肩も彼女から解放されたが、不在とわかっているラギの部屋へ駆け戻る気にはなれなかった。
「若様はソキ様をきちんと嫁がせたいってお思いよ」
「……それぐらいわかってる」
「あぁ、運営をちょっと刺してきたい」
「聞かれるぞ。俺を諌めにきたんじゃないのかよ。……メグ、父さんたちはどこへ行ったんだか知ってる?」
「知らない。でもハドゥルさんとライラさんは屋敷内に留まるみたいよ。代わりにうちの親が何人か連れて王都(オアシス)を出たみたい……外からは何人か呼び戻されてる」
「物々しい」
「私たち下々に教えられる頃には終わってるわよ。全部ね」
『……あのー、ロゼア?』
控えめな呼びかけが耳元で唐突に響き、ロゼアは振り返った。ロゼアの肩口近くに妖精が漂っている。彼の困惑と驚きの入り混じった表情を見て、ロゼアは渋面になった。
妖精の存在をさっそく忘れかけていた。
ロゼアの反応を訝ってメグミカが問いかけてくる。
「誰かいた?」
聞き耳を立てる誰かが。
いや、とロゼアは否定を返した。
(やっぱりメグも見えないか)
メグミカの視界に妖精の姿は収まっているはずだが、彼女の目の焦点は遠くにある。ラギもそうだった。面会中、妖精はずっとロゼアの膝の上に座っていた。しかしラギの視線は妖精の上を掠めることすらなかった。あの、他者の気配に敏感なラギですら。
「……他に何か指示は?」
「アスルを洗濯しておけって命ぜられたわ。若様から。……それぐらいよ」
「……わかった。ウェスカとアザは買い出しから戻った?」
「まだ。ユーラとシーラにはもうこの件を伝えたわ。ふたりは区画にいるわよ」
「なら俺も支度を整えて区画にいく」
区画とはつまるところソキの住居だ。花嫁花婿にはそれぞれ専用の住居空間を持っている。世話役たちもそちらで生活することが多い。
メグミカは頷き、自分も所用を済ませしだい向かうと述べ、その場を離れた。
廊下の角を曲がる彼女の影も見えなくなったところで歩き出したロゼアの横を、妖精がふよふよ漂いながらついてきた。
『……すごく深刻そうでしたが……』
「深刻なんだよ。……ソキが戻ってこないかもしれない」
『……旅行に行かれているお嬢さまが?』
「そう」
予感はずっとあったのだけれど。
旅行の目的は顔見世に過ぎない。婚家の選定を兼ねてはいるが、戻ることを前提としている。旅行を厭う花嫁花婿たちの慰めに、彼女たちのお気に入りの品を世話役たちは可能なかぎり荷物に詰める。けれども今回は荷を最小限にせよと命ぜられ、ソキの好きな飴玉ひとつ、衣装箱の隅に紛れ込まるだけで苦労した。
昨年の暮れに花婿を送りだした傍付きが嘆いていた。彼の花婿は旅行に行ってそのまま婿入りした。おやすみ、と告げて眠った翌朝に、まどろんだままの彼を馬車に乗せたが最後だったという。
礼装して花婿の婿入りを皆に告げてまわり、最後に泣き崩れた彼の姿をロゼアは覚えている。
お気に入りの本一冊すら持たせてやれなかったと、その傍付きは言った。旅行という名目ながら平時と違って、荷の内容は厳しく制限されていたらしい。
今回の状況と同じだった。
『……ソキさんは……』
妖精が呟いた。ロゼアは視線だけを動かした。妖精は俯いたまま。ロゼアに向けて言葉を放ったというわけではないらしい。
独白のように彼は言葉を続ける。
『……戻ってこない可能性の方が、高いんです、か……?』
ロゼアは歩き続けながら、口の端を嗤いに歪めた。
(うれしいか?)
ソキが戻らないと確定すればロゼアが学園への出立を拒む理由もなくなるから。
『ソキさんが戻らないと、えぇっと、ロゼアはもう、ソキさんに二度と会えない……?』
「……そうなる」
抑揚を抑えてロゼアは答えた。
「……嫁いだ花嫁の行先がその傍付きに知らされることは絶対にないし、調べようとしても上に阻まれるし、下手をすると殺される」
『ころっ……物騒ですね!? ここってどういうところなんですか?』
「砂漠の花嫁と花婿を、養育する機関だよ……本当に知らないのか? お屋敷のことを?」
王城が砂漠の国の主脳ならば、〈砂漠の輝石〉を養育する〈屋敷〉は心臓といえる。花嫁花婿の稼ぐ莫大な財貨が砂漠の民人を生かすのだ。屋敷にひとたび睨まれれば砂漠で生きることは不可能といっても過言ではない。砂漠の国内で屋敷のことを知らない者はいないし、花嫁花婿と傍付きの関係についてもまたしかり。
ロゼアの追求に妖精は悄然と肩を落とした。
『すみません……世情に疎くて……。ボクら妖精は、妖精の丘からほとんど出ないですし。こうやって夏至の時期に案内妖精の役目を仰せつかった者だけが、外に出てくるぐらいで……』
「……あぁ、そうか」
妖精は中間区と呼ばれる場所で生活している。星降の国を入口とするそこはロゼアの住むこの世界と次元が異なるのだという。
「……それで、わからなかったのか」
『……すみません』
「……俺の方こそ悪かった。気が回らなくて」
『いえ。……大事な方ともう二度と会えないかもしれない状況で、魔術師になれとか言われたら誰だって苛立ちますよ。……それに入学許可証を渡された人は怒ったり混乱したりしやすいんです。突然ですしね。ボクら妖精に姿を見せるなって怒鳴る人もいますし……』
「怒鳴られたことが?」
『ボクは幸いにしてありませんけれど、仲間が。もう半覚醒してる魔術師のたまご相手だと魔術で攻撃されることもあったりとか。だから……気にしないでください。ボクもロゼアがなかなか見つからなくて焦っていて。余裕のない対応で、すみませんでした』
謝罪し合ったことで空気が和らぐ。
ロゼアは深く吐息した。頭がようやっと冷静さを取り戻し始めていた。
頭が冷えると見えるものもある。屋敷内は平生と変わらぬ様子を保っているようでいて、歌も朗読も笑いも、囁きひとつさえ響かず、ひっそりとしていた。渡り廊下から望める花嫁たちの庭に、その主人や世話役たちの姿はない。
『……ひとつ、確認なんですけど』
寮の入口に差し掛かったところで妖精が口を開いた。
『ソキさんと会えなくなるかもしれないのは、お屋敷の人たちが、ロゼアにソキさんの行く先を教えてくれないからだし、無理に探そうとすると、お屋敷の人が邪魔をするから難しい……っていうことで、いいですか?』
「ん? ……うん」
『……なら、大丈夫ですよ。探しに行けばいいんですよ』
「……は?」
ロゼアは眉間にしわを寄せた。
今度は何を言い出すのか。この妖精は。
だって、と妖精は続ける。
『ロゼアは、魔術師になるんです。魔術師は王の所有物(もの)ですから、簡単に危害を与えることはでません。それに学園をきちんと卒業した魔術師は、だいたい王宮魔術師になって、世界中のいろんな情報に触れられる。普通の人よりうんと簡単に世界中を回ることができる。探せますよ。これまでは規則に縛られて難しかったのかもしれないですけど……魔術師なら』
ロゼアは笑ってしまった。
妖精は根本的に思い間違いをしている。
砂漠の輝石。砂漠の花嫁。花婿。宝石の姫君。
そう呼ばれる者たちこそが、王の所有物だ。屋敷は彼女たちを無事に、幸せのうちに、嫁がせるよう一任されている機関にすぎない。屋敷の指示に背く。それ自体が王への反逆である。
『……何かおかしいことを言いましたか?』
「違う。おかしいんじゃなくて、あのな――……」
――……ロゼアちゃん、あのね。
あのね。そきね。どうしても、がまんできなかったら。
ろぜあちゃん。
王に叛意を示さずに傍付きが花嫁に再会できる理由はたったひとつだけだ。
自室の扉の取っ手に指を掛けたまま固まったロゼアを、妖精が訝る。
『……ロゼア? ……どうましたか?』
「……あぁ、ごめん」
ロゼアは妖精に微笑みかけて扉を開いた。
「……一理あるなって、思ったんだ……」
『……でしょう?』
妖精は得意げに笑った。
「そういえば……俺はどう呼べばいいんだ?」
『ボクを? シディって名づけたのはロゼアじゃないですか』
「……それでいいのか?」
『えぇ。真面目(シディ)っていう響きは別に悪いものじゃないですから』
これもまたひどい名前を付けられた仲間がいましてね、と語り始める妖精の様子に安堵する。
「そっか」
ロゼアは扉を閉じながら言った。
「……遅くなったけどよろしく、シディ」
ロゼアの案内妖精が一瞬だけ目を丸め、そして破顔する。
『えぇ、こちらこそ……よろしくお願いいたします、ロゼア』