ソキ。ソキ。ソキ。俺の花嫁。
光を縒り紡いだような淡い金の髪を風に踊らせ、なめらかな乳白色の肌を薄紅に上気させて、鈴を転がすような軽やかな声で俺を呼ぶ。ろぜあちゃん。ろぜあちゃん。ろぜあ――……。
『約束ですよ』
どうしても。そきね。がまんできなかったら。どうしても。
うん。
どうしてもね、がまんできなかったら。
うん。
ろぜあちゃん。
ソキ。
夢を見た。
おそらく、ソキの夢。
確証はない。思い起こそうとしても内容は端からおぼろになり、千切れ、消えていく。
上半身を起こしたまま虚空を見つめるロゼアにシディから声が掛かった。
『……ロゼア?』
ロゼアの枕元で眠っていた彼は目元を擦りながら起き上った。
『……どうしたんですか? 夜明け前じゃないですか……』
「喉が渇いたんだ。まだ寝てていいよ」
『うー……わかりました……』
シディはまた起こしてくださいと言い置いて再び枕に埋没した。すやすや寝息を立てる彼に、ロゼアは敷布代わりのハンカチを掛け直してやった。
寝台から降りたロゼアの裸足を、毛足長い絨毯がやわらかく受け止める。ロゼアは軽く伸びをしてから、水差しの載る小卓へと歩いた。
花嫁の区画にある仮眠室は二段構えの寝台が四基置かれている。そのうち半数は同僚たちの姿で埋まっていた。穏やかな寝息が断続的に響いている。疲れているのだろう。気配に敏感な彼女たちの誰も目覚める気配を見せなかった。
ソキのぬいぐるみたちだけが戻ってきて既に二日が経っている。
あの日、ロゼアたちがソキの居室に踏み入ると、彼女の荷がうずたかく山を作っていた。
花嫁花婿は身ひとつで嫁ぐきまりだ。下着一枚すら古いものは持ち込めない。身に着けて許されるものは婚礼衣装。それだけ。
送り返された荷物は主人が二度と戻らぬことを無言のうちに主張しているようだった。
ロゼアを含む世話役たちはそれらを片づけた。衣装はブラシ掛けして陰干しを行い、帽子は筒箱に。装飾品も磨いてから小箱へ。化粧品は鏡台に並べる。処分しろとは命ぜられなかった。ロゼアたちは苛立ちを噛み殺しながら、ソキの荷をまた彼女が使うものとして、淡々と所定の位置に収めていった。
ソキの荷物がひとつ残らず送り返されてきたという事実だけが、わかることのすべてだ。
ソキが嫁ぐというのなら、それを知らされないはずはない。けれどもロゼアたちの照会に屋敷の上層は沈黙を保っていたし、その構成員の多くが詰問しようにも所在知れずとなっていた。上層のひとりであるラギも姿が見えなくなっていて、ロゼアの辞職の件は宙に浮いたままとなっている。
人事に無断で出立はできないというロゼアの主張をシディは受け入れた。日数的にはまだ余裕があったからだ。
喉を潤すと完全に目が冴えてしまった。夜はしらじらと明け始めている。
二度寝できないこともない時間だが、平生ならば既に活動している頃だ。同僚たちも遅かれ早かれ目覚めるだろう。起きていることにした。
仮眠室から出て手水場に。揚水機を手漕ぎ、汲んだ水を手桶からたらいに流し入れる。手ぬぐいを水に浸して硬く絞り、顔と襟元の汗を拭うとすっきりした。
何となしにたらいの中の水に手を浸す。水は今日も冷たく清らかだ。砂漠で水をこうも潤沢に、しかも寝所から数歩の距離で使えることは特権のひとつ。花嫁花婿が他国の富豪に嫁ぐことで稼ぎだす富があってこそだった。
星降、花舞、楽音、砂漠、そして白雪。
世界の五国の中で砂漠だけが、人の住める土地をほとんど持たない。水がないのだ。
作物は育たず、特産品といえば宝石や硝石だが加工にも水がいる。その確保には困難を極める治水工事や井戸の整備がつきもので、そして莫大な資金を要した。
その大半を稼ぎ出す存在が〈砂漠の輝石〉なのだ。他国の富豪に身を売り、国に幸いをもたらす。砂漠の王家が誇る、至高の輸出品。
だからこそ傍付きは花嫁を、花婿を、手放さなければならない。
ずっと定められていたことだ。ロゼアとてソキが幸せに嫁ぐのであれば、それがわかるのならば、この別れを呑みこむことはできるのだ――……おそらく。
ロゼアはたらいから手を引いた。水は排水溝に流した。階下の濾過槽に溜められたのち、掃除洗濯に使われるようになっている。
廊下へ出ると、ひと組の男女が仮眠室を覗き込んでいた。その横顔を見てロゼアは息を詰めた。
両親だ。
「父さん、母さん」
声を掛ける前から気配に気付いていたらしい両親はすぐにロゼアの下へ歩み寄ってきた。
「ロゼア」
母がやわらかく名を呼びながら、息子たる自分を引き寄せる。成人の十五を越えても母はロゼアをいつまでも幼子として扱う。彼女が額、頬、首と手を滑らせて念入りに体調を確かめてくることにも慣れた。とはいえ、三回に一度は抗議するのだが。
母の傍らで父が立ち止まる。ロゼアは改めて両親を見た。
父、ハドゥル。母、ライラ。父母そろって元傍付き。ロゼアと同様に屋敷に勤めているが、会える機会は少ない。上層の役職に就く彼らは年の半分は屋敷を留守にして五国を渡り歩いている。
春の除目の関係で今月は屋敷にいる予定だという両親の顔を見たのは一週間前が最後だった。ロゼアが研修を理由に屋敷から離れていた先週頭はともかく、昨日一昨日は探したものの姿が見えなかったのだ。
「早いな。起こそうと思っていたんだよ」
「喉が渇いて目が覚めたんだ。……父さん、ソキは……」
「そう。そのことだ」
「歩きながら話しましょう。ここで話していては、皆起きてしまうわ」
お庭までね、と母は言った。
主人が在宅なら夜明ける前から、それこそ今頃の時分から、朝食や衣装の支度をするべく世話役たちがひっきりなしに往来する。ひそやかに窓の桟の埃を水拭き、花を活け替える者の姿もある。けれどもソキのいない区画は静寂を掛け布にいまだに深い眠りの中。朝ぼらけの廊下を滑る影はロゼアたち親子のもののみだ。
「ソキさまのことを話す前にひとつ」
仮眠室からかなりの距離を取ってのち、ハドゥルが低い声で話を切り出した。
「昼には告知されるだろうが、人事が大きく入れ替わる」
「人事が? 春の除目が終わったばかりなのに?」
「上と外の人がね」
ライラがおっとりとした声音で補足した。
「ほとんどの人はこれまで通りよ。世話役の子が入れ替わるとか、輿持ちの担当が変わるとか、そういうことではないの」
「屋敷はこれからレロク様の手で動かされる」
レロク。次期当主。ラギの元花婿。そして、ソキの実兄。
彼が屋敷の主となる。
父の決然とした物言いにロゼアは息を呑んだ。
周知の事実だが現在の屋敷は二分されている。当主と次期当主。決定権のないロゼアたちはともかく、参議の権利を持つ上の人間たちは派閥に分かれて水面下で衝突を繰り返しているらしい。しかしながら最終的な決定権は当主側にあり、次期当主は煮え湯を飲まされている形だったのだ。
「……ソキさまがお戻りになるのなら、今度こそ、きちんと幸せになられる家が選定されることでしょう」
ライラの声は先と変わらず落ち着いた抑揚をしていたが、どこかしら剣呑さを帯びていた。ロゼアは母の顔を凝視した。彼女の発言の意味をどこから追求すればよいのか。
迷った末に、もっとも気にかかっている点を質すことにした。
「ソキは、戻ってくる?」
お戻りになるのなら、と、母は言った。
帰らない可能性もあるということだ。
ライラは眉間を微かに寄せてゆるゆる頭を振った。
「わからないわ。……こちらから迎えの馬車は向かわせているけれど」
「先方のものになってしまっていれば嫁がせなければならない」
ハドゥルが苦々しく呻いた。
「手折られた花を他へ嫁がせるわけにはいかない……以前に、枯れてしまう。そうなっていてもおかしくないだけの時間は経った」
枯れるは花嫁花婿の死を暗喩する。
ロゼアは表情を硬くして呟いた。
「……やっぱりソキは……旅行に行って、そのまま嫁ぐ予定だったんだな……」
世話役たちや傍付きとの別れを惜しむ暇を与えず。王に婚礼衣装を披露することすらなく。だまし討ちのように。
「本来なら選ばれることのない輩よ。条件に適うのは財力だけ」
ロゼアの発言にライラが婉曲な肯定を示す。問いに明確に答えることはできないのだろう。そもそもやんわりながら情報を漏らすこと自体が稀である。
「もうそのようなところを候補に挙げることは二度とないわ。ソキ様は幸せに嫁ぐでしょう。……ご無事なら」
「無事だよ」
ロゼアは断言した。ソキは無事だ。ソキは誰のものでもない。ロゼアの花嫁だ。そう感じる。
ソキがどうにもならぬほど危機なら、命を懸けて自分を呼ぶに違いない。ロゼアはまだ呼ばれていない。喚ばれていない。
いまはまだ。
「そうだな」
ハドゥルが微笑んでロゼアを見た。
「……お前は特別にソキ様と繋がりが深かった。ソキ様が呼ぶから帰りたいといきなり国境で言いだして、私たちを困らせることもあった。なぁ、母さん」
「ええそうよね、お父さん。戻ったらソキ様がメグミカでも手の付けられない状態になってしまわれていて……あったわよね。そういうことがね」
繋がりの深い傍付きと花嫁、もしくは花婿は、呼び合うことがあるという。虫の知らせ。遠く離れていてさえ、互いの幸福や死を感じられるのだと。
ソキが本当の本当に喚んだとき、ロゼアも勘が働くことがある。
縋るように、祈るように、思う。
まだ大丈夫――……。
「ソキ様のことはひとまず待つしかない。……けれどご無事に戻られたとして……お前は傍付きとして、ソキ様を嫁がせることができるのか?」
問いかけてくるハドゥルをロゼアは見上げた。父にしては珍しい困惑の色が浮かんでいた。
「ソキ様のこと以外で、お前はわたしに話すことがあったんじゃないのか? ……ラギから聞いたぞ」
ロゼアは足を止めた。もう中庭に近いところまで来ていた。
手入れの行き届いたうつくしい庭だ。屋敷の高い外壁の縁から射す陽光を受けて、色とりどりの花々が蕾を綻ばせ始めている。茂る緑も色したたるように瑞々しく、中央の噴水も七色の光に飛沫いている。
その眩しい光景に似つかわしくなく、ロゼアの嘆息は暗澹としたものだった。
ロゼアは軽く挙げた右の手のひらを眺めた。気負いのなく。手の大きさを確認でもするかのように。
それだけで、一通の封筒が手品のように現れる。
仮眠室の机に置いたままにしていた、魔術師たちの学園の入学許可証が。
忽然と現れた封書にさすがの両親も驚いたようだ。目を丸めるふたりにロゼアは許可証を差し出した。
一見にはただの白い封筒だ。しかし目を凝らせば表面が虹色に波打っている。シディが眠っている間にこっそりと水に浸してみたり火を点けてみたり切り刻んでみたりしたが、すみやかに元の形へと再生する。机に無造作に投げ出されたこの封筒を誰かが誤って持ち出したとしても、一瞬のちにはロゼアの元に帰っている。
逆にロゼアが欲しいと望めば、どのような場所にあったとしても、この入学許可証は現れる。
「入学予定者の手に必ず戻ってくる、魔法具のひとつだって言われた」
ロゼアは右手を軽く振った。火に表面を舐め焼かれたように封筒が消え失せ、一葉のカードが現出する。
ハドゥルはそれを黙って取り上げ、認められた文字を追い始めた。
紙面に綴られた言葉は簡潔なものだ。ロゼアは既に諳んじることができる。
白は清廉。砂は叡智。楽は芳醇。花は潤滑。そして星はあまねく道標。五国の五王の代表として、星降が国王の名のもとに、世界の意志を伝え奉る――……堅苦しいあいさつ文に続いて、ロゼア、おめでとうおめでとう学園で待ってるからなっ、の、やや砕けすぎに思える祝辞。最後に、シディがロゼアに説明した内容が記されている。入学予定者は妖精の案内のもと、夏至までに学園の門を潜ること。入学予定者の出立を何人たりとも阻んではならないこと。入学予定者は聖人も罪人も等しく五王の預かりとなること、等々。
カードをライラに渡しながら、ハドゥルが問いかけてくる。
「出発しないわけにはいかないんだろう?」
「……うん」
遺憾ながら、その通りのようだ。
ライラがカードをロゼアに返して腕を組む。
「それならいつ、出発するかよねぇ……。夏至までには、まだまだあるけど……」
「ロゼア、ひとつだけ教えよう。……来月の半ばまでだ」
父の発言に母の顔が緊張を帯びた。ライラがハドゥルを見る。その眼差しには驚きと、非難、それらに隠れて微かな賞賛の色があった。
「それまでに報せがないなら、ソキ様はおそらく戻らない」
それ以上は、待っても無駄だと。
ロゼアは喉の奥を鳴らした。ハドゥルの行いは禁忌に近いものだったからだ。
ハドゥルもライラも、次期当主の手足となって動く上層の人間だ。彼らはロゼアの花嫁の旅行先を知っている。けれどもその情報を断片とはいえ漏らすことは許されるものではない。
ハドゥルもさすがにこれ以上は、と口を噤んだ。
ハドゥルが示したものはロゼア出立の目安だ。しかしそこからわかるものもある。
次期当主の指示を受けてメグミカの両親を含む数名が屋敷を出た日が三日前。そこから数えてハドゥルが示した日までは約二十日間。現地に到着して即座にソキの状況を把握した早馬が織り返すと仮定すれば、片道に約十日。その範囲内に、ソキはいるということだ。
砂漠の王都から往復で二十日以内の範囲となれば隣国、つまり白雪か楽音のいずれしか該当しない。花舞は楽音を越えた先の国だ。学園の所在地である星降はさらにその向こうである。
ハドゥルがロゼアに微笑みかける。
「妖精から旅の条件をよく聞いて、どうするか決めなさい」
「……私たちは当分の間は屋敷にいるわ」
ライラが両手でロゼアの頬をやわらかく包み込んだ。
「決めたら早めに教えてね」
『ろぜあっ! いったいどこへ行ってたんですか!?』
両親と中庭で別れてのちに仮眠室へ戻ったロゼアを、風の速さで眼前に飛んできたシディが出迎える。少し、怒っているようだ。
「皆は起きたんだな」
仮眠室の寝台に同僚たちの姿はなく、寝具はきれいに整えられていた。
『食堂に行かれるみたいでした。ロゼア、聞いていますか? どこへ行っていたんですか?』
「聞いてるよ。父さんたちに入学許可証を見せてた。ラギさんから話を聞いて、来てくれたんだ」
『こんな早朝にご両親が?』
「日中は時間が割けないんだってさ」
ロゼアは入学許可証を得た日に、両親にも面会希望を出していた。屋敷の実権を次期当主に移そうという慌ただしい中、彼らはよく顔を出してくれたと思う。
ロゼアは寝台の縁に腰掛けながら妖精に呼びかけた。
「……シディ」
ロゼアの膝の上に降り立った妖精が首をかしげる。
『はい、なんでしょう?』
「夏至の日までに余裕をもって入学許可証が届けられるのは、俺みたいに、なかなか出発しようとしない奴が多いから?」
ロゼアがシディと出会った日から夏至までは丸二か月あった。学園の所在地である星降の中央まで、最も遠隔地に住んでいたとしても、かかる日数は約四十日ほどだ。二十日は猶予がある。
『すぐに出発できるっていう状況が少ないこともありますが、どちらかというと星降の王陛下のやさしさだと思いますよ』
「……やさしさ?」
『心の準備だって要りますし……。それに入学してしまうと、魔術師のたまごはなかなか学園の外に出られません。そこまでは話しましたね?』
ロゼアは首肯した。シディの説明では年末の長期休暇まで、親族の死に目といった特例を除いて、学園から外出することは難しいらしい。
『学園では魔力制御の訓練と、魔術師として必要な知識の習得に明け暮れなければなりません。夏至までの猶予は、星降の陛下が魔術師のたまごに贈る、自由にしていい最後の時間なんです。家族とゆっくりするもよし。どこかに旅行するもよし。……逆走しないかぎりは』
「逆走」
『学園から遠ざかろうとする行為です。それを逆走と呼んでいます。たとえば……ここなら、白雪に旅行する、とかでしょうか』
「……妖精が来たときに、たとえば、仕事で、たまたま砂漠に来ていて、家が白雪だ、っていうときも?」
『だいたいはそのまま学園に向かえって話になりますね。家族への届け物がある場合は王宮魔術師が当人の代わりに動きます』
「自由時間だっていうわりには限定的だな」
『期日に間に合うなら五国回っても大丈夫なぐらい、昔はもっと自由だったんですよ。……一度、逆走して行方不明になった魔術師のたまごがいまして。各国の王宮魔術師を動員して大変だったことがあるんです。以来、逆走は禁止になっています』
「もし逆走したら?」
『国境当直の王宮魔術師に捕獲されます。振り切れば叛意ありとして、本人はもちろん、ご家族も捕縛対象です』
魔術師はもちろん、各国の衛兵も動く。逃げ場はない。
ため息を吐くロゼアの耳に扉の縁を軽く叩く音が響いた。
「……ロゼア? 戻ったのね」
「メグミカ」
ロゼアが面を上げると、メグミカが腕を組んで扉口に立っていた。すでに身支度も整え終えている。苛立った様子で彼女は言った。
「早く服を着替えなさいよ。食堂に行くわよ。お腹空いたんだから」