窓辺で立ち止まって、男が出し抜けに問うた。
「過去を遡ってスベテをヤリ直せルって言ったラ、キミは信じるカイ?」
「は?」
ロゼアは困惑から眉間にしわを寄せた。男の発言の意図を理解することができない。それほど唐突で、前後の脈絡のない質問だった。
「イヤイヤ、後免ヨ。困らせるツモリはなかったんダ……」
ロゼアを振り返った男がすまなそうに笑う。おとぎ話ダヨ、と、彼は言った。
実はそういう内容の本を読んでネ……。
男は砂漠の国の王宮魔術師だった。半年ほど前まで理由あって週末ごと、学園から王宮に通っていたロゼアの、お目付け役として引き合わされた男。今となってはもっとも親しい先達のひとりだ。時間が合うと街で話題の茶菓を挟み、たわいのない話に興じる間柄である。
「……で、ロゼアクンは信じるカイ?」
「さぁ……考えたことがないですし……。過去に遡ってやり直せるって……たとえば?」
「ンン……そうだネ。キミはキミの古巣から出入りを禁じられてル。もしかしたラ、選択次第で、ソウならない未来も合ったかもシレナイ……」
「ソキと屋敷を天秤にかけるっていうなら、俺は何度だってソキを採ると思います」
「キミの花嫁サンとお屋敷が同時に手に入ったかもシレナイっていうハナシさ」
こんこん、と叩扉の音が響き、ロゼアたちは揃って扉を見た。わずかに開いた扉から少女がぴょこんと顔を出す。
「ロゼアちゃん」
ロゼアは椅子から立ち上がって少女に腕を広げた。少女はふわりと笑った。だれをも魅了する花綻ぶような笑みだった。
絹糸それ以上に光沢のある金の髪。ほんのりと上気した真珠色の肌。何よりも目を惹く透明度の高い碧の瞳が、ロゼアを真っ直ぐに捉えている。つたない足取りで歩いてきた少女を抱きしめて、おかえり、とロゼアは言った。
「陛下のお話は終わった? どんな話だった?」
「終わりました! んと、ちゃんと、歩くのしてるなって、褒めてもらいました!」
これからも歩けよって、いわれましたです。ちゃんとロゼアちゃんと練習してますよって、言っておきましたからね。そうか。陛下に褒められてよかったな。ロゼアは少女を抱き寄せる。
少女は自ら歩けるように育てられてはいなかった。今の彼女は自分の足でロゼアのもとまでやって来ることが出来る――屋敷を失ったその代償として。
けれども、失わない未来もあったのだろうか。休みごとにソキを抱いてかつての仲間たちに会う。そんな未来が。
「……ありえるのかな……」
会話の続きと理解したらしい。男がロゼアに問いかける。
「過去を遡りたくなったカイ?」
「よくわからないです……。おとぎ話ですよね、今の」
男は薄い唇の端を持ち上げた。意味深な笑みだ。
「ダレかが時を巻き戻しテも、ボクらはソレに気付かない……。未来がボクらに追いついタとき、ボクらは自覚もナシに消え失せる」
「新しい未来に呑みこまれてしまうってことですか? そんな……だいたい、どうして過去をやり直したいだなんて」
「未来がナイからだろうネ」
男は窓の外を見つめている。
景色を二分する果てない砂漠と鮮烈な青の空を。砂に煙る、そのおぼろな境界を。
「未来がない……?」
「ソウ。致死性の病が世界的に流行したダトカ。昔みたいに大きな戦争が起きたダトカ。凶悪な男が王を殺して回ったダトカ……大切なヒトたちがたくさん死んデ、失われた未来を取り戻そうとスル。ソノ方法が」
「時間退行」
男がその場でくるりと回ってロゼアを見る。彼は微笑んでいる。眩しそうに目を細めて。幸福そうに。そしてどこか、泣き出しそうに。
「面白い話だよネ。児童文学の棚で見つけたんダ。そんなことはできないカラ、時間を大切にしなさいってイウ、教育本だネ」
ロゼアは安堵に息を吐いた。男の語り口が妙に真に迫っていたので、もしやと一瞬でも思ってしまっていた。
「面白かったカラ、リトリアちゃんに話してあげたラ、ちょっと泣かれちゃってネェ……」
「話し方が悪いんじゃないですか……」
「失敬ダナ」
だいたいからして、彼女は泣き虫なんだヨ、と、男が拗ねた様子で訴える。反応がおかしくて、ロゼアは堪えきれずに声を上げて笑ってしまった。
「苛めてルって勘違いされるカラ、モウ少し泣かずにいて欲しいネ……」
「泣き虫じゃないリトリアさんがいたら見てみたいですね……。それこそ違う未来にいるんだろうか。シークさんはそのままっぽいですよね……」
気怠そうなときも誘いには必ず付き合ってくれる。社交的ではないが、面倒見のよい男。
「さぁ、どうだろうネ」
窓の桟に腰をもたせ掛け、男がどこか卑屈に嗤う。
「……もしかしたらボクこそが、世界の敵」
キミの敵かも、しれないヨ――……。
ごとごとごとごと。
身体が、小刻みに振動している。
押し上げた瞼の隙間からは鋼の骨組みに張られた布が見える。馬車の幌だ。
ごとん。
車輪が石を噛んだらしい。乗合馬車の車体がひときわ大きく縦に揺れる。ロゼアは軽く身体を起こして周囲を見た。同乗者たちは揃って眠りの中だ。
(最近やけに……)
夢を見る。そうそう見る性質でもなかったから、余計にそう思えた。とても印象的な内容だったと感じられるのに、記憶に留めていられない。
ロゼアは再び横になって枕代わりの合切袋に頭を埋めた。楽音に入ってからというもの積み重なっていた落胆が再び睡魔となって襲い来る。
深淵に落下するようにロゼアは眠りに就いた。
***
王都の外壁門を抜けてすぐさま、白塗りの尖塔が視界を埋めた。
白鳥が翼を広げて被さるが如く王都を包むその尖塔群は、楽音の国の国府。王の住まう城である。
「はー。大きな城だなぁ……」
感嘆するロゼアの肩口に留まっていたシディが、そうですねぇ、と呟いた。
『砂漠のお城って小さめですよね……』
「小さいなんて思ったことなかったけど……こう比べるとそうだな。たぶん、敷地が限られているからだと思う」
水源から水を引ける距離の限界が砂漠の街の規模だ。対して他国は開墾すれば敷地を広げられる。
「おい、そんなところに突っ立つな」
「あっと。すみません……いこうか、シディ」
ロゼアは後続の波に押されるようにして歩き始めた。そろそろ昼食時だ。腰を落ち着けられる場所も探したい。
楽音の国の王都は賑やかの一言に尽きた。路上には弦楽弾きや歌い手が立ち、人々のおしゃべりを伴奏に、絶え間なく音楽を奏でている。木造建築を中心に構成された街並みは雅だった。花や蝶を透かし彫りにした持ち送り。丁寧に絵付けされた看板。壁は生成り色に、柱は朱色に塗り揃えられている。
砂漠の国の王都はもっと無骨だ。灼熱の砂が国土面積の多くを占める国に、楽音の国のような華々しさはなかった。砂漠の家々の土壁は砂に磨かれて荒い。
ロゼアは傍付きの習いとして他国の世情に通じてはいる。しかし実際に足を運ぶとなると初めてだった。
がらがらと車輪を鳴らして走る二頭立ての馬車を見つめてふと思う。
ソキはこういった土地を旅行していたのだ――……。
店も混み始める頃合いになり、手近な食堂に入ることにした。ロゼアは目抜き通りに面した店を選んだ。
給仕係に案内された店内の席はまだ早い時分ながらもほとんど埋まっているようだ。ひとり用の席に着き、ほかの客たちを真似て注文する。ライ麦のパンと子牛肉の煮込み、薄荷水。そして忘れてはならない、角砂糖。
「角砂糖? 紅茶に添えるものでいいのかしら」
「かまわないです。……すぐにもらってもいいですか?」
いいわよ、と請け合って去る給仕係の娘を見送って、ロゼアは円卓の上に崩れ落ちている妖精に囁いた。
「よかったな。あるっていわれて」
妖精の主食は角砂糖なのだという。
『なかったらどうするつもりだったんですか……。先に調達してくださいよ。お腹空きましたよ、もう……』
力なく翅を震わせるシディを、ロゼアは笑ってしまった。今朝方に角砂糖を切らしてからシディはずっとこの調子だ。
『笑わないでください……。人目を引きますよ』
「大丈夫だろ。これだけ煩いんだし……。見られている感じはしてないよ」
『それならいいですけど……。あと、きょろきょろしないでくださいよ。おのぼりだって丸わかりです』
「そんなこと言ったって、楽音って初めて来たし。砂漠とは全然違う。見ずにはいられないよ」
『お気持ちはわかりますが、あんまり不用意にあちこちを見ていると付け狙われますよと言っているんです』
「なら観光客に紛れよう。観光馬車に乗って、あちこち見学して、一週間ぐらいのんびりして。で、土産話を持って国に帰る」
『それはできませんって、言ってるじゃないですか』
ロゼアの発言を、シディは一刀両断する。
『逆走は却下です。あなたは、魔術師になるために、学園へ行く。否は許されません』
「冗談ひとつに目くじら立ててたらますます腹が減るぞ。…シディは本当に真面目だな」
頬をぷくっと膨らませるシディにロゼアは苦笑した。からかうこともそろそろ控えたほうがよさそうだ。
湯気をまとった注文の品が頃合いよく届く。ロゼアはシディに角砂糖をひとつ抱えさせた。角からかじり始める妖精の表情が徐々に緩むさまを見つめてから、ロゼアも食事にとりかかる。料理の香りは嗅ぎ慣れない。けれども悪くない匂いだった。
最初の砂糖を平らげたシディがぽつりと言った。
『……観光するなって言っているわけじゃないんですよ。ロゼアの足なら余裕でできるでしょうし……』
「ありがとう。……学園へはちゃんと行くから」
角砂糖の粉にまみれたシディの口元を指先で拭ってやりながらロゼアは呟いた。
「この先にはソキがいないんだ。留まっていたって仕方がない」
ロゼアは楽音に入って以来、〈屋敷〉の保有する施設を訪ね歩いていた。しかしいずれの施設もソキの件どころか、屋敷の実権が次期当主に移動したことすら、耳にしていなかったのだ。ソキの迎えの者たちが訪れた気配もない。
ソキは、白雪にいるのだ。
せいぜい自分にできることは、ソキが自分を喚んだときに引き返しやすいよう、旅程を努めてゆっくりと消化することぐらいだ。
ロゼアは吐息して食事を再開した。食器の触れ合う音を響かせているうちに、喧噪が途絶えていることにふと気付く。
「何か騒がしいですね」
シディが口元を手の甲で拭いながら外を見た。食堂の誰もが窓の外へ目を向けていた。
ロゼアはシディに荷物の番を頼んで店外へ出た。
騒ぎの中心はひとりの少女だった。丸石敷きの通りにうずくまった彼女が、髪を抑えて悲鳴を上げていた。
少女の長い三つ編みを縄替わりにして、男が彼女を引き倒そうとしているのだ。
「やめて! 痛い! 離してよ!」
「るぜぇよ! 俺の昼飯台無しにしやがって!」
「ぶつかったのは謝ったじゃないっ……! やっ、痛い!!」
会話の内容と路上にひっくり返った汁物を照らし合わせれば、何が起こったのかはおのずとわかった。露店で食事をとっていた男が、少女から衝突された拍子に椀を取り落してしまったらしい。
頬にそばかすを散らした少女は衣服の上からでも痩せぎすとわかる。骨と皮ばかりの細い手首は強く握れば折れてしまいそうだった。対して男は薄汚れた外套の下に隆々とした筋骨をもつ。彼の体格の良さが野次馬たちに、少女への助け舟を出すべきか否か、二の足を踏ませているようだった。
たすけて、という少女の悲鳴が、自分の花嫁のものと重なる。
無意識のうちにロゼアは地を蹴り、男の腕を掴んで引きとめていた。
「もうよしなよ。その子、謝ってるだろ?」
「あぁ?」
男が不快そうに目を眇めて、空斬る勢いで腕を振った。
「どいてろこのや、ろ!?」
ロゼアは掴んでいる男の腕を後方に向けてゆっくりと捩じった。今度は男が悲鳴を上げる番だった。
男の顔が苦悶に歪む。彼は腕を捩じりあげられたまま、額に脂汗を伝わせて膝を突いた。
「……大丈夫か?」
立ちすくんでいた少女がロゼアの問いに息を詰める。彼女は解放された三つ編みの先を握り締めて首を大きく縦に振った。
ロゼアの足元で男が叫ぶ。
「お、おまえ……何しやがった……っ!?」
「あ、うーん……ごめん。説明が面倒」
人体には突かれると脱力する箇所がある。そこを指圧しただけだ。
「もう少し頭は冷やそう? 昼飯この子に弁償させればいいだけの話だろ?」
「その前にこの小娘が逃げ出しやがったんだ!」
「お金なんて私持ってないもの!」
「あ、いや、それはまずいだろ……」
男が激怒するのも無理はない。そう裕福に見えない男にとって一食は貴重だろう。
男もいくばくか冷静さを取り戻したと見え、ロゼアは手から力を抜いた。
野次馬に取り囲まれているせいか、少女に逃げるそぶりはみられなかった。胸の前で両手を握り合わせて立ちすくむ彼女の顔は青ざめている。それでも非は彼女にある。ロゼアはため息交じりに少女を諭した。
「人の昼飯台無しにしたならさ、弁償しないと。今は持ち合わせがなくても」
「昼飯ぐらい俺が奢ってやるよ……」
どこぞの食堂の店主らしき男が進み出て、ロゼアに軽く目配せをする。
「勇気ある彼をたたえて。感謝しろ」
店主の英断を群衆が喝采する。ロゼアは苦笑しながらそっと場を退いた。これほど人目を引くことになるとは思っていなかった。
放置していた食事に戻ろうと食堂に足を踏み入れる。その直後だ。ひとりの男が群衆を掻き分け、ロゼアの方へ駆け寄ってきた。
「君! 見ていたよ! 若いのにすばらしいね!」
年の頃は四十前後。白のタイを胸元で結んだ黒の礼服に、黒の帽子を被るという浮いた姿は、どこから見ても一般の町人の出で立ちではない。
「何か御用ですか?」
ロゼアはにこやかに尋ねながら距離を測った。男が不自然に間合いを詰めてくるようであれば、外套の内側に隠した短剣を抜くつもりだった。
だが男は悪戯に近寄ることなく足を止めた。ロゼアに愛想のよい笑顔を向けてくる。
「さっきの活躍を見たよ! すばらしい立ち回りだったね!」
はぁ、と、ロゼアは気もそぞろに応じた。昼食が気にかかっていた。給仕に下げられていなければいいのだが。
「わざわざありがとうございます。……それじゃあ、俺はこれで」
「あぁ、待って!」
立ち去ろうとしたロゼアを男が引き止める。
「君はひとりで旅してるの? 行く先は決めているのかい?」
矢継ぎ早の質問にロゼアは不快感を隠さなかった。
「すみませんが、俺、急いでいるんで」
警戒を怠らないロゼアに男が苦笑いを浮かべた。居住まいを正した彼は、怪しくてすまないね、と謝罪し一礼する。
「申し遅れた。私の名はカニオ。旅芸の一座の座長をしている」
男がロゼアに一枚の紙を差し出す。ロゼアは紙面を視線でさらった。白雪の一地方を治める領主の名が刻印されている。
身分証明書だ。
「……その一座の座長さんが、俺に何のご用ですか?」
「訊いてくれてありがとう。……私たちは花舞に向かっているんだが、護衛のひとりに欠員が出てしまってね。代わりを探している」
「その役を俺に?」
カニオと名乗った男は頷いた。先ほどのロゼアの立ち回りに心を打たれたのだと、彼は力説する。
身分証明書を返却しながら、申し訳ないですが、とロゼアは断りを入れた。
「さっきのはたいしたことではありません。他の人を当たってください」
ロゼアは笑みを取り繕うと、一礼して素早く踵を返した。
「気が変わったら馬車の降車広場へおいで。私たちは今日の日暮れまでそこにいる」
だから引き受けるつもりはないと言っている――ロゼアは嘆息して振り返った。しかし男の姿がどこにも見当たらない。おや、とロゼアは眉をひそめた。
人の動く気配を感じられなかったのだが。
ロゼアに考え込む暇は与えられなかった。空から飛来した光球がロゼアの眼前に突進してきたからである。
『ロゼアーっ!! ロゼアロゼアっ!!』
「うわっ……シディ? ど、どうしたんだ? 昼食、下げられた?」
『違いますよっ!! なっかなか戻ってこないですし、何をしてたんですかっ!?』
「……なにか、あったのか?」
ロゼアは恐々と問いかけた。喚きたてるシディの剣幕はかつてないものだ。
『ありましたよ! 大有りです!』
シディは息を吸って、神妙に告げた。
『荷物が盗まれました』
街中で人気の食堂の前でひとりの青年が警備の兵と話しこんでいる。チェチェリアは足を止めて彼を眺めた。
妖精の、光が見える。
青年の傍らに。
(案内妖精……そんな時期か)
日付感覚を忘れがちだが、まもなく夏至がやってくる。魔術師であるチェチェリアの後輩となるべき者たちが学園へと召喚される季節なのだ。
様子からして何か事件に巻き込まれたらしい。口出しすべきか迷ったが、やめた。青年の顔に悲壮さはなかったし、あいにくとチェチェリアも急ぎで国境付近へ向かう途中だった。本当に切羽詰まった状況だというのなら、妖精が青年を王宮へと連れて行くだろう。
「チェチェリアさん! 行きますよ!」
同行していた一団が列から離れていたチェチェリアを咎める。
「すまない。いま行く!」
チェチェリアはその場を離れた。
そして数日後に後悔することとなる。