前へ / 戻る / 次へ


 熱砂の檻



「追いかける前に俺を呼べばよかったのに」
『呼びに行く間に犯人が逃げてしまうじゃないですか!』
「呪って足止めできなかったのか?」
『……あ……あああああああっ……!!』
 悲鳴を上げる妖精の頭をロゼアは撫でた。
 路上で立ち回るロゼアに気を取られている間に、荷物は盗まれてしまったのだという。シディが気付いたときにはもう盗人は戸口を出るところだったようだ。
 不幸中の幸いといえばいいのか、ライ麦のパンと仔羊肉の煮込みは、まだ撤収されていなかった。給仕の好意で温め直してもらったそれらをロゼアは時間をかけてしっかり味わった。どこまでも香ばしいパンも、熔けた野菜の味が深みをもたらす煮込みも、最後の最後のひとかけら、ひとなめまで、ロゼアの栄養分として腹に収まった。
『よくのんびりと食事していられますね』
「一応、盗人の容貌だとか盗まれた荷物の外見とか中身とか憲兵に伝えてあるし」
 調書をとった兵はロゼアの不注意に呆れつつ、犯人と荷を探すことを確約してくれた。
「財布突っ込んだままっていうのがまずかったけど」
 常なら金銭の類は肌身離さず身に着けている。今回は食事のために出した財布をたまたま合切袋の中に放り込んでいたのだ。
「そんな金目のものは荷物に入ってないし。そっちは多分、戻ってくると思うんだよな」
 地図に、筆記具。携帯食糧に水筒。野宿に使う角灯、火種、寝袋、雨具。着替えが何組か。使い古したものばかりだ。古道具屋へもちこまれるか、廃棄される可能性が高い。
「問題は路銀のほうだ。こればっかりは絶対に抜かれているだろうからな……」
 外套に縫い付けてある金では乗合馬車の運賃には到底足りないし、星降までまだ幾日もある旅の食費としても心もとない。
『銀行には口座をもっていないんですか?』
 もしそれをロゼアが保有していれば路銀を引き出せる。
 ロゼアは愚問を口にしたシディを横目で見やった。
「砂漠にはあるけど、全国に支店があるところじゃない。そんなところに口座を持つ人間なんて特殊だろ?」
『念のために訊いてみただけですよ。……ロゼアはかなり大きなお屋敷に奉公していたみたいですから……』
「ううん。まぁ、俺も持てないことはないだけど……」
 大手に口座を開設するとなれば時間がかかる。ロゼアがその件に思い至ったときにはもう出発の期日が迫っていたのだ。
「稼ぐしかないか……?」
『稼ぐ? ロゼアは大道芸ができるんですか?』
「そんなわけないだろ。シディはときどき発想が明後日にいくよな。面白いけど」
 卓の上に頬杖を突いてロゼアはシディに言った。
「あてはあるよ」


『ボクは反対ですよ』
 降車の広場に向かって歩くロゼアの隣で、シディが頬を膨らませながら飛んでいた。
『大道芸の人たちに混じるなんて』
「金がないと旅できないだろ。そこに雇われるって決まったわけじゃないんだ。様子を見て、断るかもしれない」
『でも大勢に混じるのは……』
 眉間にしわを寄せて反論するシディをロゼアは横目で見た。
「……もしかして、人に混じって移動することが駄目なのか?」
 魔術師のたまごは随行者なしに旅をすることが原則だというが、馬車を交通手段に選べば大勢と乗り合わせる。路銀を安く抑えるなら宿も相部屋が基本だ。完璧にひとりで旅をすることはない。
 そういうわけではありません、と、シディは頭を振ってロゼアに告げた。
『お城へ行ってください、ロゼア』
 シディと旅を始めて七日を過ぎているが、王宮へ寄れと言われたことは初めてだった。
『金銭的理由で旅の続行が危ぶまれる場合は王宮に助けを求める義務が発生します』
「義務? 権利、じゃなくて?」
『あなたのように路銀を稼ぎながら星降の国へ向かおうとした人も過去にいました。けれどそれで旅に遅延が出ては困ります。ですから、義務です』
「なるほど」
 シディの発言から推測するに路銀稼ぎは禁じられてはいない。彼が慮ることはただひとつ、この旅の続行の可否だ。
「話だけは聞いてみようかなって思うんだけど。話を聞きに行くことも駄目なのか?」
 足を止めて問いかけるロゼアに案内妖精は口先を尖らせた。
『そういうわけじゃありませんけど……』
「あのさ、シディ。俺は旅を中断するつもりはないよ。安心していい」
 旅を急いでいないだけだ。
 カニオはすぐに見つかった。降車広場の奥に幌馬車が縦列に並んでいる。彼はその前でリュートを演奏していた。
 子どもが楽に合わせて小気味よく律動を刻ながら衆目を集める。足を止めた人々が小さな輪を作っていた。
 カニオの手先がより速く絃をかき鳴らした。子どもが華奢な手足を躍らせて、頭上でひときわ大きな柏手を打つ。観衆の口笛と歓声、拍手がその演技の最後に花を添えた。
「あぁ、君は!」
 いち早くロゼアの姿を見つけたカニオが小走りに近づいてきた。
「よかったよ! 引き受けてくれるつもりになったんだね!」
「あ、いえ。早とちりしないでください。ただどうして俺みたいな若輩者に声を掛けてくれたのか、気になったんです。……護衛の役はまだ見つかっていないんですか?」
「夕方まで君を待つと言ったことを忘れてしまったのかね?」
 ロゼアの背を気安く叩いたカニオは幌馬車の裏の方へロゼアを導いた。
「話だけを聞きに来てくれたというだけでもうれしいよ。お茶を出そう。と、その前に……そろそろ名前を伺ってもよいかな?」
「あぁ……すみませんでした。ロゼアです」
「ようこそ、ロゼア」
 男は朗らかに笑った。
 カニオが案内した先は壁と馬車の合間の空間だった。一座の野営地として活用しているらしい。組まれた薪が橙色の火を散らし、掛けられた薬缶が湯気を吹いている。その周りを年端もいかぬ少年少女――ロゼアより年下の子どもたちが囲んでいた。
 古びた木箱に腰掛けてリュートの絃を張り直していた少年がロゼアを認めて大きく瞬く。
「団長、誰? その人」
「お客さまだよ」
「リビーのかわりのおにーさん?」
 わぁ、と歓声を上げながら年少の子が駆け寄ってくる。足元に縋り付いた彼を反射的に抱き上げてロゼアはカニオに尋ねた。
「リビーって?」
「前の護衛をしてくれていた方です。駄目だよ、ロイ。降りなさい……ロゼアも彼を降ろしてくれないかな。あまり甘やかすとよくない」
 ロイと呼ばれた子どもは降ろされてもロゼアの服の裾を握ったままだった。見かねた年かさの少女が彼を連れて出ていった。
「ロッテ。お客さまにお茶を淹れてあげて。ボビンは皆をつれて外へ。何か合奏でもしてきなさい」
 はーい、と返事をし、子どもたちが散っていく。その背を見つめながらロゼアは尋ねた。
「大人はいないんですか?」
「私と護衛たちかな。護衛はふたりで、今は買い出しに出ているよ。……どうぞ」
「ありがとうございます」
 カニオに促され、ロゼアは空いた木箱に腰掛けた。すかさず少女が椀を差し入れる。ロゼアは受け取りながら湯気を吸った。嗅ぎ慣れない香りがした。
『芸の一座っていうより……移動孤児院みたいですね』
 ロゼアの肩口にちょこんと腰を下ろしたシディが囁く。ロゼアは僅かに顎を引いて彼に同意を示した。
「あの子たちが君に声を掛けた理由なんだ」
 カニオはそう切り出した。
「親を失った後に保護から運悪くすり抜けてしまった子たちだ。虐待された子も多くてね。一般的な傭兵を雇うと怯える。腕は立つけれどそんな風には見えないという人を探すのにはとにかく骨が折れて……」
「腕が立つってどうして思ったんですか?」
「あの状況なら皆がそう思うだろう。君はあの暴漢とかなりの体格差があった。けれど君は飛び出していった――正義感に駆られた無謀な行いではない。君はとても冷静だった。勝算があったんだ。腕に自信があると思うのは当然だよ」
 舞い上がった火の粉が弾け、カニオの顔が橙に染まった。
 ロゼアはカニオを見た。そのロゼアを真っ直ぐに見て微笑む姿に既視感を覚える。
 ――彼は、窓辺に立っていた。
 重なる面影ははたして誰のものだったのか。けれども妙に親近感を覚える。
 ロゼアは思案しながらカニオの背後を見た。煉瓦塀がすすけている。表通りはきれいに磨かれていても、掃除夫たちの手はこの端までは届かない。今の世、国々を治める王たちは優秀で、真に民人のことを想ってくれてはいても、死角に入りこんだせいで理不尽に突き落とされるものは必ずいる。
「これからどこへ向かわれるんですか?」
「おや、言わなかったかな? 花舞だ。ロゼア君にお願いしたいのは国境の街までだよ」
 目的地への道中にある街である。
「街道を行くから護衛といっても危険は少ない。実際は子守りが主なんだ。これだけ子どもたちを連れているとひとりでも手を借りたくてね」
「報酬は?」
『ロゼア! ふぐっ』
 耳元で抗議の声を上げる妖精の口をロゼアはぺちっと塞いだ。虫か何かを追い払ったように見えることだろう。
 カニオが提示した報酬は前金、後金、含めて申し分ないものだった。余裕で旅を続けられる額だ。日数も乗合馬車と同程度である。
 拙い足音が背後から響き、ロゼアは身体を捻った。先ほどの子どもが、ぽてっとロゼアの膝に圧し掛かる。
「きょうから、ぼくらといっしょにいくの? リビーといっしょ?」
 欠けた歯を見せて屈託なく笑いかけてくる子どもの頭をロゼアは撫でた。
 カニオが膝に置いていた帽子を被って微笑む。
「まだほかに質問はあるかね? ロゼア君」


「シディ。シディ。シディ。シディ」
『……うるさいですよ、ロゼア』
「あぁ、やっと返事をしてくれた」
 何せカニオの依頼を引き受けてから、シディは黙り込んだままだったのだ。
 ロゼアは集めていた薪を抱えたまま、手近な平たい石に腰を落とした。表面は乾いていたが、ひんやりとした温度が臀部から伝わってくる。
 シディと話し合う時期を狙って単独で薪を拾いに入った街道沿いの林は、細い樹木が密に並び立っている。茨のように絡み合った枝や尖った葉と葉の狭間からは、星の光で群青色に薄められた夜空が覗いていた。
「王城へ行く義務に反してしまった?」
『……反していません』
シディが緊張させていた眉間をゆるめて深く息を吐く。
『今のところは。ボクがそう判断しました。金銭的に旅の続行が危ない場合は王宮に助けを請うのが義務なんですけど、ロゼアは旅を続けながらお金を稼いでしまったので。……すれすれというか判断に困るというか。荷物もロゼアの言う通り、戻ってきてしまいましたし』
 予想通り財布の中は空だったが、道具の一切合財は無事であった。あとはシディに呪われたという窃盗犯が不幸に遭うことを祈るばかりだ。
『ロゼアは……王宮が……嫌い、なんですか?』
 躊躇をみせて妖精が問う。答えに窮するロゼアにシディは続けた。
『僕が今回報告を見送ったのはそれについて話す時間が欲しいと思ったからです』
「王宮を嫌いだとまずい?」
『嫌いになることは許されないでしょう。魔術師の就職先はほとんど王宮ですから。ロゼア、あなたはやんわりと上流階級の人々が集まるところを拒絶している。あなたには旅を続ける意思がしっかりあるし、そう危険はないと城に連絡を控えましたが……』
「シディ、俺は別に王宮や上流階級の人たちが嫌いなわけじゃないよ」
『だったら、どうして?』
 詰問するシディの表情は険しい。ロゼアはため息を吐いた。
「……花嫁や花婿が不当に扱われている話を耳にでもしたら、我慢できずに引き返してしまうかもしれないって、思ったんだ」
『……引き返すって、ソキさんのところへ?』
 首肯するロゼアにシディが困惑の表情を浮かべた。
『……話が見えません。ソキさんと上流階級の人たちに、どういう関係があるんです?』
「俺、ソキのことをきちんとシディに話したことあったっけ?」
『……いいえ。ロゼアの仕える大事な方だっていうことは、わかっていますけれど……』
「俺の花嫁っていうことの、意味も?」
『それは……いいえ……。すみません』
 謝罪するシディにその必要はないとロゼアは頭を振った。
 旅を初めて、わかったことがひとつある。
 〈屋敷〉、〈砂漠の花嫁〉、そして〈傍付き〉。
 砂漠の民の常識であるそれらを他国の者たちは知らないのだ。シディだけではなかったのだ。
「俺の国には、高額の金銭と引き換えに他国の富豪へ嫁ぐよう義務付けられた人たちがいる」
 ロゼアの説明に早合点したシディが口元を引き攣らせる。
『人身、売買……?』
「そうじゃない」
 即座に否定し、いや、とロゼアは頭を振った。
「……ある意味、正しい……」
 国の輸出品。
 生ける、砂漠の輝石。
 宝石の姫君。
 砂漠の、花嫁花婿――……。
『……ソキさんともう会えないかもしれないって言っていたのは、ソキさんが嫁ぐから……?』
「そう。……ソキがいなかったのは嫁ぎ先の候補のところに行っていたからだ。……顔出しだけのはずだったのに、帰ってくる気配がなかった」
『そのまま嫁ぐことになってしまったかもしれない?』
「うん」
『……それは……お別れを言えないのは、すごく……辛いと思います。でも探しに行くほどのことですか?』
「……なんだって?」
 思いがけず声音が剣呑さを帯びる。シディはたじろいだが、そのまま発言を続けた。
『気分を害したのなら謝ります。ですが考えてもみてください。ロゼアは花嫁の方を……ソキさんを、嫁がせるためにお世話していたんでしょう?』
「きちんとした手順を踏まないで嫁ぐなんて普通じゃない」
『ソキさんが嫁いでいたとして、ちゃんとした相手かどうかがわからないことを不安に思う気持ちはわかります。でもあなたはさっき、ソキさんとご両親を天秤にかけようとしていたんですよ? 逆走をしたらあなただけではありません。人質として、ご家族も捕縛対象です。……わかっていますよね?』
 ロゼアは呻いた。
「わかってる……」
 魔術師のたまごの〈逆走〉は五王への叛意ありと見做される。投獄もありうる。理解しているからこそ、ロゼアは屋敷を去る決意をしたのだ。
 ソキを探して友人たちから追われるよりも、赤の他人に急襲される可能性を選んだ。
『それでもソキさんのためなら、ご両親は囚われてもいいと?』
「いいわけじゃない。でも父さんたちは納得してくれてる。父さんたちだって花嫁花婿を持つ傍付きだった」
『傍付きにとって花嫁がそんなに大事ですか!?』
「傍付きにとって花嫁は生きる意味そのものなんだよ!」
 ロゼアは絶叫した。シディが目を丸くして押し黙る。
 ロゼアは我に返って謝罪した。
「……ごめん」
『こちらこそ、すみませんでした……』
 シディもまた頭を振って息を吐いた。
『……傍付きは、どういったお役目なんですか? ……特別なんでしょう?』
 これまで尋ねて来なかったことを悔いる声音だった。
「……傍付きは――花嫁たち自身が年の近い世話役からひとりだけ選ぶ、従者のことだ」
 ロゼアはソキによって選ばれた傍付きだった。
「傍付きが特別視されるのは、自分の花嫁花婿のすべての責任を負うからだよ」
 護衛、教養、身のこなし、体調管理。己の花嫁に関するあらゆることの。
 シディが驚きに目を見開いた。
『すべての責任を負う立場だったのに、ロゼアはソキさんのご旅行先を知らされないんですか?』
「そう。傍付きが花嫁や花婿を、追いかけてしまうといけないから。……普通はまずないことだけど」
 そう言いながら場合によってはその禁忌を犯す覚悟をしている。
 宝石職人は受注して造った品を見事な出来だからといって手元に置いたりはしない。傍付きも同じだ。
 自ら花嫁花婿を求めることがないように、屋敷は徹底した教育を傍付きたちに施す。その上で情報統制を通じ保険を掛けるのは、ロゼアのような者が稀に現れるからだろう。
「その人たちの中から屋敷は威信をかけて花嫁花婿を大切にしてくれる相手を探してきた。だからこそ俺たち傍付きは、安心して自分の花嫁や花婿を旅行に送り出し、きちんと嫁がせてきたんだ」
『……でもソキさんの場合はよくない相手かもしれない……』
 シディが呟いた。どうやら屋敷から出発するまでの騒動を思い出したらしい。
 相応の財貨さえ手に入ればかまわないという近年の屋敷の嫁がせ方には憤懣やるかたない。
「王城だと俺も知ってる花嫁や花婿の嫁いだ相手がいるかもしれない。嫁いだ後の花嫁たちの話を俺はまだ聞きたくない」
 彼女たちが万が一にでも不当に扱われている話を耳にしようものなら、我慢ならずに白雪へ向かってしまうかもしれない。
 ソキを、探しに。
「選ばれたときから」
 選ばれる前からも。
「俺はずっとソキを見守ってきたんだ……」
 他ならぬ傍付きが花嫁花婿たちに、身のこなしや教養を、手取り足取り教え込む。傍付きが花嫁花婿を〈砂漠の輝石〉たらしめる。ソキはロゼアが全身全霊を懸けて慈しんできた砂漠の花だ。
 彼女が不幸になることは何よりも許せない。
「……俺はどうあっても魔術師にならなきゃいけないんだろ。だったら、俺を連れて行かないでくれ……」
 旅を続けたくなくなってしまうかもしれない場所に。
『……ロゼア』
 ふわ、とシディは飛び立ち、ロゼアの眼前に浮かんだ。光をはらむ彼は夜空を照らす燈火のようだ。その背で震える一対の翅が虹色に揺らめいてひどく幻想的だった。
 シディが神妙な顔で口を開いた。
『今回、ボクが仕事を請けてもいいと判断した理由は、それほど危険がないと思ったからです。……でももし、本当に危ないと思ったときには、逃げてください』
「シディ。俺はお屋敷でも佩剣を許される傍付きだったんだ」
『ロゼアは護衛を務められるほど充分に強いのかもしれません。でもお願いですから、身の危険を感じたときはすぐに逃げてください。……今の時期は、特に』
「それってどういう……」
 意味だ、と。
 ロゼアは言葉を続けることができなかった。腐葉土を踏みしめる音が響き、人の気配が俄かに感じられたからだった。
 ロゼアは素早く立ち上がって薪を抱えた。なかなか戻らないロゼアを案じて誰かが様子を見に来たのかと思った。だが木々の狭間から現れた影は、カニオ率いる子どもたちやその護衛たち、誰のものでもなかった。
 長い髪を三つ編みにして垂らした、頬にそばかすの目立つ、やせぎすの少女。
 楽音の国の城下町でロゼアが暴漢から助けた、あの少女が立っていた。
「引き返して」
 と、彼女は言った。
「お願い。引き返して」
 それだけ口にした少女は、ふいにロゼアから視線を外し、慄いた様子で踵を返した。
「おい、待っ……!」
 ロゼアの制止に聞く耳を持たずに少女が素早く走り去る。ロゼアは困惑したまま薪を置いて駆けだした。
「ロゼア君!」
 少女が立っていた場所に着いたとき、他方からカニオに呼び止められる。
 彼は街道からロゼアに手を振っていた。
「薪は見つかったかい!?」
「あ、すみません。すぐ行きます!」
 ロゼアの返答に満足そうに微笑んでカニオが馬車へと歩いていく。
 少女を追走していたシディが戻り、ロゼアに申し訳なさそうに囁いた。
『すみません、見失いました』
「いや、いいよ。……とりあえず、馬車に戻ろう」
 これ以上、シディと会話を続けることも無理だろう。
 ロゼアは少女の消えた方角へ背を向けた。
 彼女の縋るような懇願の声がいつまでも耳にこびり付いていた。

前へ / 戻る / 次へ