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 熱砂の檻



 一団の旅は穏やかなものだった。
 集落に立ち寄っては芸事を披露し、観客たちから飛ぶおひねりを、籠を提げて回収していく。
 幌馬車に乗って進む道中では、子供たちの芸事の練習に付き合うこともあれば、札遊びに興じることもあった。細々とした用事はそれなりにあったが、護衛らしい仕事が必要な事態はない。旅程も順調に消化していた。
 汗の臭気の篭る乗合馬車のものよりずっと快適に思われる旅路。
 その変化は花舞の国境を目前にして訪れた。
 あと半日も馬車を走らせれば関所という段になって、灰色の雲が俄かに幕を張り始めたのだ。山脈に挟まれた街道の空をむくむくと厚み増す雲が蓋をしていく。やがて細い雨が幌を濡らし始めたかと思えば、すぐに馬の歩みを止めるほどの驟雨となった。
 礫のような雨に洗われた馬車はひどく揺れた。
 ロゼアは幌から染みだして床を濡らす雨水を子どもたちと一緒になって拭った。片隅に纏められた全員分の荷物の上に、厚手の布とむしろを丁寧に広げる。
「ここから少し行ったところに古い礼拝堂がある。そちらで雨宿りしよう。……この雨はひどい」
 御者台のカニオが宣言して濡れたたてがみの横に鞭を打つ。
 馬首をひるがえして向かう先の礼拝堂は、街道筋からやや外れた山林の中にあった。
 家の土台らしき平たい石が拓けた草原の中に見え隠れしている。規則正しく並べられた敷石に残る踵の跡が、人の往来の多かったことを窺わせた。
 朽ち果てた小さな集落。
 その最奥に、石造りの建物がぽつんと原型を留めていた。
 植物の図画が持ち送りと柱に細かく彫刻されている。深緑色に葺かれた屋根を雨粒が叩き、砕け、光って、うつくしい。
 修繕の跡の見られる厚い木扉に鍵は掛かっていなかった。ロゼアは躊躇したのち、ゆっくり扉を開いた。
 そこは確かに、正面に祭壇と壁画を備えた、礼拝堂だった。
 特に祭壇から天井までを埋める一幅の絵画は褪色していてさえ目を引いた。跪いて天に祈る女。彼女の周囲には様々な動物が集う。狼や虎、鷲といった肉食獣の類から、兎や栗鼠、鹿といった草食のものまで。
 そして、動物たちの中には通常では見かけることのない存在が。
 ロゼアは祭壇の絵に歩み寄った。
「これは――……妖精?」
 祈る女の肩に留まって彼女の乱れた髪を撫でる、一対の翅を背に持つ小人。
 紛れもない、妖精の絵だ。
「珍しい絵だろう?」
 カニオが隣に並んだ。
「妖精と魔術師を描いたものだ。こういった絵はときどき目にする。魔術師自身は今の時代は滅多にお目に掛かれないが……何せ王たちが人材を独り占めしているからね」
「ひとり占め……」
「そうだよ。魔術師を恐れているから囲って鎖を付けて、そうして利用しているのさ。王たちの理想から外れた者を駆逐する犬として……」
『そんなことはありません!』
 シディの反論は当然ながらカニオの耳には入らない。
 カニオが背後を振り返る。屋根の下で休めることを喜ぶ子どもたちがはしゃいでいた。
「王の望む綺麗な世界から外れた者たちはどこへ行けばいいのだろう?」
 カニオが問うた。ひとりごとのような響きをしていた。
 たとえば親を亡くしたとして。
 慈善院で引き受けられる数は決まっている。カニオの率いる子どもたちはそこから漏れてここにいた。
 カニオはさる高貴な者の援助を得て、金になる芸と読み書き計算を――生きる力となる技術を、子どもたちに教えながら旅をしているのだという。
 ロゼアは答えた。
「どこにも行けない」
 逃げられない。
 そうだよ、とカニオは微笑んだ。
「どこにも行けない。逃げられない。そうして救いの手を差し伸べられず、未来を見出せなかった人は、世界を呪うのかもしれないね……」


 堂内には雨音だけが大きく響いている。
 日が落ちてからも雨脚は一向に弱まる気配を見せず、出立は夜明けてからと決まって、礼拝堂にむしろを広げて雑魚寝をする運びとなった。
 ロゼアは床上に仰臥したまま壁画を眺めていた。
 子どもたちの最後のひとりが寝入って静かになっても、ロゼアに目を閉じる様子が見られなかったからだろう。シディが躊躇いがちに声を掛けてくる。
『……カニオさんが言ったことを真に受けているんですか……?』
「……鎖を付けて犬として使ってるってこと?」
 子どもたちを起こさぬよう、出来るかぎり声を低めて問い返した。
「……間に受けたりはしてないよ」
『……本当ですか?』
「魔術師を粗末に扱ってるようなら、王自身がとっくの昔に燃やされてるだろ」
 ロゼアは枕元で横になるシディを見た。強張った表情を浮かべる彼をロゼアはつい笑ってしまった。
「本当に悪い扱いをされるとは思ってないよ。……俺は魔術師にあったことがあるんだ。いい人たちだった」
 数年前のことだ。ロゼアは魔術師たちの騒動に巻き込まれたことがある。
 ロゼアを保護した王宮魔術師たちは優しかった。王のもとで働くことを誇りに思っていた。王に道具として使役されているようには決して見えなかった。
「俺が考えていたのは……逃げられないなってこと」
 屋敷に勤めていたときは〈傍付き〉の運命から。
 今は魔術師になる運命から。
 この世界は狭く管理されている。その中に幸せを見出せればいい。けれど規定からひとつでも外れてしまえば――……救われない。
『……ロゼアは……将来はどうありたかったんですか?』
「将来? ……ソキを無事に嫁がせたら、屋敷にそのまま勤めていたかな」
『そういう意味じゃありません。ボクは、どうしたかったんですかって訊いています?』
 全部、赦されるとしたら。
 ロゼアは身体ごとシディに向き直った。彼の背後に壁画が見える。小さな身体の纏う淡い光が祈る女の姿を照らしている。
 彼女は何を必死に願ったのだろう。果たしてそれは叶ったのだろうか。
「……ソキといられればそれでよかった」
 己の宝石の姫君と、死が互いを別つまで共に暮らす。それはロゼアに限らない。〈傍付き〉の誰もが見る夢だった。
『……ロゼアは……この旅から逃げたい?』
 逃げて、ソキを探しに向かいたいか。
 ロゼアはほろ苦く笑った。
 ソキから求められていないのならば、ロゼアが向かったところで意味はない。
「逃げたいのとは、違う。魔術師になること自体に抵抗はないよ」
 砂漠の輝石を嫁がせた傍付きの中には、他国の専門学校に入学する者や工房の徒弟になる者などがいる。ロゼアの状況も同じようなものだ。
「ただどうして今年の入学じゃなきゃ駄目なんだって感じだった。必要性を、感じない」
 入学の時期を遅らせることができたならば、もう少し心安らかに旅を始められただろう。
 そうですね、とシディが思案する。
『……入学許可証の送られる時期には諸説ありますが……もっともよく言われる理由は、暴走の可能性ですね』
「暴走の可能性?」
『そうです。……魔力の暴走です』
 魔力の制御の効かぬ魔術師のたまごはたまさか魔力を暴走させる。その度合いは人によって様々らしいが、深刻な問題が生じることも多いという。
『実は魔術師は突然なるわけではありません。持って生まれた魔力が顕在化するだけです。ですが制御の方法を知らないわけですから、簡単に暴走します。それを防ぐために魔術師のたまごはいち早く学園に入ることを強制するわけです』
 ふうん、とロゼアは生返事をした。ちゃんと聞いてくださいよ、とシディが口先を尖らせる。
 ロゼアは笑いかけ――妖精を鋭く呼ばわった。
「シディ」
 寝返りを打ちざま周囲に素早く視線を走らせる。
 怪訝な表情で浮かび上がったシディが、仰向けになったロゼアの顔を覗き込む。
『……誰か起きてしまわれましたか?』
「違う。誰かが外にいる」
 ロゼアは窓に目をやった。雨は止んだらしい。樋を叩く雨だれの音がまったく聞こえない。夜闇に塗りつぶされた窓は鏡のように礼拝堂の内部を映している。
 その中に暗い影を見た。
(ひとかげ……)
 その主は少女だった。
 楽音の王都でロゼアが助けたあの少女だ。ロゼアと目を合わせた彼女は、礼拝堂の裏口の方へ姿を消した。
 ロゼアはしばし逡巡したのち、ゆっくりと上半身を起こした。丸めて枕代わりにしていた上着の下から短剣を引き出し腰に佩く。外套を素早く身に付けながら壁画の横のくぐり戸を抜ける。ロゼア以外に起き上がった者はいない。カニオやもうふたりいる護衛たちはそれぞれ馬車の番をしていて、ここにはいなかった。
 蝶番の軋む音が子どもたちを起こさぬことを祈りながら扉を開けて、その隙間に身体をねじ込み外へ出る。
 雨上がりのぬるい風がロゼアの頬を撫でた。濃厚な黒土の薫り、草いきれが胸を突く。
 少女は軒を支える細い柱の陰でロゼアを待っていた。
 ロゼアの諸手が空であることを確認して目を眇める。
「荷物を持ってこなかったのね……」
「は? 当たり前だろ」
「……まあいいわ。付いて来て」
「……いや、でもな?」
「いいから!」
 強い語調で反論を封じ、少女は歩き始めた。雨で倒れた草の上を選んでぬかるみを避けるそのさまは、足跡をつけることを恐れているかのようだった。
「この間は助けてくれてありがとう」
 歩きながら少女は言った。彼女の三つ編みが蛇のようにうねってその骨ばった背を叩いていた。
「……それはいいけど……いったい、何なんだよ? 君は」
 少女は問いに応じることなく険しい道なき道を進んでいく。初めは上り。やがて下りに転じた。同じ問いを幾度か繰り返した後、ロゼアは追求を断念した。
 少女が立ち止まったとき、声を上げたのはシディだ。
『ロゼア、街道です』
 斜面を下った場所に見える黄色の道。
 それは紛れもなく半日前までロゼアたちが辿ってきた、白雪の国から星降の国までを貫く街道だった。
「ここからだと歩いても関所までそんなに遠くないわ。……荷物はもうあきらめて」
 ロゼアは眉をひそめた。
「関所まで行けってことか? でも俺はカニオから仕事を」
「あれは仕事じゃないの」
 少女が言葉を被せる。
「仕事じゃないのよ。あなた、狙われているの」
『どういうことなんですか……?』
 シディが訝しげに独りごちる。
「あなたは腕が立つし、とてもきれいだわ。高く“売れそう”なの。カニオは目を付けた若い人たちを、それらしい理由をでっちあげて雇う。子どもたちは狙っている人への疑似餌みたいなものなのよ」
「なんだって……?」
「だから早く行って。カニオたちが追いつく前に」
 ロゼアは混乱する頭の整理に努めた。自分が捕らえられかけていて、いずこかへ売られようとしていた。その話だけで充分に衝撃的だが、あの、彼が面倒を見ている子どもたちが――……疑似餌?
「早く!」
 少女がロゼアの肩を掴んで強く揺さぶった。彼女は必死だった。ロゼアを真っ直ぐ見るそのぬばたまの黒目に、嘘はまったく見られなかった。
『ロゼア、よくわかりませんが……従ったほうがよさそうです』
 困惑顔で少女を見つめながら、シディがロゼアに助言する。
 ロゼアは彼に頷いてか、少女に疑問を口にした。
「子どもたちはどうなるんだ?」
「あの子たちには役割があるから、悪いようにはされない」
「じゃぁ君は?」
 ロゼアはさらに追求した。
「俺を助けてくれるのは恩返しなのかなって納得もできる。でもどうしてカニオが悪事に関わっているって知っているんだ? 君は、何者なんだよ?」
 少女は喉の奥を鳴らすと下唇を噛みしめて俯いた。だが彼女の迷いは一瞬だった。時間を惜しんだのだろう。
「私は昔、あの子どもたちの中のひとりだった」
 カニオに率いられる一座の。
 少女はロゼアの背を強く押した。
「早く行って。あなた、何か目的があって旅をしているんでしょう?」
(でも君はどうするんだ?)
 ロゼアと共に逃げようという様子は少女に見られなかった。
「ソフィ」
 夜の空気を震わせた第三者の声に少女が色を失くす。震える彼女の肩越しにロゼアはカニオの姿を見出した。
『ロゼア!』
 カニオの動きを視認するより先に、身体が風切り音に反応していた。ロゼアの残像を鈍色の小剣が切り裂いていく。ロゼアは踏鞴を踏んで体勢を持ち直し、少女の様子を目で探った。彼女は肩口を押さえてうずくまっていた。
「大丈夫か!?」
「馬鹿、早く逃げなさいよ!」
 ロゼアは少女の腕を引き上げて、カニオから距離をとろうとした。しかし立ち上がる前に二本目の小剣が脚を掠める。失敗した。抱え上げればよかった。そうすれば避けられた。
 出血を伴う鋭い痛みと連動して痺れが指先まで押し寄せる。苦悶の声を漏らして、ロゼアは膝を突いた。少女と絡まりながら地に落ちる。
 カニオが小剣をもてあそびながら歩み寄ってくる。
「どこに行くのかな? ロゼア君」
 中座するロゼアに行先を尋ねるような、何気ない口調だった。表情も穏やかだ。だからこそ彼の声音はひどく無機質に聞こえた。
「あぁ、ソフィ。ロゼア君をどこに連れて行くつもりだったのかな。せっかく見逃してあげたのに。いけない子だね」
 ソフィと呼びかけられた少女がロゼアの身体に縋りつきながらカニオを睨んだ。
『ロゼア! ロゼア! 立てますか!?』
 悲鳴じみたシディの声が肩口で響いている。だがロゼアは彼の呼びかけに答えられそうもなかった。効きのいい神経毒だ。ともすれば呼吸すら苦しいほどだ。
腰に連なる鞘に数本の小剣を器用に収めたカニオが、やれやれ、と頭を軽く振った。
「ソフィには後でお仕置きするとして……まずはロゼア君、一緒に行こうね」
 カニオがロゼアに手を伸ばす。差し伸べる、といっていいほど、ゆったりとした動きだった。
 男の背後で空がいつの間にか暁に白みはじめている。彼の顔が逆光から黒く塗りつぶされる。
 ――……どこかでこれと同じことが、前にもあった。


 さぁ、ボクと一緒にいこうね、ロゼアクン。
 あぁ、こわいのかい。
 大丈夫、キミのオヒメサマは。
 キミも。
 トクベツだよ。

 ロゼアクン、キミにオクリモノをあげよう。
 ボクからの――……愛の、シルシに。


 呪われろ、とシディが叫んだ。男の手を焔が焼く。酸を被ったように手が爛れ、カニオは初めて顔を歪めた。
「何をした!?」
『ロゼア、立ってください!』
 シディが肩に立ってロゼアの髪を引っ張る。けれども四肢に力が入らない。
 ロゼアはふと礼拝堂の壁画を思い出した。描かれていた妖精はもしかすると魔術師を撫でていたのではなく、髪を引いて催促していたのかもしれない。
 にげて、と、叫んでいたのかもしれない。
 今と同じように。
 でも無理だ。
 立てない。
 だってこれは。

 細かな細かな蟲のように闇がぞろぞろ蠢いて体液の臭いを打ち消すための強い香が取り巻いて女とも男ともつかぬ鳥の啼きのような甲高い笑いが耳をつんざきその合間で金属が鳴って、鳴って。

 ――……ろぜあちゃん……。

 だって今も、足を鎖に繋がれている。

『ロゼア……っ!!』
 妖精の悲鳴じみた声が耳朶を打つ。ロゼアは息を呑んだ。呼吸をすることを忘れていた。
 男が爛れた手に小剣を握っている。それをロゼアに向かって振り下ろしている。
 あぁ、いま、自分は、どこでなにを。
 でも、死にたくないな、と思った。
 この小剣を、避けなければ。
 この男を、殺さなければ。
 生き残らなければ――ソキが、壊されてしまう。
 ぞろりと。
 ロゼアの奥から何かが繭を食い破る幼虫のように這い出ていく。
 舌先には、鉄の味。すべての毛孔が開き、どっと汗が噴き出す。
 そして光の幕がロゼアの視界を覆った。
 闇に焚かれた炎のような輝かしい紅の幕だった。
 がきっ、と、ナイフの先端が樹木の枝に食い込んだ。男の目が驚愕に開かれる。
 一瞬前まで何もなかった空間に子どもの背丈ほどの木が生えていた。ロゼアを守る盾のように男との間に隔たっている。一本だけではない。二本、三本。樹木が何もなかった土からぞろぞろと生え始めた。
 木々で羽を休めていた夜泣き鳥が、不穏な気配を察して暁の空へ一斉に飛び立つ。山の端から生まれいずる太陽は鮮やかな血だまりのよう。そこに鳥たちの影が染のように映っていた。
 男が動揺に後ずさった。彼の足跡から草木が次々に天へと背丈を伸ばしていく。
 網のように絡み合う枝ぶりが、今まさに昇りくる太陽を覆いつくしたところで。
 きゅぼ、と。
 音がした。
 水泡が破裂したかのような、小さな、ちいさな、音。
 地面に、赤黒い滴が落ちた。
 男は出血していた。目や、鼻、口、毛穴、ありとあらゆる場所から。ロゼアが腕に抱く少女が震える。肩に留まる妖精も慄いていた。
「ぎゃああああああああああああああああああぁあ!!!!」
 カニオが喉を掻きむしりながら膝を突き、背中を丸めて地に伏した。まるで天に赦しを請う殉教者のようだ。彼は絶叫し、絶叫し、喉が避けるほどに絶叫し。
 頭から血を被ったかのような顔のまま空を仰いで――蒸発した。
「あ……」
 彼だけではない。彼の周囲。あの無節操に生えていた樹木も、夜露に濡れていた草花も、昨夜の雨で生まれたぬかるみも、絶えずせせらぎを奏でていた小川も。
 世界の全てが湾曲し、悲鳴じみた不協和音を響かせ、炎に包まれて焼け、炭と化し、砂になって虚空に散った。
 今度は、ロゼアが叫ぶ番だった。
「うああぁああああああああああああぁっ!!!!!!」
『ロゼアっ!!』
 ロゼアは少女を放り出して地に伏せ、吐いた。臓腑すべてが捩じれ引き攣れるかのようだった。昨夜口にしたもの全てを吐き出し、それでもまだ収斂する胃は飽きたらずに胃液と血を大地にぶちまけた。湯気が立つ。その白い靄を押し退けてそそり立つ、炭化した樹木の柱をロゼアは見た。余熱に輪郭を揺らがせながら、砂の山を取り囲むそれらは、まるでししどに血濡れた鋼鉄の格子のようだった。
 熱砂の、檻だ。
「ろ、ろぜあ」
 放り出された少女が震える足を動かして這い寄ろうとしている。ロゼアは身を伏せたまま少女に叫んだ。
「来るな!」
 胃液に濡れたはずの土は既に乾いて、腐葉土は残らず砂と化していた。頬から伝った汗がそこに落ちる前に白く固まってきらきらと輝く。塩の粒が落ちた場所から双葉が芽吹き、そしてまた瞬く間に萎れて砂となる。
 焼いた鉄板に触れているかのように、手のひらが、熱い。
 からだが、あつい。
 その高熱に身を捩って空を仰ぐ。
 めざめたばかりの太陽だけが、ロゼアに嗤いかけていた。


「六角のうつくしき私の友よ」
 目の前で生み出された刹那の惨劇に呆然として宙に浮かんでいたシディは、朗々と響いた女の声に忘我の域から引き戻された。
 シディが振り返った先に歩み寄ってくる女がいた。黒髪黒目の美女である。その風にはためく外套には、かがやく糸で王宮魔術師の印が刻まれていた。
 女が指で空を示した。なまめかしいほどに白く細い指。それが指揮者のように軽く振られた。
「銀の鎖を編み上げよ。紺碧を宿す壁となりて、太陽を秘し夜を呼べ」
 りん、と鈴鳴りめいた音がした。少なくともシディはそう感じた。
 女から縒り合された魔力が光の本流となってロゼアを呑みこむ。
 そして唐突に現出した氷が、天に向かって慟哭していた彼を、瞬く間に包み込んだ。
「踊れ踊れ氷雪よ」
 と、女は詠唱を続けた。
「捩じれし力に唄を捧げよ。眠りを誘う子守唄を。我が眼前にやすらかな静謐を生み出せ……」
 砂上の陽炎が、大きく揺らめく。
 それはあたかも拘束を厭う力が逃げ出そうと身を捩ったかのようだった。だが産声を上げたばかりそれが、完璧に形作られた女の力に抗うことは不可能だった。ロゼアを突き破って世界に現出していた魔は徐々に力を失い、霧散した。
 その名残を、砂を、一陣の風が浚っていく。
 ぱき、と氷がひび割れ瓦解した後には、地面に伏したロゼアだけが残された
『ロゼア』
 シディは固く瞼を閉ざしたままのロゼアに触れた。汗ばんだ肌は血の気が失せている。けれども無事だった。浅い呼吸音に泣きたいほどの安堵を覚えた。
頭上に影が掛かってシディは空を仰いだ。
 眉根を寄せた魔術師の女が、シディたちを覗き込んでいた。
 女がため息と共に叱責を吐く。
「何故、もっと早くにわたしを呼ばなかったんだ。妖精」

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