学園で再会したとき、ソキの細い指にはすでに見慣れぬ銀の指輪があった。
内側に小さな紫水晶のはめ込まれた飾り気のない装飾具。学園までの旅の最中に手に入れたことだけは聞いた。お守りなんですよ、と言って、ソキが片時も手放そうとしない指輪は、今も手袋に隠された彼女の左のひとさし指にはまっているはずだった。
ソキが不安そうな表情を浮かべて胸に当てた左手を右手で握り込む。
「……指輪を、です?」
ソキの問いにキムルは微笑む。
「そう。前と同じように」
「前?」
キムルは鸚鵡返しに呟いたロゼアに答えなかった。けれどソキは心当たりがあるようではっと目を見開き、そして唇を引き結んで、左手の手袋を脱ぎ始めた。
もたもたとするソキをリボンが手助けする。手袋を丁寧に畳んで膝の上に置いたソキは恐々といった様子でキムルにその指輪のはまった手を伸ばした。
「失礼するよ」
キムルの手がソキの手を下からそっとすくい上げる。キムルの手のひらにソキの指が四本揃えて載せられる。その、ましろく、細く、それでいてやわらかな指の一本。ひとさし指の付け根に、なめらかな銀の輝きはある。
左右で色の異なる双眸を細めて、注意深く指輪を観察するキムルにロゼアは眉をひそめた。彼女の指輪の何が、王宮魔術師の興味を引いたのか。
単なる、指輪では、なかったのか――……。
「ソキちゃん、指輪を、少しだけ、外してもらってもいいだろうか。手に取って観察したいんだが」
もちろん、すぐに返す。嫌ならかまわない、とキムルは続ける。
案外、ソキはあっさりと了承して指輪を抜き取った。ただ銀の輪を差し出す指は小さく震えていた。安心させるために彼女の名を呼びかけたロゼアは、はた、と瞬いた。ロゼアと同じものに気が付いたらしいリボンが、目を見開いてソキを見つめて呻く。
「ソキ、いま」
ソキの身体から溢れ、その身体を取り巻くものが、淡く、揺らいだ。
虹色に波打つ、逃げ水のように見えた。魔力だ、とロゼアは思った。他人の魔力をしかと視認したのは、初めてかもしれない。
キムルは指輪を矯めつ眇めつ眺め、口づけそうなほどに近く引き寄せたと思えば、腕を命一杯伸ばして遠ざけてみせる。
キムルがひときわ厳しい顔をして、吐息し、指輪をソキの手にそっと返却した。
「ありがとう。……なるほど。これは確かにそうだな」
台詞の後半は自らに向けたものらしく、声が低められていた。
「ちょっと……どうしたっていうのよ?」
ソキを守るように腕をからませるリボンが、苛立ち露わにキムルに尋ねた。ロゼアも同意に頷いた。
「お守り、じゃないんですか?」
「お守りだよ」
キムルが即答した。
「指輪の形をした、とても大事なお守りだ。ソキからその指輪を取り上げてはならないし、その指輪が取り上げられるような事態を作ってはならない……」
「なるほどって、どういう意味です?」
「ん? 報告書通りだなって思っただけだよ」
ソキの問いにそう応じて、キムルが追求を打ち切った。
「あら、エノーラ」
学園の事務方として、会場の給仕を取り仕切っていたパルウェは、顔を見せた後輩に微笑みかけた。ところが白雪の王国の王宮魔術師は、不機嫌この上ない顔で唇を尖らせている。
「……キムルにやりこめられたのね。好きね、あなた方」
「誰が何を好きだっていうのか言ってみなさいよ私はただ先輩の下着を目に焼き付けたかっただけだし陛下に踏んでいただきたいだけなんだからあの男じゃなく」
「残念ね?」
「まったくよ。……それで、依頼してくれたんでしょうね?」
ソキの左のひとさし指にはまる、銀の指輪。
あれが、エノーラの作品であるか確かめることを、キムルに。
あの指輪はどう考えても自分がこの世に生んだものだと、エノーラは言った。
けれど作りだした記憶が全くない、とも、彼女は述べた。調査は打ち切られたが、彼女は確かめたがった。
自分の考えが誤ったものでないかどうか。そして彼女はその確認を、最も腕を信頼する錬金術師に、つまりキムルに、依頼した。
パルウェ経由で。
対極の才能と対極の思想を持つ、天敵同士である天才たちは、全く連絡を取り合っていないかというと、実はそうではない。
錬金術師たちは、時に大戦の再来を呼び起こしかねぬほど非常に危うい造形物を生み出すことがある。製作者自身はその危険性に対して盲目になりがちだ。息子や娘の放蕩が見えない馬鹿親のようなものである。
そこで錬金術師たちは常に互いを監視している。これは、と思うものを作りだしてしまった時には、密かに実力ある者に鑑定を依頼することすらある。
エノーラとキムルは、対極の錬金術師だ。互いを好きか嫌いかと問われれば間違いなく即答で嫌いと答えるだろう。しかも満面の笑みでだ。
けれども互いの腕については、外部の人間が首を捻りたくなるほどに深く信頼し、そして互いの造形物を、これ以上ないほどに理解している。
誰にも悟らせない。誰にも知らせない。
パルウェはその間に渡された橋であり、他者の目を阻むための壁であった。
「えぇ。また、結果は聞いて伝えるわ」
パルウェは微笑んで答えた。
エノーラは満足げに頷いて、先輩の下着の形はきっと紐だわ、と呟いて去っていった。
その呟きさえなければ彼女は間違いなく、尊敬されるべき稀代の魔術師のひとりだった。
「さて、僕からの話は終わりだよ。長々と悪かったね」
キムルは終了の合図にぱちんと手を打って、首を巡らせる。
「丁度、一曲終了する頃だ……次の曲から、踊ってきたらどうだい?」
「あ、そっか、ダンスか」
階下を覗き込めば欄干越しにくるくると舞う男女が見える。それぞれの身に着ける正装の裾がふわりと広がって、風に揺れる色とりどりの花のようだ。
ダンスホールを窺うために伸ばしていた首をひっこめたロゼアは、ソキの様子がおかしいことに気が付いた。彼女はどこか泣き出しそうな顔で、ロゼアを食い入るように見つめている。
「……ソキ?」
何か、しただろうか。
ロゼアは訝りに首をひねった。が、問いかける間もなく、リボンがさっと立ち上がって、ソキの身体を引き上げる。
「踊るわよ! ソキ!」
「えっ、えっ、リボンちゃ」
行くわよゆっくり歩きなさい待ってリボンちゃんとかなんとか騒ぎながら、ソキと妖精は階段をゆっくり下って行く。引き止める隙がなかった。
呆然としていたロゼアの目はソキたちと入れ違いに階段を連れだって昇ってくる二人組の姿を認めた。キムルたちにも見えたらしい。彼とチェチェリアとシディが席から立って一礼する。
『陛下』
「お話は終わりましたか? 迎えに来ましたよ、ふたりとも」
「キムルさんとチェチェリアさん……! さきほどはうちのエノーラがごめんなさいねっ」
楽音の国の王と白雪の国の女王が、ロゼアの真後ろに立った。キムルたちに倣い、ロゼアも慌てて立ち上がって頭を下げる。
「キムルさんからお話を伺いました。機会をくださりありがとうございます」
「楽にして構いませんよ、ロゼア」
顔を上げなさい、と楽音の王が告げた。
「先ほどはきちんと挨拶せずにこちらこそすみませんでした。チェチェから話を聞いています。色々あるかと思いますが、長い学園生活、楽しめるといいですね」
「ありがとうございます」
ロゼアは重ねて礼を述べ、楽音の国の王の斜め後ろに立つ、白雪の国の女王を見た。彼女は目が合うなり、ぱああぁっと顔を輝かせてロゼアに言った。
「ロゼアくん、ロゼアくん、初めまして。あのね、卒業したら、うちに来てくれないかなぁ……」
「……はい?」
「ああ彼女の言うことは無視して構いません」
ずい、と女王とロゼアの間に王が割り込む。彼の背で、女王が叫んだ。
「だってロゼアくんあったかい!」
「無視してくださいロゼア」
「はぁ」
いいのだろうか。本当に無視して。
困惑に立ち竦むロゼアの顔を、王が唐突に覗き込んでくる。彼はまるでソキの指輪を眺めていたキムルのように、真剣な面持ちでまじまじとロゼアの顔や引きで見た立ち姿を観察し始めた。
「……うん。噂には聞いていましたが、本当に似ていますねぇ」
「え? 誰にですか?」
「シア……砂漠の国の王ですよ。ご自分でも思いませんか?」
「あ……あぁ、えぇ、まぁ……」
一応、自覚はある。
ついさっきも、兄弟ではないのかと花舞の国王にさんざんからかわれたばかりだ。全力で否定したが。
「お父上に似ているって聞きましたけれど?」
「母を知っている人は母によく似ているといいます、……けど」
パッと見の外見は、やはり父寄りだろうとも、思う。
「そうですかぁ……や。砂漠の王とあなたとあなたのお父上の三人に並んでほしいですね。見てみたい」
並んでほしい、というよりも、いつか実行させる、と決意に満ちた目だったのは、気のせいか。
「ロゼア。私たちは一度行くぞ」
いつの間にか席から離れ、王たちの傍に回り込んでいたチェチェリアが声をかけてくる。
「また後で、もし都合があえば踊ってくれ」
「いいんですか? 是非!」
「それじゃあロゼア。また」
「キムルさんもありがとうございました」
「ロゼアくん! 頑張って卒業して、来るとこなかったらうちに来てね!」
「アリス。気が早いです。それから暖房目的で人を誘うのもやめなさい。あと魔術師の采配は個人で決められません」
いきますよ、と苦笑する楽音の王に白雪の女王が引きずられていく。ロゼアたちに手を振り終えた魔術師の夫妻もまた、雅な正装の裾を翻して背を向け、階段を下りていった。
彼らを見送り、ロゼアは正面を向いた。シディと目が合い――なんとなく、笑いがこみ上げてくる。
「俺たちも降りよっか、シディ。お腹も空いてきた」
「そうですね。まずはお腹を満たして……踊ります?」
「シディと?」
「いや、女の子を誘ってきてもいいんですよ?」
「えぇ? せっかくだから踊ろうよ、シディ」
「えぇえぇええ。……いいですけど、僕は男のパートしか踊れませんよ?」
「あ、俺、女の方でも平気」
「そ、そうなんですか?」
「ソキにダンス教えるの俺だったもん」
意外に思われるかもしれないが、“花嫁”と“花婿”は踊り方を学ぶ。
ただしそれば、いかに男のリードを利用して身体に負担をかけずに踊れるか、あるいは、動かず女をリードして踊っているように見せかけるか、の方法なので、本格的な踊りではない。けれども教える側の傍付きは男女どちらのパートもしっかりと身につける。
「……ロゼアって……実はすごいんですか?」
「いや、フツー」
まだ十六である。実力と経験に富んだ傍付きたちは他にも少なくない数がいた。
「……わかりました。踊りましょう!」
滅多にないことですしね、と笑うシディに頷き、ロゼアは慣れない正装を整えて席から離れた。
ツフィアが学園関連の集まりに出席することはきわめて稀だ。
稀になった、がおそらく正しい。
ツフィアは在学時代から独りを好むことの多い気質であったが、飲みや行事ごとに誘われれば面倒がりながらも出席したし、裏方の手伝いを担うことも少なくなかった。友人もいた。日々は賑やかで平穏だった。
その全てが覆ってしまった日を、ツフィアは鮮やかに思い出すことができる。
ツフィアは卒業間近だった。とある国の王宮魔術師となることが決まっていた。けれど、結局はそうならなかった。
ツフィアは、枷を嵌められた。
王たちの苦渋の決断だったことはわかっている。しかしそれはツフィアを打ちのめした。
かつて気軽に挨拶を交わした知人の多くもまた、ツフィアを目にすると消化しきれないものを飲みこんだ顔をして目を逸らす。ツフィアを亡霊か何かのように見ないふりをする。彼らを慮って、そして、自分の精神の防衛の意味もこめて、ツフィアは安易に出歩かないようにしている。
それでもこの日、新入生たちの、歓迎の宴の日、ツフィアが目立たぬロングドレスを着て外套を羽織り、学園に足を向けたのは、新入生たちの中に、気になる存在がいるからだった。
ソキ。
あの子と同じ、リトリアと同じ、予知魔術師。
そっと盗み見た少女は花嫁のようにましろく繊細な、そして恐ろしく上質であろうドレスを身に纏い、案内妖精らしき少女と踊っていた。可憐な二人組に、会場は温かい眼差しと微笑みを贈っていた。
会場となっている教会を離れて、庭を歩く。灯篭の掲げられた細道を挟んで落葉樹の乱立する学園の庭には、ここぞとばかりにめかしこんだ在校生たちが往来している。彼らを避けて教会の裏手に回ろうとしたツフィアは、よく知った声に呼び止められた。
「ツフィア」
「……チェチェリア?」
楽音の国の王宮魔術師。
今年の新入生のひとり、ロゼアの、実技教官もしている。
そして、現在もツフィアに対し、遠慮なく話しかけてくれる希少な存在のひとりだった。
呼吸を軽く整えているところから、彼女がツフィアの姿を認め、慌てて追いかけてきたことがわかる。
「……何か用?」
首を傾けたツフィアに答えず、チェチェリアは片手に抱えていたパーティー用の細長い鞄を開けた。その中に黒紫の絹に包まれたたおやかな手が潜り込んで、何かを探り出す。
「……これを、ツフィア」
チェチェリアが鞄から取り出してそのまま差し出したものを、ツフィアは訝りの目で見降ろした。
「……花?」
チェチェリアの手のひらの上で、絹の包みから零れて見えるものは、一組の、花飾りだった。
大判で、真珠にも似た、白の花が、中心に据えられていた、飾り。厚みある花弁からは香りが馥郁と漂いそうだった。片方には白い花の周りに淡い青の小さな花が添えてひとくくりにされ、男性でも使えそうな品のよいものとなっている。もう一方は暁の光めいた透明感あふれる薄紅の小花が、中央の大輪の白を引き立てるように配置されたものだった。
髪に、あるいは、フラワーホールに、差せるように、花の裏に細いピンが付いている。
「リトリアから預かった。ツフィアにもし会えたら、渡してほしいと」
「そう」
「……受け取ってやれ。せめて」
伝える言葉は何もなくとも。
贈り物だけは傍に置いてやれ。
『――いい加減、逃げるのをやめたらどうなの? ツフィア』
チェチェリアの無言の訴えを感じながら花を眺めていたツフィアの耳に、ひとりの女の声が再生された。
『いつもだんまりで、逃げ回ってばかりで。えぇ、怒っているわよ。あんたたち二人の代役を押し付けられたわけですからね』
彼女は教会手前でツフィアを待ち構えていた。ツフィアが、今宵、足を運ぶと、確信して。
『何とかいいなさいよ。本当に腹立つわ!』
あんたにも。
そしてストルにも。
(レディ)
星降の国の王宮魔術師――火の、魔法使い。
ツフィアは躊躇いながらチェチェリアの手から花を取り上げた。両手で。乾きに苦しむものが泉から水をすくい上げるようにして。
「……ありがとう」
「リトリアに伝えておくよ」
「……あの子にじゃないわ。使い走りをさせられた、あなたに言ったのよ」
チェチェリアは苦笑していた。ツフィアは黙って踵を返して彼女と別れた。背には声なき問いが投げかけられていた。
――……何故、リトリアに、何も語ってやらない。
(すきで、だまっているわけじゃない)
沈黙を守り続けているわけではない。ツフィアにはいくつもの枷がはめられている。それが、喉から声を奪っている。
喉を常に乾かせて、張り付かせている。
ツフィアは急ぎ足で歩いた。花を捧げ持つ手が奇妙なほどに重かった。噛み締める唇からは、血の味がした。
その足が止まってしまったのは、建物の曲がり角で人影が不意に飛び出してきたからだ。
「……っと、失礼。……ツフィア?」
「……ストル」
現れた影の主は、しばらく顔を見ていなかった男。ツフィアの――ある意味の、片翼。
ストルは空色の髪をきれいに撫でつけ、正装していた。なぜここに、とは尋ねなかった。彼もまたチェチェリアと同じ、新入生の実技担当教官だからだ。
しばらく互いに見つめ合っていたが、ふいにストルが笑みらしきものに口元を歪めた。
「……ひどい顔をしているな」
ツフィアも同じように口角を上げた。
「お互いね」
久しぶり、とは、言わない。近況を尋ねることもなかった。ただ、リトリアについてはいくつか言葉を交わした。
別れ際、ツフィアはストルに花飾りの片割れを渡した。チェチェリアは何も言わなかったが、この花の片方が、誰に向けて造られたものなのかはすぐにわかった。
大輪の白い花に添えられた小花の淡い青は、朝日を透かしたストルの髪色と同じだった。
もう片方の小花の薄紅が、朝日を透かしたツフィアの瞳の色と、同じように。