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 熱砂の記憶 03

 ――ひつじはいのってる。いつもいつもいのってる。ひつじかいのこうふくを。ひつじかいのしゅくふくを。だからひつじはたびにでた。


「おほしさまのー、こぼれるみちをー、ひつじはー、あるぅーくー」
 王都を発って最初に宿をとった街道沿いの町。軒を連ねる石造りの家々はまだ乳白色の薄もやを被ってまどろみのさなかだ。たまさか煙突から吐き出される煙に誘われて目を動かせば、パンと延べ棒の図柄が看板に描かれている。携行食の調達はあそこで行うことにしよう。よし、と心に決めて、ロゼアは腕の中で歌う少女を見た。
「てくてくてーく。ばしゃにゆられてー、ごとごとごーとー」
 ソキはご機嫌である。初日は様子見のために王都からほど近い町に滞在したのだが、首、頬、額、と手を滑らせてみても、扁桃腺は腫れていないし、まぶたはむくんでもいないし、額にも冷えたり汗ばんだりといった様子はみられなかった。むしろ肌艶なども含めて万事すこぶる良いように思えた。
 ソキは花嫁であったころその務めの一環として“旅行”に出かけることが多かった。花嫁花婿は皆その務めを負う。旅行とはつまり、“嫁ぎ先”への顔見世である。ソキが馬車に嫌悪を見せるのはこの“旅行”と呼ばれる責務によるところが大きい。
 それを思うと妖精の助力があったにせよ、彼女はよくひとりで白雪から学園まで旅しきったと思う。
 もしこの隣町までの道程で、彼女が馬車に酔うようであれば、もしくは、微熱や咳といった体調不良の兆しを見せるようであれば、即刻ロゼアは王都に引き返し、城の扉経由で里帰りをするつもりだった。
 だが、すべては杞憂だったようである。
「誰に教わったんだ? その歌」
 ソキを右腕に抱いたまま、左手でのど飴の包みをぺりぺり剥がしながらロゼアは尋ねた。ロゼアの首に腕をくるんと回したソキは、すりすりすりすりと肩口に頬を寄せてから、んんん、と考えている。ソキの知る歌はたいていがロゼアの教えたものなのだが、近頃は学園の上級生からあれこれ知識を仕入れてくることも珍しくない。
「ルルクさん?」
「ちがうです……あっ! ロゼアちゃんの前でこのお歌うたったらだめなんでした! やぁんやぁんロゼアちゃん聞かなかったことにしてくださいっ!!」
 やうーやうーと目元をロゼアの肩口に擦りつけてくるソキの額を軽く押しあげる。
「誰に教わったんだ? なんで俺の前で歌ったらだめなの?」
「えぇ……えっと……えっとぉ……。教えてくれたのは、おねえさまでぇ……」
 となると、学園で知った歌ではないらしい。
「ろぜあちゃんたちのまえで、うたったらだめって、いわれてたですよ……」
 ロゼアたちの前。傍付きたちの前で、ということか。
 ソキの生家である屋敷において花嫁花婿は始終観察の目にさらされている。ロゼアがソキの傍を離れれば代わる誰かが常に傍に控え、報告書を綴る。“花嫁”としてのソキが学んだ物語や歌は千近いものがあるのだが、ロゼアはその全てを把握しているはずだった。が、そうでもないらしい。
 花嫁花婿には世話役たちを誰も寄せ付けずに一室に集い、茶会に興じる習慣があって、どうやらその折に口伝えされるものもいくつかあるようだった。
 ふうん? とロゼアは首を傾げながら、とがった彼女の唇に飴玉を押し付けた。
「口開けて」
「む、むむ……んぐう……きゃあっ! あまぁい! ソキこれすきですー! りんご、です?」
「うん。りんごはちみつな。歌いすぎると喉を傷めるぞ。せっかく調子がいいのに」
「ロゼアちゃん、おうた、や?」
「やじゃないよ。心配なだけ」
 ソキは神妙な顔で考え込んだあと、こっくりと頷いた。ロゼアはよし、と笑って、ソキを抱き直す。
「少し散歩しような。しんどくなったら言うんだぞ」
「だぁいじょうぶーですーぅ」
「……本当に、途中で息切れしないようにな……?」
 昼にはここを発つ予定なのだ。だいたい、星降は次の街を観光の目的地に据えているのである。
 きゃっきゃと笑うソキに苦笑して、ロゼアはゆっくりと歩き始めた。
 ソキが歌う間に感じていた鈍い頭痛はあとかたもなく、ロゼアもすぐにそれを忘れた。



 観光をすると決まってから、メーシャとナリアン、それに多くの上級生たちが、忙しい合間を縫ってロゼアの下を訪れた。その手には決まって地元民だけが知る名店やちょっとした景勝地を記した走り書きや地図がある。生まれ育った土地の情報を、誇らしげに、やや照れ臭そうに、上級生たちはロゼアに惜しげもなく提供してくれた。人の目がないからって安心して手を出してソキの体調を悪くするなと要らない助言をしてきた唯一は口に出したくない華麗なポーズをとるあの男で、蒸発させる代わりにロゼアはそっと記憶を削除していた。だから、出発前の一週間は試験の慌ただしさと、ロゼアたちの旅行を――というよりも、初めてロゼアちゃんと“かんこう”にいくんですよ、いくんですよ、と方々に言いふらして歩くソキを案じる上級生たちとの、温かい交流に満ちていた。学園から離れることが、ややもすると寂しく感じられたほどである。
 観光旅行は星降から砂漠までの道程だが、ロゼアの部屋の扉を叩く者の中には白雪出身者の姿もあった。旅行中に困ったことがあれば頼りになる医者や、薬草を幅広く取り扱っている商家の名を彼らは告げた。わたしがここにくるまでにお世話になったの。俺の親戚が働いてるから困ったら遠慮なく頼れよ。入学から半年がたった今はソキの身体がもろいことを学園の誰もが知っている。だからこそ。ロゼアはありがたくそういった助言を丁寧に手帳に記し、ぎりぎりで計画したわりにはかなり濃密な旅程である。推薦先があまりに多すぎて、正直、迷ったほどだ。
 観光先はソキが大きく体調を崩した場合を考慮して、長期滞在できることを条件に選定した。それを踏まえて吟味し、選んだ場所は、まず星降の王都からほど近い第二都市。ここにはメーシャや上級生推薦の名店、魔術師にも縁深い天文台がある。次に観光先として定めた場所は花舞の王都。
 ナリアンの、街である。
『前も言ったけど、花舞の観光名所って、本当は国境沿いに集中してるんだよ』
 花舞の城下で再会したナリアンはそう言いながら、紅茶のメニュー表をロゼアに差し出した。長期休暇中さっそくロリエスの手伝いに従事しつつ色々しごかれているらしい彼と過ごせる時間は午前に限られているのだという。会って早々に案内された先は、城からほど近い紅茶専門店である。花畑と噴水を真正面に捉えた窓からはあたたかな陽光が店内を満たす。絡み合った蔓を柱として中央に据え、放射状に配された円テーブルの席は、老若男女、幅広い客層で埋まっている。その中の一席、予約席、の札とポセインチアの網籠が中央に据えられた、ソファー席がロゼアたちのテーブルだった。
『だから本当はそっちを見てほしいんだ……寮でも話してた湖畔の街、ちょうど水仙が咲いたんだって。昨日聞いた』
「あぁ、あのここから三日ぐらい北に上ったところにあるっていう街?」
『そう、そこ』
 昔、ばっちゃんと出かけたことがあるんだ。繰り返すけど、本当にきれいなところなんだよ。ナリアンは微かに目を細めて、昔を物語る。花舞は北部に比較的大きな河川が流れており、それが細かに枝分かれしてこの国独特の豊かな土壌を支えている。件の街は昔から噂を耳にしていたし、さらに寮でナリアンたちから話を聞いたこともあって、花舞の観光先の候補として調べた。大河川の源流から細く枝分かれした水が豊かに流れ込む湖を中心として造られた水上都市だ。
「行ってみたいって思ったんだけどな。でも冬至までには屋敷に帰っておきたくて」
『冬至? クリスマスの準備があるから?』
「いや……俺たちあんまりクリスマスって縁ないんだけど……」
 五国の暦は共通しているが、どの歴注に重きを置くかはそれぞれだ。クリスマスを一大イベントとして取り扱うのは白雪で、楽音、花舞、星降もその時期になると飾り付けに勤しむ、らしい。寮の談話室や食堂ででかでかぴかぴか存在を主張していた残留組によるクリスマスツリーを思いだし、ロゼアはふっと笑みを漏らした。
 砂漠では冬至を重視する。何せ一年で一番昼の短い日なのである。良くも悪くも砂漠に密接な太陽が最も弱る日であり、長く星を拝む日なのである。しかも年末なのである。夜は砂漠の民を導いた星々に一年の感謝の祝祷を捧げ、翌日は太陽に慰めの肉料理を支度する。新年、太陽の怒りを買わぬように。
 それを過ぎると休暇に入り、帰省のために方々の交通量が増える。そうなる前にロゼアは帰り着いていたかった。
 ロゼアの説明を受けたナリアンは初めて知ったと頷き、ロゼアの隣のソキに視線の先を移した。
 なにぶん身体にぴったりと寄り添う形のひとり掛けソファーであるので、ソキを抱いたまま座ることはできなかったのだが、ソファー自体は出来る限り距離を詰めて並べてある。その席に腰掛け、やや重量のあるメニュー表をぴこぴこ揺らしながら、ソキは羅列された紅茶名を熱心に見入っていた。
「ロゼアちゃんはぁ、何がいいです? ソキねぇ、ロゼアちゃんの代わりにねぇ、お紅茶、頼むんですよ?」
 あっ、ナリアンくんのぶんも、もちろん、ソキが頼むんですよ! ソキねぇ、リボンちゃんと旅しているときにねぇ、ちゃぁんと、ちゅうもんのしかた? まなんだです。だからねぇ、ろぜあちゃんとなりあんくんは、おはなししてていいですよ。おねえさんがきたらですねえ、そきねぇ、ちゃあんとちゅうもんしておくです。
 ふわんふわんと響く上機嫌な声音に、ナリアンがそっと目元を潤ませる。よかったねソキちゃん元気そうで嬉しい嬉しい俺のいもうときょうもかわいいえらいね注文するなんてえらいねっ。意志が駄々漏れのナリアンをほほ笑ましく見つめたのち、ロゼアはソキを見た。ソキもソキですごいでしょえらいでしょ、もっとほめて、と胸を張っている。
「こんかいの、りょこ、はぁ、ろぜあちゃんのおてつだいをするって、きめてたですよぉ」
 どうやらひとりでできるもん運動とは別のものであるらしく、この旅行中、ソキは何かに付けてロゼアの“手伝い”とやらをしたがった。たとえば宿の記帳。馬車乗り場での書類提出。思い返せば馬車の手配もソキがいつの間にかユーニャに依頼してくれていたのだ。ソキを見かねてユーニャが申し出てくれたともいうが。
 ナリアンが目を細めて、言う。
『楽しそうだね、ソキちゃん』
「うん」
 彼にロゼアは頷きながら、ソキの瞼を軽く撫でた。ソキがきゃあっと喜声を上げてロゼアを仰ぐ。
「なに? なんですか? ロゼアちゃん」
「なんでもないよ。……俺はルイボスティーで。ナリアンは?」
『ベルガモットにしようかな』
 ちょうど若い給仕が注文を問いに歩み寄ってきた。予約席の札を取り上げて一礼する給仕に向けて、ソキがたどたどしく紅茶名を読み上げる。ナリアンが何やら感動した様子でソキの応対を見守り、ふいに、ロゼアを見た。
 彼がやさしく微笑んだまま問いかけてくる。
『ロゼアも、たのしい?』
 楽しんでいる?
 この旅を。
 つかの間の休息を。
「もちろん」
 ロゼアが断言すると、ナリアンはよかった、と笑みに目元をいっそう細めてみせたのだった。



 観光旅行が初めてだったのは何もソキだけではない。ロゼアも同様に、まったくの初体験であった。
 ソキにとって旅行が単なる義務でしかなかったように、ロゼアからすれば屋敷を外出することは訓練のための遠出であり、観光とは無縁なものだったのだ。そもそも砂漠から出たこともシディとの旅が初めてであるし、観光や旅行以前の話をするならば、ロゼアはソキとふたりきりで過ごすということ自体が初体験だった。
 まだ、ソキが花嫁であったころ。
 一見して室内にふたりきりでいるようにはみえても、外には傍付きの補佐を含むソキの世話役や、時に運営側の監視の目がある。花嫁の在室時はよほどの理由がないかぎり、扉は開け放たれた状態を保つのが原則だ。一度だけ扉を閉めきったことはある。しかしそれは決して楽しい状況から行われたものではなく、扉のすぐ外にはひとが待機し続けていた。
 屋敷ばかりではない。学園でも集団生活をしているからにはどこにいても衆人の目や耳がある。本当の意味でロゼアはソキとふたりきりで過ごしたことはなかったのだ。ましてや、観光、など。
 だから、ソキがはしゃぐのも、わかる気がした。
「ねぇねぇろぜあちゃん。あーんして?」
 あーんですよ。あーん。そきがされるんじゃないですよ。ろぜあちゃんがあーんなんですよ。とはしゃぎきった声音と共に綿飴が差し出され、ロゼアは苦笑した。代金を支払って待合の椅子に座らせていたソキのところに戻ってきたらこれである。
「ソキ、それはソキのだろ? 俺はいいよ」
「ろぜあちゃん、そきは、あーんしたいって、いってるですよ……?」
 この間はしてくれたのに。ねえねえしてして。頬を膨らませ、投げ出した両足をぱたぱた動かして、ソキはロゼアに涙目で訴える。これは学園に来てから、ソキが、とりわけ甘えたいときにねだる行為で、これまでも二、三度。
 ロゼアにソキの手で食べさせてみては、と、彼女に提案してみたのは誰なのだろう。メーシャか、ナリアンか、はたまた上級生か。そもそも学園にきた当初、ソキと一緒に食事をとることにすら抵抗があったロゼアにしてみれば――ロゼアは食事の席に同席はするが、作法の教育のためであって飲食はしなかった――ソキから何かを食べさせられる行為はわりと拷問に近い。ロゼアはソキに奉仕する存在であって逆はない。施された教育が、反発する。
 ねぇねぇねぇねぇ、ろぜあちゃぁん、と、あまえきって、はしゃぎきって、とろけきった声の要求に、ロゼアは苦く笑って綿飴を差し出すソキの指に手を添え、そのままかるく綿飴の端を食んだ。雪のかたちをした砂糖菓子がロゼアの口の中でほろりととろける。口の端についてしまった綿菓子を親指の腹で拭ってそのまま舐め取れば、いっそ苦く感じられてしまうほどの鋭い甘みが舌先を刺した。
「あまい」
 禁断の果実のように。
 毒々しい、甘さだった。
 視線を下げるとソキが少しうるんだ目でロゼアを見上げていた。その手にある細い木製の棒からは、砂糖菓子の残りが零れ落ちかけている。ロゼアは苦笑して綿飴の棒を取り上げ、ソキを片腕に抱いた。声を掛けたわけではなかったが、その場に跪き、腰を引き寄せる動きから察したらしい。ソキは両腕をロゼアの首元に回し、身体すべてを預けてきた。慣れた重みがロゼアの身体とひとつになる。
 歩きはじめたロゼアの首筋に頬を寄せたソキが訝しげな声を上げた。
「どこへいくんですか? ロゼアちゃん」
 微笑みかけながらロゼアは答えた。
「城壁の展望台」

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