――おほしさまのこぼれるみちを、ひつじはあるく。てくてくてく。ばしゃにゆられてごとごとごと。
学園への旅の最中にロゼアが滞在したこの街は、花舞を西に望む国境の山間に広がっている。いまとなっては商隊や旅芸、物見遊山の者たちがのんびりと行き交う通過点に過ぎないが、大戦時は国の防備に重要な役割を果たしていたという。その当時の名残として、高い城壁が街全体をぐるりと囲む。いまは観光向けの展望台が一部に設置されて、勾配緩やかな階段から登れるようになっている。
繰り返された補修の跡がうかがえる城壁は年代を感じさせるものの、古い建物にありがちな足場の危うさは微塵も見当たらず、街の住民らしき老夫妻や子どもたちも展望台へ続く道を頻繁に往来している。そういったひとびととすれ違いながら階段を登りきれば、花舞と楽音の二国を隔てる峻嶮な山脈やそのふもとに広がる森、そして木々に隠れるようにして地を這う河川が見えた。
「ろぜあちゃんろぜあちゃん! 風! 風がすごいです!」
登りきったロゼアたちを迎えたものは高所を吹き抜ける突風だった。風にあおられた髪が光の帯のように空に広がり、きゃあきゃあとソキがはしゃいだ声を上げる。ナリアンくんの風みたいです! と、ソキは笑った。彼をとりまく風のように、あたたかいと。
ロゼアは撫でつけたソキの髪を外套のフードの中に収めながら歩を進めた。
元は物見の塔として機能していただろう円形のそこは厚みある壁に縁取られている。先客たちの数はそう多くはない。青年はその壁の縁に手を突いて街を見降ろし、老人は愛犬を脇に長椅子に腰かけて欠伸をしている。床石に蝋で落書きする子どもを叱りつける若い母親や、腰を抱き合いながら立って花舞の国境を眺める若い男女もいた。
何か理由があって展望台まで来たわけではない。しいていえば、ソキがゆっくり休める場所を探していた。中央広場は賑やかすぎた。それを思えばこの展望台は広々としているわりに静かで、明るく、のんびりするには申し分ない。わざわざ階段を上ってきたかいがあったというものである。
具合よく空いた長椅子にソキを下ろして、首筋や頬、額に手を滑らせて体調を探る。観光の旅も半分を越えた。そろそろ疲れが出てきてもおかしくはない頃である。
「頭痛くなったりしていないか? ソキ」
「大丈夫ですよー。ロゼアちゃんは? 疲れて、ないです?」
「疲れてないよ」
「じゃあ喉は? 乾いてないです? ねぇねぇロゼアちゃん。喉は? 乾いてないです?」
「喉?」
触診するロゼアをよそに鞄を探っていたソキが、ふいに透明な硝子瓶をロゼアに差し出した。
「はいっ! これ、ロゼアちゃんのです!」
まさかの、サイダーの瓶である。
「……ソキ、どうしたんだ? これ」
ロゼアが買った覚えのない瓶だ。いつどこで手に入れたのか。
「……ろぜあちゃん、さいだー、やです?」
「いや、そうじゃないよ……もらうな」
ロゼアが瓶を受け取ると、ソキはほっとした様子だった。彼女は跪くロゼアの反応を窺うように上目使いでたどたどしく説明を始める。
「ソキねぇ、ロゼアちゃんが喉渇いてると思って、広場の、お店で、買っておいたです……リボンちゃんにね、お買いものの仕方をですね、教えてもらったですよ。かいぐい、なんですよ」
「そうか」
「……かいぐい、だめ?」
「駄目じゃないよ。そうか……できるんだな。偉いな、ソキ」
ロゼアは立ち上がって賞賛し、ソキの頭を撫でて隣に座った。瓶のふたを捻り開け、サイダーを口に含む。最近、とりわけ好んでいる味なことに加え、思ったよりも喉が渇いていたらしく、中身はすぐに空になってしまった。
「おいしかった。ありがとう、ソキ」
ソキが嬉しそうに顔を輝かせてロゼアの身体に身を寄せてくる。ロゼアは瓶を脇に置いて、彼女を抱き上げた。膝の上に横抱きにし、顔に掛かった髪を梳き上げ、その額に頬をくっつけて、息を吐く。
慣れた重みが、香りが、そこにあり、満たされている。
ロゼアは幸せだった。
突風がロゼアたちを襲ったのは最初の一度きりで、あとは緩やかな風が頬をなでるばかりだった。街の周囲に広がる森からは緑が薫っている。時折耳朶を掠める人の囁きは小鳥のさえずりめいていた。瞼の裏に感じる陽光もあたたかい。
「……ロゼアちゃん」
「なに?」
うすく目を空けてソキを確認する。彼女はロゼアの胸に身体のすべてを預けていた。長い薄金の髪がフードから零れて肩から胸元にながれている。それをロゼアはうつくしいと思った。
「ソキねぇ……」
ソキが囁いた。
「ここで、この街で、お祈りしたことがあるですよ」
「……ここで? 何を?」
「ロゼアちゃんの……しあわせ……」
「俺の?」
「……ろぜあちゃん、おやしきに、いなかったですから……」
自分たちふたりは、別々の場所で、魔術師のたまごであると宣告された。
ロゼアはソキが自分と同じであると思っていなかった。彼女も同様だった。屋敷を辞めてどこぞへ出奔したと聞いたロゼアを、ソキは探したのだと言う。案内妖精の目を借りて。自らの脚で歩きながら。ロゼアを探したのだと言う。
「ろぜあちゃん、が、楽音の国に入ったことは、ソキね、お城のひとに、聞いたです。でも……楽音からは、出てないって、聞いて。でも、ソキは、星降に、学園に、行かなきゃ、いけなかた、です、から……」
楽音のどこかにいるロゼアを探し出すことはできないから、せめて、と。
ソキは祈った。ロゼアの幸せを。
「……俺、この街で、ソキの声を聞いたよ」
ソキの髪に指をさしいれ、華奢な身体を引き寄せながら、ロゼアはささやいた。
「呼ばれてるって思った。ソキが俺を呼んだって。でも、俺も学園に先にどうしてもいかなきゃいけなくて。だから」
この街の近郊でロゼアの魔力は暴走し、ロゼア自身もまた数日間に渡って逗留を余儀なくされた。けれどある朝、唐突に、目覚めた。ソキの声が聞こえて。
二度目にソキの声が届いたとき、早く、先に進まなければと思った。早く、進んで。
迎えにいかなければ。
だが運命はロゼアに味方した。ソキは学園にいた。学園で再会することができた。
逢えて、よかった。
その想いが声になる前に、ソキの手がロゼアのそれに絡んだ。祈りのかたちに固く握りあわされる手にロゼアは視線を落とし、指を組み直す。ソキの手が、少し、冷えていた。
「ロゼアちゃん……」
「なに?」
「ソキって、呼んで?」
繋いだソキの手に、力が籠っていた。
「ソキって、呼んでください。ロゼアちゃん、ソキって……」
「ソキ」
何か、不安に思うことが、あるのか。
今はそれを問い質すことをせず、ロゼアは求められるままに彼女を呼んだ。ソキ、ソキ、ソキ。おれの――……。
もはや花嫁ではない少女は、ロゼアの何なのだろう。
メーシャに指摘され、ソキにも尋ねられたその問いに、ロゼアはいまだ答えを出すことができない。
ただ、はっきりとしていることがひとつだけ、ある。
「ろぜあちゃんは……いま、しあわせ、ですか?」
「しあわせだよ」
この少女が腕の中にいれば、ロゼアはいつも満ち足りる。
幸福で満たされる。
それだけは昔から今も変わらぬ真実だ。
花舞の方角から滑空してきた鳥がロゼアの頭上で羽ばたき、敷石の上に影を落とす。その黒点を追うかたちで面を上げると、城壁の縁からまっすぐに伸びる道が見えた。黄色の敷石で整備された幅広のそれは楽音の王都へと続く街道。その道をたどりながら鳥がまた風をとらえ、蒼穹の彼方へと飛び退る。
その果ては砂漠。
ロゼアたちの故郷へと続いていた。
どこからか舞い降りた鳥が屋敷の敷地を囲む壁を越えて庭へと消えていく。
その様を見守っていたふたりの男は軽やかに響いたさえずりを合図に、忘我の域から引き戻されて互いに向き直った。
ふたりとも壮年の域に差し掛かってはいたが、若々しく、その佇まいはある種の存在感をたたえていた。ひとりは宵闇を思わせる濃藍の旅装で、もうひとりは白の上下に花模様の刺された帯を締めた男だった。旅装の男はもう一方よりも幾何か年上にみえる。生命の息吹をそのまま閉じ込めたような碧の双眸が印象深い男だ。
砂漠は、その只中に泉を抱いて在る王都は、まもなく夜を迎えようとしている。
太陽が濃紺の紗幕を引きながら薄金の砂によってかたちづくられた丘陵の彼方に沈む。残照にほの輝く西の空に一番星がひかり、砂除けの戸と窓枠の狭間からは、燈明の橙色が漏れ始める。
往来の足取りもひとつまたひとつと消え、城門も閉じられようかという頃合い。
旅装の男が手持ちの剣を横にして差し出すと、相手の男も心得た様子でその剣を受け取った。剣を軽く鞘から抜き、鍔に刻まれた言葉を確かめたのち、男がかなしげに眼を眇める。
この剣は、証だった。
選ばれた証。資格を得た証。
それを旅人は、今日、手放すのだ。
男は剣を強く握りしめて、碧の瞳を見つめて言った。
「……確認いたしました。傍付きラーヴェ。これよりあなたはただのひと。長らくの任、お疲れ様でした。あなたの奉仕と献身に、多くの報いがありますよう。これよりあなたが進む道に、金の光の祝福を」
旅装の男は頷いた。
「傍付きハドゥル。送別を感謝いたします。これよりは砂漠のひとつぶの砂となり、花園と花々とその番人たちのご多幸を、陰よりお祈り申し上げます」
送別役の男が剣を背後に差し出すと、音もなく、すうっと現れたひっつめ髪の女が、その剣を引き取っていった。代わりに男の手には真新しい剣があった。飾り気のない鞘に納められた剣は、屋敷が、餞別にと用意したひと振りだった。
女の気配がその場から消えるまで待って、送別役の男は剣をこれから旅立つ男に渡した。ありがとう、と見送られる者は笑った。そして、その片手を見送る者の頬に触れさせる。
「金の光の祝福を、おまえに。ハドゥル。そしておまえの妻に。……おまえの、息子にも」
刹那、昔年の様々な想いが去来し、見送る男の胸を突いた。
「幸せになってください、ラーヴェ」
かつて兄と呼んで慕った男の手を握りしめて、屋敷に残る男は祈った。
「自由になって……穏やかな生活を送ってください。幸せになってください。どうか」
もう、あなたは苦しまなくていい。
ふるえる声で訴える送別役の男に、旅立つ男は困ったように笑って言った。
「僕は今も充分に幸せだよ、ハドゥル」
諭すようにやわらかい。
在りし日を思い起こさせるような。
ひどくあたたかな声音だった。
ソキが調子を崩す様子を見せたのは、砂漠の王都も目前という頃だった。
ひどく難しげな顔で何かを考え込む様子が度々見られ、いまでこそ体調が傾く兆しはないものの、このままでいくと早々に頭痛や微熱を出しかねない。気をもむロゼアにソキは何でもないといった風に笑うが、何かがあったことはあきらかだった。
王都往きの駱駝をロゼアが手配をしている間に、ソキはほんの一時、座っていた長椅子から姿を消したのだ。常に視界に入れていたつもりであったのに、ふっと、彼女の影かたちがすべて消えてロゼアは慌てた。結末は飴売りに心を引かれたらしいソキが、自らの足で、その場を離れたにすぎなかったのだけれど――しかも彼女は発着場から出てすらいなかった――彼女が歩ける、ということを失念していたロゼアは、恐怖に駆られた。
ソキが戻ってきたいまも得体の知れない念が熾火のように灯って、心の奥でくすぶり続けている。
くたりと身を預けてくるソキを抱き直してロゼアは息を吐いた。王都の城門前で馬車に乗り換えて、懐かしさすら呼び起こす街並みを窓から見つめている。もうまもなくすれば――あぁ、着いた。
「ソキ、ソキ。……屋敷だよ」
「んん……うぅ?」
うとうととしていたらしいソキを揺り起こしていると、御者が扉を開けてくれる。屋敷の息のかかった馬車だ。事情にも精通しているらしき御者は装飾の施された鉄柵の正門ではなく、使用人たちが出入りする裏門の前に馬車を停めたらしい。
城壁めいた高い壁に埋もれるちいさな木扉。その前にはロゼアも見知った女が立っていた。焦げ茶の髪をひっつめた妙齢の女だ。
「おかえりなさい、ロゼア。長旅ご苦労様でした」
微笑んでロゼアを出迎えた女は数歩の間合いをあけて跪いた。ロゼアにではない。ロゼアが抱きかかえる、ソキに対して。
「おかえりなさいませ、ソキさま」
ロゼアの腕の中でソキの身体が微かに強張る。だいじょうぶ、と告げるように、その背をロゼアは軽く撫でた。
女は花嫁花婿と接触を持たない、完璧な裏方だ。見知らぬ者にソキが警戒を示すのも無理はない。女自身もその点を心得ており、ソキとの距離を必要以上に詰めることはしなかった。静かに頭を垂れたまま、彼女は告げた。
「裏門の番を務めておりますミアーシュと申します」
「みあーしゅ、さん?」
名をたどたどしく繰り返すソキにミアーシュは面を上げて微笑んだ。
「剣を持っておりませんので、直接ソキさまをお運びすることはございませんが、帰省なさるソキさまとは度々お会いする機会があるかと存じます。以後、お見知りおきを」
数人いる中で、ロゼアが顔を合わせる頻度の最も高かった裏門番がこのミアーシュだ。外見こそは若々しいが、ロゼアの父が幼いころから役目に付いていたという年齢不詳の古参である。
「はい、よろしくお願いいたしますですよ」
ソキが鷹揚に頷く。ミアーシュは喜色をその顔に広げて立ち上がった。
居住まいを正した彼女との距離を詰めながら、ロゼアは腰に佩いていた短剣を外した。学園の武器庫で手に入れたそれは現在ロゼアの携帯している唯一の武器だ。それを鞘ごとミアーシュに差し出す。訪問者は武器を屋敷内に持ち込めない規則である。
はずなのだが。
ミアーシュはロゼアから差し出された武器を一瞥して訝しげに眉をひそめた。
「なぁに、ロゼア。預ける必要はないわよ」
「は? なんで?」
「え? なんでって……あなたから武器を預かるようにはいわれていないもの」
武器、しかも剣である。その形状の武器は特別な含みを持ち、辞表を出したロゼアが持ち込んでいいものではない。
しかしミアーシュは首を捻っただけだった。
「……まあ、気になるならラギにでも聞いてちょうだいな。……さて、それではソキさま、早速ですが」
立ち話も何なので、とにこやかに笑い、彼女は話の先をソキに向けた。
「ロゼアからも聞かれているかと思いますが、これより先はソキさまご自身の足でお立ちいただく必要がございます。……ロゼアも、わかっているわね?」
ロゼアは頷くかわりにソキを抱く腕に力を込めた。
花嫁花婿を歩かせないことが屋敷の原則である。逆をいえば、自分で歩行さえすればソキは花嫁ではない者として扱われる。ソキを歩かせて連れてこいと、彼女の兄であり、次期当主でもあるレロクからロゼアは指示を受けていた。
ロゼアがゆっくり腰を落とすと、ソキは腕の中から滑り降りて地に足を付けた。ソキが両脚に自身の体重を預けきるにはしばしの時間を要した。ロゼアの手を借りていても歩みは頼りない。手前の街で、ソキはよく、ひとりで飴売りを見に行けたと思う。
立ったソキを眩しそうに見つめ、ひとつ頷いて見せたミアーシュは、勢いよく踵を返して木扉を開いた。赤子の拳ほどもの厚みを持つ、裏方への入口。花嫁花婿ならば決してくぐることのない――……。
「皆、おふたりの帰りを待っていました」
扉の縁に手を添えて立つミアーシュは、ただし、と注釈を付けた。
「あなたの場合は若様を除いてね、ロゼア」