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 熱砂の記憶 06

 ――どうかどうかしあわせに。あなたのことを、わたしはいつもおもうから。


 ソキの母は嫁ぐ直前に当主によって手折られ、そのまま屋敷に残留した。嫁入りの選定も終わり、婚儀の日取りまで決まっていた花嫁が嫁げなかったという事実は屋敷にとっての汚点だった。それが当主の犯した罪であったとしても。
 とりわけソキの母はかつての代の最優と呼ばれた花嫁だった。だから同じように最優と讃えられるソキは母の汚辱を雪ぐためにも“幸せのうちに嫁ぐ”必要があったのだ。
 結局ソキは“魔術師として目覚める”という如何しがたい理由で花嫁ではなくなってしまった。
 ただ、ソキが“花嫁として嫁いだ”という公式の記録は必要であったらしい。
 ソキの扱いはそういった屋敷の事情によるものだが、ロゼアやソキにとっては助かる部分が大いにある。
 ロゼアに限っていえば――……皆が以前と変わらぬ態度で接してくれるという点だ。
「ロゼア兄さん?」
「ホントだ! ロゼアさんだ……帰ってきてたの?」
 ロゼアがリグと共に居住区に到着すると、あどけない顔で子どもたちが群がった。まだ片手の指で数え切れる年ばかりだ。基礎課程中の子どもたち。訓練を終えたばかりらしく、頬や手足に泥がついている。
 この年頃は読み書き計算から礼儀作法に、家事全般、武器の取り扱いなどを徹底して仕込まれる。ロゼアも通った道である。
 ロゼアの周囲に集った彼らは口々に近況を述べた。ロゼアが面倒を見ていたふたりが、“外生まれ”の花嫁花婿たちに、それぞれ傍付きの候補として付くことになったらしい。新しい外生まれもこの半年の間に四人入ったという。内生まれの花嫁花婿が出るのは当分先だろう。何せ次期当主たるレロクが未婚のままなのだ。
「あぁ、ロゼアか。おかえり」
 一角に集う年少組たちの様子を見に来たらしい。ひょい、と顔を出した年嵩の男たちが、ロゼアの姿を認めて微笑んだ。
 ロゼアやリグより上の世代となれば既に一度は花嫁花婿を送りだした者たちばかりだ。彼らはロゼアに軽く手を振り、あるいは気安く肩を叩き、そして思い出したように口にした。
「おめでとう、ロゼア。……お前の花嫁は幸せになるよ」
 自身の花嫁花婿を送りだしたばかりの傍付きへ口上する決まり文句。年長組たちは正しいソキの現状を知っているはずだが、あえて祝辞をロゼアに述べることで、ソキが無事に嫁いだと下の世代に知らしめたいのだろう。ロゼアは微笑んで、ありがとう、と皆に返した。




「で、あっちではどんな生活してるんだ?」
 休憩所のテーブルに向かい合って着きながらリグが問いかけてくる。喉の渇きをお互いに覚え、休憩しようということになったのだ。
 リグから差し出されたミントティーのカップを引き寄せつつ、そうだなぁ、とロゼアは思案した。
「基本は講義だよ。学園っていうぐらいだしさ」
「ま、そうだよな。……授業はどんな風にするんだ? 町の学校みたいな感じか?」
「いや……あんまりここと変わらないな。……座学は新入生共通で受ける基礎と選択式の講義があって。実技の方は専属の担当がつく」
 頬杖を突いたリグが、へぇ、と興味深そうに片眉を上げた。
「専属っていうことはひとりにひとりってことか。豪華だな」
「魔術にも色々適性があって、まとめてってわけにはいかないんだってさ」
「適性? なんでもできるわけじゃないってことか?」
「そう。俺は熱とか光とかを生み出せる術者。水だのなんだのっていうのは門外」
「なんだ。試しに雨でも降らせてもらおうと思ったのに」
 おどけた様子でリグが舌打ちする。できないっての、と呻きながら、ロゼアはぬるい視線を送った。
「じゃあその光だの熱だのっていうのは? そっちなら出来るんだろ?」
「禁止されてる。されてなくても使いたくない。未熟だから。万が一暴走なんかしたら、簡単に人が死ぬんだ」
「ふうん? 光とか熱がどうして人を殺すのかはよくわからないが、危険なんだな。……殺したか?」
「……ひとり」
 あれは、苦い記憶だ。
 相手は確かに悪党だったが、花婿花嫁を害したわけではなかった。ロゼア自身は相手に司法からの裁きがあればよかったのだ。それが自らの未熟さが原因で殺してしまった。ソキを迎えにいけなくなるやもと戦慄もした。
 リグが微笑んだ。
「習熟してないとなんでもそうだな。傍付きの訓練みたいだ。未熟な腕で振り回した武器が誤ってひとを殺してしまうのはよくあるさ。だろ?」
「そうだな」
 花嫁花婿たちがその脆さで落命するとすれば、傍付きたちはその通過する訓練でよく死に至る。リグやロゼア、多くの傍付きたちが訓練中に相手に深手を負わせしまうことはよくあった。それは武器を扱うこちらが未熟なせいもあるし、相手の不注意によるものもある。そういったことを知っているからこそ、ロゼアは未熟なまま魔術に頼ろうとは思わない。
「聞いてると、ここの生活とそんなに変わらないな」
「まあ、そうだな。でも時間の自由はけっこうある。水曜日は授業ないし」
「水曜は休みなのか」
「っていうか、部活動の時間……」
 ぶかつどう? とリグが不思議そうに訊いてくる。
「って、あれか。町の学校がしているような? ロゼアは何の部に入ってるんだ?」
「……きょうえんぶ、に、はいって……いや、はいらされた」
「きょうえんぶ?」
「壁登ったり木から飛び降りたり建物の屋根を走り抜けたり、あと、家事したり……」
「……なんだそれ傍付きの訓練か?」
「ぜんぜんちがう……」
 と、訴えてはみたものの、リグに指摘されると違わないような気もしてきた。
 頭を抱えて呻くロゼアをリグがおかしげに笑った。
「楽しそうにやってるじゃんか! 安心した!」
 案内妖精が携えた入学許可証によって突然の辞職を迫られ、新しい環境に放り込まれることになった自分を、親友は案じてくれていたらしい。ロゼアは口元を緩めた。
「そうだな……毎日、楽しいことは楽しい」
 新しいことを覚えることは楽しかった。人間関係が広がるのもいい。学園の生徒は五か国から集まっているので、知らぬことを聞けば刺激になる。
 ただ。
「楽しいことは、って?」
 耳ざとくロゼアの含みを聞き分けたリグが指摘してくる。ロゼアは苦笑して答えた。
「疲れることもあるっていうこと。たとえば……」
 ロゼアは最近で最も疲れる事例を思い起こした。思い出したくもないというのが正直なところだが、説明するためには仕方がない。
「……俺、一緒に寝てるんだけど」
 ソキと。
「それで、よく訊かれるんだよ……なんで間違いを起こさないのかって」
「間違い?」
「ソキに手を出すとかそういう」
 リグがぎょっと目を剥いた。
「は!? そんなことあるわけないだろ相手はソキ様だぞ?」
「だよな! だよな!」
 長々と息を吐きながら、ロゼアはテーブルに突っ伏した。久々にロゼアの常識に則した反応を得て、安心したのだ。
「それって、あれだ。俺がミルゼに手を出さないのかっていうような話だろ。誰だよ聞いてくる奴」
「けっこう大勢……砂漠生まれはともかく、他の国の出身だと俺が傍付きだっていっても全く納得してもらえなくて、何回も何回も説明する。これ、地味に疲れる……」
「うーわー……それはキツイな。俺だったらキレそうだ……」
 ロゼア自身も気を付けておかなければそのうち限界にきて爆発しそうだった。
 特に、寮長だ。魔術の腕が上がったら蒸発させたいとロゼアは割と本気で思っている。
 パーティーの前ぐらいだったか。おまえは男として何か不能なのかどうなのかと真顔で詰問してきた。以降も飽きることなく、おまえおかしいんじゃないかあのソキにこれだけくっつかれて何もないとかと尋ねてくるのだ。お前こそおかしいと何度言ってやったことか。
 しかし寮長の意見は決して少数派のものではない。彼と同様のことをロゼアに尋ねてくる者たちは少なからずいた。
 ロゼアはカップに視線を落とした。
「なんかさ」
 ミントティーの水面には、泣き損ねたように笑う自分の顔が映っている。
「方々からおかしいって言われると……絶対に違うって思っていても、気が狂いそうになるよな……」
 自ら花嫁を手折ろうとする傍付きはいない。絶対にいない。わかっていないのは、あちら側だ。
 そう思うのに、足元が、揺らぐ。
 大丈夫だ、とリグが言った。
「ロゼア。お前はおかしくない。そんなことを言ってくる相手がおかしい。お前は絶対におかしくない」
 親友の力強い断言に、ロゼアは知れずと顔を上げていた。安堵に、微笑む。
「ありがとな、リグ。悪かった。愚痴って」
「ん」
 気にするな、と手を振るリグに頷き、ロゼアはミントティーに口を付けた。
 清涼感溢れるぬるい液体が喉を滑り落ちるまで待って、ほっと息を吐く。
 ずっと、リグのような反応が欲しかった。本当に、ずっと欲しかったのだ。
 おかしいのは、どちらか。
 メーシャやナリアンはロゼアたちをありのままに受け入れてくれてはいるが、それでも寮長と同じ考え方なのだということは薄々理解している。ロゼアたちの常識のほうが特殊なのだ。それをもう、ロゼアとてわかっていた。
 けれど折り合いを簡単につけることはできない。
 自分は削ぎ取られ、整えられ、そして完成されてしまった。完成してしまって、いるのだから。
「でもまあその話をメグミカが訊いたら爆発するだろうな……よかったな。この場にメグミカがいなくて」
「あー、そうだな……」
 メグミカに同様のことを愚痴たら煩そうだ。
「だいたいメグミカのやつ、今回だってうるさいのなんの。この間からウェスカたちと大騒ぎだったよ」
 疲れた様子で呻くリグに、だろうなぁとロゼアは同意した。自らの花嫁が戻ってくるのだ。狂喜しない世話役はいない。特にメグミカはロゼアの補佐としてソキの側に残留した傍付き候補者だったのだから。
「今更だけど、いいのか? メグミカたち、新しい子の世話役に入ってるはずだろ?」
「そこらへんはちゃんとしてるさ。これからお前がいる間はずっと専従だ。暇な時間にとっ捕まらないように覚悟しておけよ?」
「リグは捕まったのか?」
 リグは昔から女性陣に対して妙に要領の悪いところがある。役目を押し付けられたり、愚痴に延々つき合わされたり。
 笑いながら尋ねたロゼアに彼は大仰に溜息を吐いて見せた。
「昨日だって二時間は話を聞いたぜ。どーせ暇だろってさ」
 彼の花嫁が、旅行に出ているから。
 メグミカの話がきわめて長いことはロゼアも認める。だが本当にリグが多忙なら彼女もそう引き止めはしなかっただろう。
 メグミカはひとが悩んでいるときに限って無駄な長話につきあわせる。
 リグがそうだったのだとは限らない。しかし彼が時間を持て余して鬱々としていたかもしれないと憶測する要素はあった。
 幼少の花嫁花婿にとって旅行とは単なる顔見世にすぎない。が、十五近くなってくると事情は徐々に異なってくる。
 リグの花嫁であるミルゼは、その異母妹であるソキよりも二つ年上の十五。年明けには、十六。
 旅行は嫁ぎ先の選定にそのまま直結している。
 己の砂漠の輝石が旅行しているその間、ひたひた近づく別れの足音に耳を傾けながら、傍付きは誰もが思っている。
 今度こそ、決まるかもしれない。
 決まるだろう。
 花嫁の。
 花婿の。
 嫁ぎ先が。
「リグ!」
 休憩所に若い女の声が唐突に響いて、ロゼアは物思いから引き戻された。リグも背後の戸口を振り返っている。開け放たれ、廊下の往来が見えるそこに、ひとりの娘が立っていた。ロゼアにとってのメグミカ――リグの補佐だ。
「アウローラ。ひさしぶり」
「えぇ。元気そうでなによりね。おかえりなさいロゼア。……ゆっくりしているところごめんなさい。リグ、戻るわよ。ミルゼ様がお帰りになったわ」
「ミルゼが?」
 リグが明らかに驚愕しながら勢いよく席を立った。
「帰宅するって先触れはなかったぞ?」
「先発に事故があってミルゼ様が先に到着してしまったの。急いで、リグ。……それから、ロゼアも」
「俺も?」
 そうよ、とリグの補佐は神妙に頷いた。



 これまでロゼアがリグの花嫁であるミルゼに呼び出されたことは皆無に等しい。様々な理由はあれども、中でも一番の要因はミルゼとソキの関係にある。ふたりはなぜかそりがあわなかったのだ。
 ミルゼは彼女の自室の長椅子に、クッションに埋もれて座っていた。気だるげなのは長旅から帰宅したばかりのためだろう。
「ミルゼ」
 リグが足早に踏み入りながら呼びかけると、ミルゼはぱっと顔を上げて瞳を輝かせた。
「リグ! リグ! 遅いわよ!」
「悪い。おかえり、ミルゼ」
 両腕を掲げて微笑む少女の前に、リグが滑らかな所作で片膝をつく。そして彼女の身体を自身にもたせかけるよう誘導し、やわらかな絹地の襞に覆われた太ももの裏に腕を滑らせた。ミルゼの腕が己の首に回ると同時、その細い腰に手を添えて立ち上がったリグは、彼女の滝のように流れる銀の髪を指でくしけずった。続けて背を軽く撫ぜ、首筋、頬、額、と手で確かめていく。
 最後に額同士をこつりと合わせて深く吐息した彼は、眉根をきつく寄せていた。
「少し熱があるな……駄目だろ起きていたら」
「リグが来るのが遅いの! どうしてお迎えがなかったの……?」
「ごめん。ごめんな。悪かった」
「今日はもうミルゼの傍から離れたら駄目ですからね」
「あぁ」
 振動が負担になると判断したのか。リグがミルゼを抱きかかえたままソファに腰を落とす。
 ほっとした様子でリグの肩口に頬をすり寄せた彼女は、それからようやっと戸口で待っていたロゼアを見た。
「入りなさい、ロゼア」
「失礼いたします。……ご無沙汰しております、ミルゼ様」
 入室したロゼアは二人と一定の距離を空けて立ち止まり一礼した。自分のものでない花嫁や花婿に対しては、近く寄れといわれない限り、ある程度は間合いを取る決まりである。
「自分にお話しがあると伺いましたが」
「ロゼアは嫁ぐことが決まったソキとは話したの?」
 ロゼアはミルゼを見た。
 大部分の世話役たちのように、花嫁花婿たちもソキの正しい現状を知らない。ミルゼはソキが嫁いだと信じている。
 ミルゼは碧の瞳を潤ませてロゼアを見ていた。元々母親似だという彼女とソキは似通ったところがほとんどない。共通する唯一の部分がその碧の瞳だった。当主のものと同じだという碧はソキのものより若干色合いが淡い。ソキの瞳がパライバトルマリンを思わせるひと粒の宝玉であるならば、ミルゼの光彩は砂漠の民にとって恵みである空を映した湖水を連想させる色。
 強い意志を感じさせるそれを見つめ返し、ロゼアはゆっくりと首肯した。
「……はい。話しました」
 そう、と呟いた彼女は、繊手でリグの衣服を握りしめ、躊躇いがちに問いかけてくる。
「ロゼア。……ソキは、幸せに、嫁いだ?」
「はい」
「……じゃぁ、ミルゼも。幸せに嫁ぐことが、できるかしら」
 ミルゼの髪を梳くリグの手が一瞬だけ止まったことを、ロゼアは見逃さなかった。
 質問の答えを待つミルゼの目は真剣だ。
 いまにも、泣き出しそうなほどに、必死だった。
 ロゼアは微笑みかけた。
 花嫁に。
「もちろんです。ミルゼ様は――……リグルーシュの、花嫁なのですから」
 最もきよらかで、最もうつくしく、最も、幸福であれと親友が磨き整えた、砂漠の輝石。
 ロゼアが断言すると、ミルゼは表情を和らげた。
 その白い手をロゼアに振る。
「もういいわ。行って、ロゼア」
「……失礼いたしました、ミルゼ様。おすこやかに」
 挨拶に顔を下げたロゼアが身体を起こすと、リグと目が合った。
 またあとで、と、彼は唇の動きだけで伝えてくる。
 ロゼアは了承の徴にそうとわからぬほど小さく頷き、リグたちに背を向けた。
「リグ、リグ、リグ。……リグルーシュ」
 部屋からの去り際に、ミルゼとリグの姿が目に入る。
 ミルゼがたおやかな腕を彼の首に回し、その首筋に瞼を強く押し当てている。むずがる赤子のように。幾度も擦り付ける。
 ミルゼの頭に顎を添えたリグがその髪を指で梳き下ろしながら応じた。
「なんだ? ミルゼ」
「リグ。…リグ……好き。すき。すきなの。だいすき。だいすきよ、リグ……」
「あぁ……」
 リグが固く目を閉じて、笑みに、どこか泣きそうな淡い笑みに、くちびるを形作る。
「俺も好きだよ、ミルゼ……」
 ロゼアは、部屋から離れた。

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